4月25日(日)、快晴の天気。
"昼過ぎ急に上田に行ってみよう"ってことになり上田城に行く。
丁度、上田城は上田城千本桜祭りの最終日。
広場では太鼓連が賑やかに演奏している。
太鼓祭りらしい。
子供太鼓から御諏訪太鼓まで来ている。
公園内では猿回しが来て観客に愛嬌をふりまいている。
上田城と城内の真田神社を見て諏訪大社とのつながりがあるか調べてみる。
上田城は天正11年(1583年)真田昌幸が築城した平城で、
徳川の軍勢を二度撃退した歴戦の名城として知られている。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦で真田昌幸・幸村父子は西軍に加勢する。
戦のために西下しようとする家康の次男秀忠の大軍36000人を
わずか2500人ほどの兵で迎撃。
秀忠軍を6日間も足止めさせる。
このため、秀忠は家康にひどく叱責され
しばらくの間面会を許されなかったといわれている。
この上田城には天守閣がない。
戦術的に上田城の位置は千曲川が南櫓のすぐ下を流れる。
南からの敵の攻めに対し、格好の自然の防衛とした。
真田昌幸・信幸と諏訪大社の関係を調べてみる。
真田氏は昌幸の父幸隆の代から武田氏の家臣となる。
武田信玄の信州攻略には多大な貢献をしている。
昌幸自身も信玄の側近として仕える。
武田信玄を始め真田昌幸・信幸をはじめ歴代上田城主が、
上田の生島足島神社社殿の再建や社領の寄進を行っている。
やはり建御名方命(たけみなかたのみこと)は戦勝の神であり、
真田三代も生島足島神社に神頼みしたと思われる。
諏訪大社と生島足島神社とのつながりは
諏訪の神様は建御名方命(たけみなかたのみこと)という神。
建御名方命がこの地にとどまり生島神足島神の庇護を受けたとの伝説。
建御名方命はたいそうこれに感謝し、
生島足島の神に粥を自ら作って奉じたとされる。
生島足島神社にも御柱祭がある。
生島足島神社においては、御柱祭も生島足島伝説にちなんだものだとされている。
諏訪神が生島足島神に感謝の意を表すためにおこなっているとされている。
"昼過ぎ急に上田に行ってみよう"ってことになり上田城に行く。
丁度、上田城は上田城千本桜祭りの最終日。
広場では太鼓連が賑やかに演奏している。
太鼓祭りらしい。
子供太鼓から御諏訪太鼓まで来ている。
公園内では猿回しが来て観客に愛嬌をふりまいている。
上田城と城内の真田神社を見て諏訪大社とのつながりがあるか調べてみる。
上田城は天正11年(1583年)真田昌幸が築城した平城で、
徳川の軍勢を二度撃退した歴戦の名城として知られている。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦で真田昌幸・幸村父子は西軍に加勢する。
戦のために西下しようとする家康の次男秀忠の大軍36000人を
わずか2500人ほどの兵で迎撃。
秀忠軍を6日間も足止めさせる。
このため、秀忠は家康にひどく叱責され
しばらくの間面会を許されなかったといわれている。
この上田城には天守閣がない。
戦術的に上田城の位置は千曲川が南櫓のすぐ下を流れる。
南からの敵の攻めに対し、格好の自然の防衛とした。
真田昌幸・信幸と諏訪大社の関係を調べてみる。
真田氏は昌幸の父幸隆の代から武田氏の家臣となる。
武田信玄の信州攻略には多大な貢献をしている。
昌幸自身も信玄の側近として仕える。
武田信玄を始め真田昌幸・信幸をはじめ歴代上田城主が、
上田の生島足島神社社殿の再建や社領の寄進を行っている。
やはり建御名方命(たけみなかたのみこと)は戦勝の神であり、
真田三代も生島足島神社に神頼みしたと思われる。
諏訪大社と生島足島神社とのつながりは
諏訪の神様は建御名方命(たけみなかたのみこと)という神。
建御名方命がこの地にとどまり生島神足島神の庇護を受けたとの伝説。
建御名方命はたいそうこれに感謝し、
生島足島の神に粥を自ら作って奉じたとされる。
生島足島神社にも御柱祭がある。
生島足島神社においては、御柱祭も生島足島伝説にちなんだものだとされている。
諏訪神が生島足島神に感謝の意を表すためにおこなっているとされている。