熊楠は「通り悪魔」伝説についてこう述べた。
「山崎美成の『世事百談』にこのことを記せり。いわく、『前略、ふと狂気するは、何となきに怪しきもの目に遮ることありて、それに驚き魂を奪われ、思わず心の乱るるなり。俗に通り悪魔に逢うと言う、これなり』とて、むかし川井某なる士、庭前を眺めたりしに、縁前の手水鉢下の葉蘭叢中より、焔三尺ばかり、その煙盛んに上るを不審に思い、刀、脇差を別室へ運ばしめ、打ち臥して気を鎮めて見るに、焔の後方の板塀の上より乱髪白襦袢着たる男躍び降り、槍打ちふり睨む。心を臍下に鎮め、一睡して見れば焔、男、ともになし。尋(つ)いで隣宅の主人発狂し、刃を揮い譫語(うわごと)したり。また四谷辺の人の妻、類焼後留守しおりたるに、焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚(まんさん)して笑いながら来たるさま、すこぶる怪し。彼女心得ある者にて、閉眼して『普門品』を誦し、しばらくして見ればすでに消え失せぬ」(南方熊楠「通り魔の俗説」『南方民俗学・P.273~274』河出文庫)
前者の武士の場合、落ち着いて平常心を取り戻すことで眼前に出現した「通り悪魔」は消え去ってしまう。後者の女性の場合、火災で消滅した家のあった場所から狂乱した白髪の老人が忽然と出現したのを見て、法華経の中にある大火から身を守る箇所をひたすら誦することに専心しているうちに狂乱して襲いかかってきそうに見えた白髪の老人の姿を消し去ることに成功した。
「若有持是 観世音菩薩名者 設入大火 火不能燒 由是菩薩 威神力故
(書き下し)若しこの観世音菩薩の名(みな)を持(たも)つもの有らば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能わず、この菩薩の威神力(いじんりき)に由るが故なり」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.242」岩波文庫)
いずれにしても平常心を取り戻すことによって幻覚・妄想から解放されたわけだ。武士の場合は文字通り武士にとっての基本的平常心。民間の女性の場合は信心していた仏教の一節に専心することで。武士道がいいのか仏教がいいのかというのは問題外であって、ただ落ち着いて常日頃の精神状態を取り戻すことが大事だっただけに過ぎない。
ところが武士道や仏教を用いても反応がなく、消し去ることが出来ない妖魔は当然いた。妖怪〔鬼・ものの怪〕の世界は人間世界よりもずっと広いのである。そんな時は陰陽師が呼ばれるのが常だった。
その昔、「東三条殿(ひがしさんでうどの)」と呼ばれる邸宅があった。大内裏の東南方面に位置していた。今の京都市中京区押小路通(おしのこうじどおり)と釜座通(かまんざどおり)との交差点付近。邸宅は広大で今の上松屋町(かみまつやちょう)から下松屋町(しもまつやちょう)にかけて庭に池をたたえる寝殿造の建物だった。邸宅の主人は「式部卿(しきぶのきやう)ノ宮」=「重明(しげあきら)親王」。
南庭の築山に身長約九十センチ程でやや肥えた体型の「五位(ごゐ)」が時々出現してうろうろ徘徊するようになり親王は不審に思った。五位姿の徘徊はいよいよ度重なってきたからである。
「南ノ山ニ長(たけ)三尺許(ばかり)ナル五位(ごゐ)ノ太リタルガ、時々行(ありき)ケルヲ、御子(みこ)見給(たまひ)テ怪(あやし)ビ給(たまひ)ケルニ、五位ノ行ク事既ニ度々(たびたび)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
親王が不審に思ったのは、そもそも「五位(ごゐ)」身分の者が身に付ける服装の色である。当時の五位身分の服装の色は赤色や緋色と決まっており、怪奇を巻き起こす妖怪〔鬼・ものの怪〕の衣装に似通っていたから。そこで有名な陰陽師を呼んで質問することにした。陰陽師がいうには出没しているのは「物ノ気(もののけ)」のようだが別段「人ニ害ヲ可成(なすべ)キ物ニハ非(あら)ズ」とのこと。もしそうだとすればその霊の正体は何なのか。人間に害を及ぼす物でないとしたら非業の死を遂げた人間の怨霊でないに違いない。ではそれは何であってどこにいるのか。そう親王は問うた。
「其ノ霊(りやう)ハ何(いど)コニ有(ある)ゾ。亦何(なに)ノ精(たま)ノ者ニテ有ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
陰陽師は答える。銅製品の「精」(たま)だと思われる。邸宅の東南部分を掘り返してみてはと。
「銅(あかがね)ノ器(うつはもの)ノ精(たま)也。宮ノ辰巳(たつみ)ノ角(すみ)ニ、土ノ中ニ有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
少し掘ってみても何も出てこない。そこで約1メートルばかり掘り返してみたところ銅製の器具が出てきた。かつては大切に取り扱われていた銅製品に違いない。時を経て忘れられていた可能性が考えられる。すっかり掘り出してみると、今の尺度でいえば約九十リットル入りで、さらに取手と注ぎ口とが付いたそこそこ立派な銅の器である。文面を見ると供養したのか再び祀ったのか説明されていないが、再び埋め戻したわけではないだろう。それ以後、庭の築山に出現した五位姿の妖怪〔鬼・ものの怪〕が徘徊することはまったくなくなった。
「五斗納許(なふばかり)ナル銅(あかがね)ノ提(ひさげ)ヲ掘出(ほりいで)タリ。其後(そののち)ヨリナム、此ノ五位行ク事絶(たえ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100~101」岩波書店)
銅製品はなるほど人間でも動植物でもない。それが人の姿へ変身して出現したのだろう、そういうことがあるのだなと。
「銅ノ提ノ、人ニ成(なり)行(ありき)ケルニコソハ有ラメ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.101」岩波書店)
人間や動植物ではない「非生物」であっても、妖怪〔鬼・ものの怪〕として五位姿に変容して辺りを徘徊する。動き出す。なるほど人間ではない。だからといってかつては必要不可欠な銅製の器として大切に取り扱われていた。不必要になってきたからかもしれないが、もはや地下1メートルの暗黒に埋め捨てられ忘れ去られようとしていたその時、突如として銅の「精」(たま)は人間姿へ変身して親王の邸宅内の権力の象徴たる広大な庭の築山をうろつき始めた。人々を取って喰おうというわけではないが、屈辱的待遇を受けて一旦妖怪〔鬼・ものの怪〕化するとそれは何にでも自由自在な姿に化けて、夜昼の別なく周囲をうろうろし始めるのだった。置かれた環境に応じた自由な変化という点で熊楠が生涯探究した粘菌の変態性に通ずる。と同時に貨幣が次々と取り換えていく変態性ととてもよく似ている。
なお、重明(しげあきら)親王は実在人物。醍醐天皇の第四皇子。学問のほか、笙・琵琶に造形が深く庭を造営するなど風雅な分野での伝説が多い。
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「山崎美成の『世事百談』にこのことを記せり。いわく、『前略、ふと狂気するは、何となきに怪しきもの目に遮ることありて、それに驚き魂を奪われ、思わず心の乱るるなり。俗に通り悪魔に逢うと言う、これなり』とて、むかし川井某なる士、庭前を眺めたりしに、縁前の手水鉢下の葉蘭叢中より、焔三尺ばかり、その煙盛んに上るを不審に思い、刀、脇差を別室へ運ばしめ、打ち臥して気を鎮めて見るに、焔の後方の板塀の上より乱髪白襦袢着たる男躍び降り、槍打ちふり睨む。心を臍下に鎮め、一睡して見れば焔、男、ともになし。尋(つ)いで隣宅の主人発狂し、刃を揮い譫語(うわごと)したり。また四谷辺の人の妻、類焼後留守しおりたるに、焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚(まんさん)して笑いながら来たるさま、すこぶる怪し。彼女心得ある者にて、閉眼して『普門品』を誦し、しばらくして見ればすでに消え失せぬ」(南方熊楠「通り魔の俗説」『南方民俗学・P.273~274』河出文庫)
前者の武士の場合、落ち着いて平常心を取り戻すことで眼前に出現した「通り悪魔」は消え去ってしまう。後者の女性の場合、火災で消滅した家のあった場所から狂乱した白髪の老人が忽然と出現したのを見て、法華経の中にある大火から身を守る箇所をひたすら誦することに専心しているうちに狂乱して襲いかかってきそうに見えた白髪の老人の姿を消し去ることに成功した。
「若有持是 観世音菩薩名者 設入大火 火不能燒 由是菩薩 威神力故
(書き下し)若しこの観世音菩薩の名(みな)を持(たも)つもの有らば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能わず、この菩薩の威神力(いじんりき)に由るが故なり」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.242」岩波文庫)
いずれにしても平常心を取り戻すことによって幻覚・妄想から解放されたわけだ。武士の場合は文字通り武士にとっての基本的平常心。民間の女性の場合は信心していた仏教の一節に専心することで。武士道がいいのか仏教がいいのかというのは問題外であって、ただ落ち着いて常日頃の精神状態を取り戻すことが大事だっただけに過ぎない。
ところが武士道や仏教を用いても反応がなく、消し去ることが出来ない妖魔は当然いた。妖怪〔鬼・ものの怪〕の世界は人間世界よりもずっと広いのである。そんな時は陰陽師が呼ばれるのが常だった。
その昔、「東三条殿(ひがしさんでうどの)」と呼ばれる邸宅があった。大内裏の東南方面に位置していた。今の京都市中京区押小路通(おしのこうじどおり)と釜座通(かまんざどおり)との交差点付近。邸宅は広大で今の上松屋町(かみまつやちょう)から下松屋町(しもまつやちょう)にかけて庭に池をたたえる寝殿造の建物だった。邸宅の主人は「式部卿(しきぶのきやう)ノ宮」=「重明(しげあきら)親王」。
南庭の築山に身長約九十センチ程でやや肥えた体型の「五位(ごゐ)」が時々出現してうろうろ徘徊するようになり親王は不審に思った。五位姿の徘徊はいよいよ度重なってきたからである。
「南ノ山ニ長(たけ)三尺許(ばかり)ナル五位(ごゐ)ノ太リタルガ、時々行(ありき)ケルヲ、御子(みこ)見給(たまひ)テ怪(あやし)ビ給(たまひ)ケルニ、五位ノ行ク事既ニ度々(たびたび)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
親王が不審に思ったのは、そもそも「五位(ごゐ)」身分の者が身に付ける服装の色である。当時の五位身分の服装の色は赤色や緋色と決まっており、怪奇を巻き起こす妖怪〔鬼・ものの怪〕の衣装に似通っていたから。そこで有名な陰陽師を呼んで質問することにした。陰陽師がいうには出没しているのは「物ノ気(もののけ)」のようだが別段「人ニ害ヲ可成(なすべ)キ物ニハ非(あら)ズ」とのこと。もしそうだとすればその霊の正体は何なのか。人間に害を及ぼす物でないとしたら非業の死を遂げた人間の怨霊でないに違いない。ではそれは何であってどこにいるのか。そう親王は問うた。
「其ノ霊(りやう)ハ何(いど)コニ有(ある)ゾ。亦何(なに)ノ精(たま)ノ者ニテ有ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
陰陽師は答える。銅製品の「精」(たま)だと思われる。邸宅の東南部分を掘り返してみてはと。
「銅(あかがね)ノ器(うつはもの)ノ精(たま)也。宮ノ辰巳(たつみ)ノ角(すみ)ニ、土ノ中ニ有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100」岩波書店)
少し掘ってみても何も出てこない。そこで約1メートルばかり掘り返してみたところ銅製の器具が出てきた。かつては大切に取り扱われていた銅製品に違いない。時を経て忘れられていた可能性が考えられる。すっかり掘り出してみると、今の尺度でいえば約九十リットル入りで、さらに取手と注ぎ口とが付いたそこそこ立派な銅の器である。文面を見ると供養したのか再び祀ったのか説明されていないが、再び埋め戻したわけではないだろう。それ以後、庭の築山に出現した五位姿の妖怪〔鬼・ものの怪〕が徘徊することはまったくなくなった。
「五斗納許(なふばかり)ナル銅(あかがね)ノ提(ひさげ)ヲ掘出(ほりいで)タリ。其後(そののち)ヨリナム、此ノ五位行ク事絶(たえ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.100~101」岩波書店)
銅製品はなるほど人間でも動植物でもない。それが人の姿へ変身して出現したのだろう、そういうことがあるのだなと。
「銅ノ提ノ、人ニ成(なり)行(ありき)ケルニコソハ有ラメ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第六・P.101」岩波書店)
人間や動植物ではない「非生物」であっても、妖怪〔鬼・ものの怪〕として五位姿に変容して辺りを徘徊する。動き出す。なるほど人間ではない。だからといってかつては必要不可欠な銅製の器として大切に取り扱われていた。不必要になってきたからかもしれないが、もはや地下1メートルの暗黒に埋め捨てられ忘れ去られようとしていたその時、突如として銅の「精」(たま)は人間姿へ変身して親王の邸宅内の権力の象徴たる広大な庭の築山をうろつき始めた。人々を取って喰おうというわけではないが、屈辱的待遇を受けて一旦妖怪〔鬼・ものの怪〕化するとそれは何にでも自由自在な姿に化けて、夜昼の別なく周囲をうろうろし始めるのだった。置かれた環境に応じた自由な変化という点で熊楠が生涯探究した粘菌の変態性に通ずる。と同時に貨幣が次々と取り換えていく変態性ととてもよく似ている。
なお、重明(しげあきら)親王は実在人物。醍醐天皇の第四皇子。学問のほか、笙・琵琶に造形が深く庭を造営するなど風雅な分野での伝説が多い。
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