白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/異人たちの島々

2021年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠が「一本ダタラ」について報告している箇所は以前上げたように或る種の顛末を持っている。

「広畠氏知りし人の話に、伊勢の巨勢という村をはなるること三里ばかりの山、四里四方怪物ありとて人入らず。大胆なるものあり、その山に近く炭焼きし、冬になりて里に出でんとするに、妻なる者出産近づき止むを得ず小屋に止まるに、妻にわかに産す。よって医に薬もらわんとて夫走り行きぬ。帰りて見れば、小屋に血淋璃として人なし。大いに驚き鉄砲持ち、鍋の足を三つ折り鉄砲に込(こ)めて、雪上の大足跡をたずね行くに、一丈ばかりの大人ごときもの妻の髪をつかみ、吊し持ち行く。後より追いかけ三十間ばかりになりしとき、かの者ふりむき、妻を樹枝にかける。さて、この者の顔を見るや否、妻を攫み首を食い切る、と同時にかねてかかる怪物を打たんには脇を打つべしと聞きたるゆえ、脇を打ちしに大いに呻き、山岳動揺して走り去る。日暮れたるゆえ帰り見れば、生まれたる児は全く食われたりと見え、血のみあり。翌日行きて血を尋ね穴に至りしに、大いなる猴(さる)苦しみおる。それを打ち殺し、保存の法もなきゆえ尾を取り帰る。払子(ほっす)のごとき白色のものにて、はなはだ美なり」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.416』河出文庫)

また「ダイダラボウシ、ダイラボッチ」との言語的関係に言及している。

「大太法師より転訛して、本誌〔『東洋学雑誌』〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝をBenjamin Taylor,‘Storyology’,1900,p,11に列挙せる中に、『路側の巌より迸(ほとばし)る泉は、毎(つね)に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり』とあるを合わせ考えるうちに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の切は正見と謂うべし。再び攷うつに、『宇治拾遺』三十三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体軀偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか。中古巨漢を呼ぶ俗間の綽号(あだな)と思わる。果たして然(しか)らば、大太は反って大太郎の略なり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.292』河出文庫)

熊楠の論考について柳田國男はこう述べる。

「南方氏の言に熊野の山中には一本(いっぽん)ダタラという異形の者が住んでいる。その形は見た者がないが雪の上に径一尺ばかりの大足跡を一足ずつ印して行く。ダタラは例の大太郎で一本は足跡が一つであるからの名称であろう」(柳田國男「山島民譚集(二)」『柳田国男全集5・P.269』ちくま文庫)

さらに。

「信州の松本平では、山神の跛者(びっこ)だと言うているという事は、平瀬麦雨(ばくう)君がこれを報ぜられた。この地方では何でも物の高低あるものを見ると、これを山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行われているのは、稲草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神ができたなどというそうである。これから推測すると、一本ダタラその他の足の一つということも、眇者(かんち)を目が一つというほど自然ではないが、やはりまた元は松本地方で考えているように、跛者を意味していたのではなかろうか。そうしてこの地方でも土佐の片足神などと同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけだそうである」(柳田國男「一目小僧・五」『柳田國男全集6・P.232』ちくま文庫)

そしてまた熊楠は「那智の妖怪一ツタタラ」が持つ特権的武器についてこう述べている。

「熊野地方の伝説に、那智の妖怪一ツタタラは毎(いつ)も寺僧を取り食う。刑部左衛門これを討つ時、この怪鐘を頭に冒り戦う故矢中(あた)らず、わずかに一筋を余す。刑部左衛門最早矢尽きたりというて弓を抛り出すと、鐘を脱ぎ捨て飛び懸るを残る一筋で射殪(いたお)した。この妖怪毎(いつ)つも山茶(つばき)の木製の槌と、三足の鶏を使うたと。槌と鶏と怪を為(な)す事、上述デンデンコロリの話にもあり、山茶の木の槌は化ける、また家に置けば病人絶えずととて熊野に今も忌む所あり、拙妻の麁族請川(そぞくうけがわ)の須川甚助てふ豪家、昔八棟造りを建つるに、烟出(けむだ)しの広さ八畳敷、これに和布(わかめ)、ヒジキ、乾魚(ひうお)などを貯え、凶歳に村民を救うた。その大厦(たいか)の天井裏で毎夜踊り廻る者あり。大工が天井張った時山茶の槌を忘れ遺(のこ)せしが化けたという」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.206~207」岩波文庫)

両者ともに「大太郎」(だいたろう)という盗賊の名に注目しているが、盗賊は盗賊でもただ単なる盗賊ではなく「宇治拾遺物語」を見れば盗賊の中の「大将軍」として語られている。「源平盛衰記」には「甲斐国」(かいのくに)=山岳地帯出身であり、その後、京の都にやって来たとされる。

「昔、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり」(「宇治拾遺物語・巻第三・一・P.76」角川文庫)

そして「那智の妖怪一ツタタラ」では「山茶(つばき)の木製の槌は化ける」という伝説とともに「三足の鶏を使うた」とある。

「山茶(つばき)の木製の槌と、三足の鶏を使うた」

一つ目あるいは三つ目という特徴は多数決から外れた者らが負わされた傷〔スティグマ〕として考えられる。柳田はいう。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)

日本書紀編纂時期すでに「一つ目」は神格化されていた。

「天目一箇神(あめまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.140」岩波文庫)

さらに「作金者(かなだくみ)」=「鍛冶」(かじ)は職業として早くも相続されるものとなっている。

「斎部氏をして石凝姥神(いしこりどめのかみ)が裔(すゑ)・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳(い)、剣を造らしめて、護(まもり)の御璽(みしるし)と為す。是、今践祚(あまつひつぎしろしめ)す日に、献る神璽(みしるし)の鏡・剣なり」(「古語拾遺・P.31」岩波文庫)

また「山茶(つばき)の木製の槌は化ける」というけれども、熊楠が触れているように「山茶の槌を忘れ遺(のこ)せしが化けた」という点に注目しなくてはならない。農山村に行けば古くからずっと「山茶の槌」は生活必需品だった。それなくして家を建てることはできない。食材調理も保存食加工もままならない。農山村では三種の神器の一つといってよいような生活必需品を大切に扱わず忘れ去ってしまうこと自体、〔妖怪〕になって「化ける」という伝説発生の条件になるのである。

さらに「三足の鶏」。なぜ「三足」なのか、というより、なぜ「三足」で《なければならない》か。古代インドから中国仏教へ翻訳される過程で生じた様々な神仏の中に「愛染明王」がある。何度か引用しているが「大菩薩峠」にこうある。

「『いや、その傷が物怪(もっけ)の幸いというものだ、我々の眼で見ると愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿(すがた)だ』『ふふん』と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、『その竪(たて)の一眼は、愛染明王の淫眼(いんがん)といって、殊に意味深い表徴(しるし)になっている』『ナニ、《いんがん》?』『さよう』『どういう字を書くのだ』『淫は富貴に淫するの淫の字ーーーこれが愛染明王の大貪著(だいとんじゃく)時代の拭うても拭いきれない遺品(かたみ)だ、横の両眼は悪心降伏(あくしんごうふく)の害毒消除の威力を示すが、堅の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪(せんお)と醜劣(しゅうれつ)と、汚辱とを覗(のぞ)いてやまぬものだ』『ははあーーー』神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました」(中里介山「大菩薩峠8・他生の巻・P.335」時代小説文庫)

神尾主膳はなぜ愛染明王そっくりの顔面になったか。

「神尾主膳の面(おもて)は、左右の眉(まゆ)の間から額の生え際(ぎわ)へかけて、牡丹餅(ぼたもち)大の肉をそぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。ーーーこの点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。ーーー神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真ん中へ刻印を捺(お)されたことの小気味よさを喜ばないわけにはいかないが、それにしても、咄嗟(とっさ)の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それが、わからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶(つるべ)の一方が、車の輪のところへ食い上(あが)って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額からそぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着(くっつ)いているもののように見えました。お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老(えび)のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけをそいで持って行ってしまった。それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、正しく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁(げた)へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老(えび)のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下がって来たから、手を高くさしのべて、それを取り下ろしてみるとお銀様の想像したとおりに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着(くっつ)いていました」(中里介山「大菩薩峠6・小名路の巻・P.238~239」時代小説文庫)

異類異形の者たちがこれでもかとばかりに主役級の役割を果たしていることがわかるに違いない。例えば魚類。

「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)

蘇我入鹿(いるか)、藤原鎌足(かまたり=かます)、藤原房前(ふささき=はぜ)など幾らもある。

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫)

一方で山人が海神を祀り、もう一方で海人が山神を祀ることは、柳田が示唆する通り日本列島のような極端に平野部の少ない地域特有の必然であるとともに、それこそがまさしく天皇家の伝統行事として接続された。太平洋戦争終結と同時にアメリカは様々な軍事支配を案出した。日本の皇室なら動植物研究を継続させること。そうしておけば米軍としては安全だと考えたのかも知れない。ところがそれが今になって既に全国各地で絶滅したか絶滅しつつある動植物の最後の生息地になろうとは当時のGHQには思いも寄らなかった皮肉だと言えそうだ。

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