舞台は天竺(インド)。僧が登場する。とはいうものの僧は一体何のために登場してきたのかさっぱりわからない。仏教説話では、単独で僧が登場する場合、必ずしも僧でなければならないわけではない。仏教説話ゆえに差し当たり、ひょいと僧が出てくる。次の説話で重要なのは「牛」。そしてその牛は何を目的として種々の動作を行なったかに注目する必要があると思われる。
或る僧が天竺(インド)へ行った際、山の中に大きな穴があるのに気づく。そばに牛がいて、この穴に出入りしているのを目撃する。好奇心を掻き立てられた僧は牛の後に付いて穴の中に入って行く。長々と歩いたろうか。穴の中にもかかわらず突然煌々と輝く明るい場所へ出る。
「あるかた山に大なる穴あり。牛のありけるが、此穴に入(いり)けるを見て、ゆかしくおぼえければ、牛の行(ゆく)につきて僧も入けり。はるかに行て、あかき所へ出(いで)ぬ」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
そこは「あらぬ世界」=「アナザー・ワールド」。見たことのない華麗な花々が咲き乱れている。牛はその花を食べている。僧もまた牛を真似て花を口にする。「甘露(かんろ)もかくや」と思われるほどの美味。ゆえに、ありがたささえ覚える。僧は前後も忘れてただひたすら花々を食べ尽くしていく。たちまち肥満してしまった。
「牛、此花を食けり。心みにこの花を一房とりて食(くひ)たりければ、うまき事天の甘露(かんろ)もかくやあらんとおぼえて目出(めでた)かりけるままに、おほく食たりければ、ただ肥(こゑ)にこえふとりけり」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
ふと不安に駆られた僧は入って来た穴の出入口まで戻ってみた。すると食べ過ぎ肥え過ぎのため肥満した体は穴の中から出ることができない。
「心えずおそろしく思て、ありつる穴のかたへ歸行(かへりゆく)に、はじめはやすくとほりつる穴、身のふとくなりて、せばくおぼえて、やうやうとして穴の口までは出(いで)たれども、えいでずして、たへがたき事かぎりなし」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
人跡未到の山岳地帯というわけではない。時々すぐ近くを人々が通り過ぎる。だが助けを求める僧の声は通りかかる誰の耳にも響かない。何日かして僧は穴の中から出られないまま死ぬ。と同時に石になる。死ぬと石になるという民間伝承はどこにでもごろごろ転がっているのでさして不思議ではないものの、この説話ではその形態に注目する必要性が認められる。なるほど石になった。が、その形は「穴の口に頭をさしいだしたるやう」に見える。
「日比(ひごろ)かさなりて死(しに)ぬ。後は石になりて、穴の口に頭をさしいだしたるやうにてなんありける」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
見たことはないだろうか。実際に見たことはなくても遺跡として残されている類似物なら見たことはあるに違いない。さらに遺跡はそうと言われない限り、専門家でないとなかなか遺跡に見えないという特徴がある。少し整理しよう。
僧はもはやただ単なる石でしかない。僧の姿形をしていない。単なる石であって僧形とはまるで違っている。とともに僧を穴の中へ導き入れ穴を埋めさせる結果の到来を準備した牛の姿もまた同時に消え去ってしまっている。何が何だかわからないとすれば、その理由はこの説話をただ単なる怪奇譚としてしか読んでいないからに過ぎない。山の中には時折ぽっこり盛り上がった場所がある。自然にそうなったというより明らかに人間の手が入った形跡が認められるようなほんの僅かばかりの盛り土で高さは1メートルほどあるかないか。小型のもので三〇センチくらい。その上に石が乗せてあったりする。要するにそれは食物運搬や土木工事のために牛が用いられており、人間とともに労働に従事して死んだ牛の供養のためにささやかな塚が築かれ、墓跡代わりに石が置かれたという明確な証拠である。だからこの種の、ご飯を始めとして主に食物や工具を運んだ牛のための牛塚・牛石は日本中いたるところにある。戦後高度経済成長期にも地方の山間部では重い荷物を運ぶために村落共同体の共有として牛馬が飼われていた。今なお稀に巨大な塚の上に巨大な石が据えられている場合などは「牛塔」と彫り刻まれた痕跡を読み取ることができる。そういうわけで、問題は、ご飯を祭る飯盛山とその神についてである。柳田國男はいう。熊野と大いに関係がある。
「飯山神の根原は判定不明であるが、近代において飯の祭と最も関係の深いのは熊野の神である。陸前黒川郡宮床村大字宮床の飯森社は別当を飯峯山信楽(しがらき)寺といい、天長年中に熊野を勧請(かんじょう)したと伝えている(『観迹聞老志』)。奥羽は熊野信仰の最も盛んにしてかつ飯盛の多い地方であるから偶合ではないとは言われぬが、右の信楽寺はおそらくは近江の飯道寺(はんどうじ)の分派であろう。飯道寺は甲賀郡にあって紫香楽宮(しがらきのみや)の鬼門鎮護とも称せられ、古くからの両部の霊場である。しこうしてその祭るところの飯道神社は『延喜式』以前の古社と主張しつつも他の一方では熊野三社を勧請したとも言われている。かつて斎宮介某なる者に熊野権現の霊告があった。この山に登ると路傍に飯を盛った形が見えるであろうからそこに我を祀れとのことであった。今の石南華谷(しゃくなげだに)の所まで来ると梛(なぎ)の花がまことに飯盛の形に見えたゆえに神の名を飯道神と呼ぶのだという(『地名辞書』)。熊野大神の一の御名を家都御子(けつみこ)大神というのは通例木の神の義であるという説が行われているが、事による大気津比売(おおけつひめ)などのケツで食物のことであるかも知れぬ。淡路三原郡飯山寺の飯山は熊野社の後の山である。形状飯に似たりという説もあるが、飯山熊野社の社記には神代に神供のために飯を炊(かし)ぎ始めた処であるから飯山だといっている(『淡路常盤草』)。西部讃岐の漁村では民家に死者があれば家の庭で火を改めて飯を爨(かし)ぎ片木または土器に盛って熊野の神を祭るといってこれを供える。飯を炊ぐ暇(いとま)なきときは米の粉で団子を作り煮ずしてそのまま供えることもある(『西讃府志』)。これなどは決して偶然でないと思う。長門美禰(みね)郡真長田村大字長田字矢光の飯森山は山上に乾濠及び天主の跡らしき地形があって、熊野某の居城と伝えられているが(『長門風土記』)、いかがであろうか。邑(むら)からやや遠い山上に土工の痕跡があれば必ず城址にしてしまうのは近代の風であるけれども、城主という人の事蹟も伝わらず他に何の旁証もないものについては疑わねばならぬ。ジョウは必ずしも城ではない。茶臼山などはことに別の起源があるらしく思われる」(柳田國男「山島民譚集(三)・第七・飯の祭と熊野神」『柳田国男全集5・P.366~367』ちくま文庫)
しかし名物の「梛(なぎ)」は国策のため伐採された。万葉集はもとより中世の歌人・源実朝も詠んだというのに。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
なお、後半部分で柳田が注意を促しているように、「邑(むら)からやや遠い山上に土工の痕跡があれば必ず城址にしてしまうのは近代の風であるけれども、城主という人の事蹟も伝わらず他に何の旁証もないものについては疑わねばならぬ」、とあるのはまったくその通りだ。土木工事の痕跡が残っていれば何でもかんでも、誰かはわからないにせよ「城」があったところだと認定してしまったのは近代日本歴史研究における大失敗というほかない。室町時代末期、様々な戦国大名とその武士団の手で盛んに行われた加工=変造の一つに、戦国時代から千年以上も前に築かれた古代古墳を仮の砦(とりで)としてあたかも城のように見せかけたという歴然たる偽装工作。戦後になって、それを「誰かの城跡」と見て史料として採用し、さらに地域の史書として編纂してしまった箇所ならそれこそ山が崩れるほどある。日本書紀や古事記の時代すでに、ただ単なる柵〔さく・田畑を作る時にできる畝(うね)や溝(みぞ)・稲刈りが済んだ後に干し草を編んでおく木組みや竹組み〕を「城(き・さく)」と呼んだ。
にもかかわらず日本政府は戦後米ソ冷戦の本格化とともに、何なのかよくわかりもしない「柵」の残骸までも「城」へと加工して国威発揚に利用する動きを加速させた。テレビ局の大河ドラマ制作が国威発揚の後方支援に廻る体制もたちまち整った。そして本来の時代考証は逆に日米同盟のための検閲作業へ変わった。ところがそういうことをやってしまうと事実はどうだったのかという肝心の日本史は転倒し擬似的日本史の側が本当であるかのような錯覚が世を支配するようになる。熊楠はそういう研究態度を極端に嫌った。次の文章は熊楠自身の極めて几帳面な姿勢を見せつけている。
「婬を売る比丘尼のことは、四十一年発行『近世風俗志』(国学院大学出版部出板)巻下、一六三頁に図あり。貞享印本『好色訓蒙図彙』にいう、いつのころよりか、歯は水精を欺(あざむ)き、眉細く墨をひき、帽子も思わくらしく被(かず)きて、加賀笠にばら緒の雪駄、小歌をよすがにしてくわんくわんという、しおの目元にわけをほのめかせ、云々。著者守貞いわく、『訓蒙』に載するところは京坂の熊野比丘尼なり、鳥辺野は洛東の地名、貞享中京師の高名比丘尼なるべし。『武江年表』天和の条にいう、比日はやりし唄比丘尼のうち、神田めつた町より出づる、永玄、お姫、お松、長伝というが名取にてありしとぞ、繻子か羽二重の投頭巾をかむるによって繻子鬢と名づけたり、云々。熊楠いわく、右の『好色訓蒙図彙』の絵は、笠にあらず、カズラをきたるごとく見ゆ。いわゆる繻子鬢か。剃髪、薙髪、削髪の別を先年何かで見たるが、今忘れたり。尼は髪をきりさえすればよきにて、剃るに限るべからず。また剃ったところが鬘をかぶること行なわれしなるべし。仏在世、すでに比丘尼鬘をかぶり、仏に叱られしことあり、と記憶す。座右にその抄記あり、他日申し上ぐべく候」(南方熊楠「言語の音、幼児の言語獲得について、その他」『南方民俗学・P.448~449』河出文庫)
多方面からの質問に答えていた熊楠はよく尋ねよく記録する研究者でもあった。
「男色事歴の外相や些末な連関事項は、書籍を調べたら分かるべきも、内容は書籍では分からず候。それよりも高野山など今も多少の古老がのこりおるうちに、訪問して親接を重ね聞き取りおくが第一に候。十年ばかり前まで、山の高名な大寺の住職六十八、九歳なるが(俗称比丘尼〔びくに〕さん)、男子の相好は少しもなく、まるで女性なり、それがまた他の高名な高僧(この人は今もあり、著書も世に伝う)と若きときよりの密契とて名高りし。こんな人に接近せば、話をきかずとも委細の内情は分かるものに候。また今も高僧には多少少年を侍者におきあり。その者の動作にても、むかしの小姓などいいし者の様子が多少了解され申し候。そんなものを見ずに、ただ書籍を読んだだけでは、芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなことが多く、ただ、その方に通じたような顔を(何も知らぬ者にたいして)ひけらかし得るというばかりで、いわばあたら時間を何の益もなきことにつぶすものとなり了るに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.449』河出文庫)
誠実そのものを絵に描いたような研究態度は「記憶す」だけでなく「座右にその抄記あり」とある通り。今の小学生時代からの姿勢であって、「反故(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり」、とある。
「小生は次男にて幼少より学問を好み、書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りありき借覧し、ことごとく記憶し帰り、反故(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図絵』百五巻を三年かかりて写す。『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.299』河出文庫)
記憶力はなるほど大事だ。とりわけ熊楠は記憶力に自信があった。しかし東京に出れば同級だけでも、漱石、露伴、子規、紅葉と、抜群の知性の持主はざらにいる。大学入学しなくても宮武外骨などは知性だけでなく頓知(とんち)・パロディの才さえ持ち合わせていた。しかし熊楠は自信のある記憶力をいつも新鮮な状態で保つために「八、九歳のころ」から取り組んでいたことがあった。新鮮でなければ融通も効かない。なので借りてきた「『和漢三才図絵』百五巻を三年かかりて写す」というような極めて地味な作業を黙々と続ける。記憶が曖昧ならその写しあるいはコピーがあって当り前。明治時代を生きた民間の一研究者でさえそうだったにもかかわらず、もはや二〇二一年の今日、地位も責任も十二分に認められる公人が記憶も曖昧でなおかつ記録もあるのかないのかわからないで済む世界はもう終わっていると見るべきかも知れない。
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或る僧が天竺(インド)へ行った際、山の中に大きな穴があるのに気づく。そばに牛がいて、この穴に出入りしているのを目撃する。好奇心を掻き立てられた僧は牛の後に付いて穴の中に入って行く。長々と歩いたろうか。穴の中にもかかわらず突然煌々と輝く明るい場所へ出る。
「あるかた山に大なる穴あり。牛のありけるが、此穴に入(いり)けるを見て、ゆかしくおぼえければ、牛の行(ゆく)につきて僧も入けり。はるかに行て、あかき所へ出(いで)ぬ」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
そこは「あらぬ世界」=「アナザー・ワールド」。見たことのない華麗な花々が咲き乱れている。牛はその花を食べている。僧もまた牛を真似て花を口にする。「甘露(かんろ)もかくや」と思われるほどの美味。ゆえに、ありがたささえ覚える。僧は前後も忘れてただひたすら花々を食べ尽くしていく。たちまち肥満してしまった。
「牛、此花を食けり。心みにこの花を一房とりて食(くひ)たりければ、うまき事天の甘露(かんろ)もかくやあらんとおぼえて目出(めでた)かりけるままに、おほく食たりければ、ただ肥(こゑ)にこえふとりけり」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
ふと不安に駆られた僧は入って来た穴の出入口まで戻ってみた。すると食べ過ぎ肥え過ぎのため肥満した体は穴の中から出ることができない。
「心えずおそろしく思て、ありつる穴のかたへ歸行(かへりゆく)に、はじめはやすくとほりつる穴、身のふとくなりて、せばくおぼえて、やうやうとして穴の口までは出(いで)たれども、えいでずして、たへがたき事かぎりなし」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
人跡未到の山岳地帯というわけではない。時々すぐ近くを人々が通り過ぎる。だが助けを求める僧の声は通りかかる誰の耳にも響かない。何日かして僧は穴の中から出られないまま死ぬ。と同時に石になる。死ぬと石になるという民間伝承はどこにでもごろごろ転がっているのでさして不思議ではないものの、この説話ではその形態に注目する必要性が認められる。なるほど石になった。が、その形は「穴の口に頭をさしいだしたるやう」に見える。
「日比(ひごろ)かさなりて死(しに)ぬ。後は石になりて、穴の口に頭をさしいだしたるやうにてなんありける」(「宇治拾遺物語・巻第十三・十一・P.316」角川文庫)
見たことはないだろうか。実際に見たことはなくても遺跡として残されている類似物なら見たことはあるに違いない。さらに遺跡はそうと言われない限り、専門家でないとなかなか遺跡に見えないという特徴がある。少し整理しよう。
僧はもはやただ単なる石でしかない。僧の姿形をしていない。単なる石であって僧形とはまるで違っている。とともに僧を穴の中へ導き入れ穴を埋めさせる結果の到来を準備した牛の姿もまた同時に消え去ってしまっている。何が何だかわからないとすれば、その理由はこの説話をただ単なる怪奇譚としてしか読んでいないからに過ぎない。山の中には時折ぽっこり盛り上がった場所がある。自然にそうなったというより明らかに人間の手が入った形跡が認められるようなほんの僅かばかりの盛り土で高さは1メートルほどあるかないか。小型のもので三〇センチくらい。その上に石が乗せてあったりする。要するにそれは食物運搬や土木工事のために牛が用いられており、人間とともに労働に従事して死んだ牛の供養のためにささやかな塚が築かれ、墓跡代わりに石が置かれたという明確な証拠である。だからこの種の、ご飯を始めとして主に食物や工具を運んだ牛のための牛塚・牛石は日本中いたるところにある。戦後高度経済成長期にも地方の山間部では重い荷物を運ぶために村落共同体の共有として牛馬が飼われていた。今なお稀に巨大な塚の上に巨大な石が据えられている場合などは「牛塔」と彫り刻まれた痕跡を読み取ることができる。そういうわけで、問題は、ご飯を祭る飯盛山とその神についてである。柳田國男はいう。熊野と大いに関係がある。
「飯山神の根原は判定不明であるが、近代において飯の祭と最も関係の深いのは熊野の神である。陸前黒川郡宮床村大字宮床の飯森社は別当を飯峯山信楽(しがらき)寺といい、天長年中に熊野を勧請(かんじょう)したと伝えている(『観迹聞老志』)。奥羽は熊野信仰の最も盛んにしてかつ飯盛の多い地方であるから偶合ではないとは言われぬが、右の信楽寺はおそらくは近江の飯道寺(はんどうじ)の分派であろう。飯道寺は甲賀郡にあって紫香楽宮(しがらきのみや)の鬼門鎮護とも称せられ、古くからの両部の霊場である。しこうしてその祭るところの飯道神社は『延喜式』以前の古社と主張しつつも他の一方では熊野三社を勧請したとも言われている。かつて斎宮介某なる者に熊野権現の霊告があった。この山に登ると路傍に飯を盛った形が見えるであろうからそこに我を祀れとのことであった。今の石南華谷(しゃくなげだに)の所まで来ると梛(なぎ)の花がまことに飯盛の形に見えたゆえに神の名を飯道神と呼ぶのだという(『地名辞書』)。熊野大神の一の御名を家都御子(けつみこ)大神というのは通例木の神の義であるという説が行われているが、事による大気津比売(おおけつひめ)などのケツで食物のことであるかも知れぬ。淡路三原郡飯山寺の飯山は熊野社の後の山である。形状飯に似たりという説もあるが、飯山熊野社の社記には神代に神供のために飯を炊(かし)ぎ始めた処であるから飯山だといっている(『淡路常盤草』)。西部讃岐の漁村では民家に死者があれば家の庭で火を改めて飯を爨(かし)ぎ片木または土器に盛って熊野の神を祭るといってこれを供える。飯を炊ぐ暇(いとま)なきときは米の粉で団子を作り煮ずしてそのまま供えることもある(『西讃府志』)。これなどは決して偶然でないと思う。長門美禰(みね)郡真長田村大字長田字矢光の飯森山は山上に乾濠及び天主の跡らしき地形があって、熊野某の居城と伝えられているが(『長門風土記』)、いかがであろうか。邑(むら)からやや遠い山上に土工の痕跡があれば必ず城址にしてしまうのは近代の風であるけれども、城主という人の事蹟も伝わらず他に何の旁証もないものについては疑わねばならぬ。ジョウは必ずしも城ではない。茶臼山などはことに別の起源があるらしく思われる」(柳田國男「山島民譚集(三)・第七・飯の祭と熊野神」『柳田国男全集5・P.366~367』ちくま文庫)
しかし名物の「梛(なぎ)」は国策のため伐採された。万葉集はもとより中世の歌人・源実朝も詠んだというのに。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
なお、後半部分で柳田が注意を促しているように、「邑(むら)からやや遠い山上に土工の痕跡があれば必ず城址にしてしまうのは近代の風であるけれども、城主という人の事蹟も伝わらず他に何の旁証もないものについては疑わねばならぬ」、とあるのはまったくその通りだ。土木工事の痕跡が残っていれば何でもかんでも、誰かはわからないにせよ「城」があったところだと認定してしまったのは近代日本歴史研究における大失敗というほかない。室町時代末期、様々な戦国大名とその武士団の手で盛んに行われた加工=変造の一つに、戦国時代から千年以上も前に築かれた古代古墳を仮の砦(とりで)としてあたかも城のように見せかけたという歴然たる偽装工作。戦後になって、それを「誰かの城跡」と見て史料として採用し、さらに地域の史書として編纂してしまった箇所ならそれこそ山が崩れるほどある。日本書紀や古事記の時代すでに、ただ単なる柵〔さく・田畑を作る時にできる畝(うね)や溝(みぞ)・稲刈りが済んだ後に干し草を編んでおく木組みや竹組み〕を「城(き・さく)」と呼んだ。
にもかかわらず日本政府は戦後米ソ冷戦の本格化とともに、何なのかよくわかりもしない「柵」の残骸までも「城」へと加工して国威発揚に利用する動きを加速させた。テレビ局の大河ドラマ制作が国威発揚の後方支援に廻る体制もたちまち整った。そして本来の時代考証は逆に日米同盟のための検閲作業へ変わった。ところがそういうことをやってしまうと事実はどうだったのかという肝心の日本史は転倒し擬似的日本史の側が本当であるかのような錯覚が世を支配するようになる。熊楠はそういう研究態度を極端に嫌った。次の文章は熊楠自身の極めて几帳面な姿勢を見せつけている。
「婬を売る比丘尼のことは、四十一年発行『近世風俗志』(国学院大学出版部出板)巻下、一六三頁に図あり。貞享印本『好色訓蒙図彙』にいう、いつのころよりか、歯は水精を欺(あざむ)き、眉細く墨をひき、帽子も思わくらしく被(かず)きて、加賀笠にばら緒の雪駄、小歌をよすがにしてくわんくわんという、しおの目元にわけをほのめかせ、云々。著者守貞いわく、『訓蒙』に載するところは京坂の熊野比丘尼なり、鳥辺野は洛東の地名、貞享中京師の高名比丘尼なるべし。『武江年表』天和の条にいう、比日はやりし唄比丘尼のうち、神田めつた町より出づる、永玄、お姫、お松、長伝というが名取にてありしとぞ、繻子か羽二重の投頭巾をかむるによって繻子鬢と名づけたり、云々。熊楠いわく、右の『好色訓蒙図彙』の絵は、笠にあらず、カズラをきたるごとく見ゆ。いわゆる繻子鬢か。剃髪、薙髪、削髪の別を先年何かで見たるが、今忘れたり。尼は髪をきりさえすればよきにて、剃るに限るべからず。また剃ったところが鬘をかぶること行なわれしなるべし。仏在世、すでに比丘尼鬘をかぶり、仏に叱られしことあり、と記憶す。座右にその抄記あり、他日申し上ぐべく候」(南方熊楠「言語の音、幼児の言語獲得について、その他」『南方民俗学・P.448~449』河出文庫)
多方面からの質問に答えていた熊楠はよく尋ねよく記録する研究者でもあった。
「男色事歴の外相や些末な連関事項は、書籍を調べたら分かるべきも、内容は書籍では分からず候。それよりも高野山など今も多少の古老がのこりおるうちに、訪問して親接を重ね聞き取りおくが第一に候。十年ばかり前まで、山の高名な大寺の住職六十八、九歳なるが(俗称比丘尼〔びくに〕さん)、男子の相好は少しもなく、まるで女性なり、それがまた他の高名な高僧(この人は今もあり、著書も世に伝う)と若きときよりの密契とて名高りし。こんな人に接近せば、話をきかずとも委細の内情は分かるものに候。また今も高僧には多少少年を侍者におきあり。その者の動作にても、むかしの小姓などいいし者の様子が多少了解され申し候。そんなものを見ずに、ただ書籍を読んだだけでは、芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなことが多く、ただ、その方に通じたような顔を(何も知らぬ者にたいして)ひけらかし得るというばかりで、いわばあたら時間を何の益もなきことにつぶすものとなり了るに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.449』河出文庫)
誠実そのものを絵に描いたような研究態度は「記憶す」だけでなく「座右にその抄記あり」とある通り。今の小学生時代からの姿勢であって、「反故(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり」、とある。
「小生は次男にて幼少より学問を好み、書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りありき借覧し、ことごとく記憶し帰り、反故(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図絵』百五巻を三年かかりて写す。『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.299』河出文庫)
記憶力はなるほど大事だ。とりわけ熊楠は記憶力に自信があった。しかし東京に出れば同級だけでも、漱石、露伴、子規、紅葉と、抜群の知性の持主はざらにいる。大学入学しなくても宮武外骨などは知性だけでなく頓知(とんち)・パロディの才さえ持ち合わせていた。しかし熊楠は自信のある記憶力をいつも新鮮な状態で保つために「八、九歳のころ」から取り組んでいたことがあった。新鮮でなければ融通も効かない。なので借りてきた「『和漢三才図絵』百五巻を三年かかりて写す」というような極めて地味な作業を黙々と続ける。記憶が曖昧ならその写しあるいはコピーがあって当り前。明治時代を生きた民間の一研究者でさえそうだったにもかかわらず、もはや二〇二一年の今日、地位も責任も十二分に認められる公人が記憶も曖昧でなおかつ記録もあるのかないのかわからないで済む世界はもう終わっていると見るべきかも知れない。
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