白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/科学者にとって記録とは何か

2021年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

熊楠は科学者による「記録」の重要性についてこう述べている。

「此通り俺(わし)の画いたのは三色もある。此『図譜』のやうに一色では無いのぢや。生えてある時の色と採収後の色とがいろいろ此通り変つてのだから『図譜』の通り信じて居ると大間違いが起る。学問上の事は、ちよつとの事でも世界中に大影響を及ぼすから注意せにやならぬ。白井博士を経て訂正方を頼みに来て居るから、ヒマヒマに間違つたやつを調べて訂正し漏れたやつを補ふてやるつもりぢや。マダマダ我国の政府者なぞは学問上の事に就ては本当の趣味が無いやうぢや」(南方熊楠「粘菌学より見たる田辺及台場公園保存論」『森の思想・P.365』河出文庫)

いわんや政治家をや、と内容は続く。が、熊楠は始めから政治には関心のない研究者だった。にもかかわらず「神社合祀に関する意見」を書き上げなければならなかった。自然生態系とその多様性というものが、どれほど巨大な規模とリゾーム性を活かしつつ世界を動かしているか、よくわかっていたからにほかならない。

天延二年(九七四年)から長和五年(一〇一六年)にかけて記録に残る佐伯公行(さへきのきんゆき)という実在人物がいた。長徳四年(九九八年)八月二十五日に播磨守(はりまのかみ)に任じられている。その子は五位身分に当たる「大夫(だいふ)」に昇進し、佐伯姓であることから姓の「佐」を用いて通称「佐大夫」(さだいふ)と呼ばれていた。邸宅は四条通と高倉通との交差点付近。今の大丸京都店東側辺りに住んでいた。藤原定成(ふじわらのさだなり)が阿波守(あはのかみ)だった頃、同行し、鳴門海峡の渦潮に巻き込まれでもしたのかも知れないが船ごと海に飲み込まれて水死したらしい。また、「今昔物語」では藤原定成(ふじわらのさだなり)となっているが、類話を掲載した「宇治拾遺物語」では「さとなり」となっている。さらに「さだなり」にせよ「さとなり」にせよ、いずれにしても「阿波守(あはのかみ)」を務めた記録はない。また「宇治拾遺物語」には確かに「水死」なのかどうかの記述は見当たらない。道中に死んだとあるだけ。

「さたいふは阿波守さとなりがともに阿波へくだりけるに、道にて死(しに)けり」(「宇治拾遺物語・巻第十・五・P.232」角川文庫)

だから確実なのは、水死したとされる「佐大夫(さだいふ)」の父に関し、「播磨(はりま)ノ守(かみ)佐伯(へき)ノ公行(きんゆき)ト云フ人有(あり)ケリ」、とある冒頭部分。公行(きんゆき)の全盛期には「蜻蛉日記」、「往生要集」、「枕草子」、「源氏物語」、「拾遺和歌集」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、「和漢朗詠集」などが書かれており、平安文学の全盛期と一致する。なかでも注目したいのは「往生要集」と「和漢朗詠集」。前者は僧侶・恵信院僧都源信(げんしん)の作品であり、死後の世界(地獄及び浄土)について詳しく述べられたもの。第一に七大地獄〔等活地獄・黒蠅地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄〕に関する説明から始まっており、なおかつインドや中国の書物から引用された箇所が夥しく見られ、ただ単なる仏教法話でない点を特徴とする。後者は貴族の教科書としてまとめられもの。和漢の名著から特に名文とされる箇所を選択して編集された。今でも書道の教科書として用いれることが多い。

ところでその間、宮廷内の権力闘争は激化の一途を辿り、比叡山では最後に開発され比良山との境界線に当たる横川(よかわ)にいた源信「往生要集」に代表される浄土信仰が平安貴族らの心の拠り所となっていた。ちなみに寛弘二年(一〇〇五年)、映画や漫画でお馴染みの陰陽師・安倍晴明が死ぬ。

それはそれとして寛弘四年(一〇〇七年)四月、都の政治権力の頂点へ上り詰めようとしていた藤原道長はどういうわけか修験道の中心地・大和(やまと)の金峯山(きんぷせん)へ参詣、写経奉納。「枕草子」、「源氏物語」、「和泉式部日記」など、華々しい文学の出現と並行して、長和三年(一〇一四年)二月、京の都の中枢である内裏が炎上。長和四年(一〇一五年)十一月、再び内裏炎上。いずれも宮廷内の火の管理が疎かになっていたことの証拠だが、反道長派による放火の可能性も否定できない。さらにその翌年の長和五年(一〇一六年)六月、今度は道長の邸宅・土御門(つちみかど)邸に盗賊が押し入り金銀約二千両が盗まれ、さらに七月、土御門邸は焼失した。その翌年の寛仁一年(一〇一七年)七月、京都は豪雨に見舞われ鴨川の堤防が決壊。それにもめげない道長は十二月、とうとう太政大臣となった。しかしその翌年の寛仁二年(一〇一八年)六月、今度は逆に旱魃に襲われ神泉苑で雨乞い神事が行われた。しばらくすると雨が降った。梅雨の季節なので降って当り前ではあるのだが、もし降らなかった場合、その責任が道長に降りかかってくることは明白だったので大袈裟な雨乞いの一つも開催するほかなかったのだろう。当時の神泉苑は今の京都市中京区の辺りで、東西は壬生通から猪熊通にかけて、南北は二条通から三条通にかけて広大な敷地を誇っており、大内裏のすぐ東南に位置する遊覧場だった。次の説話はそのような時代背景の中で生じた。

河内禅師(かはちのぜんし)という男性がいた。黄色の斑点を持つ一頭の「まだら牛」を飼っていた。一頭とはいっても牛は稲作農耕に欠かせない村落共同体の共有財産。河内禅師は請われて牛を一時知人に貸した。知人は借りた牛に車を付けて「淀(よど)」の橋に差し掛かった。桂川にかかる「樋爪(ひづめ)ノ橋」。今の京都市伏見区淀(よど)の、桂川を挟んで西側の樋爪(ひづめ)町にかつて橋が渡してあり「樋爪(ひづめ)ノ橋」と呼ばれた。禅師の知人は牛の操作ミスで車を桂川へ転落させてしまった。ところが牛は怪力を発揮し、車は川へ転落してしまったものの牛自身は踏ん張って橋の上に留まった。さいわい車に人は乗っていなかったため死者はなかった。それを見ていた人々は、普通ではとてもではないが耐えられないところなのに何と強靭な牛なのか、やんややんやと誉め称えた。ただ、それを黙って見ていたものがいる。

「河内禅師ガ許(もと)ニ、黄斑(あめまだら)ノ牛有(あり)ケリ。其ノ牛ヲ知(しり)タル人ノ借(かり)ケレバ、淀(よど)ヘ遣(やり)ケルニ、樋爪(ひづめ)ノ橋ニテ、牛飼ノ車ヲ悪(あし)ク遣(やり)テ、車ノ片輪(かたわ)ヲ橋ヨリ落(おと)シタリケルニ被引(ひかれ)テ車ヨリ落(おち)ケルヲ、『車ノ落ル也ケリ』ト思(おもひ)ケルニヤ、牛ノ踏(ふみ)ハダカリテ、不動(はたらか)デ立(た)テリケレバ、鞅(なむがい)ノ切レテ、車ハ落テ損(そん)ジニケリ。弊(つたな)キ牛ナラマシカバ、被引(ひかれ)テ牛モ損ジナマシ。然レバ、極(いみじ)キ力カナトゾ、其ノ辺(わたり)ノ人モ讃(ほめ)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.139」岩波書店)

なお、「樋爪(ひづめ)ノ橋」はおそらく宛字。「宇治拾遺物語」にはこうある。

「ひづめの橋」(「宇治拾遺物語・巻第十・五・P.232」角川文庫)

また「火爪」とも書く。「今昔物語」で「ひ」は欠字になっていて「つめ」は「通(つめ)」と書かれている。

大した牛だと評判になったからか河内禅師は以前にも増して牛を大切に育てていた。ところが或る日、何の兆候もなく突然牛が消え失せた。河内禅師はあちこち探し廻った。ところが一向に良い知らせは届かない。どうしようと考えあぐねて困り果てた。そしてしばらく経った或る夜。河内禅師は夢を見た。出てきたのは海に落ちて死んだはずの「佐大夫(さだいふ)」。戦慄した禅師は驚愕しつつその理由を尋ねた。

「海ニ落入(おちいり)テ死ニキト聞ク者ハ、何(い)カデ来(きた)ルニカ有ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.140」岩波書店)

佐大夫(さだいふ)はいう。死んだ後、鬼門の方角の片隅で暮らしているのだが、毎日々々「樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)」まで通うという苦行を負わされている。罪が重いのか、体重がとても重くてもはや車に乗るだけでは間に合わず、かといって徒歩で通うのは不可能に近い。ところが最近「樋爪(ひづめ)ノ橋」でお前さんの「黄斑(あめまだら)ノ牛」が怪力を発揮して賞賛を浴びているのを見た。そこで牛を借りることにしたわけだ。たいへん頼りになる牛だな。この苦行だが、あと五日を残すばかり。六日目の午前十時頃には必ず返すからそうせっつかないでくれないか。

「己(おのれ)ハ死(しに)テ後、此ノ丑寅(うしとら)ノ角(すみ)ノ方(かた)ニナム侍(はべ)ルガ、其(そこ)ヨリ日ニ一度、樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)ニ行(ゆき)テ苦(く)ヲ受侍(うけはべ)ル也。其レニ、己(おの)レガ罪ノ深クテ、極(きはめ)テ身ノ重ク侍レバ、乗物ノ不堪(たへ)ズシテ、歩(かち)ヨリ罷(まか)リ行(あり)クガ極テ苦(くるし)ク侍(はべれ)バ、此ノ黄斑(あめまだら)ノ御車牛(うし)ノ力ノ強クテ、乗リ侍ルニ堪(たへ)タレバ、暫ク借申(かりまう)シテ乗(のり)テ罷行(まかりあり)クヲ、極(いみじ)ク求メサセ給ヘバ、今五日有(あり)テ、六日ト申サム巳(み)ノ時許(ばかり)ニ返シ申シテムトス。強(あながち)ニナ求メ騒ガセ不給(たまひ)ソ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.140」岩波書店)

この鬼門は方角を指してはいるが方角を指しているのみで、実際どこのどの辺りなのかはっきりしない。「丑寅(うしとら)ノ角(すみ)ノ方(かた)」とあるばかり。一方、「樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)」は平安京から見て隣接する地域との境界線に当たっており、なおかつ境界線を示す印としてあえて「橋」が架けられている。だから今の京都市伏見区淀(よど)樋爪(ひづめ)町にかつて架かっていた橋は平安京と異界とを繋ぐ境界領域として神聖化されていたということはわかるのである。

この説話にはユーモラスな「落ち」がある。約束通り「六日ト申サム巳(み)ノ時許(ばかり)」=「六日目の午前十時頃」になると河内禅師の家にぬうっと牛が入ってきた。長年付き合ってきた「黄斑(あめまだら)ノ牛」である。牛は一世一代の大仕事を成し遂げて帰ってきたかのような顔をして見せたという。付け加えるとすれば、失策連発してなお憚るところのない今の日本政府より、たった一頭の牛に救われた人々が大勢いた時代だったという点だろう。この怪異譚もまた、社会保障なき中世の暗黒時代の食糧難に際して、多くの動植物たちが人間の生活様式にとってどのような役割を淡々とこなしていたかを考える良い資料としてしっかり書き残されたというわけだ。レシートなど考えられもしなかった時代にもかかわらず、ではなく、レシートなど考えられなかったがゆえに、あえて「記録」がどれほど重要性を持っていたか。誰もが身に沁みて知っていたのである。

BGM1

BGM2

BGM3