山崎 喬

加賀生まれ(金澤)

新入社員時代の上司の訃報

2008年06月08日 19時01分07秒 | Weblog
今宵、仕事も酒も鍛えられた元上司の訃報を知る。明日はお通夜だ。病名は不明だが、晩年まで続いた過度な酒での不幸は間違いない。管理人は青年の頃、浴びるように飲んでは、体重を増やした。ただ休日は飲まぬが原則で、ここ最近は飲まない日が続くようになった。酒に害されることはなかったが、思わぬ体調不振は95年にヴェトナムのファンティエットに出かけた時からだ。当時も今も魚醤で有名な街だ。現地の地勢・気象調査で一週間ほど滞在した。今はリゾ-トの顔を持ち、ホテルが十指以上あるようだ。当時の何とか確保できた宿泊ホテルはランキングでは6星。がなり立てるク-ラ-、湿気たシ-ツとぬめる足元で転倒防止のゴム草履付のポタポタシャワ-の暗い部屋だった。騒音の中、深夜ようやく寝ついたら、もう朝5時には通勤通学の人たちの声で目覚める。朝飯はフランスパンが選べる。スリガラス張りの食堂で頼むと外で売ってるみかん箱位の箱に蝿がたかって真っ黒のパンをホテルの係員が持ってくる。昼も夜も食あたりが怖いから料理は鍋にした。食事前にはタップリ唐辛子を食べた。食事は中庭のカマドで作ってくるが、カマドの傍にある井戸が従業員トイレと併設担ってるのを四六時中見ていて、何とも切ないというかやりきれない。 続く
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発展することが幸せか (Unknown)
2008-06-10 11:43:33
ベトナム、カンボジアの今、中国の20年前は日本のs20年代と似ているのであろうか? 当時は近所には大陸から引き上げてきた人たちの学校の教室のような共同住宅があったのを覚えている。長い廊下があってそこには生活用品やまな板や流し?などが置かれておりとても薄暗かった。

母親から聞いた話では運動会に弁当をもって来れない家庭があったとか。敗戦後の日本では厳しい生活を強いられていた人が多くいた様だ。

上海に最初に旅行したのは20数年前になるが、夜になると道路は真っ暗で遠くに明かりが見える友諠商店(みやげ物や)までの歩行に難渋した。人は意外に多く行き交っているが、話声は聞こえず当時はみんなが濃紺の人民服を着ているので近くに来ないと良く見えないのでとても不気味だった。

ビールは温まったのが出てガイドからは生ものは食べないように注意された。油で揚げた物は臭くて困って苦労して探して素うどんにしょうゆをかけて食べたのが美味しかった。

数年前に上海に行ったら高層ビルにネオンがギンギンで道路も明るい。人民服を着ている人も居ない。その発展振りは多分、日本を凌ぐのではないかと感じる。

中国に続き、ベトナム・カンボジアも成長著しいとか。日本は発展したが謙譲の美徳や思いやりの心など失ったものも大きい。彼らは各国々の美徳を保った上での発展を祈りたいものだ。



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