【 開館20周年記念特別企画
平山邦夫美術館「平山邦夫 平和の祈り」展 】
― 倉敷アイビースクエアで桃の花御膳
「ひろでん中国新聞旅行」企画の日帰りBUSツアーです
BUSは広島ICから本州四国連絡道路の3ルートのうち西に位置する尾道~今治ルートを成す西瀬戸自動車道いわゆる瀬戸内しまなみ海道へと走ります
西瀬戸尾道ICを経て向島~因島~生口島へ向かうのですが海峡部の新尾道大橋・因島大橋・生口橋の橋梁の造形美にうっとりしながら走るのがなんとも心地よい
生口島北ICで降りると瀬戸田です
■平山郁夫美術館(Hirayama Ikuo Museum of Art)
平山郁夫は昭和5年(1930年)にこの瀬戸田町に生まれ瀬戸内の青い海や緑の島々の織りなす豊かな自然のなかで少年期を過ごしたのです (死没 2009年12月2日)
神秘的な潮の流れや群青色の海は平山郁夫に大きな影響を及ぼしたことでしょう
画家としての感性は瀬戸内の風土に育まれたのでしょうか
平山郁夫美術館は平山郁夫が生まれ育った生口島瀬戸田町で1977年に開館した平山作品の常設展示美術館です
もう何年も前になるのでしょうか 家人と来たことがありますが新しい感動がありました
画家としての平山作品だけではなく幼少期のスケッチや体験談(広島原爆の被爆のこと)等の平山郁夫の人物像をも展示している
広島市で被爆 その後遺症に苦しんだのですが やがて“仏教伝来”を初めとする平和を願う作品を多く描くことに繋がったのでしょうか
仏教がもたらした日本文化の源流を求めて 東西文化の交流の路であるシルクロードへと時空を超えて思いは広がったのだそうです
展示室は3つに分けられているのですが 学芸員の人が主なものを解説してくれたことで理解が深まりました
とくに印象に残ったものは
「広島生変図」(昭和54年/1979年) 広島を焼き尽くす炎 画面下方には羅災した街の様子を表している
被爆の惨状を体験した画家平山郁夫の心の中でその情景が幻想的な場面に昇華されたものでしょう
燃え上がる炎のなかに配された忿怒形の不動明王は人の営為を見守る聖なる存在であるとともに悲劇を乗り越えて再生する不屈の生命力の象徴なのか!
深い鎮魂の思いと生命への讃歌を画面に込めて製作されたものだそうです
「祈りの行進 聖地ルルド・フランス」
「行七歩」(昭和37年/1962年)
「求法高僧東帰図」(昭和39年/1964年) 天竺への道を玄奘や法顕のように多くの求法僧が目指しました 求法僧のなかには道に迷ったり病に倒れたりあるいは盗賊に襲われたり 多くの旅人と同様に途中で倒れ目的を達成出来なかった人も多かったことでしょう
この作品は求法を終えて中国へ東に向かって帰る砂漠を行く集団の僧たちですが 天竺への求法の旅を果たした僧たちがたどった姿を抽象的に描いたものだそうです
「絲綢の路 パミール高原を行く」(平成13年/2001年) 作品のタイトルは“シルクロード”つまり“絹の道”です 言葉の美しい響きとは異なり厳しい道なのです
荒涼とした岩山を行く隊商に さらに大きな目標を定め歩もうとする平山郁夫の決意を重ね合わせて描いたものなのだそうです
「アンコールワットの月」(平成5年/1993年) や 「月光ブルーモスク イスタンブール」などは私が観光旅行で実際に見て来た以上の美しさで表現されております
つい先頃訪れた足立美術館(ADACHI MUSEUM OF ART)で眼に焼きついた平山郁夫の作品「祇園精舎」(昭和56年/1981年)で シルクロードでの調査研究をもとに幻想的な表現を取り入れた一作を思いだしました 阿弥陀仏を説く釈迦と宗教的な神秘感が時空の彼方へ誘ってくれたものでした
昼食は 岡山県倉敷市に在る倉敷アイビースクエアKURASHIKI IVY SQUAREで桃の花御膳です
倉敷アイビースクエアは江戸幕府の代官所跡に1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場です 所謂倉敷美観地区に含まれております
煉瓦造りの門柱の脇のプレートに《 歩み入る者にやすらぎを 去り行く人にしあわせを 》と記されておりました
これはかって訪れたドイツ南部のバイエルン州のローデンブルクRothenburg ob der Tauber の市壁に記されていた文言に酷似しております
模倣であれ 洒落たことを
もっともローテンブルク・オプ・デア・タウバーの石壁には独逸語で書かれておりましたがねぇ
■倉敷美観地区
幕府の直轄領いわゆる天領の町 江戸の風情を色濃く残す白壁の街並みの倉敷の美観地区を訪ねてみたい と憧れにも似た想いがあったのです
江戸時代初期の寛永19年(1642年) 江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ 以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史をもっております
倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び天領時代の街並みが残っております
また1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館である大原美術館や 1888年(明治21年)に代官所跡に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修再利用した観光施設とも言うべき倉敷アイビースクエアもこの美観地区を代表する建築物なのです
倉敷河畔は時代劇映画の撮影にはうってつけなのかも知れません
美観地区の漫ろ歩きも楽しみでしたが観光で歩いているのは若者が多いですなぁ
大原美術館が目的でしたが方向を間違えたのか大回りをしてやっと辿り着きました
■大原美術館(Ohara Museum of Art)
倉敷の実業家である大原孫三郎が大原美術館を設立したのが昭和5年(1930年) 旧大原家住宅の眼の前に位置しております
ギリシャ建築の神殿を模した本館は開館当時の姿のままだと言う
大原孫三郎が支援していた洋画家児島虎次郎が収集した西洋絵画の展示を目的として造られたものですね
駆け足で館内を廻るのですが主なリストは モネの「睡蓮」とエル・グレコの「受胎告知」ゴーギャンの「かぐわしき大地」 ドガの「赤い衣装をつけた三人の踊り子」 ルノワールの「泉による女」などを観賞しました
エル・グレコ(1541-1614)の「受胎告知」だけでもゆっくり眺めたいものでしたが
思っていたよりも小さいもので 109.1×80.2cmなのです
家人は以前にここで鑑賞したことがあるそうですが 最初はもっと大きな迫力なある画像であったそうです
その時その時に印象が違っていてもよいのだろう 新しきことを知ることになるのでしょう
この「受胎告知」は かぎりなく深い神秘的な闇に包まれた夜空に 突然眩いばかりの光芒を発して天使が登場してきたところです 雲に乗って現れた天使は右手を大きく捩じりながら天に向けて左手には純潔のシンボルである白百合の花を持って やや上方から聖処女マリアを見下ろして居ります 二人の視線の交錯こそが全体の構図の中心となっており天上世界と地上世界との結びつきが成立しているのだと言う
なにしろ倉敷での滞在時間が制限されていたので大忙しです
今度は時間に余裕をもって是非訪れたいのでした
美術館の隣に在る“喫茶エル・グレコ”は大正末期に建てられた大原孫三郎の事務所を改装したものだそうです ゆっくりお茶の時間をも楽しみたかったのですが
かって訪れた街 あるいは初めて訪れた土地 そこで見たものや見えたもの 歩きながら感じたもの そうした体験が身体の中に浸み込んで積み重なっていくのだろう
そのことが身体の中で生き続けていくのだろうと
絵画に対する憧憬は 甚だ希薄なのですが きょうの美術館で身体の中に入ってきたものは それまで教科書や書籍の写真や資料で知っていたものとはまるで違ったものでした
学校や図書館で見聞したものは知識でしかなく真実の周辺を語っているものにしか過ぎないのでしょうか
生きている僅かな時間の中でも至福の時を得ることを大事にしたい
君は どう思う!
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