何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

走ってみようか 闘ってみようか

2015-02-26 12:26:15 | ひとりごと
昨日「つづく」と書いたが、シンクロニシティをかってに感じるニュースがあったので、そのあたりを。


気が付くと、周りの若い者が、走っている。

マラソン大会というのは今どこも盛況で、抽選が当たることすら難しいらしいが、そもそも何故に大変な思いをするマラソンに、お金を払ってまで参加するのか分からなかった。

とはいえ、「2012年ノーベル生理学・医学賞受賞の山中伸弥氏が、研究資金を募るためにマラソンに参加」というニュースを見たり、 周りの若い者が参加するマラソン大会は、大会参加費が難病の子供の治療費に寄付されるものだと聞いて、
揺れている。

こんな私に、若い者が手渡したのが 「マラソン一年生」「マラソン二年生」(たかぎなおこ)

うろ覚えだが、「30分歩く体力がなければ、その距離を走れるはずかない」 「スピードより距離が重要」 という趣旨のアドバイスが気に入り、
ただ今、走るということを、考えてみようかどうか迷いながら、日常生活に速歩を取り入れて50日目、というところ。

そんなわけで、初めてランニングポリスが導入された「東京マラソン」も興味をもって見ていたが、昨日は「皇太子様が8年ぶりに皇居ランをされた」とニュースが伝えていたので、マラソンについて検索していると、メキシコ五輪の銀メダルリストの君原選手の言葉を見つけた。
「 生きることは、マラソンと同じ 」

さらに検索していると、あの芥川龍之介まで人生を語るのにマラソンを引き合いに出している。

侏儒の言葉より、気に入った箇所を抜粋

「我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか?
 しかも胎内を離れるが早いか、
 兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。
 勿論 游泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。
 同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。
 すると我我も創痍(そうい)を負わずに人生の競技場を出られるはずはない。

 見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに
 渋面を隠しているではないか?

 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。
 我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。 」



皇太子様は誕生日の会見で度々、象徴やあるべき姿勢について、「考え続けることが大切」といった趣旨の御発言をされている。
どちらかといえば「 成り行きを決然と生きる」 に惹かれる自分には、この「考え続ける」という意味が難しく感じられたが、芥川の
「我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」を念頭に「考え続ける」を読めば、どちらの言葉の意味も深さを増してくる。

皇太子様が語られた人生観で記憶に残っているものはというと、「天命を知る」と「夫子の道は忠恕のみ」がある。

ここで皇太子様は、天命・使命を「単に知るだけではなく、この世のために生かす、つまり、人のために尽くすという意味を含んでいる」と述べられている。
「『忠恕』とは、自分自身の誠実さとそこから来る他人への思いやりのことであり、この精神は一人一人はもとより、日本国にとっても「忠恕」の生き方が非常に大切なのではないか」というお言葉を引用されつつ、「『忠恕』と「天命を知る」という教えに基づいて、他人への思いやりの心を持ちながら、世の中のため、あるいは人のために私としてできることをやっていきたい」と語られている。

皇太子様は今も、これからも、天命と忠恕の意味と、それを生かす道を考え続けられることだと思う。



天命を悟るどころか、道もなかなか開けてこない自らを省みつつ、
走ってみようか。