酒呑童子討伐軍の凱旋行進。土産はもちろん酒呑童子の頸(くび)である。京の都には我も我もと見物客が殺到する。源頼光一行を一目見たいというより遥かに「酒呑童子の頸(くび)」と、捕らえられて行方不明になっていた数名の「姫君」が今やどんな姿形に変わっているのかという興味本位、物見遊山なのは色めき立っている現場の描写でよくわかる。
「都(みやこ)にはこの事を聞(き)くよりも、頼光(らいくわう)の御上(のぼ)りを見物(けんぶつ)せんとて、ざざめきわたりて控(ひか)へたり、その中(なか)に姫(ひめ)をとられし、池田中納言(いけだのちうなごん)夫(ふう)婦の人も出で給ふひ、いづくまでも逢次第(あひしたい)と迎(むか)ひに出でさせ給ひしが、頼光(よりみつ)を見(み)つけつつ、『すはや是へ』との給(のたま)へば、はや姫君(ひめぎみ)も御覧(らん)じて母上様(ははうへさま)とて泣(な)き給ふ。母上(ははうへ)此よし御覧(らん)じて、するすると走(はし)り寄(よ)り、姫(ひめ)君に取(と)り附(つ)きて是は夢(ゆめ)かや現(うつつ)かと、消(き)え入るやうに泣(な)き給へば、中納言(なごん)も聞(きこし)めし一度(ど)別(わか)れしわが姫(ひめ)に、二度(ふたたび)逢(あ)ふこそうれしけれと、急(いそ)ぎ宿所(しゆくしよ)に歸(かへ)らせ給ふ。頼光(よりみつ)は参内(さんだい)有り、みかど叡覧(ゑいらん)ましまして御感(かん)は申すはかりなし。御褒美(ほうぶ)限(かぎ)りなかりける」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.384』岩波書店)
諸本の中でも有力な逸翁美術館本では凱旋行進を迎えるに当たって「主上(しゆじよう)・上皇より始め奉りて、摂政・関白以下にいたるまで、車を飛(とばし)て、叡覧有りけり」とある。天皇じきじき出迎えたとある。そして天皇の命で酒呑童子の頸(くび)は「宇治の宝蔵にぞ、納られける」となっている。
「見物の道俗男女、幾千万といふ数をしらず、人は踵(きびす)をそばだて、車は轅(ながえ)をめぐらす事をえず、弓箭(きゆうせん)の家に生れ、武勇の道に入りて、芸を現はし、名を挙ぐる事、勝計するに及ばねども、魔王・鬼神を随(したが)ふる事、田村・利仁(としひと)の外は、珍事なり、と声々口々に、ざわめきあへり。毒鬼を大内(内裏)へ入るる事、有べからずとて、大路をわたらされければ、主上(しゆじよう)・上皇より始め奉りて、摂政・関白以下にいたるまで、車を飛(とばし)て、叡覧有りけり。鬼王の頸(くび)といひ、将軍の気色(けしき)といひ、誠に耳目(じもく)を驚かしけり。事の由来奏しければ、不思議の由、宣下有て、彼の頸をば、宇治の宝蔵にぞ、納られける」(小松和彦「日本妖怪異聞録・第一章・P.41~42」講談社学術文庫)
当時の天皇は誰だったか。はっきりしたことはわからないが、おそらく一条天皇ではないかと考えられている。「源氏物語」のモデルとなった同一人物。さらに「宇治の宝蔵(ほうぞう)」は「宇治の平等院の宝蔵」を指す。宇治の平等院は現実にあるけれども「宝蔵」があったかどうかはわからない。今の宇治平等院鳳凰堂からやや離れた場所にかつてあったらしいという伝説が残されているに過ぎない。あったとしてもとっくの昔に戦乱で消失しているという事情は確からしいが。しかしなお「宝蔵」に所蔵された物品に関する関連リストは作製されている。ところがリストのどこをどう探してみてもその中に「酒呑童子の頸(くび)」はない。日本三大妖怪と謳われる「酒呑童子」(しゅてんどうじ)、「玉藻前」(たまものまえ)、「大嶽丸」(おおたけまる)。彼らは皆、「宇治の宝蔵(ほうぞう)」に収められたと諸本にある。だが関連リストに彼ら三者の名はどこにも載っていない。「宇治の宝蔵(ほうぞう)」からして実際にあったのかなかったのか判然としないのである。けれどもこれらの物語は実話であろうとなかろうと伝承されていかなければならなかった。なぜだろう。
「玉藻前」(たまものまえ)の場合、狐が絶世の美女に化けたとされる。美女に化けた狐は鳥羽院の寵愛を一身に受けて夜毎鳥羽院と床を共にする。鳥羽院は見る見る間に精力を失っていく。しかしこの伝説の下地になったと思われる権力闘争を割り出すことは比較的簡単だ。久寿二年(一一五五年)頃、藤原忠実(ふじわらのただざね)と藤原頼長(ふじわらのよりなが)との両名が摂関家のトップの地位を巡って争っていた。一方の忠実は密教系真言宗を信仰し、もう一方の頼長は陰陽道を信仰していた。美女に化けた玉藻前の討伐について密教系の呪術では効果が出なかったが、ところが頼長が信仰していた陰陽師の言葉通りに処理してみたところ玉藻前殺害は成功した。また狐に化けるということは稲作農耕にとってとても大事なポイントであって、そもそも伏見稲荷大社では狐を稲作の守護神として祀っている。その伏見稲荷を真言宗の東寺が支配下に収めた頃からこの妖怪と化した狐伝説が京の都のあちこちで囁かれるようになっている。それらを総合すると下敷きにある事情はほかでもない宮廷内部並びにその宗教的支持基盤が忠実派(真言宗)と頼長派(陰陽道阿倍派)とに分裂した結果生じた権力闘争だとわかるに違いない。しかし殺害され宝蔵に安置されたとはいえ、他の諸本によれば玉藻前はさらに変身し再出現している。場所は同じ「那須野」(なすの)ではあるが。
「アニミズムでは石にはいろいろの神や霊が宿るが、下野(しもつけ)の那須野ヵ原(現・栃木県)の殺生石(せっしょうせき)などは狐または悪霊の宿る石として、物語や芝居になった」(五来重「石の宗教・第一章・P.32」角川ソフィア文庫)
また熊楠は「人柱の話」の中で人間から驚異的神石への変化〔生き埋め=霊石信仰〕について述べている。
「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)
築島伝説については以下をクリック↓
熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮
人間は死んだ後、場合によっては石に成るという信仰は、おそらく稲作農耕文化よりずっと古い。「沙石集」に「地蔵の看病給(したま)ふ事」という説話がある。
「我(わが)身ニハ、密教(みつけう)ノ肝心(かんじん)ヲ傳ヘテ、彌陀(みだ)ト地蔵ト一體ノ習(ならひ)ヲ知(しれ)リ。然(しかれ)バ大乗(だいじよう)ノ法ニアヘルシルシニ、地蔵菩薩ニ随逐(ずゐちく)シ奉リテ、光明真言誦(くわうみやうしんごんじゆ)シテ、地獄ノ衆生(しゆじやう)ヲ加持(かぢ)セント思フ也」(日本古典文学体系「沙石集・巻第二・五・P.102」岩波書店)
地蔵はもはや可愛らしい仕上がりになっているけれども、しかしその起源を追っていくと途方もない時代に至る。「賽の河原」は何も青森県恐山にだけあるのではない。探せば全国津々浦々に石積信仰は残っている。あちこちに残り祀られている磐座(いわくら)などは目に見えるばかりかその種の信仰の最もわかりやすい事例だろう。例えば熊野の「ごとびき岩」は巨石そのものが神体とされているように。
さて、酒呑童子らの死体はどこへ行ったか。それとも何から何までただ単なる伝説に過ぎないのか。天皇じきじきに「宇治の平等院の宝蔵」へ、という宣旨が下りた点がポイント。日本書紀から始まる歴史書にあるように、かつて吉野、熊野、東の国、さらに蝦夷へ侵攻する上で数々の土着の主(ぬし)がいた。中には途轍もない難攻不落の地もあったろう。熊野はそのうちの最大勢力だった。そして勝利するにはしたが、元来は身内だった菅原道真さえも太宰府に流され怨霊と化したように、都が戦乱にせよ疫病流行にせよ何度も繰り返し壊滅的打撃に晒されるたびに天皇一行は熊野三山までミソギに出かけなくてはならなくなった。「宇治の平等院の宝蔵」へという流れは小松和彦のいうようになるほど朝廷権力の威信を示すためという目的を含んでいただろう。けれどもそれと同等かあるいはそれ以上のものを出現させてはいないだろうか。朝廷は一日にして成ったわけではない。長い年月をかけて血で血を洗う戦闘行為に手を染め上げてきた。平城京から平安京にかけての呪術政治の時代。「宇治の平等院の宝蔵入り」は敗者に対する或る種の特権的儀式なのだ。朝廷は彼らに苦しめられ抜いたというおぞましく抜き難い歴史をかろうじて生きていた。それは日本列島に無数に存在した先住民たちに向けてなされた出来る限り最大限の供養だったと考えるべきなのである。そして「酒呑童子」(しゅてんどうじ)、「玉藻前」(たまものまえ)、「大嶽丸」(おおたけまる)といった超人的敵対者を葬り去った後、そのためにただ単に使っただけのはずの武士たちが徐々に軍団化し逆に朝廷を囲い込むような形になり、「保元の乱・平治の乱・承久の変」を経て、とうとう源平合戦が勃発。終わりの見えない戦乱に明け暮れる日本中世が出現する。
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「都(みやこ)にはこの事を聞(き)くよりも、頼光(らいくわう)の御上(のぼ)りを見物(けんぶつ)せんとて、ざざめきわたりて控(ひか)へたり、その中(なか)に姫(ひめ)をとられし、池田中納言(いけだのちうなごん)夫(ふう)婦の人も出で給ふひ、いづくまでも逢次第(あひしたい)と迎(むか)ひに出でさせ給ひしが、頼光(よりみつ)を見(み)つけつつ、『すはや是へ』との給(のたま)へば、はや姫君(ひめぎみ)も御覧(らん)じて母上様(ははうへさま)とて泣(な)き給ふ。母上(ははうへ)此よし御覧(らん)じて、するすると走(はし)り寄(よ)り、姫(ひめ)君に取(と)り附(つ)きて是は夢(ゆめ)かや現(うつつ)かと、消(き)え入るやうに泣(な)き給へば、中納言(なごん)も聞(きこし)めし一度(ど)別(わか)れしわが姫(ひめ)に、二度(ふたたび)逢(あ)ふこそうれしけれと、急(いそ)ぎ宿所(しゆくしよ)に歸(かへ)らせ給ふ。頼光(よりみつ)は参内(さんだい)有り、みかど叡覧(ゑいらん)ましまして御感(かん)は申すはかりなし。御褒美(ほうぶ)限(かぎ)りなかりける」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.384』岩波書店)
諸本の中でも有力な逸翁美術館本では凱旋行進を迎えるに当たって「主上(しゆじよう)・上皇より始め奉りて、摂政・関白以下にいたるまで、車を飛(とばし)て、叡覧有りけり」とある。天皇じきじき出迎えたとある。そして天皇の命で酒呑童子の頸(くび)は「宇治の宝蔵にぞ、納られける」となっている。
「見物の道俗男女、幾千万といふ数をしらず、人は踵(きびす)をそばだて、車は轅(ながえ)をめぐらす事をえず、弓箭(きゆうせん)の家に生れ、武勇の道に入りて、芸を現はし、名を挙ぐる事、勝計するに及ばねども、魔王・鬼神を随(したが)ふる事、田村・利仁(としひと)の外は、珍事なり、と声々口々に、ざわめきあへり。毒鬼を大内(内裏)へ入るる事、有べからずとて、大路をわたらされければ、主上(しゆじよう)・上皇より始め奉りて、摂政・関白以下にいたるまで、車を飛(とばし)て、叡覧有りけり。鬼王の頸(くび)といひ、将軍の気色(けしき)といひ、誠に耳目(じもく)を驚かしけり。事の由来奏しければ、不思議の由、宣下有て、彼の頸をば、宇治の宝蔵にぞ、納られける」(小松和彦「日本妖怪異聞録・第一章・P.41~42」講談社学術文庫)
当時の天皇は誰だったか。はっきりしたことはわからないが、おそらく一条天皇ではないかと考えられている。「源氏物語」のモデルとなった同一人物。さらに「宇治の宝蔵(ほうぞう)」は「宇治の平等院の宝蔵」を指す。宇治の平等院は現実にあるけれども「宝蔵」があったかどうかはわからない。今の宇治平等院鳳凰堂からやや離れた場所にかつてあったらしいという伝説が残されているに過ぎない。あったとしてもとっくの昔に戦乱で消失しているという事情は確からしいが。しかしなお「宝蔵」に所蔵された物品に関する関連リストは作製されている。ところがリストのどこをどう探してみてもその中に「酒呑童子の頸(くび)」はない。日本三大妖怪と謳われる「酒呑童子」(しゅてんどうじ)、「玉藻前」(たまものまえ)、「大嶽丸」(おおたけまる)。彼らは皆、「宇治の宝蔵(ほうぞう)」に収められたと諸本にある。だが関連リストに彼ら三者の名はどこにも載っていない。「宇治の宝蔵(ほうぞう)」からして実際にあったのかなかったのか判然としないのである。けれどもこれらの物語は実話であろうとなかろうと伝承されていかなければならなかった。なぜだろう。
「玉藻前」(たまものまえ)の場合、狐が絶世の美女に化けたとされる。美女に化けた狐は鳥羽院の寵愛を一身に受けて夜毎鳥羽院と床を共にする。鳥羽院は見る見る間に精力を失っていく。しかしこの伝説の下地になったと思われる権力闘争を割り出すことは比較的簡単だ。久寿二年(一一五五年)頃、藤原忠実(ふじわらのただざね)と藤原頼長(ふじわらのよりなが)との両名が摂関家のトップの地位を巡って争っていた。一方の忠実は密教系真言宗を信仰し、もう一方の頼長は陰陽道を信仰していた。美女に化けた玉藻前の討伐について密教系の呪術では効果が出なかったが、ところが頼長が信仰していた陰陽師の言葉通りに処理してみたところ玉藻前殺害は成功した。また狐に化けるということは稲作農耕にとってとても大事なポイントであって、そもそも伏見稲荷大社では狐を稲作の守護神として祀っている。その伏見稲荷を真言宗の東寺が支配下に収めた頃からこの妖怪と化した狐伝説が京の都のあちこちで囁かれるようになっている。それらを総合すると下敷きにある事情はほかでもない宮廷内部並びにその宗教的支持基盤が忠実派(真言宗)と頼長派(陰陽道阿倍派)とに分裂した結果生じた権力闘争だとわかるに違いない。しかし殺害され宝蔵に安置されたとはいえ、他の諸本によれば玉藻前はさらに変身し再出現している。場所は同じ「那須野」(なすの)ではあるが。
「アニミズムでは石にはいろいろの神や霊が宿るが、下野(しもつけ)の那須野ヵ原(現・栃木県)の殺生石(せっしょうせき)などは狐または悪霊の宿る石として、物語や芝居になった」(五来重「石の宗教・第一章・P.32」角川ソフィア文庫)
また熊楠は「人柱の話」の中で人間から驚異的神石への変化〔生き埋め=霊石信仰〕について述べている。
「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)
築島伝説については以下をクリック↓
熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮
人間は死んだ後、場合によっては石に成るという信仰は、おそらく稲作農耕文化よりずっと古い。「沙石集」に「地蔵の看病給(したま)ふ事」という説話がある。
「我(わが)身ニハ、密教(みつけう)ノ肝心(かんじん)ヲ傳ヘテ、彌陀(みだ)ト地蔵ト一體ノ習(ならひ)ヲ知(しれ)リ。然(しかれ)バ大乗(だいじよう)ノ法ニアヘルシルシニ、地蔵菩薩ニ随逐(ずゐちく)シ奉リテ、光明真言誦(くわうみやうしんごんじゆ)シテ、地獄ノ衆生(しゆじやう)ヲ加持(かぢ)セント思フ也」(日本古典文学体系「沙石集・巻第二・五・P.102」岩波書店)
地蔵はもはや可愛らしい仕上がりになっているけれども、しかしその起源を追っていくと途方もない時代に至る。「賽の河原」は何も青森県恐山にだけあるのではない。探せば全国津々浦々に石積信仰は残っている。あちこちに残り祀られている磐座(いわくら)などは目に見えるばかりかその種の信仰の最もわかりやすい事例だろう。例えば熊野の「ごとびき岩」は巨石そのものが神体とされているように。
さて、酒呑童子らの死体はどこへ行ったか。それとも何から何までただ単なる伝説に過ぎないのか。天皇じきじきに「宇治の平等院の宝蔵」へ、という宣旨が下りた点がポイント。日本書紀から始まる歴史書にあるように、かつて吉野、熊野、東の国、さらに蝦夷へ侵攻する上で数々の土着の主(ぬし)がいた。中には途轍もない難攻不落の地もあったろう。熊野はそのうちの最大勢力だった。そして勝利するにはしたが、元来は身内だった菅原道真さえも太宰府に流され怨霊と化したように、都が戦乱にせよ疫病流行にせよ何度も繰り返し壊滅的打撃に晒されるたびに天皇一行は熊野三山までミソギに出かけなくてはならなくなった。「宇治の平等院の宝蔵」へという流れは小松和彦のいうようになるほど朝廷権力の威信を示すためという目的を含んでいただろう。けれどもそれと同等かあるいはそれ以上のものを出現させてはいないだろうか。朝廷は一日にして成ったわけではない。長い年月をかけて血で血を洗う戦闘行為に手を染め上げてきた。平城京から平安京にかけての呪術政治の時代。「宇治の平等院の宝蔵入り」は敗者に対する或る種の特権的儀式なのだ。朝廷は彼らに苦しめられ抜いたというおぞましく抜き難い歴史をかろうじて生きていた。それは日本列島に無数に存在した先住民たちに向けてなされた出来る限り最大限の供養だったと考えるべきなのである。そして「酒呑童子」(しゅてんどうじ)、「玉藻前」(たまものまえ)、「大嶽丸」(おおたけまる)といった超人的敵対者を葬り去った後、そのためにただ単に使っただけのはずの武士たちが徐々に軍団化し逆に朝廷を囲い込むような形になり、「保元の乱・平治の乱・承久の変」を経て、とうとう源平合戦が勃発。終わりの見えない戦乱に明け暮れる日本中世が出現する。
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