白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/稚児と山神・場所移動

2021年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
説話が伝えられた土地によりけりだが、酒呑童子=王子(みこ)伝説が残っている。以前「和泉式部日記」から次の箇所を引いた。

「明(あ)けぬれば、『鳥(とり)の音(ね)つらき』とのたまはせて、やをら奉(たてまつ)りておはしぬ。道(みち)すがら、『かやうならぬ折(をり)は、かならず』とのたまはすれば、『常(つね)はいかでか』と聞(きこ)ゆ。おはしまして、帰(かへ)らせ給ひぬ。しばしありて御文(ふみ)あり。『今朝(けさ)は鳥(とり)の音(ね)におどろかされて、にくかりつればころしつ』とのたまはせて、鳥(とり)の羽(はね)に御文(ふみ)をつけて、

ころしても猶あかぬかなにはとりの折節(をりふし)知らぬ今朝(けさ)の一声(こゑ)

御かへし、

いかにとは我(われ)こそ思(おも)へ朝(あさ)な朝な鳴(な)き聞(き)かせつる鳥(とり)のつらさは」(「和泉式部日記・P.33」岩波文庫)

この箇所について熊楠はおそらく「群書類従・日記部」から引いたものと考えられるため、次の歌を参照した。

「いかがとは我こそ思へ朝な朝ななほ聞せつる鳥を殺せば」

とすれば熊楠のいうように「実際殺した」ことになる。男女の夜床の邪魔になるというのがその理由だ。ところで、鶏は夜明け前を告げはするけれども、そのためでなく、ほとんどまったく異なる理由から一城下のすべての鶏が殺された話がイタリアに残っていると熊楠はいう。

「男女が逢瀬の短きを恨んで鶏を殺す和漢の例を挙げたが、それと打って異(かわ)った理由から鶏を殺す話がイタリアにある。貧しい少女が独り野に遊んで、ラムピオン(ホタルブクロの一種で根が食える)を抜くと、階段が見える。歩み下ると精魅の宮殿に至り、精魅らかの少女を愛する事限りなし。それより母の許へ帰らんと望むに、許され帰る。その後、夜々形は見えずに噪(さわ)ぐ者があるので、母に告げると、蝋燭を点(とも)して見出せという。次の夜、蝋燭点して見ると、玉のごとき美少年に鏡を著(つ)けたるが眠り居る。その次の夜もかくして見るとて、誤ってその鏡に蝋を落し、少年たちまち覚めて汝はここを去るべからずと歎き叫んだ。少女すなわち去らんとする時、精魅現われて糸の毬(まり)を与え、最も高い山頂に上ってこの毬を下し、小手巻きの延(の)び行く方へ随い行けと教え、その通りにして一城下に達するに、王子失せたという事で城民皆喪服しいた。たまたま母后窓よりこの女を見、呼び入れた。その後この女愛らしい男児を生むと、毎夜靴を作る男ありて『眠れ眠れわが子、汝をわが子と知った日にゃ、汝の母は金の揺籃(ゆりかご)と金の著物(きもの)で汝を大事に大事に育つだろ、眠れ眠れわが子』と唄うた。女、母后に告げたはこの男こそこのほど姿を晦(くら)ましたという王子で、王子に見知られずに日が出るまで王宮に還らぬはずだと、母后すなわち城下の鶏を殺し尽くし、一切の窓を黒絽(ろ)で覆い、その上に金剛石を散らし掛けしめ、日出るも見知らずまだ夜中だと思わせた。かくて王子は少女と婚し、目出たく添い遂げたそうだ」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.193~194」岩波文庫)

イタリアに残る説話は、なるほど一見したところ男女の夜の関係とは関係ないかのように見えはする。けれどもラスト部分で「かくて王子は少女と婚し」とあるように夜の床を十分確保するための暗闇の時間が必要とされている。そのための母后による鶏殺しだったと言える。もっとも、実際に真夜中が続くわけでなく、真昼間でも全然構わない。ここではもとより騙すことが目指されている。なので暗闇の時間を関係者一同の無意識の領域に押し込むことができればそれでよいのである。

和泉式部に戻ってみよう。「大日本地名辞書・貴布禰神社」の項目にこうある。

「男に忘れられて侍りける比、きふねの宮に参りて、御手洗の河に蛍の飛侍けるを見て、

和泉式部

物思へは沢のほたるもわが身よりあくかれ出る玉かとそ見る」(日本古典文学体系「沙石集・補註・一三六・P.527」岩波書店)

実際に「殺した/殺していない」は問題でない。和泉式部の性愛の対象は次々に置き換えられている点ばかりが問題なのでもない。そうではなくて、性愛の対象の置き換えにつれて同時にあちこち精力的に旅する女性だったということが大事なのである。柳田國男は言っている。

「肥前と三河と、二箇所の足袋の由来を比べてみて、誰にも気の付くのは双方ともに、御本尊が薬師如来であったことである。これが我々にはなんらかの手掛かりを与えはしないだろうか。和泉式部が生れたという土地は、肥前の杵島郡を西の端にして、他の一端は陸中の和賀郡まで、京を除いても全国に七箇所、注意していたらなおこれ以上にも顕われて来るかも知れない。伝説の和泉式部は若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)、または大磯の虎などと同様に、たいそうもない旅行家であった」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・南無薬師」『柳田國男全集10・P.367~368』ちくま文庫)

さらに折口信夫から。

「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)

柳田も触れている奥三河。さらに若狭。そして熊野。この三角形を芸能の線で結ぶことはいとも容易だ。また演じるのは熊野・山人の系譜に属する八百比丘尼(はっぴゃくびくに)と関係が深い職種の人々である。しかしそのための必要不可欠な条件として芸能者であることと「旅行家」であることとが上げられる。和泉式部の場合、その両方〔歌・旅〕ともに十分満たしている。条件が揃えば事実だけでなく伝説はさらに輪を掛けて拡張される。そこに何らかの血縁関係が入り込めばたとえ神話に過ぎないと言えどももう容易に動かすことはできなくなる。熊野比丘尼の場合は実際に全国へ勧進に赴き、その先で定着し、定着先を拠点化することでさらなる大規模化と細分化とが長い年月の間に起こったと考えられる。熊野比丘尼の系譜は西鶴の小説にあるように、当たり前のように江戸時代末まで続いた。彼らの大規模な遊女化は明治・大正・昭和初期に日本に定着した近代遊郭設立へもつれ込んでいく。さてその前に一つ。熊野比丘尼の全国展開に伴う世俗化と歩調を合わせるかのように、御伽草子収録の「酒呑童子」も多かれ少なかれ改作されている部分がある。次に、前に述べたように酒呑童子はいつも山岳地帯を移動している点。さらに酒呑童子はそもそも鬼だったわけではないこと。

「本國(ほんごく)は越後(ゑちご)の者(もの)、山(やま)寺育(そだ)ちの兒(ちご)なりし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.373』岩波書店)

幼い頃に越後国(えちごのくに)の山寺に「稚児」(ちご)として出されている。もともとは人間の童子だった。誰の子だったか。その点は諸本様々でまったく一定しない。しかし或る程度有名な本には地元の富豪として名のある長者の娘の子として生まれたとされている。他にも、宮廷に近いように思えるがその筋とはまた違った土着の有力者の系譜に属するものもある。ともかく童子の頃、山寺に「稚児」(ちご)に出されていることは重要であって、あたかも武蔵坊弁慶と名乗る前の弁慶=「鬼若」(おにわか)が鞍馬山に預けられて「牛若」(うしわか)とともに登場してくるシナリオにとても似ている。一度は山に入る。そこで性質が一変する。

さらに熊楠の上げている妖怪「一ツタタラ」をモデルに、怪異な物の条件をもう少し見ておかねばならない。

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