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繋がれている私達

2017-02-01 23:17:05 | ニュース
<ネット検索結果、削除認めず=逮捕歴「公共の利害」‐初の判断基準示す・最高裁>時事通信 2/1(水) 12:13配信より一部引用
検索サイト「グーグル」で名前などを入力すると、逮捕歴に関する報道内容が表示されるのはプライバシーの侵害だとして、男性が検索サービス大手の米グーグルに検索結果の削除を求めた仮処分申し立ての抗告審で、最高裁第3小法廷は1日までに、「男性の逮捕歴は公共の利害に関する」として削除を認めない決定をした。
決定は1月31日付で、裁判官5人全員一致の意見。
最高裁は、検索結果の表示の社会的な意義などと比較して「個人のプライバシー保護が明らかに優越する場合は削除が認められる」という判断基準を初めて示した。
欧州連合(EU)が認めて関心が高まった「忘れられる権利」については言及しなかった。
検索結果の削除を求める訴えが相次ぐ中で裁判所の結論は割れており、最高裁の判断が注目されていた。検索業者の対応にも影響を与えそうだ。
男性は、名前と居住する県を入力して検索すると、2011年に児童買春事件で逮捕された際の報道内容が表示されるとして削除を求めていた。
最高裁は、判断に当たり▽情報の内容▽被害の程度▽社会的地位―などを考慮すべきだと指摘。その上で「児童買春の逮捕歴は今も公共の利害に関する。男性が妻子と生活し、罪を犯さず働いていることなどを考慮しても、明らかにプライバシーの保護が優越するとは言えない」と結論付け、男性側の抗告を棄却した。
さいたま地裁は15年の決定で「忘れられる権利」を認めるなどして請求を認容。しかし、東京高裁は16年、地裁の決定を取り消した。

この判決を読んだ時、二冊の本が思い出された。
「繋がれた明日」(真保裕一)
「手紙」(東野圭吾)

犯罪には常習性や再犯性の高いものがあるし、例えば公共交通機関の職員採用にあたり過去の危険運転致死罪の犯罪歴を照会する等といったことはあるだろう、このようなものには「公共の利害」が認められると思われる。
過去の犯罪が加害者本人に一生ついてまわることが当然だと思われるものは確かに、ある。

また、「刑期を全うすることで罪を償う」という言い方があるが、私はこれには賛成しない。
罰はともかく罪という点で云えば、被害者の心の疵が癒えぬ限り加害者は(特に被害者に対して)罪を負わなければないと、私は思う。

だが、それをあまりに厳格に求めすぎれば、更生の可能性を絶ち、加害者家族を奈落の底へ落とすことになることにも留意しなければならない。

「繋がれた明日」(真保裕一)
恋人に付きまとう男に直談判する途中で誤って刺殺してしまった主人公(未成年)が、仮釈放後、真面目に働き更生しようと努めるが、「この人は人殺しです」というビラを勤務先や住居周辺にばら撒かれまかれて、苦しむ様が書かれている。
殺人が取り返しのつかない罪であるのは確かだが、すべての罪人が塀の中で一生を過ごすわけではないし、更生の余地がない者ばかりではない。
いずれは一般社会に戻ってくるわけで、その時には更生してもらわねばならないのに、偏見と差別だけでは、やり直そうにもやり直せない、という現実がある。
そんなものは「人殺しが当然受ける報いだ」という意見もあるが、更生叶わず再犯が繰り返された場合、迷惑するのは、やはり一般人であることを考えれば、この「繋がれた明日」は読む者に、正義とは何かや、加害者でも被害者でもない第三者の立ち位置について激しく問いかけてくる。

「繋がれた明日」が加害者の視点で書かれた作品であるのに対して、「手紙」(東野圭吾)は加害者家族の視点による作品であり、強盗殺人を犯した兄を持つ弟が、進学・恋愛・就職と人生の転換点ごとに「強盗殺人犯の弟」というレッテルに立ちはだかれ苦悩する様が書かれている。
加害者本人は、世間が犯罪を厳しく追及している間は塀の中にいるため寧ろ白眼視から守られているのかもしれないが、加害者家族はそうではない。
犯罪に走る理由が環境にもあったとすれば、親や周囲の大人は責めを負わねばならぬだろうが、加害者の弟妹や子供が責められなければならないだろうか。
仮に被害者や遺族には、それを追及する権利があるとしても、第三者である一般人に、加害者と別人格の家族の普通に生きている日常を根こそぎ奪う権利はないように思うのだ。

EUが認める「忘れられる権利」は、それを加害者自身が要求する限りは「盗人猛々しい」と言わざるをえないかもしれない。
だが、無責任な井戸端会議を世界にまで延長させてしまうネット世界に、無責任な第三者による言葉の暴力が溢れていることを考えれば、ある種の「忘れられる権利」は一考に値するのではないだろうか・・・・・そう考えさせられる最高裁判決であった。

ところで話題はガラリと変わるが、今忘れてはならないものに、「繋がれている私達」という認識があると思う。
平成になり、噴火に大地震にと大災害に見舞われ続けているが、地球規模で活動期に入ったのならば、明日は我が身と覚悟を決めなければならない。
改めてこう書くのは、いつも訪問している地震予知のブログが「警戒期間に入った」と警告しているからだ。
いつ火を噴くか分からない山、いつ大きく揺れるか分からない大地に私達の生活は繋がれているという危機感と認識を持ち、備えを固めなければならないと、防災グッズの点検をしている。
テントと寝袋の点検をし、庭にソーラーライトも用意したが、肝心の食料と水の用意が足りていない。

東日本大震災から6年、熊本地震から一年を迎えようとしているこの時期、防災意識を高めなければならないと強く思っている。