白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/変身しないといけない時・変身してはいけない時

2021年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

平安時代中頃までは今の京都市上京区・中京区辺りは確かに高級官僚らの住宅街だったようだ。では次に、「下辺(しもわたり)」とはどの辺りを指すのか。下京区以南が漠然とそう呼ばれていた。とはいえ、下京区からさらに南部になればなるほど没落貴族・下級役人・商工業者・名もない百姓らが多く暮らしていたのは事実だとしても、ここに出てくる「下辺(しもわたり)」という言葉にはまた違った微妙な意味合いが含まれている。どういうことかというと、「上(かみ)=聖なる地域」に対する「下(しも)=賎なる地域」であり、「下辺(しもわたり)」にはいつどのような妖怪〔鬼・ものの怪〕が出現してもおかしくないという観念である。ところが「今昔物語」では大内裏の中、時には内裏の中へも妖怪〔鬼・ものの怪〕はしばしば出現して殿上人らを慄かせている。なので上と下との地理的位置関係がただちに聖と賎とを意味するわけではない。そうではなく、かつて華美を極めたにもかかわらず急速に荒廃してきた場所を狙って妖怪〔鬼・ものの怪〕が棲みつくという考え方が信じられていたように思われる。

いつの頃か、或る人が従者を連れて「方違(かたたがへ)」=「方角タブー」の時期に住居を移そうと「下辺(しもわたり)」付近で適当な家屋を探していた。まだ幼い児を連れている。世話係の乳母(めのと)も一緒だ。

「下辺(しもわたり)也ケル所ニ行(ゆき)タリケルニ、幼キ児(ちご)ヲ具(ぐ)シタリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.145」岩波書店)

ふと目に付いた家屋があったのでそこでしばらく過ごすことにした。夜になり幼児の枕元のそばには灯火を灯し、また二、三人ほどの従者も付き添わせた。夜更けに乳母はいったん目を覚まして幼児に乳を与えた。しばらくその児が寝ている様子を見ているうちに真夜中になった。すると「塗籠(ぬりごめ)」=「土壁造りの収納庫」の戸が音もなく僅かに開いて、そこから身長百五十センチほどで五位(ごゐ)姿の者たちが馬に乗ってぞろぞろ出てきた。見ていると五位たちは児の枕元を通っていく。乳母は震え上がりながらも「打蒔(うちまき)ノ米(よね)・白米(しらげよね)」=「浄化・避邪のための白米」をたっぷり手に掴んで投げつけた。当時、妖怪〔鬼・ものの怪〕退散には「打蒔(うちまき)ノ米(よね)・白米(しらげよね)」が効くと信じられていた。すると五位姿の者どもはたちまち消え失せた。なぜ五位姿なのかは何度か述べているように、五位身分の衣装は朱色・赤色だったため、特に鬼の姿は赤いとされていたことから鬼は大抵の場合、五位姿で描かれることが多い。さらに五位は馬に乗ることができるので、それがたとえ妖怪〔鬼・ものの怪〕であったとしてもわざわざ馬に乗って出てきたりする。妙に几帳面な出現の仕方で描かれることもあるわけだ。

「乳母(めのと)、目を悟(さま)シテ、児ニ乳(ち)ヲ含(ふく)メテ、寝タル様(やう)ニテ見ケレバ、夜半許(よなかばかり)ニ、塗籠(ぬりごめ)の戸ヲ細目(ほそめ)ニ開(あけ)テ、其(そこ)ヨリ長(たけ)五寸許(ばかり)ナル五位共(ごゐども)の、日(ひ)ノ装束(しやうぞく)シタルガ、馬ニ乗(のり)テ十人許(ばかり)次(つづ)キテ、枕上(まくらがみ)ヨリ渡(わたり)ケルヲ、此ノ乳母、怖(おそろ)シト思ヒ乍(なが)ラ、打蒔(うちまき)ノ米(よね)多(おほ)ラカニ掻爴(かきつかみ)テ、打投(うちなげ)タリケレバ、此ノ渡ル者共、散(さ)ト散(ちり)テ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.145~146」岩波書店)

夜明け。陽の光に映し出された部屋の様子を見ると、児はまったく無事だったけれども、夜中に乳母がとっさに投げつけた白米(しらげよね)の一粒々々に血が付いていた。「日来(ひごろ)」=「数日間」はその家に滞在しようと思っていた一行だが、怖れ慄いて引き上げることにした。妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿はただ単に消え失せた、というより、血だけはしっかり残す形で消滅した。血になったのではなく、魔除けとされる白米そのものに返り血を塗りつける形で消えた。何にでも変容する点で大変器用であり大した力量だと感心するものの、その意味は妖怪〔鬼・ものの怪〕によるデモがメインなのだろう。都といえども殿上人ばかりが独占している土地ではないと。

「夜明(あけ)ニケレバ、其ノ枕上ヲ見ケレバ、其ノ投(なげ)タル打蒔(うちまき)ノ米毎(よねごと)ニ、血ナム付(つき)タリケル。日来(ひごろ)其ノ家ニ有ラム、ト思(おもひ)ケレドモ、此ノ事ヲ恐(おぢ)テ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.146」岩波書店)

熊楠が老いた男性のペニスについて、西鶴から「むかしの剣今の菜刀(ながたな)」と引いているように、変身はそもそも人間自身において起こる必然性なのだ。

「西鶴の『一代女』四の三に、一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば、あたま剃り下げたる奴(やつこ)が二十四、五なる前髪の草履取をつれきて、これもぬれとは見えすきて、座敷入用と聞こえて、云々、とあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.381』河出文庫)

「時花(はや)ればとて、今時(いまどき)の女、尻桁(しりげた)に掛(か)けたる、端(はし)紫の鹿子帯艫(かのこおび)、目にしみ渡(わた)りて、さりとては、いや風(ふう)也、自(みづか)らも、よる年にしたがひ、身を持(も)ち下(さ)げて、茶(ちや)の間(ま)女となり、壱年切(き)りに、勤(つと)めける。不断(ふだん)は、下(した)に洗(あら)ひ小袖、上(うへ)に木綿着物(もめんきるもの)に成(な)りて、御上(かみ)臺所の、御次(つぎ)に居(ゐ)て、見えわたりたる諸道具(しよだうぐ)を、取りさばきの奉公(ほうこう)也、黒米(くろごめ)に、走汁(はしらかし)に、朝夕(てうせき)をくれば、いつとなく、つやらしき形(かたち)を、うしなひ、我(わ)れながら、かくもまた、采体(とりなり)、いやしくなりぬ、されども、家父(やぶ)入りの春秋を、たのしみ、宿下(やどお)りして、隠(かく)し男に逢(あ)ふ時(とき)は、年に稀(まれ)なる、織姫(をりひめ)のここちして、裏(うら)の御門(ごもん)の、棚橋(たなばし)をわたる時にの嬉(うれ)しさ、足ばやに出(いで)行(ゆ)く風俗(ふうぞく)も、常(つね)とは仕替(しか)へて、黄無垢(きむく)に、紋嶋(もんじま)を、ひとつ前(まへ)にかさね、紺地(こんぢ)の今織(を)り後(うし)ろ帯(おび)、それがうへを、ことりましに、紫の抱(かか)へ帯(おび)して、髪(かみ)は引(ひ)き下(さ)げて、匕髻結(はねもとゆひ)を掛(か)け、額際(ひたいぎは)を、火塔(くはたう)に、取(と)つて、置墨(をきずみ)こく、きどく頭巾(づきん)より、目斗(ばか)りあらはし、年がまへなる中間(ちうげん)に、つぎづぎの袋(ふくろ)を持(も)たせり、其中(うち)に、上扶持(うはぶち)はね、三升四、五合、塩鶴(しほづる)の骨(ほね)すこし、菓子杉重(くはしすきぢう)のからまでも、取り集(あつ)めて、小宿(こやど)の口鼻(かか)が、機嫌(きげん)取りに、心をつくるもおかし、櫻田(さくらだ)の御門(ごもん)を通(とを)る時、我、袖より、はした銭(ぜに)、取り出(いだ)し、召(め)しつれし親仁(おやじ)が、けふの骨折(ほねを)り、おもひやられて、わづかなれども、莨菪(たばこ)成(な)りとも、買(か)ふて呑(の)みやれと、さし出(いだ)しけるに、いかに、お心付けなればとて、おもひもよらず、くだされました御同前(ごどうぜん)、わたくし事は、主命(しゆめい)なれば、御供(とも)、つかまつりませねば、外(ほか)に、水汲(みずく)む役(やく)あり、更(さら)に御こころに、かけ給ふなと、下々(したじた)には、きごく成(な)る、道理(だうり)を申しける、それより、丸(まる)の内(うち)の、屋形(やかた)々々を過(す)ぎて、町筋(すぢ)にかかり、女の足(あし)の、はかどらず、心せはしく、縹(たよ)り行(ゆ)くに、此中間(ちうげん)、我(わが)こやどの新橋(しんばし)へは、つれゆかずして、同じ所(ところ)を、四、五返(へん)も、右行(びらり)、左行(しやなり)と、つれてまはりけれども、町の案内(あんない)はしらず、うかうかと、ありきて、うち仰上(あふの)きて見れば、日影(ひかげ)も、西(にし)の丸に、かたぶくに驚き、気(き)をつけ見るに、めしつれし親仁(おやじ)、何(なに)やら、物を云(い)ひ掛(か)かりたき風情(ふぜい)、皺(しは)の寄(よ)りたる鼻(はな)の先(さき)に、あらはれし、さてはと、人の透(す)き間(ま)を見あはせ、釘貫(くぎぬ)き木隠(こがく)れにて、彼(か)の中間(ちうげん)、耳(みみ)ちかく、我(わ)れ等(ら)に、何(なに)ぞ用(よう)があるかと、小語(ささや)きければ、中間、嬉(うれ)しそふなる、㒵(かほ)つきして、子細(しさい)は語(かた)らず、破鞘(われざや)の脇指(わきざし)を、ひねくりまはし、君(きみ)の御事ならば、それがし目が命(いのち)、惜(お)しからず、国(くに)かたの、姥(ばば)がうらみも、かへり見ず、七十二になつて、虚(うそ)は申さぬ、大膽者(だいたんもの)と、おぼしめさば、それからそれまで、神仏(かみほとけ)は正直(しやうぢき)、今まで申した念仏(ねんぶつ)が、無(む)になり、人さまの楊枝(やうじ)壱本(ほん)、それはそれは、違(ち)がやうとも、おもはぬと、上髭(うはひげ)のある口から、長(なが)こと云(い)ふ程こそ、おかしけれ、そなた、我(わ)れ等(ら)に、ほれたといふ、一言(ごん)にて、濟(す)む事ではないか、といへば、親仁(おやじ)、潜(なみだ)然(ぐ)みて、それ程、人のおもはく、推量(すいりやう)なされましてから、難面(つれな)や、人に、べんべんと、詢(くど)かせられしは、聞(き)こえませぬと、無理(むり)なる、恨(うら)みを申すも、はや悪(に)くからず、律儀千萬(りちぎせんばん)なる年寄(としよ)りの、おもひ入れも、いたましく、移(うつ)り気(ぎ)になつて、小宿(こやど)に行(ゆ)けば、したい事するに、それを待(ま)ち兼(か)ね、数寄(すき)屋橋(ばし)の、かしばたなる、煮賣(にう)り屋に、恥(はぢ)を捨(す)てて、かけ込(こ)み、溫飩(うどん)すこしと、云(い)ひさま、亭主(ていしゆ)が目遣(めづか)ひ見れば、階(はし)の子(こ)、をしへける、二階(かい)にあがれば、内義(ないぎ)が、おつぶりと、気(き)を付けけるに、何事ぞと、おもへば、軒(のき)ひくうして、立つ事、不自由(ふじゆう)なり、疊(たたみ)弐枚(まい)敷(じき)の所を、澁紙(しぶかみ)にてかこひ、片隅(かたすみ)に、明(あか)り窓(まど)を請(う)けて、木枕(きまくら)ふたつ、置(を)きけるは、けふにかぎらず、曲者(くせもの)と、おもはれける、彼(か)の親仁(おやじ)に、添(そ)ひ臥(ぶ)しして、うれしがりぬる事を、限(かぎ)りもなく、気(き)のつきぬる程(ほど)、語(かた)りぬれども、身をすくめて、上気(じやうき)する折(を)りふしを、見あはせ、かたい帯(おび)の、むすびめなりと、ときかけぬれば、親仁(おやじ)、すこしは、うかれて、下帯(したおび)むさきと、おぼし召(め)すな、四、五日跡(あと)に、洗(あら)ひましたと、無用(むよう)の云(い)ひ分(わ)け、おかし、耳(みみ)とらへて、引(ひ)きよせ、腰(こし)の骨(ほね)のいたむ程、なでさすりて、もやもや、仕掛(しか)けぬれども、さりとは不埒(ふらち)、かくなるからは、残(この)り多(おほ)く、まだ日が高(たか)いと、云(い)ふて聞(き)かして、脇(わき)の下(した)へ、手をさしこめば、親仁(おやじ)、むくむくと、起(お)きあがるを、首尾(しゆび)かと、待(ま)ち兼(か)ねしに、昔(むかし)の劔(つるぎ)、今の菜刀(ながたな)、寶(たから)の山へ入りながら、むなしく帰ると、古(ふる)いたとへ事、云(い)ひさま、帯(おび)するを、引(ひ)きこかし、なんのかの、言葉(ことば)かさなるうちに、茶(ちや)屋の阿爺(とと)、階子(はしご)ふたつ目に、揚(あが)りて、申し申し、あたら溫飩(うどん)が、延(の)び過(す)ぎますがと、せはしくいふにぞ、なを親仁(おやじ)、おもひ切(き)りける、下(した)を覗(のぞ)けば、天窓(あたま)、剃(そ)り下(さ)げたる奴(やつこ)が、二十四、五なる、前髪(まへがみ)の草履(ざうり)取(と)りを、つれ来て、是もぬれとは、見えすきて、座敷(ざしき)入(い)ると聞(き)こえて、さてこそとおもはれーーー」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)

西鶴の描いた「一代女」はその時その時の環境に応じてさっさと身の振り方を変えていく。気持ちの切り換えがとても巧みだ。生活環境に対して機敏な反応を見せる。そうであって始めて、階段で男性同性愛者の客が上がってくる声を聞き取ることもできるのである。とすれば、変身とは何か。どういう態度をいうのか。いつも瞬時に変身する準備が出来ていること。同時にけっして変身してはいけない場面を心得ていること。江戸時代の女性たちは貧乏ではあった。しかしなかなかしたたかでもあったのだ。そうでなくては生きていけなかった。

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