白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/平安京猟奇殺人・残された美女の首

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

熊楠は睡眠中にふらふらと彷徨い出て愛人のところまで行って出現した在原業平の魂について引いている。

「『伊勢物語』に、情婦の許より、今霄夢になん見え給いつると言えりければ、男、

思ひ余り出でにし魂(たま)のあるならん、夜深く見えば魂結びせよ

と詠みし、とあり」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.262』河出文庫)

「伊勢物語・百十」にある和歌。

「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典集成「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)

相手の女性が言うには業平の魂がやって来たのは確かなのだが、夢を見ている時に出現したという。その時の業平の返事がこの和歌。夜更けにそちらまで出向いていくわけにもいかないので、今度、そちらへ行く機会ができれば取りに行くから、それまでわたしの魂をあなたのところでしっかり「魂むすび」して預かっておいてほしいと。何とも軽薄な対話ではある。過酷なほど軽薄な女遊びで全盛を極めた業平。が、妖怪〔鬼・ものの怪〕による猟奇殺人を見せつけられ怯えきり、女性を捨ててたちまち逃げ去った話がある。

元種は「伊勢物語」とされる。けれどもその該当箇所は「伊勢物語」の中でも辻褄の合わない部分が多く、以前からほぼまったくの作り話に過ぎない可能性が高いと指摘されてきた箇所。ただ、業平が女遊びの達人として有名だったことから、辻褄の合わない不可解な事件が発生した場合、情愛絡みの猟奇殺人事件までも業平に関連付けて押し切ったのだろうと考えられる。

舞台は京の都からさほど遠くない山科(やましな)。宮中の近くに史上稀にみる美女がいると聞き付けた業平は接近を試みる。だがその父母の守りは極めて固い。この上なく高貴な男性のもとへ嫁がせようと決めている。言うまでもなく警護は厳重。都ばかりかあちこちの地方豪族の間にもその浮き名を馳せてきた業平でさえ噂の美女を自分のものにすることができそうにない。ところがどう口説き落としたのかわからないが、或る日、こっそり連れ出すことに成功した。

「業平ノ中将、力(ちから)無クシテ有リケル程ニ、何(いか)ニシテカ構ヘケム、彼(か)ノ女ヲ蜜(ひそか)ニ盗出(ぬすみいだ)シテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.101」岩波書店)

巧みに連れ出しはしたものの、しかし、どこへ連れ込めばよいか迷う業平。持て余してしまうかもと思わなくもない。そこで鴨川を東へ渡り「北山科(きたやましな)」へ連れ込み隠れようと考えた。しかしそこは今でいうどこに当たるのか。予備知識として少しばかり頭を切り換えて考えてみたい。

「北山科」とある。「産女(うぶめ)」の説話で有名な「第十五」でも「北山科」という地名が出てくる。「産女(うぶめ)」の説話では「粟田山(あわたやま)」という名も書かれており、現在の京都市山科区に隣接する東山区の東端部を粟田口(あわたぐち)という。また、現在の滋賀県大津市と隣接する京都市左京区の東南端部も粟田口(あわたぐち)という。東山区東端部「粟田口」から左京区東南端部「粟田口」までが今の山科区北部に当たる。さらに東山区東端部「粟田口」の東山山頂から山科区西端部「京都中央斎場」周辺は桓武天皇による平安遷都より四百年ほど前に造営された古代古墳密集地。と同時に滋賀県大津市に隣接する左京区東南端部「粟田口」から大津市長良(ながら)地区もまた古代古墳密集地。そしてまた一九七〇年代、大阪府吹田市の千里ニュータウンや京都市西京区洛西ニュータウン建設と並行して今の大津市に比叡平(ひえいだいら)団地が開発されたわけだが、その少し北西部で京都市との境界線に当たる箇所に巨石を二重に積み上げた「重ね石」という遺跡がある。この「重ね石」は古代古墳とはまた異なり修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)を祀っている。考えないといけないのは、国道一号線開通から後、日本人の思考回路はすっかり変わってしまい、大路にしろ小路にしろ東西に走るのが常だと思い込んでしまっている点。それ以前は山岳地帯を南北斜めに走っていたに違いない古道(熊野古道のような)について、たった二十年も経ないうちに忘れ去られてしまったという実状がある。また今上げた東山区東端部の粟田口から滋賀県大津市へ続く山岳地帯には平安時代の早い時期すでに貴族らの別荘が営まれていたことを忘れてはならない。明治国家成立以降から考えても、近代皇室の別荘が軽井沢という山間部に開かれるまで、そこは木枯し紋次郎のような旅人あるいは山人ばかりが行き来する獣道に等しい聖域だった。

業平は、平安時代初期の北山科に開かれて百年ほど経ち、既に住む人々はなく廃墟化しているかつての貴族の別荘を見つける。そして連れ出してきた美女と一緒に入り込む。敷地内には木造の倉が見える。だが両開きの倉の一方の扉は既に倒れ、さらに住居だった家屋の板敷の板は一つ残らず朽ち果ててもはやない。残されていた畳一枚を引っ張り出し、美女とともに木造の倉の中へ入って畳の上でさっそく抱き合い始めた。山中の廃屋でなおかつ夜中のことだ。誰一人見ていない。

「其レニ、忽(たちまち)ニ可将隠(ゐてかくすべ)キ所ノ無カリケレバ、思ヒ繚(あつかひ)テエ、北山科(きたやましな)ノ辺(わたり)ニ旧(ふる)キ山庄(さんざう)ノ荒テ人モ不住(すま)ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大(おほき)ナルアゼ倉(くら)有ケリ。片戸(かたど)ハ倒レテナム有ケル。住ケル屋ハ板敷(いたじき)ノ板モ無クテ、可立寄(たちよるべ)キ様(やう)モ無カリケレバ、此ノ倉ノ内ニ畳一枚ヲ具(ぐ)シテ、此ノ女ヲ具シテ将行(ゐてゆき)テ臥セタリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.101」岩波書店)

二人とも夢中になっているといきなり飛び上がるほど強烈な雷鳴が鳴り響いた。異様に思った業平はいったん女性を自分の背後に下がらせ、太刀を抜いて身構えた。当時は雷鳴を伴う妖怪〔鬼・ものの怪〕に抵抗するには金属が妥当と考えられていた。自然現象としての雷なら逆に金属は避雷針になるため危険なのだが、相手が妖怪〔鬼・ものの怪〕だとわかっているときは金属で対抗するのが有効とされた。敵は鬼だから三種の神器の一つである剣を掲げて退散させるか、あるいは雷神の怒りを押し鎮めようというアニミズム的な考えがあったのだろう。しばらくして夜が明け始め、雷鳴も遠のいていった。ようやく妖魔は去ったかと業平は思う。にもかかわらず背後に下がらせておいた女性は何も言わない。不審に思い女性の側を振り返った。するとその美女の頭部と着ていた衣装だけが打ち捨てられているばかり。ぞっとした業平は自分の着物もその場に置き捨てたまま走って逃げ去った。

「而(しか)ル間、女、音(こゑ)モ不為(せ)ザリケレバ、中将怪(あやし)ムデ見返(みかへり)テ見ルニ、女ノ頭(かしら)ノ限(かぎり)ト着タリケル衣共(きぬども)ト許(ばかり)残(のこり)タリ。中将、奇異(あさまし)ク怖(おそろ)シクテ、着物(きもの)ヲモ不取敢(とりあへ)ズ逃テ去ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.102」岩波書店)

どこからその話が洩れたのかわからないが、それ以降人々の間で、この木造の倉は鬼の住処として知れ渡ることになった。怪異の正体は突然辺りに轟き渡った雷電霹靂ではなかったのだ。

「其(そ)レヨリ後(のち)ナム、此ノ倉ハ人取リ為(す)ル倉トハ知(しり)ケル。然レバ、雷電霹靂ニハ非(あら)ズシテ、倉ニ住ケル鬼ノシケルニヤ有ケム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第七・P.102」岩波書店)

ところがしかし、類話が多く仏教説話形式を軸とする「日本霊異記」や「宇治拾遺物語」と比較した場合に限り、「今昔物語」所収の伝説・説話は、お説教で締め括られているものが極めて少ない。むしろ様々な伝説・説話・怪奇譚があちこちに散りばめられ投げ出されている。思うのだが、「倉ニ住ケル鬼」とあるけれども、「日本霊異記」あるいはより一層仏教説話にシフトした「沙石集」ならそれで構わない。しかし「今昔物語」の場合、その成立条件となっている都の加速的荒廃、平安京全体の過酷な廃墟化並びに治まる気配が一向に見られないどころかますます増殖する飢餓や疫病蔓延による人々の荒れた生活環境に即して見る必要性を感じる。とすれば、おそらく「倉ニ住ケル鬼」ではない。逆に、必要がなくなり手入れも行き届かず打ち棄てられた「倉」《へと》妖怪〔鬼・ものの怪〕が変容したのだ。妖怪〔鬼・ものの怪〕の「倉」への変態。これまで見てきた通りここでもまた、妖怪〔鬼・ものの怪〕の自由自在な変態性が顔を覗かせている。さらに言えば、妖怪〔鬼・ものの怪〕という言葉に惑わされるのも考えものだろう。彼らにとってそもそも人間のような性別は不可能である。獣にもなれば神にもなる。単なる「板」や「銅製品」といった無生物にもなる。近現代の貨幣のように、それはどんな商品にでも変態可能な位置を獲得しつつ聳え立っている。

なお、比叡平地区ニュータウンの老朽化に伴う地域再編工事が六、七年ばかり前から始まっているため、大津市役所のすぐそばを見下ろす位置にあった「重ね石」が今どうなっているか、移動したか小祠だけが残されているのか、よくわからない。ただ、一九三五年(昭和十年)の豪雨で大規模な山津波(やまつなみ)を起こした地域である。最先端土木テクノロジーが発展した今なお豪雨の際には県内でも真っ先に避難指示が出される箇所の一つとして有名なのはなぜだろう。「重ね石」には文字を彫った痕跡が残されていて、この地点から西南は京、東北は近江と書かれていた。さらに高島市に至ると白鬚明神があり、近江国としては同じだが、そこから北は気候がまるで異なる地域だ。北の方角は越前・越中・越後へ向かう北国海道の境界線であることが随分強調されている。「重ね石」にせよ白髭明神にせよ、道祖神=塞神(さえのかみ)を意味していることはもはや明らかだと思わざるを得ない。しかし変幻自在の妖怪〔鬼・ものの怪〕といっても唯一の鬼が全国一律に各地を巡回するわけではない。地方によってテリトリーがある。その多くは山岳地帯を通して繋がっていると同時に区別されてもいる。しかしそれは時代を降るにつれて山人が代弁する形に置き換えられている。かつて山人あるいは山神のみが知っていたとされる古道(こどう)とは何か。「今昔物語」を通して何か見えてくるものはないだろうか。

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