何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

和睦の時

2015-02-24 19:23:17 | ニュース
今朝、ニュースサイトのトップに出ていた、ニュース。

【ニューヨーク時事】ニューヨークの米連邦地裁の陪審は23日、イスラエルのエルサレム地域で2002~04年に起きた自爆テロや銃撃をめぐり、被害者の遺族がパレスチナ当局に求めていた損害賠償請求を認め、パレスチナ解放機構(PLO)とパレスチナ自治政府に計約2億1800万ドル(約260億円)を支払うよう命じる評決を下した。AFP通信が伝えた。
この訴訟は米国の11家族が原告となり、自爆を含む6件の襲撃が対象とされた。襲撃では計33人が死亡、450人以上が負傷した。(2015/02/24-08:43)

この評決が、暴力の応酬ではなく、法の支配の下で問題解決する契機とならないのか。
それとも巨額な賠償に怒りを募らせ、判決を下した法体制へも暴力の矛先を向けることになってしまうのか。

中東外交についても、その根っこにある宗教問題についても詳しくないので、それを書くのは控えるが、素人だからこそ素朴に素直に、暴力の応酬と負の連鎖を止めることができないかと願っている。
私がこれを考える拠り所は、やはり数冊の本「アンネの日記」 「ハンナの日記 (絶版であるため資料のみ)」 「幸せな子」(トーマス・バーゲンソール)であり、このニュースを見て、アンネの日記にはさんでいた何年も前の読売新聞の切り抜きを引っ張り出した。

よみうり寸評より引用

<生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・・・泣くに時があり笑うに時がある。愛するに時があり憎むに時がある。戦うに時があり和睦するのに時がある>
1993年9月13日、イスラエルのラビン首相(当時)はこう演説した。所は米ワシントンのホワイトハウス。パレスチナ暫定自治基本合意に調印した日の演説である。
<天の下のすべての事には季節があり すべての業には時がある>という聖書の一節を引き「 和睦の時がきた 」と信じた演説だった。あの時が中東和平の実現に最も近づいた時だったように思えた。
が、二年後、ラビン氏は自分の国の青年の銃弾に倒れ、その後は御存知のとおり和平とはおよそ遠い展開だった。
以下続く・・・・・

この読売新聞の切り抜きを「アンネの日記」に挟みたくなったのは、憎しみが暴力を産み負の連鎖が広がっていくとき、犠牲になるのは子供だと思ったからだ。

ユダヤ系ドイツ人のアンネの家族は、ユダヤ人狩りを避けるために、まずドイツを離れオランダに亡命し、オランダが占領された後には、2年にわたってアムステルダムの隠れ家に潜むが、1944年8月4日隠れ家を発見され、1945年3月頃アンネは強制収容所で病死する、時にアンネは15歳だった。
アンネとともに隠れ家で生活した8人のうち7人までもが強制収容所で亡くなるが、全体では800万人とも1000万人ともいわれる人が収容所に送られたといわれている。

アンネの家族は、隠れることで命を守ろうとするが、戦うことで名誉を守ろうとした女性もいる。

その人の名は、ハンナ・セレシュ。
1921年ハンガリーのブタペストで生まれたハンナは、16歳で民族の血に目覚める。
裕福な家庭に育ち非常に学業優秀だったが、ユダヤ人であることを理由に、学校のクラブ活動の委員になることを拒否されたのだ。上流生活をしていたハンナが、これを契機に世間を見ると、日増しに偏見と迫害が酷くなっているのに気付く。そして、1939年9月、ドイツ軍がポーランドに 侵攻し、第2次世界大戦が勃発した後に、18歳のハンナは単身パレスチナに向う。
当時の日記より、
「わたしは生涯の大望、―使命とさえ言える―に導かれて、この土地までやって来たのだ。使命を果たしているという実感がほしいから、ここまで来たのだ。無為な生活を送るために来たのではない。ここでの生活は、その一瞬一瞬が使命を遂行していることに等しい。」

パレスチナでは農業学校で学びながら、祖国を作る準備をしていたが、戦況が激しくなり、現実的な働きを望むようになったハンナは、1944年バルカン諸国やハンガリーに残っているユダヤ人約125万人を大虐殺から救出するため、パラシュート降下を利用するという特務に、女性としてただ一人参加する。
この頃にハンナが作った詩、「マッチのように」は有名だ。

燃やされて炎となったマッチは なんと幸いでしょう
心の核心で燃えあがった炎は なんと幸いでしょう
そして 栄光の中で 
殉教することを知っている心は なんと幸いでしょう
燃やされて炎となったマッチは なんと幸いでしょう
                 
パラシュート下降は成功したが、ハンガリーはドイツに占領され同胞の救出は困難な状況となっていた。
しかしハンナは、ただ一人国境を越えて行く。
そして、すぐさま捉えられ、激しい拷問のすえ銃殺される。
22歳のハンナが、処刑される直前に残した言葉。

「思いとどまらずに進め。最後まで、自由の日がくるまで。
 我々同胞の勝利の日がくるまで、戦い続けよ。」


アンネもハンナもともに13歳で日記を書きはじめ、15歳と22歳で生涯を閉じる。

つづく