白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/動植物が鬼になるとき

2021年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

妖怪〔鬼・ものの怪〕は時として人間の姿に変身して出現した。次に言及するのは「幡磨(はりま)ノ国」(現・兵庫県南西部)の或る家で死者が出た時のこと。葬送の際の打ち合わせなどを行っていたが、呼んだ陰陽師が奇妙なことを言い出した。近いうちにこの家に鬼がやって来るようだ。十分用心しておくのがよいと。その家の人々は怖気付いて陰陽師のいうように厳重な物忌に徹することにした。家屋を閉め切ってしまい玄関に物忌と書いた札をびしりと立てて、家の者全員が一日中じっと我慢する。しかし鬼はどこからどんな姿形でやって来るというのか。陰陽師に尋ねると玄関から人間の姿形で来るという。

「門(かど)ヨリ、人ノ体(てい)ニテ可来(きたるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

その日がやって来たと思って待ち構え、玄関をいつもより頑丈に閉じ、ほんの僅かの隙間から外の様子を窺っていると、藍色に染めた水干袴(すいかんはかま)を着て笠を紐で首からぶらさげた男性が不意に玄関前に立った。家をじっと見つめている。

「藍摺(あゐずり)ノ水干袴(すいかんはかま)着タル男ノ、笠頸(くび)ニ懸(かけ)タル、門ノ外(と)ニ立(たち)テ臨(のぞ)ク」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

来た、と思ってしばらくすると、どうやってかわからないが門を開けてもいないのに家の中に入ってきた。と見る見る間にもう竈(かまど)の前にいる。竈は古くから竈神(かまどがみ)と言われるように家の中で神の宿る場所。言うまでもなく火を焚いて食事を用意し生きていくほかない人間には欠かせない場であるため。また、入って来た鬼はなるほど人間の姿形に変身しているものの家の誰にも面識のない男性だった。

「此ノ鬼ノ男(をとこ)、暫(しばら)ク臨キ立(たち)テ、何(いか)ニシテ入ルトモ不見(み)エデ入(いり)ヌ。然(さ)テ、家ノ内ニ入来(いりき)テ、竈戸(かまど)ノ前ニ居(ゐ)タリ。更(さら)ニ見知(みしり)タル者ニ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133~134」岩波書店)

いきなり竈の前まで移動した妖怪〔鬼・ものの怪〕を見て、家の者らは皆、これは既に駄目だ、喰い殺されて終わってしまう、観念するほかないとあっけなくすべての気力が萎え切ってしまった。ところが、もし本当に喰い殺されてしまうばかりなら、何もしないまま諦めて死を待つよりも鬼と闘った証しの一つも残したいと家の主人の子の若い男子が言い出した。尖(とがり)の着いた弓矢を取り出してそっと鬼に近づき鬼のからだの真ん中目掛けて射た。なお、「最中」(もなか)は「真ん中」を意味するが人間姿に化けた鬼のどの箇所なのかはわからない。ともかく大きな矢は命中し、射られたとたん鬼はいっぺんに外へ走り出たと思う間もなく消え失せた。しかし射た矢は鬼のからだに突き立ったわけではなく逆に跳ね返ってきた。

「鬼ハ、被射(いられ)ケルママニ立走(たちはしり)テ出ヅ、ト思フ程ニ、掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ニケリ。箭(や)ハ不立(たた)ズシテ、踊返(をどりかへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.134」岩波書店)

本文では、鬼がすっかり人間の姿で出現するのは稀なことらしい、と述べられて終わっている。しかし問題はこの説話の由来が或る程度特定できる点にある。厳重な物忌が必要とされた時、家屋は防御のために「桃の木」を材料としたしつらえに改装されている。

「門(かど)ニ物忌(ものいみ)ノ札(ふむだ)ヲ立テテ、桃ノ木ヲ切塞(きりふさ)ギテ、呪法(ほふ)ヲシタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十三・P.133」岩波書店)

古代中国の追儺(ついな)がその原点にある。

追儺(ついな)は本来、桃の木を呪力のある聖なる神木とする信仰から生じた。「論語」にこうある。

「郷人儺、朝服而立阼階

(書き下し)郷人の儺(おにやらい)には、朝服(ちょうふく)して阼階(そかい)に立つ

(現代語訳)村人の疫病神を追う行列が門内にはいってくると、朝廷に出る礼服をつけて、わが家の宗廟の正殿の東寄りの階段のもとに立って迎えられた」(「論語・第五巻・第十・郷党篇・十四・P.277」中公文庫)

この信仰は日本に輸入されそのまま定着した。奈良時代の慶雲三年(七〇六年)、疫病流行時に悪鬼退散を願って追儺(ついな)が行われた。

「十二月九日 この年、全国で疫病がはやり、人民が多く死んだので、初めて土牛を作って追儺(ついな=十二月晦日の悪鬼払い)の行事をおこなった」(「続日本紀・巻第三・文武天皇慶雲三年(七〇六年)・P.86」講談社学術文庫)

今の日本を見ると追儺(ついな)は「節分の豆まき」として継承されている。

しかしさらに遥か以前、「日本書紀」に次の記事が見える。

黄泉国(よみのくに)で伊弉冉尊(いざなみのみこと)に出会った伊弉諾尊(いざなきのみこと)。膨れ上がったイザナミの死体が立ち上がって追いかけて来た時、それを振り払いながら逃げようとして「桃の実」を投げつけた。さらに桃の木で出来た「杖」(みつゑ)を投げつけながらここからこちら側へは戻って来ることはもはやできないと宣言している点。

「伊弉諾尊(いざなきのみこと)、驚(おどろ)きて走(に)げ還(かへ)りたまふ。是の時に、雷等(いかづちども)皆(みな)起(た)ちて追(お)ひ来(きた)る。時に、道(みち)の辺(ほとり)に大(おほ)きなる桃(もも)の樹(き)有り。故(かれ)、伊弉諾尊、其の樹の下(もと)に隠(かく)れて、因(よ)りて其の実(み)を採(と)りて、雷(いかづち)に擲(な)げしかば、雷等(ども)、皆退走(いしぞ)きぬ。此(これ)桃を用(も)て鬼(おに)を避(ふせ)縁(ことのもと)なり。時に伊弉諾尊、乃ち其の杖(みつゑ)を投(なげう)てて曰(のたま)はく、『此(これ)より以還(このかた)、雷敢来(えこ)じ』とのたまふ。是(これ)を岐神(ふなとのかみ)と謂(まう)す。此(これ)、本(もと)の号(な)は来名戸(くなと)の祖神(さへのかみ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.54」岩波文庫)

桃の実に呪力があるとする信仰は中国由来。さらに桃の木を素材にして作った杖は「祖神(さへのかみ)と曰(まう)す」とあるように、境界線を指し示す道具としての意味を与えられていること。「祖神(さへのかみ)」=「道祖神(どうそじん)」信仰もまた中国由来である。しかし前回取り上げた狐の話のように恩義を忘れず人間の味方をしてくれる狐がいたのはなぜか。イザナミも最初はイザナギの妻だったではなかったか。実を言えば、人間にせよ動植物にせよ、始めのうちに与えられていた役割を終えた者はどんどん人間の棲む領域から排除されていった生々しい経過を見て取ることができる。

例えば平安時代、狐もまた京の都や隣接する近江ではあたかも蛇や猿や鹿と同様、身近な存在として人々と共存していた。それは藤原利仁が若い頃、近江に入ってしばらくすると三津浜で狐が出てきて気前よく敦賀まで伝令に走ってくれたエピソードでも明らか。ところが狐は稲作農耕の守護神として崇敬されると同時に、その繁殖力の強靭さから個体数は増える一方だった。すると狐といえども地方に行けば行くほど人間にとって厄介者とされるに至り、遠ざけられ、人間の村落共同体から排除され切り離された瞬間、遂に狐は化けて出るようになる。さらに戦国時代になってなお犬の多い土地として知られていた四国。犬と人間との付き合いは長い。古代ギリシアやメソポタミアなど盛んに酪農が行われていた地域では山羊や牛の世話係として犬は欠かせない村落共同体の一員だった。ところが犬も増えると山間部へ入って野犬化する。村落共同体の仕事から解雇され切り離されたた多数の犬は山間部で復讐の鬼神へ変貌する。戦国時代にその名が出てくる長宗我部氏が四国を制覇しつつあった頃、一般の農村から追放され野犬化した野良犬が多かったことがわかっている。そして野犬化した犬はその獰猛さから「狗神」(いぬがみ)として恐れられるようになっていた。

「土佐国畑(はた)という所には、その土民(どみん)数代(すだい)つたはりて、狗神といふものを持(もち)たり。狗神もちたる人もし他所に行て他人の小袖・財宝・道具すべて何にても狗神の主(あるじ)それを欲(ほし)く思ひ望む心あれば、狗神すなはち、その財宝・道具の主につきて、たたりをなし、大熱(ねつ)懊悩(おうなう)せしめ胸腹をいたむ事錐(きり)にて刺(さす)がごとく、刀にてきるに似たり。此病(このやまひ)をうけては、かの狗神の主を尋ねもとめて、何にても、そのほしがるものをあたふれば、やまひいゆる也。さもなければ久しく病(やみ)ふせりて、つゐには死(し)すとかや。中比(なかごろ)の国守(くにのかみ)此事を聞て畑(はた)一郷(がう)のめぐりに垣結(かきゆい)まはし、男女一人も残さず焼ごみにして、ころしたまふ。それより狗神絶(たえ)たりしが、又この里の一族(ぞく)のこりて狗神これにつたはりて、今もこれありといふ。その狗神もちたる主、死する時、家をつぐべきものにうつるを傍(そば)にある人は見ると也。大(おほき)さ米粒(こめつぶ)ほどの狗也。白黒あか斑(まだら)の色々あり。死(し)する人の身をはなれて、家をつぐ人のふところに飛入(とびいる)といへり」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之十一・土佐(とさ)の国狗神(いぬかみ)付金蚕(きんさん)・P.317~318」岩波書店)

蛇の多い所では蛇神、狐の多い所では狐憑き、猫が多く棲む島などでは化け猫。一方の目を失明することが当り前の職業だった鍛冶師の多い鉱山地帯では「一つ目小僧」。さらにこれらには仏教の浸透条件が深く関わっている。日本のように山間部が多く海が近く平野部の少ない条件のもとでは、とりわけ山間部において仏教は浸透しにくい。それぞれの村は分散していて、その村々はどれも戸数が多くはない。檀家ができても寺院を維持していけるほど裕福でない。「村」と書けばたったの一字で済むけれども、「村」はそれ自体どれを取ってもほとんどすべてが「寒村」に等しい状況でしかない時代は近世江戸期になってなお続いていた。だからこそ熊楠も取り上げているように西鶴が「本朝二十不孝」で描いた熊野参詣の悲劇「旅行の暮の僧にて候」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.219〜225』小学館)は出現するべくして出現した必然的産物として考えるほかないのである。

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