白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/和歌になった妖怪・リゾーム化する決算期

2021年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

はっきりした日付は特定できない。一条天皇の后・藤原彰子が京極殿(きやうごくどの)で遭遇した妖怪〔鬼・ものの怪〕について。なお、「上東門院(じやうとうもんゐん)」=「藤原彰子(ふじわらのしょうし)」=「藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘」。「京極殿(きやうごくどの)」は今の京都市上京区にある京都御苑内・大宮御所(おおみやごしょ)の北部部分。藤原道長の邸宅があった。また「京極殿(きやうごくどの)」は「土御門殿(つちみかどどの)」とも呼ばれた。全盛期の様子を紫式部が書き留めている。

秋の気配が漂う頃になると言いようのない風情に満たされる。池のほとりのあちこちに立つ木の梢、さらに庭に引き入れてある細い流れに沿う草花など、一面は様々に色付いている。この季節の空はとりわけ美しい。また彰子は出産のために土御門殿で休んでいるわけだが、安産を願って昼夜を問わず唱えられている読経の声は空の美しさと相まり、しんみりと身に沁みてくるようだ。そのうち風が涼しくなると、絶えず流れている庭のせせらぎの音は読経の声とまざり合いつつ、夜通し聞こえてくるのだった。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿(つちみかどどの)の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢(こずゑ)ども、遣水(やりいづ)のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空もえんなるにもてはやされて、不断(ふだん)の御読経(どきやう)の声々あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる」(「紫式部日記・p.7」岩波文庫)

或る春の日。彰子は南側に廂(ひさし)を設けた「日隠(ひがく)シノ間(ま)」で満開の桜を楽しんでいた。そこへ不意に「コボレテニホフ花ザクラカナ」と、この上なく神々しい声が響くのを聞いた。誰だろうと格子を開けて部屋の周囲や庭を見渡してみたが人の気配はどこにもない。いったい何者、と不審に思う。

「南面ノ日隠(ひがく)シノ間(ま)ノ程ニ、極(いみ)ジク気高(けたか)ク神(かみ)ザビタル音(こゑ)ヲ以(もつ)テ。『コボレテニホフ花ザクラカナ』ト長(なが)メケレバ、其ノ音(こゑ)ヲ院聞(きこしめ)サセ給ヒテ、『此(こ)ハ何(いか)ナル人ノ有ルゾ』ト思(おぼ)シ食(めし)テ、御障子(みしやうじ)ノ被上(あげられ)タリケレバ、御簾(みす)ノ内ヨリ御覧(ごらん)ジケルニ、何(いか)ニモ人ノ気色(けしき)モ無カリケレバ、『此(こ)ハ何(い)カニ。誰(た)ガ云ツル事ゾ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.142~143」岩波書店)

人を呼び周辺を探らせてみた。しかし人間の姿はまったく見当たらない。彰子はもしや「鬼神(おにかみ)」の仕業かと考え、当時関白だった藤原頼通(よりみち)に伝えた。すると返ってきた返事というのが、その現象は京極殿につきものの習慣で何も今に始まったことでない、いつもその和歌の一節を詠む声がするとのこと。

「其(そ)レハ、其(そこ)ノクセニテ、常ニ然様(さやう)ニ長(なが)め候フ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.143」岩波書店)

彰子が聞いた和歌の一節「コボレテニホフ花ザクラカナ」。この歌には原典がある。

「菅家万葉集の中

浅緑(あさみどり)野辺(のべ)の霞は包(つつ)めどもこぼれてにほふ花桜(ざくら)哉」(「拾遺和歌集・巻第一・四十・よみ人知らず・P.14」岩波書店)

なるほど「よみ人知らず」とあるものの、一方、「菅家万葉集の中」の一首として紹介されている。「菅家万葉集」(新撰万葉集)の撰者に関しては諸説あるものの、延喜一年(九〇一年)に太宰府に左遷されて死んだ菅原道真の私撰和歌集との説が最有力。延喜十三年(九一三年)には成立したようだ。その翌年の延喜十四年(九一四年)、日本初の勅撰和歌集・「古今和歌集」が紀友則(きのとものり)、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこおうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)によって編纂された。「コボレテニホフ花ザクラカナ」の歌は古今集には載らず次の「後撰和歌集」にも載らず、約九十年後の「拾遺和歌抄」並びに「拾遺和歌集」に掲載された。同時期には「源氏物語」や「枕草子」が書かれていて平安時代文芸文化の全盛期に当たる。けれども政治の表舞台では出家していた花山院が愛人のもとへ通っていることが暴露され、それを藤原道長が利用して政敵(と言っても圧倒的に政治手腕に長けていたのは道長の側だが)の藤原伊周(これちか)・藤原隆家(たかいえ)らを都合よく左遷し去った。左遷先だが隆家は出雲、しかし伊周は太宰府。道真の左遷先と妙に重なる。なおかつ御霊(ごりょう)=怨霊(おんりょう)信仰が幅を利かせていた時代だったからか、道真左遷から九十年ほども後になり初めて勅撰和歌集に取り上げられる経過を辿ったのではと思われる。そうした政治的背景を考慮すると次のように、常は夜に出現するのが常識だった妖怪〔鬼・ものの怪〕が、なぜ白昼の「京極殿(きやうごくどの)」に出現したかが見えてきそうに思う。

「然様(さやう)ノ物ノ霊ナドハ、夜(よ)ルナドコソ現(げん)ズル事ニテ有レ、真日中(まひなか)ニ、音(こゑ)ヲ挙(あげ)テ長(なが)メケム、実(まこと)ニ可怖(おそるべ)キ事也カシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.143」岩波書店)

妖怪〔鬼・ものの怪〕は和歌にも変身するわけだ。近現代になって和歌集あるいは短歌集が商品に《なる》ように、と同時にいつでも貨幣交換可能に《なる》ように。

さらに白昼の「京極殿(きやうごくどの)」で和歌の吟詠が起こることについて「それは京極殿のあの場所ではいつものことだ」と言った藤原頼通は天喜一年(一〇五三年)、宇治に平等院鳳凰堂を建立している。翌天喜三年(一〇五五年)には三島由紀夫がこよなく愛した「堤中納言物語」が書かれる。毛虫大好きな毛虫フェチでなおかつ美貌の姫君にまつわる短編が有名。

「かくまであらぬも、世(よ)のつねび、ことざま、気配(けはい)もてつけぬるは、くうちをしうやはある。まことに、うとましかるべきさまなれど、いと清(きよ)げに、けだかう、わづらはしきけぞことなるべき。あな、くちをし。などか、いとむつけき心なるらむ。かばかりなるさまを」(「虫めづる姫君」『堤中納言物語・P.42』岩波文庫)

この姫君ほど美女でなくてもごく普通に世間で通っている常識的身振り物腰を身に付けた女性はたくさんいる。それを思うと残念な気持ちがしないだろうか。なるほど実に親しみにくい様子ではあるものの、とても凛としていて清廉高貴な雰囲気を漂わせておられる。ところが毛虫好きという厭わしい性癖。惜しいことだ。ぞっとするほど気味悪い。これほど美しい姫君であるのに。

そう周囲はいう。けれども姫君にすればそんな周囲の評価などどうでもよい。ただ見つけては手に取って這わせる毛虫どもの可愛らしさがたまらなくうっとりする。卑猥というより、随分後になって谷崎潤一郎が描いたような耽美主義的色彩が平安文学にも大きな陰翳を投げかけ出したばかりか、むしろそのような耽美性こそ味わい深く書かれ、また読み込まれるようになってきていた。そして言わねばならないが、この姫君の性癖がどれほど奇異に映って見えたとしても、「堤中納言物語」で忽然と登場した姫君はもはや妖怪〔鬼・ものの怪〕ではない。近代的フェチの先駆けというにふさわしい。なお、このような趣味性癖の出現を準備したのは間違いなく「源氏物語」である。江戸時代になって書かれた西鶴「好色一代男」が、実は「源氏物語」を下敷きにした或る種のパロディだとわかる人々。それが今や風前の灯と言っていいほど減少したのはなぜだろうか。日本は言葉(数式もまた一種の言語)を大切にする国だと言われてきた。だがそのようなことはもはや誰にも言えなくなってしまったように思う。

なお現在、日本政府による国策の致命的失策から一年を通してずっと「決算期」=「かつての晦日・年末」に陥っていることをはっきりさせておかないと危険この上ない。かつて熊楠はいった。

「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383~384』河出文庫)

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

年末の決算期はさらに厳しい。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

とあるように精一杯歌い踊りを繰り返してもなお、故郷へ帰ることは絶望的になっていた。

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