何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

命につながる道

2016-01-18 18:13:15 | 
本仲間から「わが心のジェニファー」(新田次郎)を勧められたが、ワンコ問題もあり新しい本を読む気力が湧かないでいると、「ならば『颶風の王』(河崎秋子)はどうだ」と手渡された。ある馬と人間との数代にわたる縁を描いた物語のようで、これを勧めてくれた心持は有難いが、なかなか新しい本を読む気力が湧かない。

我がワンコ、水分はゴクゴク摂るがフードはペースト状であれ拒否するので、理科の教材だとかいう水鉄砲と注射器で少しづつ口に運んでいると、「生きる」「命」について考えざるをえない。
そんなとき、お題が「人」の「歌会始の儀」で人生の文字をを織り込んでいる歌を見つけたので、人生さんが主人公の本を思い出した。
その名もズバリ、「生きるぼくら」(原田マハ)

今、「生きるぼくら」という題名は眩しい、眩しすぎる。
が、本書の主人公が、「生きるぼくら」と胸をはって言えるようになるまでの過程を思い出すことには、意味があるような気がしている。

本書の主人公・人生は、両親の離婚をきっかけに、住みなれた土地を離れ母親と二人暮らしとなる。
転居先の中学校でいじめに遭い、高校でも虐められ、遂に中退、引きこもりとなるが、引きこもり生活も数年に及んだ頃、そんな息子を見ておれなくなった母親は、一通の手紙を残して、家を出ていってしまう。
母が残した手紙に添えられた年賀状には、別れた父方の祖母からのものがあり、その葉書には「私(祖母)は余命数か月です。」とあった。
この年賀状に隠された真実は、物語の最後に明かされるが、両親の離婚以降、大好きだった(父方)ばあちゃんに一度も会っていないことに思い至った人生は、祖母に会うため数年ぶりにアパートのドアを開ける。

やっと辿り着いた茅野のばあちゃんは認知症で、人生が誰だか分からなくなっているだけでなく、ばあちゃんの傍らに見たことのない少女が居座っている。
この物語は、認知症のばあちゃんと、イジメで引きこもりになった(ばあちゃんと血縁関係にある)孫・人生と、イジメや親族間のゴタゴタで対人恐怖症になった(血縁関係の無い)孫・つぼみ、この三人の不思議な共同生活と、三人が周囲の助けを得ながら「自然の田んぼ」を守る姿を描いている。

「生きるぼくら」は、茅野・奥蓼科で昔ながらの「自然の田んぼ(無農薬)」に挑戦することで若者が生きる道を見つけるものだが、これは穂高村で人生の自給自足を見出す「幸せの条件」(誉田哲也)に繋がる感がある。

何故、人は信州にゆくと生きる元気がもらえるのだろうか。

東西に延びる中央自動車道を、北にハンドルを切ると、出迎えてくれる雄大な八ヶ岳。
あの景色を目の端に入れながら車を走らせているだけで、体の細胞が活性化し始めるのを感じるのは、私だけではないのだろう。


誰が云ったのか何で読んだか聞いたか、今となっては忘れてしまったが、「どんなに辛いことがあっても、懐かしくて胸が締め付けられそうになるような、景色(心の原風景)を持っている人は大丈夫」という言葉が、心に残っている。

安曇野からの北アルプスは、私にとっての心の原風景だが、その玄関に八ヶ岳がある。
茅野・蓼科は二度ほどしか訪れたことがないが、泊まった旅館に(車山へ向かわれる)皇太子ご夫妻の写真が飾られていたことや、車山のコロボックルヒュッテに皇太子ご夫妻のエピソードが溢れていたことは嬉しく懐かしい思い出だ。

そんな茅野・蓼科が、この物語の舞台であり、この舞台が登場人物すべての心の原風景だからこそ、この物語はどこまでも温かく清々しい。

信州の地で、山と自然に包まれながら、生きる道と命の輝きを模索する物語については、またつづく

参照、「幸せの条件 お天道様」 「幸せの条件 知足者富」 「幸せの条件 共生と独歩」 「幸せの条件」