白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/印=傷〔スティグマ〕の両義性

2021年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム
近代日本の成立とともに天皇を騙してまで地元利権に繋げようとする地方官僚の横暴が目立ってきた。熊楠は指摘している。昭和四年(一九二九年)。天皇は和歌山県行幸の際に紀州・神島(かしま)を訪れる予定だった。当時はまだあちこちに残っていた天然の森林は、古代から吉野・熊野が代々天皇家にとってミソギの地であったように昭和天皇にとっても歴代から続く聖地である。何を思ってか知らないが和歌山県知事は天皇が神島を参詣するに当たり、天然の森を伐採し、手前勝手な判断で林道を作った。それを見た天皇は首を傾げた。ここは古代より聖なる天然林のはずなのになぜ森が伐採され人間の手で林道がつけられているのかと。

「御行幸の前に神島へ仮御野立ち所を立てんと天幕など用意候も、県庁よりその儀に及ばすと達せられ、また神島は天然林のままに御覧に供せんと用意候ところに、彼臨幸の前々日、当時の県知事来たり村長に厳命して一部の樹林を伐り開かせ、小路を作らせ候。聖上、これは天然林にあらず、伐り開きおると仰せられたるを、小生同行の女学校教師が洩れ承りし語りおり候。地方官など申すものはいろいろと入らぬところに力を入れ候こと、嘆息の至りに御座候」(南方熊楠「粘菌の形態学」『森の思想・P.181~182』河出文庫)

中央の高級官僚のみならず今なお地方官僚が地元民間企業と手を結び、選挙に際して金銭で有権者の票を買い、大手を振って幅を利かせる政治風土は江戸時代にはなかった。明治近代国家が出来て二、三十年ばかりの間にばたばたと行われた神社合祀並びに言文一致運動という国策が、結果的に天皇を騙してまで政治家と官僚と地方財界との太い繋がりを作り上げた。歴史家なら誰でも知っていることだが。熊楠は紀州から「バクチの木」が消えていくことを訴えている。

「バクチの木を、古え当国(紀伊国)より一本加賀金沢へ持ち行き植えし人あり。花さくという。栗山昇平とて熱心な植物学好きの人、広島幼年学校教師なるが、当地方に古えこの木を産せしと聞き、いろいろさがすに一本もなし。宇井縫蔵という人、わずかに一本見出す。それも神社合祀のため今はなし。次に例の神島(かしま)にて多く見出すも、老木なきゆえ花果なし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.394』河出文庫)

もちろん「バクチの木」だけでなく特に「タブの木」に注目するよう訴えてもいる。なぜなら線香製造のために「タブの木」はなくてはならない必需品だったからである。だがしかしそれらはことごとく伐採され紀州・熊野の地から消滅していった。もはや山間部・海浜部のどこにどのような貴重な樹木が存在していたかという「印」一つ残されていない。ところで、この「印」というものに関し、熊楠はあえて注目すべしとは一言も言わず、何気なく触れている。宇治拾遺物語から引いたものだ。

その昔、奈良に大の魚好きの僧侶がいた。身分は相当高い。とはいえ、あまりの魚好きゆえ、魚がない時は午前午後とも食事を摂らないという徹底ぶり。

「今は昔、南の京の永超僧都(やうてうそうづ)は、魚(うを)なきかぎりは、時(とき)・非時(ひじ)もすべてくはざりける人なり」(「宇治拾遺物語・巻第五・十五・P.125」角川文庫)

朝廷から京に呼ばれてしばらく任務を果たしている間、魚料理が出ないので他の料理にも手を付けなかった。徒歩で奈良へ戻る途中「なしまの丈六堂」付近で弱り果てて倒れてしまう。「なしま」は今の京都府綴喜郡(つづきぐん)の辺り。ほぼ奈良県との県境に位置する。「太平記」にこうある。

「相図(あいず)の刻限になりければ、三種(さんじゅ)の神器(じんぎ)を新勾当内侍(しんこうとうのないし)に持たせられて、童部(わらんべ)の踏(ふ)み開(あ)けたる築地(ついじ)の崩れより、女房の質(すがた)に出でさせ給ふ。景繁、かねてより用意したる事なれば、主上の寮の御馬に舁(か)き乗(の)せまゐらせ、三種の神器を自ら荷担(かたん)して、まだ夜の内(うち)に大和路(やまとじ)に懸かりて、梨間(なしま)の宿(しゅく)までぞ落としまゐらせける」(「太平記3・第十八巻・1・先帝吉野潜幸の事・P.219」岩波文庫)

そのように「太平記」の記述に従えば「なしま」は奈良県最北部に位置することになる。ちなみに京都府綴喜郡に隣接する相楽郡(そうらくぐん)は秦氏の一族がその地を開いた古代からずっと農耕が盛んであり中でも水田稲作が主なのだが、この二十年ほど前までは稲作の合間を縫って「無花果(いちじく)・梨(なし)」を作っている農家が少なくなかった。「無花果(いちじく)・梨(なし)」ともに驚くほど旨い。知る人ぞ知る隠れ名産地の一つだった。「梨間(なしま)」との関係を窺わせるに十分な資料だと言える。

それはそれとして、永超僧都の弟子が近くの家から魚を貰い受けて僧都に食べさせた。それでようやく永超は何とか南都まで帰ることができた。その後、永超に魚を与えた家の家族が奇妙な夢を見た。おそらく鬼と思われる奇怪なもののけが周辺の家々に「印」を付けて廻っている。ところが自分の家にだけは「印」を付けていかない。もののけに尋ねてみると「永超僧都に魚を奉じた家だろう。だから印は付けない」と答え、そのまま消えていった。

「件の魚のぬし、のちに夢にみるやう、おそろしげなる物(もの)ども、そのへんの在家をしるしけるに、我家をしるしのぞきければ、たづねる處に、使のいはく、『永超僧都に魚をたてまつる所也(なり)。さてしるしのぞく』といふ」(「宇治拾遺物語・巻第五・十五・P.125~126」角川文庫)

その年「梨間(なしま)」周辺で疫病が蔓延する事態が生じた。しかし「印」の付いていないその一件の家だけからは誰一人として病人を出さずに済んだ。そこで家の者は南都に戻った永超僧都を訪ねていって事の次第を話したところ、永超は「かづけ物(もの)一重(ひとかさね)」を贈物として与えた。しかしここで疑問が湧く。疫病の感染を避けるよう「印」を付けなかったのは「おそろしげなる物(もの)ども」であって先にその一家を免除させてやっている。一方の永超僧都はその話を本人から聞かされて始めて贈物を与えることを思い出した次第になっている。

「そのとし、このむらの在家、ことごとくえやみをして死ぬるものおほかりけり。此魚のぬしが家ただ一宇、その事をまぬかるるによりて、僧都のもとへまゐりむかひて、このよしを申(まうす)。僧都此よしをききて、かづけ物(もの)一重(ひとかさね)たひてぞかへされける」(「宇治拾遺物語・巻第五・十五・P.126」角川文庫)

だからこのままでは謎は残るのである。路傍で死にかけていた永超を助けた一家は疫病襲来を免れたが、そうでない周辺住民は疫病でばたばた死んでいる。とすれば「おそろしげなる物(もの)ども」が「印」を付けるのも付けないのも突き詰めれば永超をどう扱ったかという一点に掛かってくる。さらに「太平記」からまた別の箇所を引いておきたい。

「元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上(しゅしょう)、笠置へ臨幸なりて、本堂を皇居となさる。ーーー少し御まどろみありける御夢に、所は紫宸殿(ししいでん)の庭前(ていぜん)と覚えたる地に、大きなる常盤木(ときわぎ)あり。緑の陰(かげ)茂りて、南へ指したる枝、殊(こと)に栄(さか)えはびこり、その下に、三公(さんこう)、百官(ひゃっかん)位(くらい)によつて列座(れつざ)す。南へ向かひたる上座(しょうざ)に、御座(ぎょざ)の畳(たたみ)を高く布(し)いて、未だ座したる人はなし。主上(しゅしょう)、御夢心地(おんゆめごこち)に、誰(たれ)を設(もう)けんための座席やらんと、怪(あや)しみ思(おぼ)し召(め)して立たせ給ひたる処(ところ)に、鬢(びんずら)結ひたる童子二人(ににん)、忽然(こつぜん)として来たつて、主上の御前(おんまえ)に跪(ひざまず)いて、涙を袖にかけ、『一天下(いってんか)の間(あいだ)に、暫(しばら)くも御身(おんみ)を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰(かげ)に、南へ向かへる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆(ぎょくい)にて候へば、暫(しばら)くここにおはしまし候へ』と申して、童子は遥(はる)かに天に登り去りぬと御覧じて、御夢はやがて覚めにけり」(「太平記1・第三巻・1・笠置臨幸の事・P.137~138」岩波文庫)

笠置(かさぎ)もまた古くから皇室との浅からぬ繋がりを持つ土地だ。笠置川を遡っていくと、今はキャンプ場になっているが、川沿いには巨岩がごろごろしておりカヌーでゆるゆるとのんびり出来る良質の環境に恵まれている。天皇が目を付けたのもなるほどと頷けるに違いない。そして笠置の地は京と奈良との境界線に位置することを忘れてはならない。

熊楠がそれとなく盛り込んでいる「印」について戻ろう。藤原広足(ふじわらひろたり)に関する伝説が「日本霊異記」に見られる。広足は病気療養に「大和国菟田郡真木原(やまとのくにうだのこほりまきはら)の山寺」に籠り写経などして過ごしていた。或る日、弟子が広足を起こそうとすると既に死んでいた。

「藤原朝臣広足(ひろたり)は、帝姫安倍の天皇の御代に、倐(たちまち)に病身(み)に嬰(かか)りき。身の病を差(いや)さむが為に、神護景雲の二年の二月十七日に、大和国菟田郡真木原(やまとのくにうだのこほりまきはら)の山寺に至りて住みき。八斎戒(はつさいかい)を持し、筆を取りて書き習ひ、机に就(つ)きて暮に迄(いた)りて動かず」(「日本霊異記・下・閻羅王の奇しき表を示し、人に勧めて善を修せしめし縁 第九・P.80」講談社学術文庫)

景雲二年(七六八年)。大和国(やまとのくに)といっても単純に奈良時代の奈良盆地ばかりとは全然限らない。当時の「大和国菟田郡真木原(やまとのくにうだのこほりまきはら)」は山間部であり、今の奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町の香酔峠(こうずいとおげ)付近。この一帯はスズランの群生地だったためその香りから「香酔峠(こうずいとおげ)」と名付けられたらしい。よく似た例をあげておこう。今の滋賀県大津市伊香立(いかだち)の「伊香立(いかだち)」という名は、近江国比叡山横川(よかわ)開発が始まった延暦七年(七八八年)頃、いまだ誰一人として匂いだ覚えのない香のいい匂いが香り立ってきたことから「伊香立(いかだち)」と命名された伝説が残る。

広足が死んだとの報告を受け取った親族らは葬儀の支度を済ませた。と、三日後に広足は生き返った。周囲の人々は思わぬことが起きたと、そのあいだに何があったのか広足の話に聞き入った。地獄〔冥界〕に行って還って来たという。閻魔王との問答があったらしい。地獄には先に亡くなった広足の妻がいた。六年間の苦行を負わされているとのこと。しかし既に三年が経ち残りの三年は夫・広足とともに苦行したい意向だという。なぜなら閻魔王のいうには「広足が妻を孕ませて死産させてしまったばっかりに妻も耐えられず死んだから」だと。そこで広足は信心に励むから妻の苦行を減免してほしいと閻魔王に嘆願する。それを聞き入れた閻魔王は「そういう心構えであれば広足を地上に還してやってもよい」と言って、使いの鬼どもに命じてただちに広足を元の地上に戻してやることとなった。

「𥇍(かへりみ)れば広足が妻の、懐妊(はら)みて児を産むこと得ずして死にしなり。乃(すなは)ち答へて曰(まう)さく、『是(こ)れ実(まこと)に我が妻なり』とまうす。復(また)告(の)りたまはく、『此(こ)の女の患(うれ)ふる事に依りての故に、汝を召さくのみ。斯(こ)の女の受くべき苦は、六年の中に、三年受け、未(いま)だ受けぬは三年なり。今愁(うれ)へて白さく、汝が児童を孕(はら)みて、之(これ)に嬰(かか)りて死ぬ。故(そゑ)に今残れる苦を、汝と倶(とも)に受けむとまうす』とのたまふ。広足白して言はく、『我、此(こ)の女の為に、法華経を写し、講読し供養し、受くる所の苦を救はむ』とまうす。妻白して言はく、『実(まこと)に白(まう)すが如くにあらば、儵忽(たちまち)に免(ゆる)して還(かへ)すべし』とまうす。便(すなは)ち女の白すに随(したが)ひて、告りたまひて曰(のたま)はく、『速(すみやか)に還り疾(と)く修せよ』とのたまふ」(「日本霊異記・下・閻羅王の奇しき表を示し、人に勧めて善を修せしめし縁 第九・P.85」講談社学術文庫)

そうして一度は死んだ身なのだが今言った事情を経て戻ってきたのだと周囲に語った。地獄から還る前に広足は閻魔王について思い切った質問している。あなたの正体は一体なんなのかと。閻魔王はこう答えた。そもそも「閻羅王」(えんらおう)と言うが一般的には「地蔵菩薩」(じぞうぼさつ)として知られている者だと。ついては「印点するが故に、災(わざはひ)に逢(あ)はじ」。「印」を付けてやるから今後は災難に遭うことはないだろうと。

「『我を知らむと欲(おも)はば、我は閻羅(えんら)王、汝が国に地蔵菩薩と称(まう)す、是(こ)れなり』とのたまふ。即ちみぎのみ手を下し、我が頂(いただき)を摩(な)でて告(の)りたまはく、『我、印点するが故に、災(わざはひ)に逢(あ)はじ。速忽(すみやか)に還(けへ)り往け』とのたまふ」(「日本霊異記・下・閻羅王の奇しき表を示し、人に勧めて善を修せしめし縁 第九・P.86」講談社学術文庫)

そこで「地蔵」(じぞう)なのだが、二十世紀の間に研究が進み、今ではサンスクリット語で「胎内・子宮」を現わすことはよく知られている。密教では「胎蔵(たいぞう)界」を差す。どちらにしても説話にある通り、流産、死産、などで母胎にあるうちに死んだ子どもの守護神の意味を持つようになった。さらに交通事故で死んだ子どもたちの供養として、また同時に、現在生きている子どもたちの守り神としての意味を含むようになった。従って「道順・境界線」を間違えないように、との道祖神信仰とも接続されている。京都や滋賀県では今なお地蔵盆の主役は子どもたちである。どれも石の信仰に繋がっている点に注意。柿本人麻呂は「讃岐国=香川県」の「狭岑(さみね)の島」で次の歌を残している。

「讃岐(さぬき)の狭岑(さみね)の島にして、石(いは)の中(なか)の死人(しにひと)を見て、柿本朝臣人麻呂(あきのもとあそんひとまろ)の作る歌一首幷(あは)せて短歌

玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 足(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 継(つ)ぎ来(きたる) 中(なか)の湊(みなと)ゆ 舟浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波さわく いさなとり 海を恐(かしこ)み 行く舟の 梶(かぢ)引き折(を)りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の しげき浜辺(はまへ)をしきたへの 枕(まくら)になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告げむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・二二〇・柿本人麻呂・P.179~180」小学館)

さらに青森県恐山「賽(さい)の河原」は有名であり「讃岐国=香川県」の「狭岑(さみね)の島」と同様、海辺にある点で共通している。「賽(さい)の河原」の「賽(さい)」は「塞(さえ)の神」の「塞(さえ)」であり或る村落共同体と別の村落共同体との境界線を意味する。では、海辺ばかりかといえばそうではない。道祖神なら全国各地様々なところにあったか今もある。山間部にも当然ある。しかし山岳地帯の山頂部にも石積み信仰が残されているところがある。大変有名であって、説明されなければ容易にそれとわからないまま通り過ぎてしまうだろう。柳田國男はいっている。

「箱根山中で強羅(ごうら)という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwurdig〔奇異〕になったものであることを知った」(柳田國男「地名の研究・一八・強羅」『柳田國男全集20・P.164』ちくま文庫)

このような細部を見逃してしまっては日本文化といってもそれがどれほど外国の諸文化と共通性を有するのか、あるいはまた別に発展してきたものなのか、わからなくなってしまうばかりである。

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