Dr.K と 優しさの夢物語

輝きの明日のために、思春期と思秋期の更年期障害の女性のための健康余話/ときには蕎麦談義とワン子のお話を

京都 ゆるりと紅葉の色彩を

2019-12-15 09:40:02 | ゆるゆる旅日記

ほんまもんの京都【霜月】
~京都の紅葉と料亭幾松の京懐石~

「ほんまもんの京都」はひろでん中国新聞の京都日帰りツアーです
ツアーコンダクターは顔見知りのYさんです 懐かしいのです
家人は行楽の外出が2年ぶりでしょうか
コースは
JR広島駅 = JR京都駅 = 聖護院門跡(秋の特別公開) = 上木屋町料亭 幾松(京懐石) = 総本山 永観堂 禅林寺(紅葉) = 京漬物 川勝總本家本店 = JR京都駅 = JR広島駅

■聖護院(しょうごいん)
京都府京都市左京区聖護院中町15
本山修験宗総本山(本庁)の寺院 聖護院門跡とも称する
本尊は不動明王である
皇室と深い関わりを持ち現在も聖護院旧仮皇室として国の史跡に指定されている
明治までは当時西側にあった聖護院村から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」のなかに寺があったため「森御殿」とも呼ばれ現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれる
聖護院の森は紅葉の美しさから「錦林」とも呼ばれ現在も「錦林」が地名に使われている
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う


聖護院の“名”は聖体(天皇)をお護りする寺という意から出ている
聖護院の修験者は常に天皇に付き従って京都を守ってきた
京の仏事・神事に関わる山伏はみなこの寺より出る 祇園祭にも泉涌寺の塔頭・即成院にも出るそうです

 左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し その境域は旧愛宕群聖護院村にほぼ相当する
和菓子の“聖護院八つ橋”や京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうりの発症の地である
そう言えば“聖護院八つ橋”のちょうちん看板のお土産屋が眼につきます

昼食は「幾松」で京懐石のランチですよ

◎上木屋町 幾 松
京都市中京区木屋町通御池上る

 幕末の頃に倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(あとの二人は西郷隆盛 大久保利通)のちの木戸孝允と三本木の芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡が料亭の幾松です
明治維新の立役者 桂小五郎は幕末に京都に潜み倒幕に暗躍した 木戸孝允と改名し参議などの要職を歴任 政府内の進歩派の中心として廃藩置県 藩政奉還に尽力したのです

そこにはひとりの女性の支えがあった 維新の陰のヒロインである
京の風情を漂わせる料理旅館「幾松」がある
この建物の一階に芸者幾松が身を寄せていた部屋「幾松の間」が残っている
幾松が隠れた長持ち 部屋から鴨川べりに出られる抜け穴などが幕末の緊迫を偲ばせる
幾松は情報収集のために身をやつして二条大橋の下に隠れていた桂に握り飯を差し入れた逸話などが残る 幕吏の厳しい追跡を逃れ潜伏の身であった桂を幾松は身を挺して支えたのである
桂と幾松は後に夫婦となり桂に尽くした
 とまぁ 「幾松の間」の解説に耳を傾け懐石の昼食をいただきました

■ 禅林寺(ぜんりんじ)
京都府京都市左京区永観堂町48番地
浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院 通称の永観堂の名で知られている
なぜ永観堂と呼ばれているのか この寺の第七世住持永観律師(1033~1111)の存在があります
寺名はえいかん 律師はようかん と読みます
紅葉の名所として知られ古くから「秋はもみじの永観堂」といわれている

みかえり阿弥陀 - “永観 おそし”
伝説がある 東大寺開創供養の時 老翁が捧げた阿弥陀像を宮中で祀りになっていたが
やがて東大寺に下賜された
この阿弥陀如来像は東大寺に秘蔵されていたのであるが たまたま永観はその尊像を拝する機会があり尊像の奥深いところから呼びかける声を聴いた
永観は「衆生済度こそ この仏の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない」と嘆いた
これが白河法皇の耳に入り永観が護持し供養することとなった
後年 永観が東大寺別当職を辞して尊像を背負って京に入る際に東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけてきたところ尊像は永観の背に取り付いて離れず僧たちはあきらめたと言い伝えられている
 永保2年(1082) 永観50歳の頃である
2月15日払暁 永観は底冷えのするお堂である時は正座しある時は阿弥陀像の周りを念仏して行動(仏道の修行)していた
すると突然 須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を降りて永観を先導し行動を始めた
永観は驚き呆然と立ち尽くしたという
この時 阿弥陀は左肩超しに振り返り
『 永観 おそし 』
と声をかけられた
永観はその尊く慈悲深い姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ今にその尊容を伝えると言われている
像高 77cm 木造

      みな人を渡さんと思う心こそ
      極楽にゆくしるべなりけれ    「千載集」
・自分より遅れる者たちを姿勢
・自分自身の位置を顧みる姿勢
・愛や情けをかける姿勢
・思いやり深く周囲を見つめる姿勢
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握の振り向き

今 律師の声が耳に届く永観堂の「みかえり阿弥陀」は京都を訪れる者 拝したい仏像でしょう
朝のNHK-TVで京都の紅葉を放映していたそうです
そのせいでしょうか随分な人出でしたが イロハモミジ オオモミジの彩りを堪能しました

「ほんまもんの京都」は京都の名所旧跡を比較的ゆっくりと探訪 解説も楽しく 昼食も京都らしい味を楽しめます
そして行程のなかに自由時間もあり 老齢には穏やかなひと時でした
君は相変わらず多忙な日々でしょうが たまにはのんびりしてみよう
ゴールはそんなに違わないのだから

    

           

 


 


太宰府のコスモス畑は優しい秋色

2019-11-24 14:44:10 | ゆるゆる旅日記

第34回 日本女性医学学会学術集会
  - 女性の一生を診る -
 2019年11月2日~3日
 ヒルトン福岡シーホーク

今宵の宿は
ホテル日航福岡です
時間がたっぷりあるので以前ツアー観光で九州国立博物館を訪れた際 足を延ばしそびれた大宰府天満宮にお参りしましょう
博多からの途中にはコスモスが咲いて秋の色やさしく迎えてくれました

■大宰府天満宮
 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に左遷され翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した
その死後 道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え同寺の境内に廟を建立した
境内には牛の銅像があります 
一方都では疾病や異常気象など不吉なことが続き更に6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した
これらの出来事を【道真の祟り】と恐れてその御霊を鎮めるために醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向し道真の墓所の上に社殿を造営して延喜19年(919年)に竣工したのが安楽寺天満宮の創祀である
それでも【道真の祟り】は収まらず延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去
狼狽した朝廷は延長と改元したうえで道真の官位を生前の右大臣の官職に復して正二位の位階を追贈した
皇太子保明新王の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去したそしてついに延長8年(930年)に醍醐天皇臨席のもとで会議がひらかれていたその時 清涼殿に落雷があり死傷者がでた清涼殿落雷事件である
ついに正暦元年(990年)には本来は天皇や皇族を祀る神社の社号である「天満宮」を併用するに至った
 道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世頃から道真が生前優れた学者であったことにより学問の神様としても信仰されるようになった
 大宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ

飛梅
太宰府天満宮の神木として知られる梅の木の名称 樹齢1000年を超えるとされる白梅で本殿前の左近に植えられております
 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 
  主なしとて春な忘れそ」
現代語に訳すると
東風が吹いたら つまり春が来たら芳しい花を咲かせておくれ 梅の木よ
大宰府に行ってしまった主人 つまり私がもう都にいないからといって 春の到来を忘れてはならないよ ……

一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき その地に降り立ったという伝説があります
 菅家後集では
 家を離れて三四月
 涙を落とす百千行
万事皆夢の如し
時々彼蒼(大空)を仰ぐ
道真は失意のうちに大宰府で病死 59歳だった

境内には梅の木がたくさん植えられているが花の季節にはさぞかし梅花漂うことであろう
大宰府の緑地にはコスモス(秋桜)が風に揺れている
もう立冬なのだけれど優しい花色に気持ちが安らぎます
思えば今年は猛暑と台風が続いて いつ夏が終わり秋が来てしまったのかよくわからなかった
四季の移り変わりは従来の規律を取り戻し穏やかに移っていってほしいものです
寒風の冬の到来は そこまで来ているのだろうか


懐かしさを探して 尾張国

2019-06-22 08:56:16 | ゆるゆる旅日記

第71回学術講演会が愛知県名古屋市の名古屋国際会議場で開催されたので足を運びました
JSOG Congress Award Candidatでは英語での若い発表者が多くおり素晴らしいことだと感嘆しました
同行を計画していたH氏はcatheter ablation術後の安静のため単独行です
二度三度と名古屋へは訪れているのですが今回の“野外活動”は未だ見ていない熱田神宮と新装(?)なった名古屋城本丸御殿に参りましょう

 熱田神宮への途中で堀川を眺望して行きましょうか
名古屋城築城とともに開削された人工水路であり築城に多大な役割を果たした
城下町を支えた大動脈とも言うべく堀川
堀川はもともと小さな川が流れていたところを開削して造られた人工の水路
名古屋城西側の龍の口から熱田湊までの7.2㎞で物流の大動脈として商都名古屋の礎となった
一時は深刻な水質汚染に陥ったようですが徐々に改善されているようです
江戸情緒を望むのは難しいでしょうが残しておきたいものです
さて改元 「令和」元年になりますので三種の神器を遥拝しましょう

 ■熱田神宮(あつたじんぐう)
  愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
竹内社(名神大社) 尾張国三宮
旧社格は官幣大社で現在は神社本庁の別表神社
宮中の四方拝で遥拝される一社
日本第三之鎮守(伊勢神宮 石清水八幡宮に継ぐとする)とされる程の国家的な崇拝を受けるに至る
主祭神は 熱田大神(あつたのおおかみ)
 三種の神器のひとつである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ 草薙剣 天叢雲剣)を身体とする天照大神を指すとしている
相殿神は 天照大神(あまてらすおおかみ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 宮簀媛命(みやすひめのみこと) 建稲種命(たけいなだねのみこと)
この熱田神宮の創建は景行天皇43年 西暦113年で2013年には創祀1900年を迎えている

熱田神宮は天皇家に伝わる「三種の神器」のひとつ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を安置していることで知られている
だだ 草薙神剣は壇ノ浦の戦いのときに安徳天皇とともに水没されたともされており現存するかどうかについては諸説があろうか
記紀神話には景行天皇の時代に東国を征服するために向かったヤマトタケルが相模国或いは駿河国で敵の放った野火に囲まれた際にヤマトヒメから渡された草薙剣を使って窮地を脱する話が出てくる
その後ヤマトタケルは尾張国で結ばれたミヤズヒメに草薙剣を預けて出発しやがて亡くなってしまう そのためミヤズヒメは草薙剣を祀るため熱田神宮を創祀したとされている

三種の神器とは
「冷蔵庫 洗濯機 白黒テレビ」それは昭和の三種の神器です 古い話です
「クーラー 自家用車 カラーテレビ」それは新・昭和の三種の神器と呼ばれておりましたなぁ
ここで言う三種の神器は歴代天皇が譲位とともに代々伝える皇位継承者の証です
皇祖神の天照大神により高天原から地上に遣わされたニニギノミコトの頃より伝わる
 ☆八咫鏡
天照大野神を天岩戸の盤座から放つための道具として作られた鏡です
所在地は伊勢神宮の内宮 形代は宮中三殿の賢所に安置
 ☆草薙剣
スサノオノミコト八岐大蛇を退治した際に切り捨てたその尾の中から出てきたもの
実物は熱田神宮に 形代は皇居の「剣璽の間」
 ☆八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
天照大野神を盤座から解き放つために玉祖命が作られたものとされ八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられたもの
実物が皇居の「剣璽の間」に安置

第126代天皇に即位した天皇陛下は5月1日 皇居で皇位継承の儀に臨まれた
皇位継承に伴う儀式「剣璽等継承の儀」では剣と璽(勾玉)が陛下に継承されたのがTVで中継されていたがもうひとつの皇位の証とされる鏡は宮中三殿の賢所に安置されている
三種の神器はやはり“徳”として実在するのです

 そうした知識がなかったとしても熱田神宮を訪れて一般の神社とは異なるものだと言う印象を受けます
と言うのも社殿が伊勢神宮と似ているからでしょうか 現在の熱田神宮はまさに伊勢神宮と同じ神明造りという建築様式で建てられているのです

 熱田神宮宝物殿を見学 ここで休憩して名古屋めしを
八剣宮の近くの“宮きしめん”で名物をいただきましょう
神宮の“宮”の字を頂戴して宮きしめんと命名したとか
熱田神宮が発祥の名物きしめんだけあってもっちりとした食感と歯ごたえ
セルフサービスで650-円でした
名古屋めしの代表格のきしめんの由来は
雉(きじ)の肉を具材として使用し藩主への献上品として差し出していた雉麺(きじめん)から
昔のきしめんは今のような平べったい形状ではなく碁石のように丸かったことから碁石麺(棊石めん)の文字由来から
紀州の人から伝わった紀州麺という名前から
まぁ 由来の説は様々なのですが昔から名古屋めしだったようです

■名古屋城本丸御殿
名古屋城本丸御殿は尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長20年(1615年)に徳川家康の命によって建てられたもの
昭和5年には天守閣とともに城郭として初めて国宝に指定され屈指の名城として知られていたのですが昭和20年の空襲により建物のすべてを焼失
表二之門から入りましょう 青空に桜が満開 動悸息切れを堪えて歩きましょう

復元が待ち望まれた本丸御殿は平成21年に復元工事が始まり平成30年6月に完成公開を迎えたばかりなのです
本丸御殿は日本を代表する近世書院造りの建造物で総面積3,100㎡13棟の建物で構成されております
優美な外観とともに室内は花鳥風月などを画材とした障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ建築 絵画 美術工芸史において高く評価されております
復元にあたっては江戸時代の文献や昭和戦前期の古写真や実測図などの豊富な資料をもとに旧来の工法や材料を採用し史実に忠実な復元を実現したものです
玄関~美しい唐破風の奥に虎と豹がじっと睨む
対面所~身内だけが立ち入れる豪奢かつ私的な殿舎
表書院~花鳥 麝香猫が彩る正式な謁見の間
天下統一の夢 ここに極まり
400年の時を超えて築城当時のままに蘇った美を堪能しました

名古屋城天守は再建から半世紀以上が過ぎ老朽化が進んだことにより現在閉館しております

さて夕餉は先年H氏の案内で訪れた蔵元「盛田」の「蔵人厨 ねのひ 伏見本店」が気に入ったことから
今回は 「蔵人厨 ねのひ 名古屋駅前店」
   名古屋市中村区名駅4-7-1 ミッドランドスクエア4F 952-527-8830 へ
今回の宿は名古屋マリオットアソシアホテルで2連泊でした JR名古屋駅直上に位置しており 「ねのひ」はすぐ近くです
二夜続けて通いました(?) 二日目は常連扱いでしたなぁ
お酒は大吟醸 金鯱をいただきましたが どうも一人酒は酔いが廻ります
H氏が一緒だったら楽しかっただろうに

  名古屋はいつぞや家人とお伊勢参りの途中で そして先年の学会で見聞したものでしたが 懐かしい記憶が消えていることに驚きます
まぁそれも人生か と
  どうにも体調不良の単独行でしたが
人間としてこの世に生まれてきて
旅というものは私たちに与えられた最上の贈り物でしょう
君はどう思うかな

 

 

  
                   

北の大地で 昔々へ立ち寄り

2018-10-07 07:55:17 | ゆるゆる旅日記

道央道の三沢I.C.から一般道で山道を桂沢湖方面へ約20分 富良野へ行く途中にこじんまりとした博物館があります
『 先生は 恐竜は好きですか 』 とA氏の誘いです
『 まぁ 好きと言うほどではないけれども興味はありますかなぁ~ 』
途中下車をして考古学の見学です

■「三笠一億年の歴史」
 三笠市立博物館
 三笠市幾春別錦町1-212-1
 Tel.01267-6-7545

ここでは約1億年前の中生代白亜紀の海をイメージしたブルーの展示室には 北海道産のアンモナイトを中心に約1,000点の化石を展示
それらの中には日本最大のアンモナイト(直径138cm)をはじめアンモナイトや化石について詳しく知ることができるように工夫されている
展示室には大小様々のアンモナイトの化石だらけですな
アンモナイトはイカやタコの仲間で頭足類の分類群のひとつ 平らな巻き貝の形をした殻をもっているのが特徴である
アンモナイト(subclassis Ammonoidea)は中生代の海で大繁栄したそうです
国内では北海道からもっとも沢山見つかっている
ここでは近隣で採取された約600点を展示 国内最大のコレクションとして知られている
マンテリセラス・ジャポニカ(Mentelliceras japonicum)は 中生代白亜紀セノマニアンの時代つまり約9,900万年前の浅海域で堆積した三笠層から見つかった代表的なアンモナイトで生存期間が短かったため地層の年代特定に役立っている

そして恐竜の化石をも展示してあります
モササウルス 別名ウミトカゲとも呼ばれる
アンモナイトの海に生息していた大型海生肉食爬虫類で実物全身骨格を展示
モササウルス類はオオトカゲ類に近縁とされる白亜紀の海棲爬虫類なのです
エゾミカサリュウ 
三笠市の桂沢湖周辺で頭部の化石が発見された
国の天然記念物にも指定された新種のモササウルス
エゾミカサリュウの化石が発見された付近一帯はアンモナイトの化石の宝庫で これらを食料としていたと考えられる
アロサウルス 
異竜 異なるトカゲの意
肉食恐竜としてティラノサウルスとともに映画やドキュメンタリーによくでてきます
 
途中下車してタイムスリップしたのかも知れないが目指すはラベンダーなのです
時には途中下車の“立ち寄り”もよいものですよ
立ち止まっていたら今と同じ景色しか見えないのだ
君はどう思うかな

          

    


北の大地で 紫香の魅惑を訪ねて

2018-10-06 13:15:43 | ゆるゆる旅日記

西日本集中豪雨の後遺症とも言うべき交通事情が困難な時期に初夏の北海道への観光です
些か心苦しい気がしないでもないのですが この機会を外すと後悔するのではと思い決行
ただいつも同行してくれるH氏が健康思わしくなく今回は単独行となったことが不安なのです
広島空港から飛ぶのが常道ですが今回はかなり無理なスケジュールで岩国からです
往路は
ANA634便 岩国錦帯橋空港9:20 - 東京/羽田空港10:55
ANA65便 東京/羽田空港13:00 - 札幌/千歳空港14:35
二泊三日の旅程の復路は
ANA66便 札幌/千歳空港14:40 - 東京/羽田空港16:15
ANA637便 東京/羽田空港16:50 - 岩国錦帯橋空港18:25

「JRタワーホテル日航札幌」まで来てくれたA氏と再会 早速すすき野の「いそ田」です

なんどか訪れている北海道でどうしても一度は見てみたい謂わばあこがれのような富良野に行ってみたいのです
旭川在住の古くからの知人のA氏がガイドしてくれました 有難いことです
札幌JCTから道央自動車道を旭川方面に向かいます
A氏の車は自動運転ですが高速道路を快適に走ります
見渡す限り広々とした景色に心が緩みますなぁ
三笠ICからは一般道に降りて山また山を越えて富良野市を目指します


■ファーム富田
    北海道空知郡中富良野町基線北15号
一面の紫色のラベンダー畑です 優しい色と香りにうっとりです
そうです 絵葉書の世界がありました
このファーム富田は1897年に北海道国有未開地処分法が制定され 本州等から北海道へ移住してくる人々が急増するのでした
1093年富田徳間が福井県より入植 十勝岳連峰を美しく見渡す現在地に開拓の鍬を入れ「FARM TOMITA」の歴史が始まる
1976年の日本国有鉄道のカレンダーにファーム富田のラベンダーの写真が紹介されると徐々に観光客やカメラマンが訪れるようになった
そしてまたTVドラマ「北の国から」で放映されると観光地として一躍有名になった
ファーム富田で栽培しているラベンダーは
・濃紫早咲 - 濃い紫色でつぼみの頃から美しく主に観賞用として親しまれている
・ようてい - 赤みをおびた紫色で深みのある爽やかな香り
・はなもいわ - ごく薄い紫色でフルーティな香り
・おかむらさき - やや淡い紫色で1990年にフランスで開催されたラベンダーオイル
          品評会で第1位を獲得した品種
          爽やかでふくよかな香り
・ラバンジン - やや淡い紫色でトゥルーラベンダーとスパイクラベンダーの交雑種
         カンファー(樟脳)成分を多く含む
そう言えば畑ごとに微妙に紫色に変化があることを知りました

平日だと言うのに観光客でいっぱいです 団体を乗せたバスで駐車場は満杯
彼の国のひとが多いようです

北海道を舞台にした映画やドラマのなかでも絶大な人気を誇った「北の国から」
フジテレビ系で放送されたTVドラマ(1981年~1982年 金曜劇場)
1983年~2002年までドラマシュペシャルが放送
原作・脚本は 倉本聡 主演は田中邦衛
主題歌の“北の国から~遥かなる大地より~”は さだまさし の作曲
北海道でのシーンのBGMや北海道日本ハムファイターズの応援歌など北海道を象徴する楽曲とさえなっているのです
ドラマは富良野の麓郷地区が舞台でこの富良野が全国的に有名になった話題作でした
ロケ地となった麓郷には実際に撮影に使われた“五郎の家”が大切に保存されているそうな
腰痛の悪化が懸念するため更なる散策は諦めましたが

昼は富良野の町で富良野蕎麦をいただきました

数年ぶりで再会したA氏にはお世話になりました
彼の優しさに感謝
♪ 義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい男の世界
  幼馴染の観音様にゃ 俺の心はお見通し
  背中で吠えてる唐獅子牡丹 ♪
唐獅子牡丹の世界で義理を欠いて生きていくことは難しいのであるが 加えて人情の暖かさ知りました
ラベンダー畑の向こうには十勝岳連峰夕や張山地の山並みが広がっている

今宵は「いそ田」で独酌です
“ 老いた男が独り 遠い国の見知らぬ街の酒場で好みの酒をチビチビ舐めている
懐かしさと悔悟 様々な失望と そして僅かだけれども残っている希望
呟くような小声で言っている
悪くない情景なのだが ” 
どうも一人旅は似合わないのかも知れない

   


遅咲きの桜を探して 洛西

2018-04-29 09:19:44 | ゆるゆる旅日記

ひろでん中国新聞旅行 の企画する京都への日帰りTOURです

  【 ほんまもんの京都 ― 卯 月
          ~筍亭の筍料理と京の桜~ 】

  行程は
JR広島駅8:35 = JR京都駅10:17 = 世界遺産 真言宗御室派 仁和寺 = 昼食 筍亭 =
吉峯寺 = 中村軒 =J R京都駅18:10 = JR広島駅19:54

■仁和寺
 京都府京都市右京区御室大内33
 仁和寺(にんなじ)は京都府京都市右京区御室に在る真言宗御室派総本山の寺院
山号を大内山と称する
本尊は阿弥陀如来 開基(いわゆる創立者)は宇多天皇
古都京都の文化財として世界遺産に登録されております

 皇室と所縁の深い寺(いわゆる門跡寺院)であり出家後の宇多法皇が住んだことから“御室御所(おむろごしょ)”と称された
明治維新以降は仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったことから“旧御室御所”といわれる
御室は桜の名所として知られておりこの時期は多くの参拝者で賑わいます
また宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもある

 京都で「御室」と言えば仁和寺のことなのです
境内には仁王門を入って左手に旧御室御所があり 中門の先に御室桜の園が広がります
京都ではソメイヨシノが散り終えた例年4月20頃に満開になる所謂遅咲きの桜なのです
まぁ今年は3月の陽気で日本中の桜の開花が早まったのですが御室桜もまたすっかり散り終えてがっかりでした
 川端康成の『古都』に「御室の桜を観たら 春の義理がすんだ」と言う一文があります
御室桜を見納めにして春から初夏へ季節を感じるという京都人も少なくないそうな
御室桜の樹高は低いために根元から匂い立つように花をつけるのだそうです
桜の園を歩くとソメイヨシノのように木々を見上げることなく眼の高さに花があるので桜に埋もれながらの“お花見散策”ができるのだそうな 残念!

 京都の童歌の一節 …
  ♪ わたしゃ お多福 御室の桜
    花(鼻)がひく~ても 人が好く

 そして仁和寺といえば 徒然草に登場する「仁和寺にある法師」が著明
… 大体の内容は 仁和寺の僧侶の失敗談です
ある仁和寺の僧侶が石清水八幡宮を参拝しようと旅行したが 付属の神社などを本体と勘違いして本体である石清水八幡宮には参拝しないまま帰って来てしまったと言う話です
兼好法師は教訓として「些細ななことにも 指導者はあってほしいものである」と説いている
石清水八幡宮は山の上にあり その山の麓には付属の自社である極楽寺や高良神社があるのです

◎京料理 筍 亭(じゅんてい)
 京都府京都市西京区樫原鴫谷50
 ℡075-391-7191
竹林に囲まれた佇まいの店で筍料理の昼食です
庭の常盤万作の紅い花色が鮮やかです

 筍亭では 代々受け継がれている一級品筍の産地である塚原の藪で栽培 土造りから収穫そして調理までを一貫して行っている
新鮮な筍は収穫してからのスピード勝負!
この辺りでは「湯を沸かしてから堀に行け」とまで言われているそうな
先付 八寸 朝掘り筍の造り 朝掘り筍の鏡煮 筍のからすみ 田楽 天麩羅 もちろん筍ご飯 と春を食べる筍会席を堪能しました

 京都では筍掘りは竹の子が地面から顔を覗かせる寸前を狙って掘り起こします
これは竹の子が空気や光に触れると“アク”が強くなるといわれ地面の下にある柔らかで真っ白い竹の子が価値があるとされております
赤ちゃんの肌のように柔らかな筍を“シロコ”と呼びますな

 エジソンが白熱灯に石清水八幡宮の竹を使ったのもよく知られた話です
京都は竹の街でもあるのです

■善峯寺
 京都府京都市西京区大原野小塩町1372
 善峯寺(よしみなでら)は 京都府京都市西京区大原野にある寺院 山号は西山
西国二十三所第20番札所 善峰観音宗(天台宗系単立)
桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街や比叡山を一望できます
 ここでは釈迦如来の信仰 腰痛神経痛の霊験があります
 おちないお守りのことを …
平成7年1月の阪神淡路大震災の時 阪神高速高架でバスの車輪が落ちながらも奇跡的にバスは宙吊りの状態で乗客は助かり そのバスの運転手が善峯寺の釈迦如来のお守りを持っていたことから入試合格や交通安全などの「おちないお守り」息災安穏として評判になったそうな
そのバスは今日のツアーの帝産観光バス京都であったそうです
腰痛の改善を期して当病悉徐のお守りを求めました

    

    

    

    


京都 歴史の残香と初詣

2018-01-25 14:25:30 | ゆるゆる旅日記

京都 歴史の残香と初詣

幕末の風の音を聴いて そしてもういちど初詣をと 数年に一度の大寒波が来ると言うのに家人と京都へ出掛けました

【 ほんまもんの京都 [ 睦 月 ]
   明治維新150年記念 幕末の京都と伏見稲荷大社の初詣 】
ひろでん中国新聞旅行 の企画のツアーです
コースは
JR広島駅8:35 = JR京都駅10:16 = 寺田屋 = 大黒寺(薩摩寺) = (昼食)京料理 清和荘 = 伏見稲荷大社初詣 = JR京都駅18:10 = JR広島駅19:55
 JR京都駅八条口から帝産観光BUSに乗り込み約20~30分程で伏見の寺田屋へ着きます

■ 寺田屋
京都府京都市伏見区南浜町263
攘夷派の薩摩藩士が討幕に反対する同藩藩士と乱闘となった“寺田屋騒動”で知られております
所謂寺田屋事件は江戸時代末期の山城国紀伊郡伏見の旅館寺田屋で発生した事件である
  ・文久2年(1862年)に発生した薩摩藩の尊王派志士の鎮撫事件
  ・慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本竜馬襲撃事件 の2つを言います
寺田屋は古くから続く船宿で幕末の風雲児と言われている坂本竜馬の定宿でもあった
現在も旅籠として営業しており内部の見学もできるのです
参観券いわゆる入場券は土佐国銀札の藩札をイメージしたもので遊び心がありますな
寺田屋では坂本竜馬が幕府方に包囲された際に後の妻となるお龍の機転により難を逃れたと言うエピソードもまたよく知られております
坂本竜馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階に駆け上がり投宿していた坂本竜馬らに危機を知らせたのである
坂本竜馬がお龍を女将のお登勢に預けたのもこの場所です
当時の様子を伝える写真などが展示されており多くの坂本竜馬ファンが訪れております
事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあります
当時そのままの建物であるかのような説明がされているのですが真偽の程は定かではありません でもまぁいいでしょうかね
坂本竜馬襲撃事件に新撰組が関わったとの説もあるが定かではないようです
 寺田屋の近くの商店街は“竜馬通り”と称しておりますが 昭和の商店街のような郷愁を感じさせるものがありました

坂本竜馬が愛した寺田屋そして彼を好んだ宿の女将のお登勢は多くの勤王家を世話したとして死後に贈位を受けた
そしてお登勢の養女のお龍は坂本竜馬の死後に放浪の末には人の妾になるなどして明治39年に66歳で生涯を閉じたそうな
 坂本竜馬が没して150年 日本国が無事にながらえば先々1,000年後にも青年坂本竜馬の存在は語り継がれるであろう
『泣き虫ではいかんきい』と実姉から鍛えられた少年が僅か32年の生涯で人間業とは思えない程の“歴史の要”の役を果たしていることを思う時 その生きざまを垣間見たような気がした
 この旅籠の前を流れる川のように年月はやって来てはただ過ぎ去っていくのでしょう
その中に生きる我々人間は死して後世に名を残し歴史と言う物語は紡がれていくのでしょう

■ 大黒寺(薩摩寺)
京都市伏見区鷹匠町4
大黒寺(だいこくじ)は京都府京都市伏見区鷹匠町のある真言宗東寺派の寺院である
通称は“薩摩寺” 元は“長福寺”と言われておりました
元和元年(1615年)に薩摩藩主島津義弘の守り本尊「出生大黒天」に因み薩摩藩の祈祷所として大黒天を本尊に寺名とした
西郷隆盛 大久保利通の会談の部屋 ゆかりの書や歌 肖像なども保存されております
寺田屋事件で命を落とした薩摩九烈士の墓があり西郷隆盛筆の墓碑が立っております

たとえ僅かな時間でもその地に足を踏み入れたもののみが歴史の真実を知ることができるのでしょう
結果としての歴史を知ることのみならず純粋な愉しみをも感じとれるのが旅物語でしょう
さいわいにも京の都には150年経っても京の都の残香の風が吹いているような気がするのです


◎昼食 清和荘
京都伏見の料亭の清和荘では数寄屋造りの部屋で日本庭園を眺めながらの昼食です

BUSは伏見に向かいます
京都の南に位置する伏見は豊臣秀吉の時代には伏見城の城下町として栄えました
1625年(寛永2年)江戸幕府によって伏見城は解体された
“安土桃山時代”の“桃山”とは 豊臣秀吉が晩年に住んでいた伏見城のことです
そのあたりに桃林があったことから“桃山”と呼ぶのだそうです
江戸時代には高瀬川による船運で京都中心部につながり そしてまた淀川を通う三十石船が大阪との間を結んでいたそうな 
京都伏見は歴史にも度々登場する人の往来と交通の要衛だったそうです
良質な軟水を湧出し兵庫県の灘と並ぶ酒造地として知られ今でも古い酒蔵が立ち並ぶ

さて初詣です!
元日の京都はあまりにも混雑で お願い事が不十分(?)だったような気がしますのであらためての初詣なのです

■ 伏見稲荷大社
京都府京都市伏見区深草藪之内町68
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区深草にある神社
旧称は“稲荷神社” 稲荷山全体が神域なのです 本殿右には稲荷神名水がある
全国に約30,000社あると言われる稲荷神社の総本社である
初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めるそうです(国内では4番目です)
眼にも鮮やかな朱塗りの稲荷造りの荘厳な社殿は室町時代の建造
大鳥居をくぐった先に在る桜門は 天正17(1589)年に豊臣秀吉が寄進したもと伝わる
本来は農耕の神様なのですが 家内安全 商売繁盛などなんでも叶えてくれるそうで庶民の人気を集めているのでしょうか
平日なのに参拝者が多い 観光の外国人も多く眼につきます
桜門から徒歩直ぐに本殿があります
食べ物を司る宇迦之御魂大神を中心に5柱の神様・稲荷大神を祀っております
本殿から千本鳥居を通り奥社奉拝所までは徒歩10分くらいでしょうか
ここには「おもかる石」があります
叶えたい願いを頭に思い浮かべながら石を持ち上げて 軽いと感じたら願いは叶うと言うものです
そしてまた「キツネの絵馬」が並んでおります

伏見稲荷大社の狐が銜えているものは?
伏見稲荷大社の境内には狐がたくさんおりますな
狐と言っても生きているキツネではなく狛狐ですぞ
狛狐は眷属(けんぞく)または白狐(びゃっこ)と言うのだそうです
様々な狐が色々な物を銜えているようです
・玉(宝球) : 稲荷大社の霊徳の象徴とされている球鍵信仰に由来
        また 玉を穀物の倉庫とする説もある
・鍵 : そのみたま(玉=霊徳)を身につけようとする願望の象徴とされている
    玉鍵信仰に由来
    また鍵を倉庫の鍵とする説もある
・稲穂 ・ 稲荷神が五穀豊穣の神である食糧神に由来するためと言われている
・巻物 : 知恵を象徴していると言われている
の4種類なのだそうですが由来の本当のところはよくわからないのでしょう

 伏見稲荷大社の本殿の背後にある稲荷山への頂きへと数千基の鳥居が連なっております
“千本鳥居”と呼ばれその幻想的とも云える朱色のトンネルが観光客にも人気なのです
この鳥居は 願い事が「通りますように」 または「通りました」と言う祈願と感謝の証として江戸時代から鳥居を奉納する習慣が始まり広がっていったものだそうです
そしてまた稲荷社の鳥居は何故に朱色なのか
山に隠れ森に宿っていた神々が大陸伝来の金銅仏の輝きに刺激されて自らの存在を証明しようと選んだ色が朱色であったとか
神々の激情がその理由であるとするならば漲る力にも得心するであろう

 初詣には定められた規定はとくにはないようです
年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事 であることから年内ならばいつ参拝に行ってもよいらしい
一般的には正月三が日に参拝することを初詣と言っているのですが1月中の参拝も初詣とする考え方もあるようです 
回数に関する規定もとくにはないのです
多数の神社仏閣に参拝すれば色々なご利益があると言う説すらあるのだ
その場合神社仏閣をとくに問わないのだそうです
“三社参り”と言って正月三が日のうちに複数の神社に参拝するのが習慣になっている地方もあるのです
 なんと今年は“三社参り”をしてしまいましたかな
それではあらためて新年の抱負New Year’s resolutionを!
ところで君の新年の抱負はなにかな

   

    

      


なにはともあれ新春!京の初詣

2018-01-03 09:26:56 | ゆるゆる旅日記

なにはともあれ新春!京の初詣

 今年もよいことがありますように と初詣に出掛けて来ました
京都定期観光バス の 新春!初詣コース 都七福神めぐり のBUSツアーです
  【 新春!京の初詣と京風おせち弁当 】
初詣のコースは
北野天満宮[学業成就] = 神泉苑(昼食 神泉苑平八) = 下賀茂神社[縁結びと開運招福]千支参り

■北野天満宮
京都府京都市上京区馬喰町931
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は京都市上京区にある神社 旧称は北野神社
通称として“天神さん” “北野さん”とも呼ばれる
混雑で本殿まで辿り着くまで一苦労です
北野天満宮は福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で 学問の神様として多くの受験生の信仰を集めているのは知られたとおりです
  延喜3年(903年) 菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後に都では落雷などの災害が相次いだ 
これが菅原道真の祟りであるとされ御霊信仰と結びついて恐れられたのである
そこで没後20年目に朝廷は菅原道真の左遷を撤回して官位を復し正二位を贈ったのである
天慶5年(942年) 右京七条に住む多治比文子という少女に託宣があり5年後には近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があったそうな
それに基づいて天暦元年(947年)に現在地の北野の地に朝廷によって菅原道真を祀る社殿が造営された

 北野天満宮や菅原道真は 梅 及び 牛 との関連が深い
     東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
                     - 菅原道真 拾違和歌集
菅原道真は梅をこよなく愛でて 大宰府左遷の際に庭の梅に上記の和歌を詠んだことや
その梅が菅原道真を慕って一夜のうちに大宰府に飛来したと言う伝説により梅が神紋となり約20,000坪の敷地には50種1,500本の梅が植えられているのです
 牛は天満宮に於いては神使(祭神の使者)とされておりますが そのことについては「菅原道真は牛に乗って大宰府に下った」「牛が刺客から菅原道真を守った」「菅原道真の墓所(つまり大宰府天満宮)の位置は牛が決めた」等など伝承にすぎないので本当のところはわからない これらの伝承に因み北野天満宮には臥牛の像が多数置かれておりますなぁ

北野天満宮の文化財で国宝は
「紙本著色北野天神縁起8巻」
天神縁起を題材とした鎌倉時代の絵巻
各巻それぞれ縦52.1cm 全長は8.419mから12.116m
天神縁起絵巻は菅原道真の栄華と左遷そして菅原道真の怨霊による都に於ける変異と北野天神の利生記で構成され天神信仰の成立に伴い数多く制作された
延長8年(930年)6月16日の清涼殿に於ける落雷の様子を描いた巻六の場面では中央に黒雲と雷神を配してその左右に清涼殿の内部や庭に於いて倒れ逃げ惑う公家の様子を描いた特徴的な構図が指摘されます 
これを見ることは叶いませんでしたが教科書にも出てきましたなあ

 北野天満宮では期間限定?の授かりもので 招福の梅の枝「思いのまま」を求めました
北野の境内領域で育った梅の小枝に厄除け玄米入りひょうたんがついたものです

 北野天満宮の門前 御前通りに「たわらや」の看板が眼にとまりました
江戸時代から店を構える老舗手打ちうどんの店です
驚く程太くて長い「一本うどん」です  以前に家人と訪れましたなぁ

◎昼食は二条城の南側前にある 神泉苑平八でいただきます
この料亭の創始者が煮込んでも煮くずれせず歯触りのよいうどんをつくるため秋田のきりたんぽやすいとん等をもとに造ったという日本一太いうどん元祖うどんちりが名物なのですが

■神泉苑
京都府京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166
神泉苑(しんせんえん)は京都市中京区にある東寺真言宗の寺院
本尊は聖観音 不動明王 弘法大師
平安京創建時に設けられた禁苑(天皇のための庭)で 天皇や貴族が舟遊びや管弦の宴を楽しみ花見も催した
雨乞いの儀もたびたび行われ 824年に淳和天皇の勅命により東寺の空海つまり弘法大師と西寺の守敏が祈願を競ったところ 空海が祈ると北天竺(チベット)の無熱池から勧請した雨の神である龍神(善女龍王)が現れたちまち雨が降った
それ以降東寺は栄え西寺は滅びたと言う伝承があります
空海が呼びよせた雨をもたらすと言う龍神の善女龍王を本殿に祀る
都に疫病が大流行し東北に巨大地震と大津波があった貞観11年(869年)に清和天皇は神泉苑の南端に当時の国の数である66本の鉾を立て神輿を繰り出し国の平安を祈った これが祇園祭の起源とされる御霊会なのだそうです
歌舞を歌い舞う遊女である白拍子だったとされる静御前が源義経に見染められ愛妾になった静御前と源義経の出会いの場としても知られております
源義経を追って平泉へ逃げる途中で越後栃堀で病に倒れ没したそうな
係留されている龍頭鷁首の舟を眺めて龍神の棲む池で願い事をしたためてみました

■加茂御祖神社
京都市左京区下鴨泉川町59
加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は京都市左京区にある神社 通称は“下鴨神社”
加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は京都市北区にある通称“上加茂神社”とともに加茂氏の氏神を祀る神社であり両社は加茂神社(加茂社)と総称される
両社で催す加茂祭 通称“葵祭”が知られております
本殿には 右に加茂別雷命(上加茂神社祭神)の母の玉依姫命 左に玉依姫命の父の加茂建角身命を祀ることから加茂御祖神社と呼ばれるのだそうな
金鷄及び八咫鳥は加茂建角身命の化身だということである

糺すの森
高野川と加茂川が合流する一帯の樹齢200年を超える木々が茂る原生樹林で下鴨神社の参道はこの森の中を真っすぐに通っております
糺すの森を抜けると鮮やかな朱色の門が現れます 楼門は国の重要文化財です
本来はこの参道からお参りするのでしょうが横の参道からはいりました

下鴨神社には大勢の神々が祀られているそうです
可合神社(かわいひんじゃ)― 女性守護で知られている玉依姫命 美麗の神
相生社(あいおいのやしろ)― 神皇産霊神はあらゆる良縁の結びの神
言社(ことしゃ)― 千支の守護神 自分の守り神をみつけて参拝

御手洗池(みたらしのいけ)
“みたらし団子”の由来になった聖なる池
御手洗池に祀られる御手洗社では土用の丑の日の前後に無病息災を願って足つけ神事が行われる そしてこの湧水の泡をイメージしたのがみたらし団子だそうな
串にさされた団子は人の五体に見立てられているそうな
 下鴨神社もまた押すな押すなの混雑で池まで辿り着くことはできませんでした

初詣とは 年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事とされております
元々は年籠りと言い家長が祈願の為に大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣であったらしい
そう言えば幼い頃に 大晦日の夜の雪道を歩いて大平山秋田三吉神社にお参りしたのは“除夜詣”と“元日詣”だったのだろうなあ
 初詣は祈願と言うことなのですが新年の誓いを立てる機会でもありましょう
英国や米国でも新年の決意New Year’s resolution と言ってこれを立てる習慣があるようです
受験期には初志貫徹などと大書したものですが
新年の抱負は『今年こそは!』と実現が困難なものが多いせいか諦めてしまうことが多い
私などは門松注連縄がとれる頃には抱負自体すら忘れてしまっている
そこで祈願と言うことになってしまうのだろうか
君は初詣に行ったかな

    

    


艶やかな秋色に染まる時間を ~ その2

2017-12-10 06:45:15 | ゆるゆる旅日記

“ 艶やかな秋色に染まる時間を ~ そのⅡ ”

きょうは 京都定期観光BUSの一日観光です
【 ST 秋の特別公開文化財めぐり
~ 初公開!西陣「法土寺」と八幡・京田辺の古寺をたずねる ~ 】のコースを
選びました
連休のせいなのでしょう座席は満員の盛況です
報土寺 ― 知恩院三門 ― 昼食 花水庵 ― 正法寺 ― 酬恩庵(一休寺)と巡ります

■ 報土寺
上京区仁和寺街道六軒町西入四番町160
報土寺(ほうどじ)は浄土宗知恩院派に属する寺院である
貞観元年(859年)行教が真言宗の寺として創建したものと伝えられているが 以後 浄土宗の念仏道場として栄えた
表門と共に重要文化財に指定されている本堂は 桁行七間梁行六間 入母屋造の本瓦葺の建物である
報土寺と言えば 水上勉の小説「五番町夕霧楼」です 
1950年の金閣炎上を題材に 京都西陣の遊郭街の五番町で働く女性と幼馴染の僧侶の悲恋を描いた物語は佐久間良子主演で映画化された不朽の名作でしょうか 
映画を観た記憶があります
報土寺は その旧遊郭街の一角にあり亡くなった遊女の投げ込み寺といわれた時期があった
本堂の前には遊女観音がありました
また「腹帯地蔵」もあり女性を見守り続けておりますな
本尊の木像の阿弥陀如来立像(国重要文化財)は近江の八幡宮に祀られていたものと伝えられている 報土寺に伝わる縁起の絵巻物によると当時の住職の夢に阿弥陀如来が現れ東から手招きをされ住職がその招きに従って東へ進んで行くと近江八幡に達したところで地面が輝きそこから一体の阿弥陀如来像が現れた 阿弥陀如来像が報土寺に行かれることを望んだため住職はその阿弥陀如来像を報土寺に招いて現在に至っていると言う
京都国立博物館に寄託されているところ初めて里帰りをして公開されておりました

■ 知恩院 三門
  京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400
 知恩院(ちおんいん)は 京都市東山区に在る浄土宗総本山に寺院
山号は華頂山 華頂山智恩教院大谷寺
本尊は法然上人像(本堂)及び阿弥陀如来(阿弥陀堂) 開基は法然です

浄土宗の宗祖である法然が後半生を過ごし没したゆかりの地に建てられた寺院で 現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である
徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め 今でも京都の人々からは親しみをこめて“ちよいんさん”或いは“ちおいんさん”と呼ばれているそうな

法然上人が開宗した浄土宗の総本山
7万3千坪と言う広大な寺領を有し徳川家康の生みの親「伝通院」を弔う徳川家ゆかりの寺院です
知恩院は度々の火災で伽藍を失っており現在の伽藍の多くは徳川家康 秀忠 家光の代に整えられたものだそうです
そしてこの知恩院の入り口に“どぉ~ん”と建っているのが三門です
元和7年(1621年)に徳川秀忠によって建てられた国宝の三門 京都古文化保存協会による非公開文化財特別公開が行われておりました
高さが24m 幅50mの大きさで近くで見上げると首が痛くなる程
中央には「華頂山」の額が掲げられております
ところで 知恩院の門は「山門」ではなく「三門」です 3つの扉の門になっているのです
これは仏教用語の「三解脱門」からきているのだとか
涅槃(悟りの境地)に入るために通らなければならない門と言うことなのです
・空 門:とらえどころのないものに捕らわれない心
・無想門:姿や形に捕らわれない心
・無願門:執着に捕らわれない心
と言うことなのですが果たして3つの扉を通れたのでしょうか

知恩院の三門は2階建て構造です
桜門の横に入り口があります
門を上がる階段は 急勾配の階段と言うよりも殆ど垂直な梯子段のようで手すりにはロープが張られており捕まりながら登るのでかなりシンドイのです 
ワシは腰が痛いのですがねぇ…
2階の内部は広い真っ暗な仏堂になっております
中央には宝冠釈迦牟尼像が安置され脇侍に善財童子と須達長者並び脇段には十六羅漢像が埋め尽くしております
天井には極楽の様子が極彩色で描かれており狩野派によるものだと言われております
天井中央には大きな龍が描かれております
虹梁を挟んだところには天女や飛龍が そして上半身が仙人で下半身が鳥の姿をしている迦陵頻伽も描かれております
迦陵頻伽は極楽浄土に住んでいて美しい声で法を説き生前にこの姿を見ると極楽浄土に行けると言われているそうな
大虹梁には神仙思想に於ける伝説の生き物“麒 麟”が描かれていてキリンビールのラベルのモデルになった“麒 麟”がおりました

悟りの境地を表している仏の世界が三門の上に広がっておりました
さてさて三解脱の門をくぐり悟りの境地を知ることができましたかな

堂内は外部の光が入らないから彩色が綺麗に残されているのでしょうか
勿論写真撮影も禁止でしたがね
仏堂を出ると三門の二階から京都市内を眺望できました
背後の華頂山が色づく紅葉には未だ早いのが残念ではありましたが
以前にも 特別公開でこの三門を訪れたのですが今回もまた歴史の重さを感じました

お昼は
◎ 花水庵
 知恩院の駐車場からすぐの知恩院和順会館の花水庵で特別和順弁当

■ 正法寺
 京都府八幡市八幡八幡清水井73
 正法寺(しょうぼうじ)は浄土宗の寺院 山号は徳迎山 本尊は阿弥陀三尊
源頼朝の御家人で石清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基となり建長2年(1191年)に創建した寺と伝えられている
後奈良天皇の祈願所となる
また徳川家康の側室お亀の方は志水氏の出身であることから江戸幕府から朱印状を得た
重要文化財には 本堂 大方丈 唐門 絹本著色如来像 絹本著色石清水曼陀羅図 木像阿弥陀如来坐像 木像元三大師像

■ 酬恩庵
京都府京田辺市薪字里ノ内102
酬恩庵(しゅうおんあん)は臨済宗大徳寺派の寺院である 本尊は釈迦如来坐像
一休寺(いっきゅうじ)或いは薪(たきぎ)の一休寺とも称されている
枯山水の石庭や一休宗純の木像のほか納豆の一種である「一休寺納豆」でも知られている
正応年間(1288-1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身とされる 
兵火にあって衰退していたのを康正2年(1456年)に一休宗純が草庵を結んで中興し宋祖の遺風を慕い師恩に報いると言う意味で名前を酬恩庵と号したのですな
一休は文明13年(1481年) マラリアにより88歳で亡くなるまでをここで過ごし臨終の際には『死にとうない!』と述べたそうな
重要文化財には 本堂 方丈及び玄関 庫裏
浴室(重要文化財)も公開されている 本尊は跋陀婆羅である 跋陀婆羅尊者は入浴時に開悟したのだそうな 内部は蒸し風呂となっております
浴室は東司 禅堂 食道の三黙堂のひとつとして静粛さを大切にする厳粛な修業の場なのです 
ワシのように湯舟にどっぷりと浸かり鼻歌混じりの入浴からは想像もつきません
 “ 一休さん ”と言えば 気の利いた頓智が魅力の〝 小僧さん 〟というイメージですが実在した一休宗純には多くの逸話が伝わっておりますなぁ
・印可の証明書や由来のある文書を火中に投じた
・男色はもとより仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒 肉食 女犯を行い
・木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど
・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室にあがりこみ蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝 帰宅した蓮如は「俺の商売道具になにをする」と言って二人で大笑い
・正月に杖の頭に髑髏をしつらえ『ご用心 ご用心!』と叫びながら練り歩いた など
…… このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は民衆の共感を呼んだそうな
江戸時代には一休をモデルとした「一休噺」に代表される頓知噺を生み出すのです
現代でもアニメの一休さんで知られておりますな
…… 一休宗純が遺した言葉では
・門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
・釈迦といういたづらものが世にいでて おおくの人をまよわすかな
・秋風一夜百千年
・花は桜木 人は武士 柱は桧 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの
・南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃというが愚かじゃ

大徳寺の住職にも就いた高僧一休宗純は 酒を好み 正月には髑髏を掲げて町を歩くなど僧らしからぬ行動によって破戒僧と言われたこともあったが市井の人々からは慕われたそうな
一休宗純は超破天荒な人物であったことは間違いないのだが 智恵の富んだ人物であったろう 一休の頓智噺は現世でも生きているのだ

このあたりまで来ると紅葉前線が大分南下してきており やっと探していた秋色の京都を感じることができました

歴史の真実と言うものは その場所に足を踏み入れてこそ真実の気配を察知することができるのでしょう
それにしても腰が痛い!歩き過ぎたかな

 

 

 


艶やかなる秋色に染まる時間を ~ その1

2017-12-10 06:35:59 | ゆるゆる旅日記

“ 艶やかなる秋色に染まる時間を ~ そのⅠ ”

東京での七五三のお祝いの感激に浸りながら夜遅くJR京都駅で下車
家人は新幹線でそのまま広島へ帰ります
今夜の宿は 昨年と同じ河原町通りの
ホテルビスタプレミオ京都
    京都市中京区河原町通六角西入ル松ヶ枝町457
    ℡075-256-5888
明日は大阪での学会に出席するので早々と就寝しましょう

【 第32回日本女性医学学会 】
  リーガロイヤルHOTEL / 大阪国際会議場

京都へ引き返してH氏と合流します 初夏の北海道以来です
折角大阪まで来たのですから 秋の京都を覗いてみましょう と盟友H氏とともに散策してきました
きょうは 近隣の神社仏閣を散策しましょう

まずは遅い お昼を頂きましょう
◎ 懐石 瓢 樹(かいせき ひょうき)
  京都府京都市中京区六角通新町西入西六角町101
  ℡ 075-211-5551
 大正時代に南禅寺の「瓢亭」より暖簾分けをされた「瓢樹」だそうな
建物は 明治期に日本画界で活躍した今尾景年のかっての邸宅だとか
洛中の町屋の風情を感じさせる料理屋で日常の喧噪を忘れてしまいそう
ここはH氏の文字通りのお膳立てで“花御膳”をいただきました

■ 本法寺
  京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617
 本法寺(ほんぽうじ)は日蓮宗の本山(由緒寺院)
頭塔は尊陽院 教行院 教蔵院があるそうです
1436年(永享8年)日親が本阿弥清信の帰依を得て創建
庭園は 巴の庭  十(つなし)の庭があります
重要文化財には長谷川等伯関係の資料が多い 紙本著色仏涅槃図ほか
佛涅槃図は京都三大涅槃図のひとつに数えられ その大きさは縦約10m 横約6mにおよぶ
作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師長谷川等伯で 自身の家族に心を寄せた供養を目的に61歳のときにこの絵を描き本法寺に奉献したものだそうです
 本阿弥光悦の庭園巴の庭をゆるりと鑑賞です

■ 妙覚寺
 京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
妙覚寺(みょうかくじ)は 日蓮宗の本山(由緒寺院)
頭塔は善明院 實成院 玉泉院があるそうです
妙覚寺は1378年(永和4年)に日実によって創建されたが離脱 小野妙覚の外護により建立した
1582年(天正10年)の本能寺の変の際 織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた 明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て明智勢を討つべく二条御所へ向かうが果たせずに自害した
重要文化財には盂蘭盆御書 日蓮筆 があります
  きょう巡った寺院は混雑する紅葉の季節の穴場です!とH氏の弁のです
そのせいか2か所のお寺は静かでした

■ 晴明神社
晴明神社は 平安時代中期の天文学者である安倍晴明公を祀る神社
平成に入り 漫画化や映画化もされた夢枕獏の小説のヒットで主人公である安倍晴明のブームが起こり広く参拝者が訪れるようです
若者がいっぱいでした

宵の宴までは少し時間があるのでいまどき話題の“町屋カフェ”で休憩です
若者に混じってオジサン二人組がスイーツを味わいましたな
まぁ場所違いではありましたが甘いパンケーキは美味しかったですよ 疲れているのかも

◎ 大文字町の「紫雲仙」で宵の宴です
 蕎麦屋なのですが酒肴もまずまずでした お酒は黒龍を少々
ほろ酔いながらも久々のH氏との宴は いつもながら愉しい時間でした
 十割そばの“鴨汁つけそば”は新蕎麦だそうですがなかなかの味を楽しみました

少しばかり夢見心地で
今夜の宿は昨日と同じ ホテルビスタプレミオ京都 です