白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/境界線上の日本霊異記

2021年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教輸入以前と以後との中間地帯で起きた或る一つの訴訟について書かれた「日本霊異記」の記述はとても興味深い。今の大阪府大阪市東成区に家族とともに住んでいた男の話。牛を殺して神に奉納する信仰を持っていた。古代インドや中央アジアの遊牧騎馬民族の間でかつて見られた風習である。一年に一頭ずつ奉納していた。七年で七頭。そんな折、急病に陥った。治りそうもない様子だ。

「摂津国東生郡(つのくにひがしなりのこほり)撫凹(なでくほ)の村に、一(ひとり)の富める家長(いへぎみ)の公(きみ)有りき。姓名詳(あきら)かならず。聖武太上(しやうむだいじやう)天皇のみ世に、彼(そ)の家長(いへをさ)、漢神(からかみ)の祟りに依りて禱(いのり)し、祀(まつ)るに七年を限りて、年毎(としごと)に殺し祀(まつ)るに牛一かしらを以(もち)ゐ、合(あは)せて七頭(ななかしら)殺し、七年にして祭り畢(をは)りき、忽(たちまち)に重病を得たりき」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.61」講談社学術文庫)

どこかいかがわしい巫女を呼んで占わせてみると牛を殺した祟りだという。胡散くさいとは思いながらもそれ以来、捕まえた動物は自然界へ還すことにし、また、路傍で出会った人々が獲物を持っているのを見かけると買い取って自然界に還してやることにした。そして七年が過ぎた。そろそろ寿命がやってきた。そこで妻と子を呼んで言った。自分が死んでも十九日間は火葬しないでくれと。

「病に臥せる年より巳来(このかた)月毎(つきごと)に闕(か)かず、六節に斎戒を受け、放生の業を修し、他(ひと)の含生(がんしやう)の類を殺すを見れば、論(あげつら)はずして贖(あか)ひ、又八方に遣はし、生物(いきもの)を買ひて放つ。七年に迄(いた)り、命終(みやうじゆ)の時に臨みて、妻子に語りて曰はく、『我が死なむ後に、十九日置きて焼くこと莫(なか)れ』といふ」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.61」講談社学術文庫)

男の妻と子は言われた通り、火葬しないで待っていた。九日経った。するとやおら男は生き返った。地獄へ行って来たという。そこで或る訴訟の中心人物として立たされた転末を語る。なお、ここでいう「」は仏教の側から見た「龍神・夜叉(やしゃ)」を指す。七人の(夜叉)が現われた。頭は牛、首から下は人間の姿をしている。閻魔王の前へ引きずり出された。

「妻子置きて、猶(なほ)し期(ちぎ)りし日を待つ。唯(ただ)し九日歴(へ)て、還蘇(またいきかへ)りて語る。『七人(ななたり)の有りき。牛頭(ごづ)にして人身(にんしん)なり。我が髪に縄を繋(か)け、捉(とら)へて衛(まば)り往(ゆ)く』」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.64」講談社学術文庫)

閻魔王は七人の(夜叉)に向かい「この男がお前たちの仇敵か」と問うた。牛頭の七人はそうだと答える。そして肉切り用のまな板と肉切り用の包丁を持ち出して「すぐにでも、私たちを殺した時のように肉をばらばらの細切れにして刺身で喰ってやりたいのです」と訴えた。

「王問ひて言(のたま)はく、『斯(こ)は是(こ)れ汝を殺しし讎(あた)か』とのはまふ。答へて、『当(まさ)に是れなり』と白(まう)す。則(すなは)ち膾机(なますつきえ)と少刀(ちひさがたな)とを持ち出(い)でて白さく、『急(すみやか)に判許したまへ。我を殺し賊(う)ちしが如くに膾にして噉(くら)はむ』とまうす」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.64」講談社学術文庫)

ほぼ同時に一方から「千万余人(たり)」の者どもが押し寄せて来た。そして言う。「この人は何一つ悪くありません。牛を殺すよう命じた鬼神を祭ったためにそうしただけです」と。両者の対立は連日続いた。そこでいったん閻魔王が預かることになった。

「時に千万余人(たり)、勃然(にはか)に出(い)で来て、縛縄(ゆはひづな)を解きて曰はく、『此(こ)の人の咎(とが)に非(あら)ず。祟(たた)れる鬼神を祀(まつ)らむが為(ため)に殺害せしなり』といふ爰(ここ)に余(われ)中に居て、七(ななたり)のと千万余人(たり)と、日毎に訴(うるた)へ諍(あらそ)ふこと、水と火との如くなり。閻羅王判断して、是非を定めず」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.64」講談社学術文庫)

九日目。閻魔王の「詔(みことのり)」に従って再び男と両陣営の者どもが集まった。閻魔はいった。多数決によって証拠の多い「千万余人」の側に理ありとすると。

「詔(みことのり)を奉(うけまつ)りて罷(まか)り、九日に集(つど)ひ会ふ。閻羅王(えんらわう)則(すなは)ち告げて言(のたま)はく、『大分の理判は、多数(あまた)の証(あかし)に由るが故に、多数に就かむ』とのたまふ」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.68」講談社学術文庫)

男をかばった「千万余人」が左右前後を警護してくれる中、閻魔王の宮殿から出ることが許された。途中、この「千万余人」は一体誰なのかと聞くと、あなたが買い取って自然界に放生してもらった動物どもですとのこと。その恩義に報うため閻魔王の宮殿で訴えたのですという。

「千万余人、我が左右前後を衛(まば)り繞(めぐ)りて、王宮より出づ。輿(こし)に乗せて荷(にな)ひ、幡(はた)を擎(ささ)げて導き、讃嘆して送り、長跪(ひざまづ)きて礼拝(らいはい)す。彼(そ)の衆人皆一色の容(かたち)を作(な)す。爰(ここ)に吾問ひて曰はく、『仁者(きみたち)は誰人(たれびと)ぞ』といふ。答ふらく、『我等は是(こ)れ汝(きみ)が買ひて放生せるもの、彼(か)の恩を忘れぬが故に、今報ずらくのみ』といひつ」(「日本霊異記・中・漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以て現に善悪の報(むくい)を得し縁 第五・P.68」講談社学術文庫)

結果的に仏教の放生会(ほうじょうえ)を賞賛する内容になっている。けれどもそこへ行くまでの紆余曲折も幾らか盛り込まれている。この成り行きを見る限り、仏教の定着よりも先に倭国には様々な信仰生活が実在していたことがわかるに違いない。柳田國男は言っている。

「わが国は小さな人口稠密(ちゅうみつ)な国でありながら、いわゆる人跡未踏の地がまだかなり多い。国と国と、県と県との境は大半深山である。平安の旧都に接しても、近江・丹羽・若狭に接した山はこれである。吉野の奥伊勢・紀州の境も深山である。中国・四国・九州は比較的よく開ているというが、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)・出雲の三瓶(さんべ)山の周囲は村里がはなはだ少ない。四国の阿波・土佐の境山・九州の市房(いちふさ)山地方も山が深い。京より東はもちろんの事で、美濃・飛騨から白山・立山へかけての山地、次にはいやな名だがいわゆる日本アルプスの連山、赤石・白根の山系、それから信越より南会津にかけての山々のごとき、今日都会の旅人のあえて入り込まぬはもちろん、猟師・樵夫(しょうふ)も容易に往来せぬ区域がずいぶんと広いのである。これらの深山には神武(じんむ)東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられて窮迫せられてようやくのことで遁(に)げ籠り、新来の文明民に対しいうべからざる畏怖と憎悪とを抱いていっさいの交通を断っている者が大分いるらしいのである。ーーー中学校の歴史では日本の先住民は残らず北の方へ立ち退いたように書いてあるが、根拠のないことである。佐伯と土蜘(つちぐも)と国巣(くず)と蝦夷(えぞ)と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ。奥羽六県は少なくとも頼朝の時代までは立派な生蛮地(せいばんち)であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線(あいゆうせん)より以内にも後世まで蛮族がおった。大和の吉野の国巣という人種は蝦蟇(がま)を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸がすべて文明化した後まで、我々の隣人として往来しておった。新年に都へ来て舞を舞い歌を歌ったのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他国へ立ち退いたとも聞かぬ。『播磨風土記』を見ると、今の播但鉄道の線路近くに数の異人種が奈良朝時代の後まで住んでいた。蝦夷が遠く今の青森県まで遁(に)げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼がいて、その鬼は時々京までも人を取りに来たらしい。九州はことに異人種の跋扈(ばっこ)した地方であって、奈良朝の世まで肥前の基肄(きい)、肥後の菊池、豊後の大野等の深山に近き郡には城があった。皆いわゆる隘勇線であったのである。ゆえに平家の残党などが敗軍して深山に遁げて入るといかなる山中にもすでに住民がおって、その一部分は娘を貰ったりして歓迎せられたが、他の一部分はあるいは食べられたかもしれぬ。ーーーさてこれらの山中の蛮民がいずれの島からも舟に乗ってことごとく他境に立ち退いたということは、とてもできない想像であって、なるほどその大部分は死に絶え、ないしは平地に降って我々の文明に同化したでもあろうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をしいて深山の底に踏み留まり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存して来たであろうと想像するのは、あながち不自然なる空想でもなかろう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も残るであろうが、山中を漂泊して採取をもって生を営んでいる以上は、人に知られずに永い年月を経るのも不思議でなく、いわんや人の近づかぬ山中は広いのである」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.188~190』ちくま文庫)

先住民はどこの国へ行ってもその神話や説話とともに残っているものだ。例えば、都が既に京へ移ってから出現した「酒呑童子」伝説。京の都にもかかわらず、ではなく、京に都が移ったがゆえに「酒呑童子」は、京に近い大江山に出現したというべきだろう。

「丹波国(たんばのくに)大江山(おほえやま)には鬼神(きじん)のすみて日暮(ひく)るれば、近國他國(きんごくたこく)の者迄(ものまで)も、数(かず)を知(し)らず取りて行(いく)。都(みやこ)の内(うち)にてとる人は、みめよき女房(ばう)の十七、八を頭(かしら)として、是(これ)をもあまたとりて行(ゆ)く。いづれもあはれは劣(おと)らぬ共(ども)、ここにあはれをとどめしは、院(いん)に宮(みや)づき奉(たてまつ)る、池田(いけだの)中納言(なごん)くにたかとて御おぼえめでたくし、寶(たから)は内(うち)に満(み)ち満ちて、富貴(ふつき)の家(いゑ)にてましますが、ひとり姫(ひめ)をもち給ふ。三十二相(さう)のかたちをうけ、美人(びじん)の姫君(ひめぎみ)を見聞(き)く人、心をかけぬ者(もの)はなし。二人(ふたり)の親(おや)の御寵愛(てうあひ)なのめならず。かほどのやさしき姫君(ひめぎみ)を、或日(あるひ)の暮(くれ)のことなるに行方(ゆきがた)知(し)らず失(う)せ給ふ」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.361』岩波書店)

ところで酒呑童子の出身はどこか。有力な二つの説がある。第一に「越後国」(えちごのくに)とする説。第二に「近江国井口」(おうみのくにいぐち)とする説。共通点はどちらも山岳地帯であるということ。大江山もまた丹波の山間部である。さて、酒呑童子は「三十二相(さう)のかたちをうけ、美人(びじん)の姫君(ひめぎみ)」をさらって行ったとある。「三十二相(さう)のかたち」は仏教で完璧な相好を言い現わす時の三十二個の条件。美人といっても「三十二相」をその通りに再現してみると、とてもではないがごく当たり前の美女とは異なる。むしろ浮世離れした異類異形の姿形を取らざるを得ない。古代絵画に描かれた様々な仏神の姿によほど近い。だから伝説にいう「美人」とは何か。それを考えてみなくてはならない。仏教の原典とされる「ブッダの言葉」にこうある。

「〔師いわく〕、かれは舌を以てかれの顔を蔽(おお)う。かれの両眉の中間に柔い白い毛〔白毫(びゃくごう)〕がある。かれの陰所は覆(おお)いに隠されている」(「ブッダのことば・第五・一・一〇二二・P.216」岩波文庫)

ブッダは三十二個の特徴を備えた者を完璧性の条件としている。が、実際に述べているのは今上げた三個の特徴のみ。インドから中国へ移動するうちに順次付け加えられたと考えられる。そして中国へ輸入された後に成立した仏典「大智度論(だいちどろん)に、興味本位で取り上げられることの多い「馬陰蔵相」(めおんぞうそう)という特徴がある。女性器の内部に男性器が含まれている状態をいう。しかし今やその実態を理解している仏教者はほとんどいないといっていいのではと思われるほど勘違いと偏見にまみれた教義がまだまだ多い。紀元前一〇〇〇年以上遡る文献あるいは風習の記録が残されているギリシア、エジプト、中央アジア、インド、東南アジア、メラネシア等々では、しばしば両性具有者が生まれたばかりでなく堂々と生きていた。なぜ堂々としていたか。浮世離れした稀有な身体だったからである。そしてそれは一方で貴神の証拠として尊敬へ変わり、もう一方で賎者の証拠として忌穢へ変わり、次第に両者は別々に分割されて扱われるようになった。このような両義性はどこの国の古文献を漁って見ても同様に残っている。ちなみに古代ギリシアは同性愛を讃美している。

「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)

熊楠はいう。

「プラトンは、ちょっとしたギリシアの母を犯したり、妹を強姦したり、ガニメデスの肛門を掘ったり、アフロジテに夜這いしたり、そんな卑猥な伝話ある諸神を、心底から崇(あが)めし人にあらず。しかれども、秘密儀mysteryを讃して秘密儀なるかな、秘密儀なるかな、といえり。秘密とてむりに物をかくすということにあらざるべく、すなわち何の教にも顕密の二事ありて、言語文章論議もて言いあらわし伝え化しぬところを、在来の威儀によって不言不筆、たちまちにして頭から足の底まで感化忘るる能わざらしむるものをいいしなるべし。小山健三氏かつて、もっとも精神を爽快ならしむるものは、休暇日に古神社に詣り社殿の前に立つにあり、といえりと聞く。かくのごときは、今日合祀後の南無帰命稲荷祇園金毘羅大明権現というような、混雑錯操(さくそう)せる、大入りで半札(はんふだ)をも出さにゃならぬようにぎっしりつまり、樹木も清泉もなく、落花飛花見たくてもなく、掃除のために土は乾き切り、ペンキで白塗りの鳥居や、セメントで砥石を堅めた手水鉢多き俗神社に望むべきにあらざるなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.422』河出文庫)

そしてまた日本でも江戸時代の浮世絵を見れば一目瞭然。当時の吉原遊廓では男性器・女性器ともに持つ両性具有者が華々しい着物を身にまといつつ客の到来を待機する部屋が設けられていた。粋な客にとっては彼ら両性具有者こそ紛れもない観音の化身だった。

当然のことながらブッダはバラモン(祭祀階級)の特徴として、その姿形よりも生活様式に重きを置いていた。バラモンは洞窟の中や大きな樹木の下の巨石を見つけて修行しながら暮らしていた。彼らバラモン特有の三大特徴が、(1)舌を以てかれの顔を蔽(おお)う。(2)両眉の中間に柔い白い毛〔白毫(びゃくごう)〕がある。(3)陰所は覆(おお)いに隠されている。というところから始まっている。異類異形の人々だったのだ。なお、バラモンの原語はサンスクリット語の「ブラーフマナ」。漢訳の過程で「婆羅門」(ばらもん)となった。「リグ・ヴェーダ讃歌」にこうある。

「12 彼の口はブラーフマナ(バラモン、祭官階級)なりき。両腕はラージャニア〔クシャトリア〕(王族・武人階級)となされたり。彼の両腿はすなわちヴァイシア(庶民階級)なり。両足よりシュードラ(奴婢階級)生じたり」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-90・P.320」岩波文庫)

なおそのさらに下層階級に「パンチャマ」(不可触民)がいる。職業・生活様式・結婚など日常生活の様々な場面での差別は解消されていない。三十五年程前になるが「パンチャマ」(不可触民)階級の女性に対する性犯罪は後を絶たなかった。彼らは、触れると穢れるから「パンチャマ」(不可触民)に近づいてはいけないと常日頃から差別されていたが、差別する側の男性らは夜になると数人で「パンチャマ」(不可触民)女性に襲いかかり触りまくり何度も繰り返し強姦し罪にも問われないといった状態がふつうにあった。三十五年を経た今もある。また当時、日本でも特に大学の学生を中心に社会問題として取り上げられる機運が高まったが、それまで日本国内で差別と闘っていた人々のほぼ半分が徐々に利権を獲得し遂に国会で与党の側へ食い込み富裕になるにつれて、なぜか取り上げられる頻度は激減した。とりわけ「北方領土問題・拉致問題・沖縄基地問題・原発利権問題」には消極的というほかない。

ともかく、なぜ酒呑童子はいつどのようにして酒呑童子となったか。それが問われなくてはならない。

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