何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

木の王 真理への王道

2015-02-23 12:25:53 | ひとりごと
園芸店で木瓜を見つけたことから、久しぶりに「家栽の人」を読んでいた。

転勤が多い家庭では、子供の学校・教育問題は難しい。
一たび法服を脱げば裁判官も、生身の人間、人の親。転勤の多い裁判官の夫婦の間が、子供の教育問題でギクシャクする章で万葉集が紹介されていた。

万葉集巻2
みこもかる信濃の真弓我が引かば 貴人さびて否と言はむかも(万2-95)
みこもかる信濃の真弓引かずして 弦著くるわざを知ると言はなくに(万2-96)

これに興味をもって万葉集を紐解くと、つづく歌が、
梓弓引かばまにまに寄らめども 後の心を知りかてぬかも(万2-97)
梓弓つらを取佩け引く人は 後の心を知る人ぞ引く(万2-98)

梓弓が神事に用いられるのは知っていたが、よくよく考えると、梓という木にお目にかかった記憶がない。
梓といえば、皇太子様の御印であり、皇太子様のお誕生日ということもあり、梓を調べてみた。

調べてみると、梓という木にお目にかかったことがない理由が判明。
なんと、梓という木には諸説あり、梓をミズメと同定する説とキササゲと同定する説があり、ネットでは皇太子様の梓はミズメという説が専らであるらしいが、とにかく諸説あるのだ。

正倉院の梓弓を顕微鏡的調査をした結果ミズメであったことから、梓はミズメという通説と、皇太子同妃両殿下の御成婚を祝うコインに記された御印はキササゲと見受けられること、キササゲこそ百木の長と尊ばれることからキササゲ説を推す人もいるようだ。

この曖昧な感じが良い。
諸説あり曖昧であっても、いずれにせよ公約数的に  は木王

皇太子様のお誕生日を前に出た雑誌では、皇太子様の御言葉を公約数的だという批判もあったようだが、公約数の何が悪いのか。
世の中には、さまざまな考えがあり、ある時代で正しいとされたことも時が移ろえば違う評価となり得るが、間違いないのは、公約数的考えは限りなく普遍的価値を有しているということ。

皇太子様の御印に諸説あっても、公約数的に木の王であるように、
皇太子様のお考えが、きっぱりハッキリ明確でなくとも、だからこそ普遍的真理に通じる王道だと信じている。

皇太子様 お誕生日 おめでとうございます

拙を守って偉くなれ

2015-02-22 11:12:03 | ひとりごと
園芸店で木瓜を見つけた。

我が家の木瓜は、色鮮やかでボケの名がピンとこないが、園芸店のそれは正にボケ。
ボケといえば、「家栽の人」(毛利甚八 作、魚戸おさむ 画)を思い出す。

万引きで捕まった優等生の息子が、単身赴任をしている父親を訪ね、父の書棚で傍線が引かれた本を見つける。
それが、夏目漱石「草枕」の一節。

「評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世間に拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときつと木瓜になる。世も木瓜になりたい」

典型的なヒラメ裁判官の父と、東大進学へのプレッシャーから万引きをしてしまった息子が、「草枕」を手に会話する。

夏目漱石「草枕」より-
…木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。
それなら真直かと云うと、けっして真直でもない。
ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、
斜に構えつつ全体が出来上っている。
そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑咲く。
柔かい葉さえちらちら着ける。
評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世間には拙を守ると云う人がある。
この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。
余も木瓜になりたい…  


傍線の意味を問う息子に、なぜ知りたいのかと問う父、
父がそこに傍線を引いた理由を問う息子、
気持ちの根っこを言葉にする術を知らない二人の答えは、「試験に出るかもしれないから」

父は息子に言う。
その一節は陶淵明の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」から来ていると。

「少きより俗に適うの韻なく
 性 本 丘山を愛す
 誤って塵網の中に落ち
 一たび去って三十年。
 羈鳥は旧林を恋い、
 池魚は故淵を思う。
 荒を南野の際に開かんとし
 拙を守って園田に帰る」

父は言う
「世渡りが下手な性格を守って、故郷で田園を耕そうって意味だ。
 この詩を読んだ人は、宮仕えが嫌だったんだな。
 漱石は、そういう人をボケの花に例えたんだよ。」

父には、認めたくないが「敵わない」と思う同僚がいた。
その同僚は、事務処理能力も審判の正確さも一級で、最高裁の覚えめでたいが、所謂ドサ周りをしてでも、出会う少年の更生にかける方を選ぶ正義派。ことごとく出世の道を自ら蹴っていく、そんな同僚・桑田判事。
桑田判事を一目見て、息子が言う。
「あの人、生まれ変わるとボケの花になりそう・・・・・」

二人のなかに、しばし流れる沈黙の後、父は言う。
「そうかもしれんな。ボケの花になるのは、学校に入るのとは少し違う才能がいるんだ。

・・・・・・

息子は言う。
「なれなくたって、いいよ。」
「なれないものに憧れて苦しむより、気持ちよく自分自身でいた方がいいもの」

ここまで書いてしまえば、この話のネタばれどころか、ほとんど転載。
そうしたいほど、この話が好きだった。

桑田判事の生き方は立派だ。出世とは無縁の世界を選びながらも、出世していく人より仕事が出来る。
立派だ。

しかし、まっとうに仕事をしながら、出世を望むコセコセも自分は好きだ。
そんな頑張りが、この国の宝だから。

和久さんも青島に言っていた。
正しい事をしたければ、偉くなれ!


ところで、こんなにも家栽の人「ボケ」(7巻case8)に惹かれ、草枕の一節を暗記していても、草枕そのものを読んだことがない。
子供の頃に読んだ「坊ちゃん」は面白かったが、授業で習った「こころ」が自分的にいけなかった。あれで夏目漱石に苦手意識を持ってしまったが、陶淵明の漢詩が夏目漱石の「草枕」に影響を与え、「草枕」は現代の漫画「家栽の人」や小説「神様のカルテ」(夏川草介)に影響を与えているという奥深さを考えると、一度は読んでみなければならない作品だと常々思っていた。

昨日、園芸店で木瓜を見つけたおかげで、久しぶりに心に残る一節を思い出したのだから、雅子妃殿下にも御縁がある夏目漱石を読んでみようかと思っている。

ちなみに、雅子妃殿下の母優美子さまの従兄が、夏目漱石の研究家としても知られる江藤淳氏である。

みんな山が大好きだ

2015-02-20 20:56:36 | 


昨日の「神坐す山の人々」で、「ある遭難」で私の山岳小説は始まった、などと大層に書いたが、次に出会ったのは随分後になってからで、しかも山岳小説とは関係ない「スローカーブを、もう一球」(山際淳司)がきっかけだった。
本当は一生懸命頑張っているのだが、どこか斜に構えた態度をとるしか術をしらない不器用なスポーツマン達を、温かい眼差しで見つめる山際氏の筆致を気に入り、他の作品も、と探していたところ偶然手に取ったのが 「みんな山が大好きだった」

あたたかだった。

遭難が起こると、やれ自己責任だの、救助費用は当然自己負担せよだの、遭難者と家族に土下座を強要せんばかりに非難が巻き起こる風潮となって久しいが、 山際氏が登山家に向ける視線は、どこまでも温かい。

「みんな山が大好きだった」で紹介される実在の登山家は、厳冬期の三大北壁やエベレストを目指すくらいであるから、強烈な個性の持ち主であることも多く、それゆえ俗世間で理解されづらい面も持ち合わせていたが、そんな個性や辛さに向ける山際氏の視線は温かい。
登場する登山家はすべて山で還らぬ人となるのだが、「みんな山が大好きだった」が与える「山の懐に抱かれた登山家たち」という読後感は、山と登山家への更なる関心につながった。

この本でも紹介されている「森田勝」が「神々の山嶺」の主人公羽生のモデルであり、登山家森田勝を語るとき、あの長谷川恒男氏と加藤保男氏の存在は大きい。
森田勝に興味を持てば、長谷川恒男に繋がり、 長谷川恒男が単独登攀にこだわった理由に興味を持てば、加藤保男のエベレスト登頂に行きつき、 加藤兄弟に関心を持てば、「銀嶺の人」(新田次郎)の今井通子氏に辿り着く。

登山家は同時に物書きの人も多く、長谷川恒男の「北壁に舞う 生き抜くことは冒険だよ」 「岩壁よ おはよう」 は近々教科となる道徳に取り入れられても良いと思うほどの自伝的作品だが、この時代の登山家は自らが雄弁に語るだけでなく、多くの作家によって語りつくされている。

個々の作品の紹介や印象は、いずれ書くこともあるかもしれないが、あの時代の登山家を振り返ると、山岳会に勢いがあっただけでなく、日本全体が元気だった気がしてならない。

森田が終生ライバル心を燃やした長谷川恒男は、世界初のアルプス三大北壁冬季単独登攀者であり、
長谷川恒男を単独登攀に向かわせた加藤保男は、ネパール・チベット両側からエベレストに登った初めての登山者であり、三度の登頂を果たしている。
女性初の三大北壁初登攀に成功した今井通子の同時代には、女性初のエベレスト登頂者の田部井淳子氏もいる。

あの時代に山を目指した誰もが、そこに自己実現の場を求めていたわけではないだろうが、誰かを押しのけ傷つけてでも初登攀や初登頂を目指す貪欲さと、誰もが成し遂げたことのない厳しいルートや時期での登攀に命をかける孤高の強さで、胸をキヤキヤさせた登山家たちが、ぎらぎらした眼差しで山を睨みつけていた様が、多くの山岳小説から伝わってくる。

高度成長の頂きであろうと、世界最高峰であろうと、トップを目指さずにはおれないエネルギーが、あの頃にはあった。

「神々の山嶺」 は、そんな時代の登山家を描く山岳小説の最後を飾っている。


最近また登山ブームだそうで山小説も見受けられるが、「都会に疲れた人、仕事や結婚に行き詰まった人が、自然のなかでのチッポケな自分を認識し、癒され、自分を取り戻す」的な話が多い。 それはそれで良いのだが、しみじみ泣かされたりもするのだが、ガツンとしたエネルギーが必要な感じがしていたところだったので、神々の山嶺の映画化のニュースは、嬉しかった。


参考文献
佐瀬稔
「狼は帰らず:アルピニスト・森田勝の生と死」
「長谷川恒男虚空の登攀者」(佐瀬稔)
「残された山靴:志なかばで逝った8人の登山家の最期」

加藤保男
「雪煙をめざして」

長谷川恒男
「岩壁よおはよう」
「北壁からのメッセージ」
「山に向かいて」
「生き抜くことは冒険だよ」

今井通子
「私の北壁:マッターホルン」
「続私の北壁:アイガー,グランド・ジョラス」
「男は仕事、女は冒険:何が私をかりたてるのか
「マッターホルンの空中トイレ:女性登山家が語る山・旅・トイレ
「山は私の学校だった」

写真 出典ウィキペディア 
     グランド・ジョラス
     アルプス山脈「アルプス山脈最高峰 モンブラン山」「ツェルマットから見たマッターホルン山」


ところで、昨年皇太子様は「日本・スイス国交樹立150周年」の名誉総裁として、スイスを訪問された。

訪問に際しての会見で、「マッターホルンなどのスイスの山々に大叔父である秩父宮殿下が登頂されたこと」 「中学1年生の時に国語の授業で,日本の登山家である今井通子さんなどがアイガーの北壁を登った話を読んだことなどによってより身近なものとなりました。」と述べておられることからも拝察できるとおり、アルプスの山々に日本人の偉業が刻まれていることを御存じであったに違いない。
「みんな山が大好きだった」で紹介される登山家が憧れ命をかけた山、アルプス。

妹様お二人がスイスで誕生され、ご自身も何度かスイスに滞在されたことがある雅子妃殿下が御一緒されれば尚、意義深いご訪問となられたであろうが、
いつか皇太子御一家で歩いて頂きたいと願っている。

 

神坐す山の人々

2015-02-19 22:28:07 | 
「よそうはうそよ(2/18)」で、当たり障りのないはずの「天気の話」で連帯感が生まれるほどに、地震情報や天気予報がさっぱり当てにならない気象庁に、皆が怒っていると書いたことから、高嶋哲夫の災害三部作(M8、Tsunami津波、東京大洪水)を思い出した。

図書館から借りて読んだので、正確には覚えてないのだが、
地震予知をしている研究機関や民間人の情報は取り上げるくせにリスクを恐れて活かさない「気象庁」とか、経験則で安易な予測を出して集中豪雨災害の初動体制を遅らせる結果となった「気象庁」というニュアンスで書かれていた印象があるので、「よそうはうそよ」話で、高嶋哲夫三部作を思い出したのだ。

災害を扱ったものは他にも、「死都日本」(石黒耀)などもあり、特に、この冬の暖冬予報が外れた理由として噴火を疑っている自分としては、書きたいこともあるのだが、今日は自分的bigニュースがあるので、それを優先させるとする。

神々の山嶺(夢枕漠)が映画化される。

「劒岳 点の記」(新田次郎) 「岳みんなの山」(石塚真一) 「春を背負って」(笹本稜平)など山岳ものが次々と映画化されているが、どんなに人気があっても、どんなに待ち望んでも映画化は無理だろうと勝手に思っていたのが、「神々の山嶺」

まず舞台がエベレスト。これだけでもハードルは高いが、そのうえ、とにかく超長編小説なので、これを映画にするのは無理だろうと。

どのような作品になるのか待ち遠しいが、山男でもあられる皇太子様のお誕生日も近いことだし、自分の山岳小説を振り返ってみる。

出会いは、国語の模擬テスト。
松本清張「黒の画集」に収録されている「ある遭難」から出題されていたのだが、模擬テストだということを忘れるほど面白く、「合格したら絶対に読もう」と思ったのが、山岳小説と出会うきっかけだった。
NHKの週刊ブックレビューに長く出演された故児玉清氏は山男でも知られているが、そのきっかけは、映画化された「ある遭難」に児玉氏が出演されたことだったというエピソードからも、この本の面白さは分かると思う。

ともかく、「黒の画集~ある遭難」から私の山岳小説は始まった。




写真 出典ウィキペディア 立山の大観峰から望む鹿島槍ヶ岳

よそうはうそよ

2015-02-18 12:43:23 | ひとりごと
ありきたりな話が必要な時がある。
何か話した方が良いが、何を話したら良いか分からない
何か話した方が良いが、突っ込んだ話はしたくない

こんな時に便利なありきたりな話、会話
「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」 に次いで便利度が高い、天気の話。

便利屋なので頻繁に登場するが、熱狂的な共感もなく反論もなく、空気のように漂う会話。
そんな天気の話で、大いに盛り上がった。

気象庁によると昨日の地震は 「四年前の巨大地震の影響がなお残っていて、たまたま同じ日に余震が発生した」ものらしいが、
「ホントかな?」 から会話が始まった。
「だいたい、この冬は暖冬と長期予報で言ってたはず、なのに寒いじゃないか。」
「当たらないのは長期予報だけでない。明日の天気だって、どうかすると外れている」
口々に文句を言っていると、
「仕方ないさ、よそうはうそよ、と言うのだから」
しばしの静寂の後の爆笑。

「よそうはうそよ、   予想は嘘よ」

回文である。
他に知ってる回文は?
「しんぶんし」や「まさこさま」は有名どころとして、すぐ挙がったが、
少し凝ったものでは、
「かしくい、いくしか     菓子食い、行く歯科」
これは回文というだけでなく、皮肉が効いていて面白いと座布団3枚。

続いて出た「れいとうといれ      冷凍トイレ」
「?」「これは回文にはなっているけど、意味をなさないので駄作」との評価に、「これは博士の愛した数式(小川洋子)に載っていた」との抗弁が。

本からの回文を紹介されたのでは、私も何か言わずにはおれない。
こんなのは、どうだ!
「とものうつくしいさいし、くつうのもと          友の美しい妻子、苦痛の元」
「いたりあでみるえ、かえるみでありたい        イタリアで見る絵、買える身でありたい」

これはウケた。やんやの喝采。
何のことはない。「冷凍トイレ」が数学博士の作なら、こちらは工学博士の作。つまり森博嗣の「虚空の逆マトリクス(ゲームの国)」から引いただけ。しかも、もっとスゴイ作品があったはず。

その場は「友の美しい妻子、苦痛の元」がビミョウな後味を残しながら、お開きとなったが、後ほど「ゲームの国」の回文同好会を覘いてみると、
あったあった、もっと大作、美しい作品

「住まいは田舎がいい、森と陽だまりでひと寝入り、飛ぶ鳥、稲と日照り、まだ独りもいいが、家内は居ます」

「白雪の 屋根やお屋根や 軒揺らし」

昨年ドラマ化された「すべてがFになる」(森博嗣)の犀川創平(助教授)シリーズは、プロットの荒唐無稽さはともかく、工学博士が書いたらしい面白味があり、楽しく読んだが、
犀川先生、今頃は「日常を無くさずに人を殺すのが理想」などという女子学生がお膝元から出て、忙しい毎日だろうか。


ところで、回文まさこさま、が話題に出たとき、気になる話を耳にした。

「雅子様は、まさこさま、と呼ばれるようになって上手くいかなくなられた」のだと。
まさこさま、まさこさま、上から読んでも下から読んでも、まさこさま。同じところをグルグル回る。これが‘気‘の感覚では良くないらしい。
雅子妃殿下と正しくお呼びすれば、’気‘が整ってくるはず、だとか。

まさこさま、という響きは、柔らかでもあり凛ともしており親しみを込めて、「雅子様」と書いてきたが、
たしかに名は大事。
古事記の巻1の1は雄略天皇の歌で、一般に恋の歌とされるが、実は「名を名乗る」「名を問う」ということの重要性を示しているという説を聞いたことがある。

籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ 
しきなべて 我こそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも

呼び名も重要。

雅子様の柔らかな響きも好きだが、これからは雅子妃殿下と書いた方が良いのだろうか。