死ぬと石になるという伝説は世界中で採集される。熊楠が紹介しているケースはまた異なっていて、紀州熊野では死ぬこと自体を指して「金になる」といったらしい。以前少し触れた。
「『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.452』河出文庫)
引用されている「沙石集」は岩波書店版「日本古典文学体系」の次の箇所。
「サテ夜(よ)ルヨリアヒタリケルニ、先達ハ、ヤガテ金ニ成ス。熊野ニハ、死ヲバ金ニナルトイヘリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・六・P.466」岩波書店)
だがそれは例外的だ。理由は折口信夫が述べているように遠く古代の「熊野人」の異質性から検討し割り出してみないとわからない。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
日本がまだ倭国と呼ばれていた頃すでに他民族との接点を多く持っていた。主に山岳地帯沿いに移動したため鉱山に居住する先住民との流通路を必然的に獲得した結果だろう。しかしこうしたケースは例外的なものだ。その例外性が熊野人の異質性をさらに明確化していったように思える。折口のいう「海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た」という論考。それは山間部ではなく南アジアの海岸沿いを航路として列島各地に到着・定着した海人の系譜に属する。朝鮮半島、八重山群島、台湾、インドネシア、メラネシアなど、その範囲は広い。だが石の信仰は明らかに山人の系譜に属する。もともと倭国各地で暮らしていた多くの先住民たちの最後の生活圏がそれに当たる。古代倭朝廷の創成期、様々な海の幸が献上された。それは遥か古くからあった海の塩の記憶へ繋がっている。
「淡路島(あはぢしま)松帆(まつほ)の浦(うら)に朝なぎに玉藻(たまも)刈(か)りつつ夕なぎに藻塩(もしほ)焼きつつ海人娘子(あまをとめ)」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九三五・笠朝臣金村・P.141~142」小学館)
と同時にこの重労働は世界中のあちこちで今なお続く人身売買の歴史と切り離せない。
「姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う」(森鴎外「山椒大夫」『森鷗外全集5・P.170』ちくま文庫)
姉の安寿が負っていた「塩汲み」。謡曲「松風」から。
「いざいざ塩を汲(く)まんとて、汀(みぎは)に満(み)ち干(ひ)の塩衣(しほごろも)の、袖を結(むす)んで肩(かた)に掛(か)け、塩汲むためとは思へ共(ども)、よしそれとても、女車(ぐるま)」(新日本古典文学体系「松風」『謡曲百番・P.590』岩波書店)
舞うのは地位も名誉もある錚々たる能楽師たち。その一方、中上健次はいう。
「胸のそこここにたまっている不満を言うなら私が血にこだわり路地にこだわる事を熊野の者はよせと露骨に言う。今すこし具体的に言えば、下駄直し、牛殺し、獣の皮はぎの子におまえは生れたかもしれないが、下駄直しや牛殺しや皮はぎの住む路地や、身うちに牛のひづめの手の者が生れたという血にこだわらず、きらきらと輝く南国の紀州新宮を描け。そのたびにやり場のない怒りに襲われ、悪意を抱き、息だけついて絶望し、いつか新宿の飲み屋で能役者におまえの手は牛殺しの手ではないから能など演じたところで幽玄も表われやしないと絡んだのを思い出し、世阿弥であるなら私のこの気持ちを分かってくれるだろうとなぐさめる」(中上健次「熊野集・蝶鳥」『中上健次選集9・P.60~61』小学館文庫)
金箔を彩るその《手》はいつも両義性を帯びている。しかしともかく、金になるわけではさらさらなく、ただ単なる石になる場合、その石はどこから来たのか。だがそれは同時に何をするのか。京と近江との境にある山科。四宮(しのみや)はそのほぼ中心地。「袖(そで)くらべ」は商品売買の際、商人同士が互いの袖の中へ腕を入れて隠し、指の組み合わせで取引する行為。そこに一人の名もない男性が暮らしていた。
「いまはむかし、山科(やましな)の道づらに、しの宮がはらといふ所にて、袖(そで)くらべといふ商人(あきびと)のあつまる所あり」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128」角川文庫)
男性は一体の地蔵を作った。が、日々の生計のために必要なあれこれに取り紛れているうち、早くも三、四年が経って地蔵を部屋の奥の櫃(ひつ)の中に収めたまますっかり忘れてしまった。或る日の夜、男性は奇妙な夢を見る。家の前辺りの道端から呼びかける声がする。なんの用かと問うと「お地蔵さんのことです」という。今度は家の奥から「何?」と答える声がする。会話は男性の頭越しになされる。再び家の外から何か尋ねようとする声が高く響いた。「明日、帝釈天の地蔵菩薩供養の集まりがあるのですが、あなたはいかがでしょう?」。部屋の奥から返事が返る。「行こうと思っているのだがまだ目が見えないのでどうしようかと」。さらに家の外から。「是非とも参加してほしいのですが」。男性ははたと思い出した。
「ある夜、夢に、大路(おほぢ)をすぐるもののこゑだかに人よぶ声のしければ、『なに事ぞ』ときけば、『地蔵こそこそ』と、たかくこの家の前にていふなれば、おくのかたより『何事ぞ』と、いらふるこゑす也(なり)。『明日天帝尺(てんたいしやく)の地蔵會(ぢぞうゑ)したまふにまゐらせ給はぬか』といへば、此小家の内より、『まゐらんと思へど、まだ目のあかねば、えまゐるまじきなり』といへば、『構(かま)へてまゐり給へ』といゑば、『目も見えねば、いかでかまゐらん』といふ声す也(なり)」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128」角川文庫)
家の奥に仕舞い込んだまま数年間忘れていた地蔵だが、考えてみれば開眼供養していなかった。
「あやしくて、夜あけて、おくのかたをよくよくみれば、此地蔵ををさめておきたてまつりたりけるを思(おもひ)いでて、見いだしたりけり」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128~129」角川文庫)
開眼供養は一般に人間の墓や仏壇の場合、「魂(たま)入れ・性根(しょうね)入れ」、と言う。そうすることで故人の精神・魂・“spirit”が宿るとされる。しかし一連の儀式をすべて済ませようとすると平均的なレベルであってもかなりの金額がかかるのも事実。日本仏教界も今や新自由主義。低所得世帯はそれこそ平安時代の鴨川東側から鳥辺山一帯がそうであったように、髑髏ばかりが転がり盛土するのがせいぜいの暗黒地帯と化すことは目に見えているというほかない。西鶴は書いている。
「風のはげしき夕暮(ゆふぐれ)、しかも雪日和(ゆきびより)にして、はや北山は松の葉しろく見わたし、物のさわがしき道橋(みちはし)の下、五条の川原を夜(よる)の臥(ふ)し所(どころ)として、渡世(とせい)夢のやうに極(きは)めて、まことに石火(せきくわ)の光、朝(あした)に鞍馬川(くらまがは)の火打石(ひうちいし)をひろひ、洛中(らくちゆう)を売り廻(めぐ)りて、残れば夕(ゆふべ)に捨てて、その日暮しの思ひ出(で)、これを都の今賢人(いまけんじん)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.482~483』小学館)
当時の五条の橋の下。五条河原(ごじょうがわら)。食いつめた人々が大量の物乞いとなって足の踏み場もないのではと見えるほど寝転がっていた。それで日常。それが日常。今も鴉が飛んでいるが過去に遡ってDNAを調べる技術ができれば、当時の死者のものと思われるDNAも共に検出されるかも知れない。
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「『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.452』河出文庫)
引用されている「沙石集」は岩波書店版「日本古典文学体系」の次の箇所。
「サテ夜(よ)ルヨリアヒタリケルニ、先達ハ、ヤガテ金ニ成ス。熊野ニハ、死ヲバ金ニナルトイヘリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・六・P.466」岩波書店)
だがそれは例外的だ。理由は折口信夫が述べているように遠く古代の「熊野人」の異質性から検討し割り出してみないとわからない。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
日本がまだ倭国と呼ばれていた頃すでに他民族との接点を多く持っていた。主に山岳地帯沿いに移動したため鉱山に居住する先住民との流通路を必然的に獲得した結果だろう。しかしこうしたケースは例外的なものだ。その例外性が熊野人の異質性をさらに明確化していったように思える。折口のいう「海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た」という論考。それは山間部ではなく南アジアの海岸沿いを航路として列島各地に到着・定着した海人の系譜に属する。朝鮮半島、八重山群島、台湾、インドネシア、メラネシアなど、その範囲は広い。だが石の信仰は明らかに山人の系譜に属する。もともと倭国各地で暮らしていた多くの先住民たちの最後の生活圏がそれに当たる。古代倭朝廷の創成期、様々な海の幸が献上された。それは遥か古くからあった海の塩の記憶へ繋がっている。
「淡路島(あはぢしま)松帆(まつほ)の浦(うら)に朝なぎに玉藻(たまも)刈(か)りつつ夕なぎに藻塩(もしほ)焼きつつ海人娘子(あまをとめ)」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九三五・笠朝臣金村・P.141~142」小学館)
と同時にこの重労働は世界中のあちこちで今なお続く人身売買の歴史と切り離せない。
「姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一日一日(ひとひひとひ)と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う」(森鴎外「山椒大夫」『森鷗外全集5・P.170』ちくま文庫)
姉の安寿が負っていた「塩汲み」。謡曲「松風」から。
「いざいざ塩を汲(く)まんとて、汀(みぎは)に満(み)ち干(ひ)の塩衣(しほごろも)の、袖を結(むす)んで肩(かた)に掛(か)け、塩汲むためとは思へ共(ども)、よしそれとても、女車(ぐるま)」(新日本古典文学体系「松風」『謡曲百番・P.590』岩波書店)
舞うのは地位も名誉もある錚々たる能楽師たち。その一方、中上健次はいう。
「胸のそこここにたまっている不満を言うなら私が血にこだわり路地にこだわる事を熊野の者はよせと露骨に言う。今すこし具体的に言えば、下駄直し、牛殺し、獣の皮はぎの子におまえは生れたかもしれないが、下駄直しや牛殺しや皮はぎの住む路地や、身うちに牛のひづめの手の者が生れたという血にこだわらず、きらきらと輝く南国の紀州新宮を描け。そのたびにやり場のない怒りに襲われ、悪意を抱き、息だけついて絶望し、いつか新宿の飲み屋で能役者におまえの手は牛殺しの手ではないから能など演じたところで幽玄も表われやしないと絡んだのを思い出し、世阿弥であるなら私のこの気持ちを分かってくれるだろうとなぐさめる」(中上健次「熊野集・蝶鳥」『中上健次選集9・P.60~61』小学館文庫)
金箔を彩るその《手》はいつも両義性を帯びている。しかしともかく、金になるわけではさらさらなく、ただ単なる石になる場合、その石はどこから来たのか。だがそれは同時に何をするのか。京と近江との境にある山科。四宮(しのみや)はそのほぼ中心地。「袖(そで)くらべ」は商品売買の際、商人同士が互いの袖の中へ腕を入れて隠し、指の組み合わせで取引する行為。そこに一人の名もない男性が暮らしていた。
「いまはむかし、山科(やましな)の道づらに、しの宮がはらといふ所にて、袖(そで)くらべといふ商人(あきびと)のあつまる所あり」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128」角川文庫)
男性は一体の地蔵を作った。が、日々の生計のために必要なあれこれに取り紛れているうち、早くも三、四年が経って地蔵を部屋の奥の櫃(ひつ)の中に収めたまますっかり忘れてしまった。或る日の夜、男性は奇妙な夢を見る。家の前辺りの道端から呼びかける声がする。なんの用かと問うと「お地蔵さんのことです」という。今度は家の奥から「何?」と答える声がする。会話は男性の頭越しになされる。再び家の外から何か尋ねようとする声が高く響いた。「明日、帝釈天の地蔵菩薩供養の集まりがあるのですが、あなたはいかがでしょう?」。部屋の奥から返事が返る。「行こうと思っているのだがまだ目が見えないのでどうしようかと」。さらに家の外から。「是非とも参加してほしいのですが」。男性ははたと思い出した。
「ある夜、夢に、大路(おほぢ)をすぐるもののこゑだかに人よぶ声のしければ、『なに事ぞ』ときけば、『地蔵こそこそ』と、たかくこの家の前にていふなれば、おくのかたより『何事ぞ』と、いらふるこゑす也(なり)。『明日天帝尺(てんたいしやく)の地蔵會(ぢぞうゑ)したまふにまゐらせ給はぬか』といへば、此小家の内より、『まゐらんと思へど、まだ目のあかねば、えまゐるまじきなり』といへば、『構(かま)へてまゐり給へ』といゑば、『目も見えねば、いかでかまゐらん』といふ声す也(なり)」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128」角川文庫)
家の奥に仕舞い込んだまま数年間忘れていた地蔵だが、考えてみれば開眼供養していなかった。
「あやしくて、夜あけて、おくのかたをよくよくみれば、此地蔵ををさめておきたてまつりたりけるを思(おもひ)いでて、見いだしたりけり」(「宇治拾遺物語・巻第五・一・P.128~129」角川文庫)
開眼供養は一般に人間の墓や仏壇の場合、「魂(たま)入れ・性根(しょうね)入れ」、と言う。そうすることで故人の精神・魂・“spirit”が宿るとされる。しかし一連の儀式をすべて済ませようとすると平均的なレベルであってもかなりの金額がかかるのも事実。日本仏教界も今や新自由主義。低所得世帯はそれこそ平安時代の鴨川東側から鳥辺山一帯がそうであったように、髑髏ばかりが転がり盛土するのがせいぜいの暗黒地帯と化すことは目に見えているというほかない。西鶴は書いている。
「風のはげしき夕暮(ゆふぐれ)、しかも雪日和(ゆきびより)にして、はや北山は松の葉しろく見わたし、物のさわがしき道橋(みちはし)の下、五条の川原を夜(よる)の臥(ふ)し所(どころ)として、渡世(とせい)夢のやうに極(きは)めて、まことに石火(せきくわ)の光、朝(あした)に鞍馬川(くらまがは)の火打石(ひうちいし)をひろひ、洛中(らくちゆう)を売り廻(めぐ)りて、残れば夕(ゆふべ)に捨てて、その日暮しの思ひ出(で)、これを都の今賢人(いまけんじん)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.482~483』小学館)
当時の五条の橋の下。五条河原(ごじょうがわら)。食いつめた人々が大量の物乞いとなって足の踏み場もないのではと見えるほど寝転がっていた。それで日常。それが日常。今も鴉が飛んでいるが過去に遡ってDNAを調べる技術ができれば、当時の死者のものと思われるDNAも共に検出されるかも知れない。
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