何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

本職の矜持

2015-02-13 21:03:12 | ニュース
まず反省。
実は昨日の「繋がれた明日と我々」の中で書いた、東野圭吾氏の本の題名を、先ほどこっそり訂正した。
今 「震える牛」(相場英雄)を読んでいるのだが、これが日々の食卓を考えると恐ろしい内容で頭から離れないので、つい、「ふるえる刃」と間違って書いてしまったが、
正しくは「さまよう刃」
こういう狡いことを本職の物書きはしてはならない。
先ず、間違った情報を世に垂れ流してはならないが、それよりも悪質なのは、間違いを間違いとして謝罪したうえで訂正するのではなく、こっそりひっそり訂正して、知らん顔を決め込むこと。

私は本職ではないので、これからも、こっそり訂正しているかもしれない。


繋がれた本文(苦笑) つづき

昨日、こう書いた。
『 未成年の実名報道した週刊誌や、少年を殺害した容疑者の家庭環境を暴いた週刊誌を、責めている訳ではない。
奪われた命が帰らないことも、遺族の悔しさも哀しみ苦しみも、痛いほど「ふるえる刃」で教えられるから。
ただ、遺族とも、加害者とも、報道する者とも違う、無責任な第三者としての一般人・国民について、考えなければならない、と考えている。 』

加害者家族の苦悩を読んでもなお、未成年の実名報道や容疑者段階での家庭環境暴露をした出版社を一方的に責めるのではなく、同時に無責任な第三者としての読者こそ反省せねばならないと考えているからだ。

出版社が未成年の実名報道や容疑者段階で家庭環境を暴露するにあたっては、おそらく、多分、きっと社内のコンプライアンス委員会なんぞを連日連夜招集し、その目的の正当性と手法の妥当性や、それによって得られる利益と失われる利益なんぞを比較衡量したうえで、それでも正当性があると判断し燃えるような正義感をもって、報道に踏み切ったのだと、  信じている。
よもや、ゆめゆめ一般大衆の下衆の好奇心を満たすためだけに、記事が書かれたわけではあるまい。

近年ノーベル賞受賞者を多数輩出している名門旧帝大に在学中の優秀な未成年でも、信じられない想念に取り憑かれていることもあるし、
両親が倫理的に優れていることで社会的責任ある立場についている人格者であっても、その子はあさっての方向に育ってしまうこともある、
と報道することで、家庭教育と躾の在り方に警鐘を鳴らすという目的と。
未成年者であっても実名が報道され、容疑者段階であっても家庭環境が暴露されることを示すことで、一般人の犯罪抑止に繋がるだろう、という高邁な目的と。
その目的のためならば、見出しはむしろセンセーショナルな方が効果的だという、手法についての判断と。

未成年者の人権と加害者家族の日常と、家庭教育と犯罪抑止とを、正当に客観的に比較衡量し、正義感の下に報道に踏み切ったのだろう。

ゆめゆめ、もうネットで出回っている情報だから、自分達の報道で加害者関係者が傷つくわけではない、とか、センセーショナルな見出しの方が発行部数が伸びるだろう、とか、低次元な判断で報道に踏み切ったわけでは、 ないだろう。

よもや本職の物書きが、低次元なレベルで出版に携わっているとは思わないが、現実には、週刊誌が実名や家庭環境を報道する前からネットでは、それらの情報が出回っていた。
先に、「今回の未成年の実名報道では世論や識者の反論がなかった理由として、犯罪への怒りと被害者家族への共感がある」と書いたが、実はそれ以上に影響が大きいのが、ネットの存在ではなかろうか。

週刊誌が書こうが書くまいが、もうネットでは大っぴらに出回っていた情報なのである。
それは、出版社がコンプライアンス委員会なんぞを立ち上げて喧々諤々検討している境界線をいとも簡単に越え、書きたい放題に他者の尊厳と日常を踏みにじっているのである。
それが、私が危惧する、無責任な第三者としての一般人・国民の存在である。

ここに本職が巻き込まれてしまっていまいか。

「 国民のレベル以上の政治家は生まれない」 と嘯いた政治家がいたと思うが、
本職として物を書く人間も、国民のレベル以上にはならないのか。

一般大衆が、井戸端会議でする四方山話の延長を、世界に繋がるネットで安易にすることで、真偽不明で清濁・濁・濁併せ呑む情報がネットには溢れかえっている。
ネットからネタをとり、確かな取材もせずに、もう誰もが知っているネタなのでと、公器で垂れ流されては、堪らない。
物書きは文化人と評されることもあるではないか、それが負のスパイラルを加速させる一因となったのでは、堪らない。


ネットと週刊誌のカラクリを考えるようになったのは、皇室報道。

今でこそ、下品な皇室報道はごく日常のことになってしまったが、まだ言論界に慎みや節度があった頃でも、ネットでは目を覆いたくなるような事実誤認と罵詈雑言が溢れていた。
その下品さと事実誤認が、今や雑誌からテレビにまで及んでいる。

少し取材をすれば判明する事実誤認を、ネットでは既に周知の事だからと、実態社会に垂れ流す、自称~評論家。

皇太子様が相談役として慕われる方に語られた言葉が心に痛い。

「 誤解による中傷と、悪意に基づく誹謗に、本当に困っている 」

こんな悲しい言葉を、皇太子様に言わせているような社会は、間違っている。


本職の物書き、評論家、報道関係者の皆さん
国民以上の表現者は生まれない、と嘯き開き直るのでなく、国民の知性と良識を高める先駆者となっていただけるようにと願っている。