熊楠は「燕石考」の中で、全然関係のない事物同士の類似による誤解と唯一の原因という錯覚から、本来見るべき《原因の多数性》という事情が覆い隠されてしまうという事実を暴いてヨーロッパの専門誌で高く評価された。同時に古代から中世にかけて日本に出没する妖怪〔鬼・ものの怪〕が、自由自在に姿形を置き換えていく変態性と同様の事態として捉えることに関心を寄せていた。そして前回、熊楠が粘菌(隠花植物)の生態や古典文献に描かれた妖怪〔鬼・ものの怪〕に見た変態性に関し、熊楠なき今振り返ってみると、諸商品と化して自由自在に姿形を置き換えていく変態性はそれこそ《貨幣》とまるで同じだと述べた。だからといって粘菌(隠花植物)は貨幣ではないし妖怪〔鬼・ものの怪〕も貨幣ではない。ただ、怖ろしく似ているばかりかもはや《貨幣のようだ》と言っていいほど考察できるところまでたどり着いたに過ぎない。さらに妖怪〔鬼・ものの怪〕の特徴として自由自在に姿形を置き換えていく変態性が書かれている条々について触れていこう。
舞台は少し前に取り上げた「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」。こう説明した。
今の京都市上京区を東西に通る出水通と南北に通る千本通との交差点をやや西側へ入った付近に「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」と呼ばれる場所があった。大内裏の中の「武徳殿、真言院(しんごんいん)、大歌所(おおうたどころ)」に囲まれただだっ広い広場のような場所で敷地面積はその西に位置する「内裏」(だいり)と同じほど。武術や競馬が行われていたようだが、内裏とほぼ同じ面積であることから、あるいは内裏の代替地として確保されていた可能性が指摘されている。かつてそこは妖怪出没地として有名だった。
またところどころに松が植えてあり、密生しているわけではないものの、そこそこの松原として男女が出会い恋愛について語り合う密会の場でもあった。次に述べる説話も「宴(えん)ノ松原(まつばら)」付近で発生した。
平安時代、「幡磨(はりま)ノ安高(やすたか)」という近衛舎人(このゑのとねり)がいた。本来、近衛府は宮中守護・皇族警備を主として創設された役職(今でいう警視庁に近い)。だから武具を身に付けてはいるものの、時代を降るに連れて本格的な武士階級の台頭のため、宮廷人の邸宅や年中行事で行われる神楽〔演舞・奏楽〕が主な任務に変わっていく。余りにも歌が巧みなのでそれを悦んだ山神に魂を持って行かれて死んだ舎人の話は以前「巻第二十七・近衛舎人、於常陸国山中詠歌死語・第四十五」を引用して述べた。しかしここで登場する「近衛舎人・安高(やすたか)」は武術に秀でていた人物。安高の父は「右近(うこん)ノ将監(しやうげん)」(天皇周辺の現場指揮官)を務めた「幡磨(はりま)ノ貞正(さだまさ)」。
月がとても明るい九月二十日の夜。安高は西の京の家へ戻ろうと大内裏の中を歩いて横切り「宴(えん)ノ松原」の辺りに差し掛かったところ、少女が身に付ける服装をまとった人の姿が目に入った。月影に照らし出されたそれは大変美しい。
「夜(よ)打深更(うちふけ)テ、宴(えん)ノ松原ノ程ニ、濃キ打(うち)タル袙(あこめ)ニ、紫菀色(しをんいろ)ノ綾(あや)ノ袙重ネテ着タル女(め)ノ童(わらは)ノ、前(さき)ニ行ク様体(やうだい)・頭(かしら)ツキ、云ハム方無ク月影ニ映テ微妙(めでた)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.162」岩波書店)
安高は近づいて声を掛けながら女性に触れて誘ってみる。女性からは実に高貴な「薫(たきもの)ノ香(かほり)」が立ちのぼった。原文に、安高は「触這」(ふればふ)とある。女性の体型に沿って手を這わせる露骨な性的誘惑。今ならまったくのセクハラか痴漢行為に当たるが当時はそれが遊び目的の軟派方法としてごく普通だった。女性は言う。「あなたはわたしのことをご存知ないはずだし、わたしはあなたのことを存じ上げません。ーーーどうしようかな」と。
安高は思う。近頃すぐそばの「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内」に妖魔めいた狐(きつね)が棲みついているとか。もしかしてこれが、と。ちなみに「豊楽院(ぶらくゐん)は「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」のすぐ西に位置する饗宴(節会のための宴会、競馬など)が行われる場所。「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」は即位式・大嘗会など、より重要な大礼が行われる場所で大内裏正庁にあたり、その正殿が大極殿(だいごくでん)。
それはそうと若い女性(十三、四歳くらい)は屈託のない愛嬌たっぷりな声で話してはいるが、一方、絵が描かれた扇で顔のほとんどを隠したまま恥ずかしがる風情で安高を誘惑するばかり。どこか怪しい。少しびっくりさせて正体を探ってみるかと安高は考える。
「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内ニハ人謀(たばか)ル狐有(あり)、ト聞クゾ。若(も)シ、此レハ然(さ)ニモヤ有ラム。此奴(こやつ)恐(おど)シテ試(こころ)ム。顔ヲヅブト不見(み)セヌガ怪(あやし)キニ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)
安高はいきなり打って変わった様子を見せていう。おれは実は引剥(ひきはぎ)だ。そのいやらしく汚らわしい服をむき出しに剥ぎ取ってやる。と言うや否や女性の着物の紐を解いて引き下ろし肩をむき出しにさせ、冷え冷えとした刀を頸(のど)にぴたりと押し付けた。さらにその、余りにも卑猥な頸(くび)をすっぱり斬り落とすぞ、着ている服をとっととこちらに寄こせ、と言いながら女性の髪の毛を鷲づかみにして強引に引きずり傍の柱にびしりと押し付けた。と、その時女性は、安高目掛けてたとえようのない臭い小便を勢いよくぶっかけた。安高が思わずひるんだ隙に女性は瞬時に狐に変身した。そして「こんこん」と鳴きながら今の二条城辺りから大宮通を北の方角へ一目散に走り去った。
「『実(まこと)ニハ、我レハ引剥(ひきはぎ)ゾ。シヤ衣(きぬ)剥(はぎ)テム』ト云フママニ、紐(ひも)ヲ解(とき)テ引編(ひきかたぬ)ギテ、八寸許(ばかり)ノ刀ノ凍(こほり)ノ様(さま)ナルヲ抜(ぬき)テ、女ニ指宛(さしあて)テ、『シヤ吭(のど)掻切(かききり)テム』ト、『其ノ衣(きぬ)奉(たてまつ)レ』ト云(いひ)テ、髪ヲ取テ柱ニ押付(おしつけ)テ、刀ヲ頸(くび)ニ指充(さしあて)ツル時ニ、女、艶(えもいは)ズ臭(くさ)キ尿(いばり)ヲ前ニ散(さ)ト馳懸(はせか)ク。其ノ時ニ、安高驚(おどろき)テ免(ゆる)ス際(きは)ニ、女忽(たちまち)ニ狐ニ成テ、門(もん)ヨリ走リ出デテ、『コウコウ』ト鳴(なき)テ、大宮登(のぼり)ニ逃テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)
妖怪〔鬼・ものの怪〕特有の強烈な「臭い」については以前取り上げたように「牛頭」の鬼のケースが有名。
「夜半(やはん)に成ぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うがち)て入る者有り。其の香(か)極(きわめ)て臭し。其の息、牛の鼻息を吹き懸(かく)るに似たり。然れども、暗(くら)ければ、其の体(すがた)をば何者(なにもの)と不見(みえ)ず。既に入り来(きたり)て、若き僧に懸(か)かる。僧大(おお)きに恐(お)ぢ怖(おそ)れて、心を至して法花経(ほけきよう)を誦(じゆ)して、『助け給へ』と念ず。而るに、此の者、若き僧をば棄(す)てて、老たる僧の方(かた)に寄(より)ぬ。鬼、僧を爴(つか)み刻(きざみ)て忽(たちまち)に噉(くら)ふ。老僧(おいたるそう)、音(こえ)を挙(あげ)て大きに叫ぶと云えども、助くる人無くして、遂(つい)に被噉(くらわれ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十七・第四十二・P.358」岩波文庫)
逆も言える。自分たちとは違った異臭を放つ物ゆえにあえて「妖怪〔鬼・ものの怪〕」とされたのかもしれない。先住民や移民らはまだまだ都のすぐ近くに出没していた時代である。「体臭」の違いが朝廷側とそれ以外の勢力とを区別する基準の一つだったのかもしれない。ふだん何を食しているか。それによって自然と体臭や息の匂いは違ってくる。それによって生活様式の違いもまた判別できたのだろう。平安時代はまだなお多くの異民族たちとの共存状態が続いていたことを物語形式で残しておくべき何らかの必要性があったかと考えられる。
また、安高の言葉なのだがこう言っている。「若(も)シ人ニヤ有ラムト思(おもひ)テコソ、不殺(ころさ)ザリツルニ」。試しに脅してみて本当に人間だったら殺さなかったのに、狐だとわかっていたら必ず殺してやっていたところだ。小便をふっかけられてひるんでしまい惜しいことをしたと。若い女性の衣服を肩まですっかり露わにして動けぬように柱に押し付けておいて、本当に人間だったらどうしたと言いたいのだろうか。しかし狐だと見抜けなかったとしたら逆に殺されていたに違いない。真夜中の「宴(えん)ノ松原」にほいほい出かけて愛の語らい場所にしていた当時の若い貴族らもそうだ。この時の安高の強引な振る舞いにしてもまたそうだ。正体不明の妖怪出没地として有名なのは確かだったのだろう。けれども平安時代後半というのは、ただ単に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」に殺されるとかいった類の話ばかりでなく、敗北者の側は常に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」と見なされる政治構造が延々と続いていく説話が少なくない。この種の説話はそのほんの先駆けでしかない時代だったのだろう。歴史書を見るとなるほど狐は早くから農耕稲作文化の守護神になっている。しかし農耕稲作を営まない狩猟・漁撈を主とする人々にとって狐は必ずしも稲作だけのための守護神である必要はない。むしろ特に山間部で暮らす人々にとっては自分たちのトーテムあるいは山の神として信仰されていたかもしれない可能性を排除することはできない。
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舞台は少し前に取り上げた「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」。こう説明した。
今の京都市上京区を東西に通る出水通と南北に通る千本通との交差点をやや西側へ入った付近に「武徳殿(ぶとくでん)ノ松原(まつばら)」=「宴(えん)ノ松原(まつばら)」と呼ばれる場所があった。大内裏の中の「武徳殿、真言院(しんごんいん)、大歌所(おおうたどころ)」に囲まれただだっ広い広場のような場所で敷地面積はその西に位置する「内裏」(だいり)と同じほど。武術や競馬が行われていたようだが、内裏とほぼ同じ面積であることから、あるいは内裏の代替地として確保されていた可能性が指摘されている。かつてそこは妖怪出没地として有名だった。
またところどころに松が植えてあり、密生しているわけではないものの、そこそこの松原として男女が出会い恋愛について語り合う密会の場でもあった。次に述べる説話も「宴(えん)ノ松原(まつばら)」付近で発生した。
平安時代、「幡磨(はりま)ノ安高(やすたか)」という近衛舎人(このゑのとねり)がいた。本来、近衛府は宮中守護・皇族警備を主として創設された役職(今でいう警視庁に近い)。だから武具を身に付けてはいるものの、時代を降るに連れて本格的な武士階級の台頭のため、宮廷人の邸宅や年中行事で行われる神楽〔演舞・奏楽〕が主な任務に変わっていく。余りにも歌が巧みなのでそれを悦んだ山神に魂を持って行かれて死んだ舎人の話は以前「巻第二十七・近衛舎人、於常陸国山中詠歌死語・第四十五」を引用して述べた。しかしここで登場する「近衛舎人・安高(やすたか)」は武術に秀でていた人物。安高の父は「右近(うこん)ノ将監(しやうげん)」(天皇周辺の現場指揮官)を務めた「幡磨(はりま)ノ貞正(さだまさ)」。
月がとても明るい九月二十日の夜。安高は西の京の家へ戻ろうと大内裏の中を歩いて横切り「宴(えん)ノ松原」の辺りに差し掛かったところ、少女が身に付ける服装をまとった人の姿が目に入った。月影に照らし出されたそれは大変美しい。
「夜(よ)打深更(うちふけ)テ、宴(えん)ノ松原ノ程ニ、濃キ打(うち)タル袙(あこめ)ニ、紫菀色(しをんいろ)ノ綾(あや)ノ袙重ネテ着タル女(め)ノ童(わらは)ノ、前(さき)ニ行ク様体(やうだい)・頭(かしら)ツキ、云ハム方無ク月影ニ映テ微妙(めでた)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.162」岩波書店)
安高は近づいて声を掛けながら女性に触れて誘ってみる。女性からは実に高貴な「薫(たきもの)ノ香(かほり)」が立ちのぼった。原文に、安高は「触這」(ふればふ)とある。女性の体型に沿って手を這わせる露骨な性的誘惑。今ならまったくのセクハラか痴漢行為に当たるが当時はそれが遊び目的の軟派方法としてごく普通だった。女性は言う。「あなたはわたしのことをご存知ないはずだし、わたしはあなたのことを存じ上げません。ーーーどうしようかな」と。
安高は思う。近頃すぐそばの「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内」に妖魔めいた狐(きつね)が棲みついているとか。もしかしてこれが、と。ちなみに「豊楽院(ぶらくゐん)は「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」のすぐ西に位置する饗宴(節会のための宴会、競馬など)が行われる場所。「八省院(はっしょういん)」=「朝堂院(ちょうどういん)」は即位式・大嘗会など、より重要な大礼が行われる場所で大内裏正庁にあたり、その正殿が大極殿(だいごくでん)。
それはそうと若い女性(十三、四歳くらい)は屈託のない愛嬌たっぷりな声で話してはいるが、一方、絵が描かれた扇で顔のほとんどを隠したまま恥ずかしがる風情で安高を誘惑するばかり。どこか怪しい。少しびっくりさせて正体を探ってみるかと安高は考える。
「豊楽院(ぶらくゐん)ノ内ニハ人謀(たばか)ル狐有(あり)、ト聞クゾ。若(も)シ、此レハ然(さ)ニモヤ有ラム。此奴(こやつ)恐(おど)シテ試(こころ)ム。顔ヲヅブト不見(み)セヌガ怪(あやし)キニ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)
安高はいきなり打って変わった様子を見せていう。おれは実は引剥(ひきはぎ)だ。そのいやらしく汚らわしい服をむき出しに剥ぎ取ってやる。と言うや否や女性の着物の紐を解いて引き下ろし肩をむき出しにさせ、冷え冷えとした刀を頸(のど)にぴたりと押し付けた。さらにその、余りにも卑猥な頸(くび)をすっぱり斬り落とすぞ、着ている服をとっととこちらに寄こせ、と言いながら女性の髪の毛を鷲づかみにして強引に引きずり傍の柱にびしりと押し付けた。と、その時女性は、安高目掛けてたとえようのない臭い小便を勢いよくぶっかけた。安高が思わずひるんだ隙に女性は瞬時に狐に変身した。そして「こんこん」と鳴きながら今の二条城辺りから大宮通を北の方角へ一目散に走り去った。
「『実(まこと)ニハ、我レハ引剥(ひきはぎ)ゾ。シヤ衣(きぬ)剥(はぎ)テム』ト云フママニ、紐(ひも)ヲ解(とき)テ引編(ひきかたぬ)ギテ、八寸許(ばかり)ノ刀ノ凍(こほり)ノ様(さま)ナルヲ抜(ぬき)テ、女ニ指宛(さしあて)テ、『シヤ吭(のど)掻切(かききり)テム』ト、『其ノ衣(きぬ)奉(たてまつ)レ』ト云(いひ)テ、髪ヲ取テ柱ニ押付(おしつけ)テ、刀ヲ頸(くび)ニ指充(さしあて)ツル時ニ、女、艶(えもいは)ズ臭(くさ)キ尿(いばり)ヲ前ニ散(さ)ト馳懸(はせか)ク。其ノ時ニ、安高驚(おどろき)テ免(ゆる)ス際(きは)ニ、女忽(たちまち)ニ狐ニ成テ、門(もん)ヨリ走リ出デテ、『コウコウ』ト鳴(なき)テ、大宮登(のぼり)ニ逃テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十八・P.163」岩波書店)
妖怪〔鬼・ものの怪〕特有の強烈な「臭い」については以前取り上げたように「牛頭」の鬼のケースが有名。
「夜半(やはん)に成ぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うがち)て入る者有り。其の香(か)極(きわめ)て臭し。其の息、牛の鼻息を吹き懸(かく)るに似たり。然れども、暗(くら)ければ、其の体(すがた)をば何者(なにもの)と不見(みえ)ず。既に入り来(きたり)て、若き僧に懸(か)かる。僧大(おお)きに恐(お)ぢ怖(おそ)れて、心を至して法花経(ほけきよう)を誦(じゆ)して、『助け給へ』と念ず。而るに、此の者、若き僧をば棄(す)てて、老たる僧の方(かた)に寄(より)ぬ。鬼、僧を爴(つか)み刻(きざみ)て忽(たちまち)に噉(くら)ふ。老僧(おいたるそう)、音(こえ)を挙(あげ)て大きに叫ぶと云えども、助くる人無くして、遂(つい)に被噉(くらわれ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十七・第四十二・P.358」岩波文庫)
逆も言える。自分たちとは違った異臭を放つ物ゆえにあえて「妖怪〔鬼・ものの怪〕」とされたのかもしれない。先住民や移民らはまだまだ都のすぐ近くに出没していた時代である。「体臭」の違いが朝廷側とそれ以外の勢力とを区別する基準の一つだったのかもしれない。ふだん何を食しているか。それによって自然と体臭や息の匂いは違ってくる。それによって生活様式の違いもまた判別できたのだろう。平安時代はまだなお多くの異民族たちとの共存状態が続いていたことを物語形式で残しておくべき何らかの必要性があったかと考えられる。
また、安高の言葉なのだがこう言っている。「若(も)シ人ニヤ有ラムト思(おもひ)テコソ、不殺(ころさ)ザリツルニ」。試しに脅してみて本当に人間だったら殺さなかったのに、狐だとわかっていたら必ず殺してやっていたところだ。小便をふっかけられてひるんでしまい惜しいことをしたと。若い女性の衣服を肩まですっかり露わにして動けぬように柱に押し付けておいて、本当に人間だったらどうしたと言いたいのだろうか。しかし狐だと見抜けなかったとしたら逆に殺されていたに違いない。真夜中の「宴(えん)ノ松原」にほいほい出かけて愛の語らい場所にしていた当時の若い貴族らもそうだ。この時の安高の強引な振る舞いにしてもまたそうだ。正体不明の妖怪出没地として有名なのは確かだったのだろう。けれども平安時代後半というのは、ただ単に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」に殺されるとかいった類の話ばかりでなく、敗北者の側は常に「妖怪〔鬼・ものの怪〕」と見なされる政治構造が延々と続いていく説話が少なくない。この種の説話はそのほんの先駆けでしかない時代だったのだろう。歴史書を見るとなるほど狐は早くから農耕稲作文化の守護神になっている。しかし農耕稲作を営まない狩猟・漁撈を主とする人々にとって狐は必ずしも稲作だけのための守護神である必要はない。むしろ特に山間部で暮らす人々にとっては自分たちのトーテムあるいは山の神として信仰されていたかもしれない可能性を排除することはできない。
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