前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
源重信(みなもとのしげのぶ)が左大臣だった頃。「方違(かたたがへ)」=「方角タブー」を避けるため一晩だけ朱雀院(すじやくゐん)で過ごす必要があった。朱雀院の東は今の京都市中京区千本通辺から西は京都市中京区七本松通付近まで。北は三条通から南は四条通まで。広大な敷地を誇った。ちなみに京都市中京区壬生花井(はない)町に「朱雀院跡」の石碑がある。ただ、この石碑の位置は朱雀院でも最南端部に当たるらしい。中央部はそのすぐ北に隣接する京都市中京区壬生天池(あまがいけ)町付近とされる。また東西に走る三条通と四条通との間は北から六角(ろっかく)通・蛸薬師(たこやくし)通・錦小路(にしきこうじ)通が走る。なかでも当時の六角通周辺は平安貴族の住宅街。ほぼ中心部かとされている天池(あまがいけ)町を東西に走るのも六角通である。しかし朱雀院のほぼ真ん中を南北に堂々と貫いているのは今のJR山陰線。何と大胆な、と思わずにいられない。
源重信は警護役の藤原頼信(ふじわらのよりのぶ)を呼ぶ。「餌袋(ゑぶくろ)」(=食物を入れて持ち運ぶための袋)を手渡して様々な果実をぎりぎり一杯まで詰め込ませ、組紐で頑丈に結んで持たせた。頼信はそれを持って先に朱雀院に入って重信の到着を待つことになった。
「大キナル餌袋(ゑぶくろ)ニ交菓子(まぜくだもの)ヲ鉉(はた)ト等シク調(ととの)ヘ入レテ、緋(ひ)ノ組(くみ)ヲ以テ上ヲ強ク封結(ふうむすび)ニシテ、頼信ニ預ケテ、『此レ持行(もちゆき)テ置タレ』トテ給ヒタリケレバ、頼信、餌袋ヲ取テ下部(しもべ)ニ持セテ、朱雀院ニ行ニケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・107~108」岩波書店)
やがて夜も更けてきた。朱雀院に到着して待っていた頼信は不覚にも居眠ってしまう。しばらくしてやっと左大臣重信が到着し、一家の子息らが集まってきた。何となく退屈していたのでお菓子代わりにさっそく果実を食べようと餌袋を開けたところ、中には塵一つ見当たらない。
「其ノ餌袋ヲ取寄セテ、開(あけ)テ見ルニ、餌袋ノ内ニ、塵許(ちりばかり)モ入(いり)タル物無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)
頼信は釈明する。朱雀院へ来る道中、その餌袋には気を付けてずっと監視していたと。ただ考えられるとすれば、ここへ到着して夜更けになり、ほんの僅かばかり居眠ってしまったことくらいで、その隙に妖怪〔鬼・ものの怪〕にしてやられたかと。
「頼信ガ白地目(あからめ)ヲ仕(つかまつ)リ、餌袋ニ目ヲ放(はなち)テ候(さぶら)ハバコソ、人ニハ被取候(とられさぶら)ハメ、殿ヲ罷出(まかりい)ヅルニ、餌袋ヲ給ハリテ、殿ノ下部(しもべ)ニ持(もた)セテ、終道(みちすがら)目不放候(はなちさぶらは)ズ。此(ここ)ニ取入レテハ、ヤガテ此(かく)テ抑(おさへ)テ候(さぶらひ)ツル物ヲ、何(いか)デカ失(うしなひ)候ハム。然(さ)テハ、頼信ガ抑(おさへ)テ寝入(ねいり)テ候ツル程ニ、鬼ナムドノ取テケルニヤ候(さぶらふ)ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)
頼信の言葉に嘘偽りはまずないと考えられる。というのは、頼信はただ単なる要人警護役の一人ではなく「大臣ノ御許(もと)ニ有(あり)ケレバ」とあり、左大臣重信から厚く寵愛された私的同性愛関係に基づく主従関係があったと見られるからである。頼信にしてみれば、もし万が一にも裏切ったりすればただちに斬られるかもしれない緊張関係があったはずだ。そしてまた重信も頼信の言葉を全面的に信用している。
それはそれとして、妖怪〔鬼・ものの怪〕は貨幣のように何にでも変態可能だ。ふいに消え失せることなど朝飯前。とすれば、妖怪〔鬼・ものの怪〕は頼信の睡眠中にこっそり不意を突いたと思えるにしても、そもそも餌袋一杯に詰め込んだ色々な果実自体、始めから妖怪〔鬼・ものの怪〕が変化していたものかも知れない。頼信が居眠っている間に消え失せて二人の恋愛関係をちょっとからかってやれと思って悪戯したに過ぎないとも考えられる。あるいは左大臣重信自ら怪異を起こすことがあると伝えられていた餌袋を知らぬ顔でわざと頼信に手渡して後で事情を問いただし、信頼関係を試してみたとも読めるだろう。そうなってくると他でもない左大臣こそ次々と変身を遂げる貨幣にも似た妖怪〔鬼・ものの怪〕を何食わぬ顔で操る平安貴族の妖怪じみて見えてこなくもない。
ところで、江戸時代になってなお、妖怪〔鬼・ものの怪〕は当り前のように町人の日常生活の中に溶け込んでいた。しかし何より怖いのは既に実在する貨幣と貨幣経済という目に見える現実である。そこそこ借金するためにはそれに見合った信用がなくてはしようにも出来ない。だから中には、身の丈を大きく見せるために涙ぐましいほど連日連夜、遊び惚けて見せ、自分にはこれほど財力があるのだと周囲に知らしめておく必要があった。とりわけ「人付会(ひとづきあひ)」。常に社交界に出入りして顔を売っておくこと。それが第一の無理無駄である。第二に「傾城(けいせい)狂ひ」。遊郭遊びである。熊楠は明治時代になってあちこちに出現した俄成金についてどうしようもない連中だと呆れ返っている。
「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)
第三に「野郎(やらう)遊び」。江戸時代は特に盛んに目立った男色遊び。本当の同性愛ではなく、ただ単に流行しているというだけでその真似事に打ち込む町人・商人が急に増えた。次の文章は西鶴のものだが、「野郎(やらう)遊び」のすぐ後に「尻(しり)」と繋いで少しばかり文才を見せているのが面白い。とはいえこの場合、派手に遊び騒いで見せるのは、金を借りるために必要な信用があると見せかけているに過ぎない。
「おのがかせぎは粗略(そりやく)して、居宅(きよたく)を綺麗(きれい)に作り、朝夕(あさゆふ)酒宴・美食を好み、衣類・腰の物を拵(こしら)へ、分際(ぶんざい)に過ぎたる人付会(ひとづきあひ)、傾城(けいせい)狂ひ・野郎(やらう)遊び、尻(しり)も結ばぬ糸のごと」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・高野山借銭塚の施主」『井原西鶴集3・P.164~165』小学館)
そして遊びに遊んで融資を引き出すことに成功すればそれもまた散財してしまう。要するに「踏み倒す」のである。今でいえば、投資の当てが外れて失敗しそうになるや、わざと自己破産申告して見せるのに近い。二〇二一年に延期された東京五輪にはまだまだ不安要素が隠されているように。なぜなら、日本国内だけなら何とかなるとしても、多くの上流階級層はどのような職業に従事しているにせよ箪笥貯金しているわけではさらさらなく投資に廻している。投資はグローバルな規模で諸外国を経由して始めて利子を付けて環流してくることができる。そしてそうするほかない。諸外国が世界的規模でパンデミック状態であるということは投資額が巨額であればあるほどその約束通りの回収は困難を極めることへ直結する。例えば、超高級料亭や名だたる名門フレンチレストランなどはこれまで解雇できるぎりぎりの人員にまで解雇してきた。そしてたんまり膨らんだ金を安全パイとして最低限貯蓄しておくわけでもなく、逆に誘われるまま盛大な巨額投資ゲームに注ぎ込んできた。ところがパンデミック発生で、利子を付けてスムーズに還流してくるはずの融資があちこちで根詰まりを起こすに至った。そのような新自由主義に溺れきった投資ゲーム依存は放置しておいて、もっと肝心なことは消費者の消滅である。給料が出ない。出たとしても慎重に節約しておかなくては将来は加速的にますます見えなくなる。東京五輪はいよいよ博打でしかなくなる。そのためになぜ税金で補填されなくてはならないのか。西鶴は見せかけの資産家が選びがちな江戸時代の借金「踏み倒し」について、周囲が被る被害を含め、次のようにもう少し詳しく述べている。
「今時の商人(あきんど)、おのれが身代(しんだい)に応ぜざる奢(おご)りを、皆人の物にて明かし、大年(おほどし)の暮(くれ)におどろき、工(たく)みてたふるる拵(こしら)へして、世間の見せかけよく、隣を買ひ添へ軒をつづけ、町の衆を舟遊びにさそひ、琴引く女をよびよせ、女房一門をいさめ、松茸(まつたけ)・大和柿のはじめを、値段にかまはず見世のはしにて買ひ取り、茶の湯は出来ねど口切(くちきり)前に露地(ろぢ)をつくり、久七に明暮(あけくれ)たたき土(づち)をさせて、奥深(おくぶか)に金屏(きんびやう)をひからし、外よりこのもしがらせ、やがて売家(うりいへ)なるに千年も住むやうに思はせ、内井戸、石の井筒に取りかへ、人の物借(か)らるる程は取り込み、ひそかに田地(でんぢ)を買ひ置き、一生の身業(みすぎ)を拵(こしら)へ、その外、子どもを仕付銀(しつけぎん)まで取りて置き、惣高算用して三分(ぶ)半にまはる程に仕かけ、負(おほ)せ方にわたしけるに、のちは我人(われひと)たいくつして、おのづからに済まし、その当座はかなしき顔つきして、木綿着物(もめんきるもの)にて通りしが、はやこの寒さわすれて、風をいとはむかさね小袖(こそで)、雨ふつて地かたまると、長柄(ながえ)のさしかけ傘(がさ)に竹杖のもつたいらしく、むらさきの頭巾(ずきん)して、『小判は売しりしゆんか』と相場聞くなど、さながらのけ銀のやうに思はれける。さてもおそろしの世や、うかとかし銀(がね)ならず、仲人まかせに娘もやられず、念を入れてさへ損銀おほし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・身代かたまる淀川の漆」『井原西鶴集3・P.254~255』小学館)
さらに、落し物というのはいつどこにでもある話だが、江戸では「落してある銀(かね)はなし」と皮肉っている。
「江戸じやとても、落してある銀(かね)はなし、去時、大門(もん)筋(すじ)の仕舞棚(しまいたな)に、昔、長持(ながもち)の、目出度(たく)も、煙(けむり)幾度か、のかれしを、誰(たれ)が持(もち)あきて、今(いま)、売物となりぬ。有人、もとめて、中を洗(あら)へば、雲紙(くもかみ)まくれて、弐重底(ぢうぞこ)に、百両包(つつみ)にして、あきどもなく、ならへ置(を)く、此者、俄長者(にわかちやしや)となりぬ」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷四・四・忍(しの)び川は手洗(たらい)が越(こす)・P.160」岩波文庫)
誰にも見向きもされなくなり売りに出ていた「長持(ながもち)」があった。まだ使えそうなので買った人がいた。よくよく洗って掃除してみたら二十底になっていて開けてみると「百両」出てきた。「俄長者(にわかちやしや)」になったという。けれども「俄長者(にわかちやしや)」というからには、豪遊し出してたちまち以前よりも貧乏になったというのが、西鶴独特の小説のパターンの一つ。なぜか以前よりも貧乏になる。江戸時代の商人資本は既に明治近代資本主義を真似るに適した風土をじわじわ熟成させようと変容し始めていたのかもしれない。だがもちろん、近代資本主義と近世高利貸しとは決定的に異なるわけだが。
BGM1
BGM2
BGM3
源重信(みなもとのしげのぶ)が左大臣だった頃。「方違(かたたがへ)」=「方角タブー」を避けるため一晩だけ朱雀院(すじやくゐん)で過ごす必要があった。朱雀院の東は今の京都市中京区千本通辺から西は京都市中京区七本松通付近まで。北は三条通から南は四条通まで。広大な敷地を誇った。ちなみに京都市中京区壬生花井(はない)町に「朱雀院跡」の石碑がある。ただ、この石碑の位置は朱雀院でも最南端部に当たるらしい。中央部はそのすぐ北に隣接する京都市中京区壬生天池(あまがいけ)町付近とされる。また東西に走る三条通と四条通との間は北から六角(ろっかく)通・蛸薬師(たこやくし)通・錦小路(にしきこうじ)通が走る。なかでも当時の六角通周辺は平安貴族の住宅街。ほぼ中心部かとされている天池(あまがいけ)町を東西に走るのも六角通である。しかし朱雀院のほぼ真ん中を南北に堂々と貫いているのは今のJR山陰線。何と大胆な、と思わずにいられない。
源重信は警護役の藤原頼信(ふじわらのよりのぶ)を呼ぶ。「餌袋(ゑぶくろ)」(=食物を入れて持ち運ぶための袋)を手渡して様々な果実をぎりぎり一杯まで詰め込ませ、組紐で頑丈に結んで持たせた。頼信はそれを持って先に朱雀院に入って重信の到着を待つことになった。
「大キナル餌袋(ゑぶくろ)ニ交菓子(まぜくだもの)ヲ鉉(はた)ト等シク調(ととの)ヘ入レテ、緋(ひ)ノ組(くみ)ヲ以テ上ヲ強ク封結(ふうむすび)ニシテ、頼信ニ預ケテ、『此レ持行(もちゆき)テ置タレ』トテ給ヒタリケレバ、頼信、餌袋ヲ取テ下部(しもべ)ニ持セテ、朱雀院ニ行ニケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・107~108」岩波書店)
やがて夜も更けてきた。朱雀院に到着して待っていた頼信は不覚にも居眠ってしまう。しばらくしてやっと左大臣重信が到着し、一家の子息らが集まってきた。何となく退屈していたのでお菓子代わりにさっそく果実を食べようと餌袋を開けたところ、中には塵一つ見当たらない。
「其ノ餌袋ヲ取寄セテ、開(あけ)テ見ルニ、餌袋ノ内ニ、塵許(ちりばかり)モ入(いり)タル物無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)
頼信は釈明する。朱雀院へ来る道中、その餌袋には気を付けてずっと監視していたと。ただ考えられるとすれば、ここへ到着して夜更けになり、ほんの僅かばかり居眠ってしまったことくらいで、その隙に妖怪〔鬼・ものの怪〕にしてやられたかと。
「頼信ガ白地目(あからめ)ヲ仕(つかまつ)リ、餌袋ニ目ヲ放(はなち)テ候(さぶら)ハバコソ、人ニハ被取候(とられさぶら)ハメ、殿ヲ罷出(まかりい)ヅルニ、餌袋ヲ給ハリテ、殿ノ下部(しもべ)ニ持(もた)セテ、終道(みちすがら)目不放候(はなちさぶらは)ズ。此(ここ)ニ取入レテハ、ヤガテ此(かく)テ抑(おさへ)テ候(さぶらひ)ツル物ヲ、何(いか)デカ失(うしなひ)候ハム。然(さ)テハ、頼信ガ抑(おさへ)テ寝入(ねいり)テ候ツル程ニ、鬼ナムドノ取テケルニヤ候(さぶらふ)ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十二・108」岩波書店)
頼信の言葉に嘘偽りはまずないと考えられる。というのは、頼信はただ単なる要人警護役の一人ではなく「大臣ノ御許(もと)ニ有(あり)ケレバ」とあり、左大臣重信から厚く寵愛された私的同性愛関係に基づく主従関係があったと見られるからである。頼信にしてみれば、もし万が一にも裏切ったりすればただちに斬られるかもしれない緊張関係があったはずだ。そしてまた重信も頼信の言葉を全面的に信用している。
それはそれとして、妖怪〔鬼・ものの怪〕は貨幣のように何にでも変態可能だ。ふいに消え失せることなど朝飯前。とすれば、妖怪〔鬼・ものの怪〕は頼信の睡眠中にこっそり不意を突いたと思えるにしても、そもそも餌袋一杯に詰め込んだ色々な果実自体、始めから妖怪〔鬼・ものの怪〕が変化していたものかも知れない。頼信が居眠っている間に消え失せて二人の恋愛関係をちょっとからかってやれと思って悪戯したに過ぎないとも考えられる。あるいは左大臣重信自ら怪異を起こすことがあると伝えられていた餌袋を知らぬ顔でわざと頼信に手渡して後で事情を問いただし、信頼関係を試してみたとも読めるだろう。そうなってくると他でもない左大臣こそ次々と変身を遂げる貨幣にも似た妖怪〔鬼・ものの怪〕を何食わぬ顔で操る平安貴族の妖怪じみて見えてこなくもない。
ところで、江戸時代になってなお、妖怪〔鬼・ものの怪〕は当り前のように町人の日常生活の中に溶け込んでいた。しかし何より怖いのは既に実在する貨幣と貨幣経済という目に見える現実である。そこそこ借金するためにはそれに見合った信用がなくてはしようにも出来ない。だから中には、身の丈を大きく見せるために涙ぐましいほど連日連夜、遊び惚けて見せ、自分にはこれほど財力があるのだと周囲に知らしめておく必要があった。とりわけ「人付会(ひとづきあひ)」。常に社交界に出入りして顔を売っておくこと。それが第一の無理無駄である。第二に「傾城(けいせい)狂ひ」。遊郭遊びである。熊楠は明治時代になってあちこちに出現した俄成金についてどうしようもない連中だと呆れ返っている。
「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)
第三に「野郎(やらう)遊び」。江戸時代は特に盛んに目立った男色遊び。本当の同性愛ではなく、ただ単に流行しているというだけでその真似事に打ち込む町人・商人が急に増えた。次の文章は西鶴のものだが、「野郎(やらう)遊び」のすぐ後に「尻(しり)」と繋いで少しばかり文才を見せているのが面白い。とはいえこの場合、派手に遊び騒いで見せるのは、金を借りるために必要な信用があると見せかけているに過ぎない。
「おのがかせぎは粗略(そりやく)して、居宅(きよたく)を綺麗(きれい)に作り、朝夕(あさゆふ)酒宴・美食を好み、衣類・腰の物を拵(こしら)へ、分際(ぶんざい)に過ぎたる人付会(ひとづきあひ)、傾城(けいせい)狂ひ・野郎(やらう)遊び、尻(しり)も結ばぬ糸のごと」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・高野山借銭塚の施主」『井原西鶴集3・P.164~165』小学館)
そして遊びに遊んで融資を引き出すことに成功すればそれもまた散財してしまう。要するに「踏み倒す」のである。今でいえば、投資の当てが外れて失敗しそうになるや、わざと自己破産申告して見せるのに近い。二〇二一年に延期された東京五輪にはまだまだ不安要素が隠されているように。なぜなら、日本国内だけなら何とかなるとしても、多くの上流階級層はどのような職業に従事しているにせよ箪笥貯金しているわけではさらさらなく投資に廻している。投資はグローバルな規模で諸外国を経由して始めて利子を付けて環流してくることができる。そしてそうするほかない。諸外国が世界的規模でパンデミック状態であるということは投資額が巨額であればあるほどその約束通りの回収は困難を極めることへ直結する。例えば、超高級料亭や名だたる名門フレンチレストランなどはこれまで解雇できるぎりぎりの人員にまで解雇してきた。そしてたんまり膨らんだ金を安全パイとして最低限貯蓄しておくわけでもなく、逆に誘われるまま盛大な巨額投資ゲームに注ぎ込んできた。ところがパンデミック発生で、利子を付けてスムーズに還流してくるはずの融資があちこちで根詰まりを起こすに至った。そのような新自由主義に溺れきった投資ゲーム依存は放置しておいて、もっと肝心なことは消費者の消滅である。給料が出ない。出たとしても慎重に節約しておかなくては将来は加速的にますます見えなくなる。東京五輪はいよいよ博打でしかなくなる。そのためになぜ税金で補填されなくてはならないのか。西鶴は見せかけの資産家が選びがちな江戸時代の借金「踏み倒し」について、周囲が被る被害を含め、次のようにもう少し詳しく述べている。
「今時の商人(あきんど)、おのれが身代(しんだい)に応ぜざる奢(おご)りを、皆人の物にて明かし、大年(おほどし)の暮(くれ)におどろき、工(たく)みてたふるる拵(こしら)へして、世間の見せかけよく、隣を買ひ添へ軒をつづけ、町の衆を舟遊びにさそひ、琴引く女をよびよせ、女房一門をいさめ、松茸(まつたけ)・大和柿のはじめを、値段にかまはず見世のはしにて買ひ取り、茶の湯は出来ねど口切(くちきり)前に露地(ろぢ)をつくり、久七に明暮(あけくれ)たたき土(づち)をさせて、奥深(おくぶか)に金屏(きんびやう)をひからし、外よりこのもしがらせ、やがて売家(うりいへ)なるに千年も住むやうに思はせ、内井戸、石の井筒に取りかへ、人の物借(か)らるる程は取り込み、ひそかに田地(でんぢ)を買ひ置き、一生の身業(みすぎ)を拵(こしら)へ、その外、子どもを仕付銀(しつけぎん)まで取りて置き、惣高算用して三分(ぶ)半にまはる程に仕かけ、負(おほ)せ方にわたしけるに、のちは我人(われひと)たいくつして、おのづからに済まし、その当座はかなしき顔つきして、木綿着物(もめんきるもの)にて通りしが、はやこの寒さわすれて、風をいとはむかさね小袖(こそで)、雨ふつて地かたまると、長柄(ながえ)のさしかけ傘(がさ)に竹杖のもつたいらしく、むらさきの頭巾(ずきん)して、『小判は売しりしゆんか』と相場聞くなど、さながらのけ銀のやうに思はれける。さてもおそろしの世や、うかとかし銀(がね)ならず、仲人まかせに娘もやられず、念を入れてさへ損銀おほし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・身代かたまる淀川の漆」『井原西鶴集3・P.254~255』小学館)
さらに、落し物というのはいつどこにでもある話だが、江戸では「落してある銀(かね)はなし」と皮肉っている。
「江戸じやとても、落してある銀(かね)はなし、去時、大門(もん)筋(すじ)の仕舞棚(しまいたな)に、昔、長持(ながもち)の、目出度(たく)も、煙(けむり)幾度か、のかれしを、誰(たれ)が持(もち)あきて、今(いま)、売物となりぬ。有人、もとめて、中を洗(あら)へば、雲紙(くもかみ)まくれて、弐重底(ぢうぞこ)に、百両包(つつみ)にして、あきどもなく、ならへ置(を)く、此者、俄長者(にわかちやしや)となりぬ」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷四・四・忍(しの)び川は手洗(たらい)が越(こす)・P.160」岩波文庫)
誰にも見向きもされなくなり売りに出ていた「長持(ながもち)」があった。まだ使えそうなので買った人がいた。よくよく洗って掃除してみたら二十底になっていて開けてみると「百両」出てきた。「俄長者(にわかちやしや)」になったという。けれども「俄長者(にわかちやしや)」というからには、豪遊し出してたちまち以前よりも貧乏になったというのが、西鶴独特の小説のパターンの一つ。なぜか以前よりも貧乏になる。江戸時代の商人資本は既に明治近代資本主義を真似るに適した風土をじわじわ熟成させようと変容し始めていたのかもしれない。だがもちろん、近代資本主義と近世高利貸しとは決定的に異なるわけだが。
BGM1
BGM2
BGM3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/2e/448a4a00f3651b60bcece1061d18c14f.jpg)