「魔を追い払う ワンコ」より
節分の柊鰯を調べていると、「土佐日記」(紀貫之)に行き着き、久しぶりに百人一首を思い出した。
一番最初に覚えたというだけでなく、目に浮かぶ光景が美しいため、今でも好きなのが紀友則のこの歌
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
個人的に縁がありながらも、歌のもつ艶っぽさにはトント縁がない、河原左大臣のこの歌
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
思い返せば子供の頃の冬の遊びの定番は百人一首だったはずだが、語感や詠んでいて調子の良いものを好む傾向があり、作者や意味には関心をはらってはいなかった。
高校時代には、古典の授業で百人一首は丸暗記させられ意味も理解したはずだが、私の記憶にしっかり残っていたのは、まったく別のものだったことに昨日 気が付いた。
紀貫之
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
この歌は、久しぶりに長谷街道にある宿を訪れた際に紀貫之が詠んだものだが、その解釈が、私の記憶にあるものとは まるで違っていた。
なぜ中学校の社会科の先生が百人一首の講釈を垂れたのかは忘れてしまったが、その内容は今でもはっきり覚えている。
先生曰く、この歌は、左遷された男が浮世の冷たさを嘆いて詠ったもの
『土佐に左遷され失意のなかで紀貫之が書いたのが、「土佐日記」だ。
左遷先での任務を終え京に戻り、久しぶりに長谷寺に参詣するため、定宿にしていた長谷街道の宿へ赴くと、主人の態度が余所余所しく冷たい。
そこで詠われた一句こそが
人の心は なんとも分からない(冷たい)ものだが、昔なじみの宿の梅の花の香りだけは変わらず、優しい・・・だった』
学校1の博学で知られた社会科の先生の雑談は面白く、疑うことなく私の記憶に残り、初めて長谷寺を旅した時には、名物の「草餅」を頬張りながら長谷街道を歩く道すがら、由緒ありげな宿を見つけては、「これがあの薄情な宿の末裔か?」とかってに睨め付けたりしたものだった。
それが、この度 紀貫之を調べてみると、どうも意味が違うようだ。
古今集(巻1・春上・42)詞書に、「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に久しくやどらで、ほどへて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむやどりはある、といひ出して侍りけりば、そこにたてりける梅の花を折りてよめる 貫之」とあるように、長の無沙汰を詰られているのは、むしろ貫之の方である。それどころか、貫之のこの歌に対して宿の主人は当意即妙に返歌さえしている。
花だにもおなじ心に咲くものを 植ゑけむ人の心しらなむ
そもそも、「人はいさ」が収められている古今集は905年から912年にかけて編纂されたものであり、これは貫之が土佐に左遷されていた935年よりも30年も前のことであるから、左遷後に感じた人の冷たさと変わらぬ梅の香りの優しさを詠ったものであるはずがない。
自分で調べることもなく長い間先生の雑談を信じ込み、長谷街道の鄙びた宿を睨め付けたことを反省し、牡丹で有名な長谷寺を、この春には参ってみようかと思っている。
ところで、紀貫之という歌人の歌には、幸福をもたらす力(歌徳説話)があったそうだ。
そんな豆知識を頭に入れながら、貫之の歌を味わっていると、立春の翌日である今日読むに相応しい歌を見つけた。
春たちける日よめる
袖ひちて むすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらむ
貫之の歌には、山を詠ったものも多いように感じるが、立春の当日に詠んだというこの歌にも実は山が読み込まれているようだ。
夏の日に袖をぬらして手ですくった山の清水は、冬の間は凍っていただろうが、春が始まる今日 暖かい風が氷を吹きとかしているだろう、というこの歌は、一つの歌に夏冬春が詠われる珍しくも素晴らしい歌だという。
これで思い出されるのが、今年の歌会始の儀の皇太子様の御歌だ。
岩かげにしたたり落つる山の水 大河となりて野を流れゆく
涸沢や槍沢を登っていると、梓川の最初の一滴に出会うことができる。
梓川は松本市内に入り犀川と名を変え、更に信濃川(千曲川)として海に注ぎ込むのだが、その途中には江戸時代に庄屋と百姓が力を合せて作った拾ヶ堰があり、水の研究をされる皇太子様も御訪問されている。
登山を趣味とされ水の専門家でもある皇太子さまが、一滴の雫が岩陰から滴り、波濤のような岩の急斜面を下り落ちながら少しずつ川幅を広げ、やがて大河となり周辺の野を潤していく様子を素直に詠まれたものにも思えるが、紀貫之の歌に「歌徳説話」があると知ったうえで皇太子様のこの歌を読み返すと、そう遠くない日に即位される皇太子様の堂々たる御姿が目に浮かんでくるから有難い。
皇太子御一家の光の春に国民が浴する日を有難く心待ちにしている。
節分の柊鰯を調べていると、「土佐日記」(紀貫之)に行き着き、久しぶりに百人一首を思い出した。
一番最初に覚えたというだけでなく、目に浮かぶ光景が美しいため、今でも好きなのが紀友則のこの歌
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
個人的に縁がありながらも、歌のもつ艶っぽさにはトント縁がない、河原左大臣のこの歌
陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
思い返せば子供の頃の冬の遊びの定番は百人一首だったはずだが、語感や詠んでいて調子の良いものを好む傾向があり、作者や意味には関心をはらってはいなかった。
高校時代には、古典の授業で百人一首は丸暗記させられ意味も理解したはずだが、私の記憶にしっかり残っていたのは、まったく別のものだったことに昨日 気が付いた。
紀貫之
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
この歌は、久しぶりに長谷街道にある宿を訪れた際に紀貫之が詠んだものだが、その解釈が、私の記憶にあるものとは まるで違っていた。
なぜ中学校の社会科の先生が百人一首の講釈を垂れたのかは忘れてしまったが、その内容は今でもはっきり覚えている。
先生曰く、この歌は、左遷された男が浮世の冷たさを嘆いて詠ったもの
『土佐に左遷され失意のなかで紀貫之が書いたのが、「土佐日記」だ。
左遷先での任務を終え京に戻り、久しぶりに長谷寺に参詣するため、定宿にしていた長谷街道の宿へ赴くと、主人の態度が余所余所しく冷たい。
そこで詠われた一句こそが
人の心は なんとも分からない(冷たい)ものだが、昔なじみの宿の梅の花の香りだけは変わらず、優しい・・・だった』
学校1の博学で知られた社会科の先生の雑談は面白く、疑うことなく私の記憶に残り、初めて長谷寺を旅した時には、名物の「草餅」を頬張りながら長谷街道を歩く道すがら、由緒ありげな宿を見つけては、「これがあの薄情な宿の末裔か?」とかってに睨め付けたりしたものだった。
それが、この度 紀貫之を調べてみると、どうも意味が違うようだ。
古今集(巻1・春上・42)詞書に、「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に久しくやどらで、ほどへて後に至れりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむやどりはある、といひ出して侍りけりば、そこにたてりける梅の花を折りてよめる 貫之」とあるように、長の無沙汰を詰られているのは、むしろ貫之の方である。それどころか、貫之のこの歌に対して宿の主人は当意即妙に返歌さえしている。
花だにもおなじ心に咲くものを 植ゑけむ人の心しらなむ
そもそも、「人はいさ」が収められている古今集は905年から912年にかけて編纂されたものであり、これは貫之が土佐に左遷されていた935年よりも30年も前のことであるから、左遷後に感じた人の冷たさと変わらぬ梅の香りの優しさを詠ったものであるはずがない。
自分で調べることもなく長い間先生の雑談を信じ込み、長谷街道の鄙びた宿を睨め付けたことを反省し、牡丹で有名な長谷寺を、この春には参ってみようかと思っている。
ところで、紀貫之という歌人の歌には、幸福をもたらす力(歌徳説話)があったそうだ。
そんな豆知識を頭に入れながら、貫之の歌を味わっていると、立春の翌日である今日読むに相応しい歌を見つけた。
春たちける日よめる
袖ひちて むすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらむ
貫之の歌には、山を詠ったものも多いように感じるが、立春の当日に詠んだというこの歌にも実は山が読み込まれているようだ。
夏の日に袖をぬらして手ですくった山の清水は、冬の間は凍っていただろうが、春が始まる今日 暖かい風が氷を吹きとかしているだろう、というこの歌は、一つの歌に夏冬春が詠われる珍しくも素晴らしい歌だという。
これで思い出されるのが、今年の歌会始の儀の皇太子様の御歌だ。
岩かげにしたたり落つる山の水 大河となりて野を流れゆく
涸沢や槍沢を登っていると、梓川の最初の一滴に出会うことができる。
梓川は松本市内に入り犀川と名を変え、更に信濃川(千曲川)として海に注ぎ込むのだが、その途中には江戸時代に庄屋と百姓が力を合せて作った拾ヶ堰があり、水の研究をされる皇太子様も御訪問されている。
登山を趣味とされ水の専門家でもある皇太子さまが、一滴の雫が岩陰から滴り、波濤のような岩の急斜面を下り落ちながら少しずつ川幅を広げ、やがて大河となり周辺の野を潤していく様子を素直に詠まれたものにも思えるが、紀貫之の歌に「歌徳説話」があると知ったうえで皇太子様のこの歌を読み返すと、そう遠くない日に即位される皇太子様の堂々たる御姿が目に浮かんでくるから有難い。
皇太子御一家の光の春に国民が浴する日を有難く心待ちにしている。