山崎 喬

加賀生まれ(金澤)

真実は映画以上のものだった。

2007年09月12日 15時10分31秒 | Weblog
今はない、このWTCはその昔、仕事に絡んでいたビルで、日系建築家ミノル・ヤマサキの作品だった。BS1で夜半午前0時10分から9.11のドキュメンタリ-が始まっている。その序曲として、月曜の見逃されたファトワ ~それは11年前に始まっていた~が放映された。こんな追跡調査TV報道は日本では製作できない。僅かな見逃し、失策がアフガン戦争に至る。小説以上だった。この後は、やや政治がらみになるが、深夜のお楽しみだ。FUSIONの親分が死んだとの報道が入った。次回はJoe Zawinulでも。
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WTCと日本の悲しみと悲惨 (Unknown)
2007-09-14 10:15:02
ニューヨークには行ったことはあるけれど、ワールドトレイドセンターにはまったく覚えがない。せいぜい摩天楼と自由の女神が記憶にあるくらいである。
どうもアメリカは肌に合わないというか、タクシーの運ちゃんの英語は皆目わからないし、大男だと怖いし、夜なんかは道を歩ッテいてもいつ襲われるかもしれない心配が先に立つのはギャング映画を見過ぎた後遺症だろうと思う。

テロのときはたまたまTVを見ていていたらあのビルに飛行機が突っ込んだのも衝撃だったが、少し経ったら猛烈な粉塵とともに崩壊したのには驚きのあまりに声も出なかった。事故に遭われた関係者の方々の怒りや悲しみが癒えるには時の経過に委ねるしか無いのだろうと思う。

テロの兆候はあった、気づいていたにもにもかかわらず、当局が見逃したのはやはり油断と躊躇だろう。
油断はよくあるミスで判りやすいが、躊躇は日常の問題の捕らえ方と決断力の問題だから見過ごされやすく責任も問い難いものだ。
些細な兆候であっても全面的な警戒態勢を敷くべきなのに、それを怠ってしまうあるいは先送りにしてしまう。狼少年にはなりたくない、まだ大丈夫だろう、対策を取るにはお金がかかるあるいは大げさな対策を採って失敗したらどうしようという責任の回避という、その強弱はあっても誰もが持っている迷い心だ。

直近の典型的な事例は安倍総理だろう。
国民的課題や不祥事の対応に迷っているうちに判断が遅れ、遅れて対処しているとまた新たな課題やトラブルが起きてしまって後手後手となってしまう。
最後は行動や演説も支離滅裂となって、結局はTV、新聞報道のとうりの悲惨な結末になってしまった。

悲惨と言ったのは心身衰弱?して入院した安倍首相も悲しいだろうが、安倍首相が悲惨だと言っているのではない。

悲惨なのは、国民のための政治に無用の空白ができた事、諸外国に対する信用を大きく失墜して国益を損なったこと、今後の生活の展望がますます見えなくなったことなどを甘受せざるを得ない国民だと言っているのである。
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