熊楠の自由奔放な研究態度は「牛肉蕈」のほんの一節を見ただけですぐさま見出される。
「古来肉を忌んだ山僧が種々の菌(きのこ)を食ったことは、『今昔物語』等に出で、支那の道士仙人が、種々芝(し)と名づけて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は『枹朴子』等で知れる。紀州の柯(しい)樹林に多く生ずる牛肉蕈(たん)は、学名フィスチュリナ・ヘパチカで、形色芳味まるで上等の牛肉だから、予はしばしばこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.311~312』河出文庫)
牛肉蕈(たん)の学名「フィスチュリナ・ヘパチカ」とあるのは“Fistulina hepatica”(カンゾウタケ=肝臓茸)のこと。フランスで“Langue de boeuf”(牛の舌)と呼ばれる菌類。アメリカでは身の蓋もなく“Beefsteak Fungus”(貧者のビーフステーキ)と呼ばれる。
今なお世界は無数の宗教教義で溢れかえっている。古代日本列島はどうだったか。「日本書紀」の中に記録された「牛肉タブー」を巡る宮廷で起こった或る一件は、その頃まだ牛肉食あるいは牛馬を神への生贄として捧げる風習が残っていたことを如実に物語るものだ。次の一節は、牛馬を生贄として神に捧げた雨乞い神事が宮廷で歴然と行われていたことと、その一方で仏教輸入に力を入れた蘇我氏との対立構造を描き出してあますところがない。
「秋(あき)七月(ふみづき)の甲寅(きのえとら)の朔壬戌(みづのえいぬのひ)に、客星(まらうとほし)月に入(い)れり。乙亥(きのとのゐのひ)に、百済の使人(つかひ)大佐平智積等(だいさへいちしゃくら)に朝(みかど)に饗(あへ)たまふ。乃ち健児(ちからひと)に命(ことおほ)せて、翹岐が前(まへ)に相撲(すまひと)らしむ。智積等、宴(とよのあかり)畢(をは)りて退(まかりい)でて、翹岐が門(かど)を拝(をがみ)す。丙子(ひのえねのひ)に、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が豎者(しとべ)、白雀(しろすずみ)の子(こ)を獲(え)たり。是(こ)の日(ひ)の同(おな)じ時(とき)に、人有(あ)りて、白雀(しろすずみ)を以(も)て籠(こ)に納(い)れて、蘇我大臣(そがのおほおみ)に送(おく)る。戊寅(つちのえとらのひ)に、群臣(まへつきみたち)相語(あひかた)りて曰(い)はく、『村村(むらむら)の祝部(はふりべ)の所教(をしへ)の随(まま)に、或(ある)いは牛馬(うしうま)を殺(ころ)して、諸(もろもろ)の社(やしろ)の神(かみ)を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市(いち)を移す。或は河伯(かはのかみ)を禱(いの)る。既(すで)に所効(しるし)無(な)し。』といふ。蘇我大臣報(こた)へて曰(い)はく、『寺寺(てらでら)にして大乗教典(だいじょうきやうでん)を転読(よ)みまつるべし。悔過(くゑくわ)すること、仏(ほとけ)の説(と)きたまふ所(ところ)の如(ごと)くして、敬(ゐや)びて雨(あめ)を祈(こ)はむ』といふ。庚辰(かのえたつのひ)に、大寺(おほでら)の南(みなみ)の庭(おほば)にして、仏菩薩(ほとけぼさち)の像(みかた)と四天王(してんわう)の像とを厳(よそ)ひて、衆(もろもろ)の僧(ほふし)を屈(ゐや)び請(ま)せて、大雲経等(だいうんきょうら)を読(よ)ましむ。時(とき)に、蘇我大臣、手(て)に香鑪(かうろ)を執(と)りて、香(こり)を焼(た)きて願(ちかひ)を発(おこ)す。辛巳(かのとのみのひ)に、微雨(こさめ)ふる。壬午(みづのえうまのひ)に、雨を祈(こ)ふこと能(あた)はず。故(かれ)、経(きょう)を読むことを停(や)む。八月(はつき)の甲申(きのえさる)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、南淵(みなぶち)の河上(かはかみ)に幸(いでま)して、跪(ひざまづ)きて四方(よも)を拝(をが)む。天(あめ)を仰(あふ)ぎて祈(こ)ひたまふ。則(すなは)ち雷(いかづち)なりて大雨(ひさめ)降る。遂(つひ)に雨ふること五日(いつか)。溥(あめね)く天下(あめのした)を潤(うるほ)す。或本(あるふみ)に云(い)はく、五日(いつか)連(しきり)に雨ふりて、九穀(ここのつのたなつもの)登(な)り熟(あから)めりといふ。是(ここ)に、天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、倶(とも)に称万歳(よろこ)びて曰(まう)さく、『至徳(いきほひ)まします天皇なり』とまうす」(「日本書紀4・巻第二十四・皇極天皇元年・P.192~194」岩波文庫)
倭国について。この地域周辺はまだ日本という名を持っておらず、そもそも中央アジア・小アジア(バルカン)・中国・東南アジア・インドネシア・ポリネシア・メソポタミア・古代イラン・古代シリア等々から陶磁器・ガラス器・農耕の輸入とともに様々な宗教・信仰が混じり合いながら入ってきただけでなく、もっと古くから列島各地で暮らしていた多くの先住民たちがそれぞれの世界観に則った祭祀を行なってきた歴史に彩られている。仏教推進勢力の筆頭だった蘇我氏が宮廷権力を握るまで、あるいは握った後に滅亡してからもなお、牛肉食とその奉納はしばしば行われている。歴史上最も古い牛肉食とその神格化について述べられた文献は紀元前一一〇〇年頃にインドでまとめられた「リグ・ヴェーダ」に詳しい。
「1 牡牛なす群、勇武にして〔祭祀を〕指導する〔群〕、マルト神群に、ノーダス(本編の詩人)よ、いみじき賛歌を捧げよ。手芸に巧みなる名匠が意(こころ)をこめて〔その〕作品を〔飾る〕ごとく、われ〔報酬の〕分配に効果ある賛歌を飾る」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-64・P.59」岩波文庫)
「3 牝牛(プリシュニ)を母とする者たちが、装具をもって身を飾るとき、彼らは美々(びび)しくも輝く〔武具〕をおのが身につけたり。彼らは敵意あるすべての者を撃退す。彼らの〔車〕の轍(わだち)に沿いてグリタ(雨)は流る」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-85・P.62」岩波文庫)
「13 (ヴリシャーカピ)ヴリシャーカパーイーよ、豊かなる者よ、よき息子をもつ者よ、しかしてまたよき嫁をもつ者よ、インドラはなれが牡牛を食らわんことを、いささか〔彼を〕満足せしむるいとしき供物を。
14 (インドラ)人々は実にわがために、十五頭、二十頭の牡牛を一挙に調理す。しかしてわれは脂肪のみを食らう。人々はわが両脇腹を満たす。
145(ヴィリシャーカパーイー)鋭き角をもち、群の中において高らかに吼ゆる牡牛(神酒ソーマ)のごとく、マンタは、インドラよ、なが心に快適なり、〔力を〕増進せしめんがために作らるる〔このマンタは〕」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-86・P.183」岩波文庫)
「7 牝牛〔の部分〕によりて、アグニに対する鎧(よろい)をまとえ。脂肪と脂膏とをもって、完全に身を蔽え。大胆なる者(アグニ)が、激昂し、粗暴となり、焼き尽くさんとして、炎もて汝を抱かざらんがために」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-16・P.247~248」岩波文庫)
「5 汝のこの名高き〔滋液〕は、食物よ、〔われらに甘味を〕与う、汝らのこの〔滋液〕は、最も甘美なる食物よ。滋液の甘味は前進す、強き頭もつ〔牡牛〕のごとくに」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-187・P.341」岩波文庫)
牛肉食によって一時的に身体能力が増殖するというもっともな見解である。一方、仏教は肉食を忌む。ゆえに普段口にしている動植物を自然界に放してやる「放生会」(ほうじょうえ)という儀式が設けられた。殺生戒(せっしょうかい)を重んじる仏教と、そうでなく狩猟・漁撈を本来の生活様式とする種々の村落共同体の間でたびたび論争が行われたことはよく知られている。しかし明治近代以後、仏教徒が肉食・妻帯・飲酒・土地売買に手を染めるようになってから僧侶の社会的地位は下落したかといえば必ずしもそうではない。僧侶とはいっても逆に大富豪と大貧民とに分割されるようになった。資本主義は鋼鉄の自己目的をもってありとあらゆる宗教教義をひとまたぎに悠々と乗り越えて自分で自分自身の自己目的を押し進めていくことしか知らない。そのためもあってか特定の宗教が有する教義を厳守する必要性のない一般市民にとって牛馬豚鹿猪鴨などは大変旨い。
ところが熊楠は牛馬を食べるかどうかということより遥かに重大な事実に注目している。それは何か。日本の宮廷では「オコゼ」に代表されるように見た目に奇怪な魚類ばかり珍重されるのはなぜか、という問いだ。
「滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図絵』巻四八に、この魚、和名乎古之(おこじ)、俗に乎古世(おこぜ)という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資(よ)っておって子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風を禱るをこれに捧ぐ。紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡小屋とはオコゼもて山神を祭り、大利を得し人の譚を伝う」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.165』河出文庫)
「販魚婦に聞きしは、山神特に好むオコゼは、常品と異なり、これを山の神と名づけ、色ことに美麗に、諸鰭、ことに胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得るごとに乾しおくを、山神祭りの前に、諸山の民争うて買いに来る。海浜の民は、これを家の入口に掛けて悪鬼を禦ぐ、と」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.168』河出文庫)
柳田國男は次のように述べる。
「先生がヤマノカミを祭る理由と言われた点は、あるいはそうかも知れぬと思うばかりで、まだ決めてしまうわけには行かぬ。自分はハナオコゼに種々の異名を付けたわけを今少し調べたいと思う。たとえば筑前でこれをミコイヲというのは巫魚であろう。これはまたは形の似たためかも知らぬが、事によると巫の祭祀または信仰と関係がないとも言われぬ。というのは土佐でこの魚をキミオコゼということである。キミというのは田舎で昔巫女(ふじょ)を尊敬して呼んだ語であるらしい。山の中の地名に君が畑または君が沢という所が折々ある。巫(みこ)が深山で神を祭ったらしい痕跡は地名にも伝説にもたくさんある。十分な証拠はないがオコゼは巫女の持ったTotem(霊代=たましろ)の一種かと思っている。読者諸君の尽力でオコゼの方面から山神の信仰を研究したいと思う」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.425~426』ちくま文庫)
さらに。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫)
また狩猟・漁撈を主とする人々にとって「山オコゼ・海オコゼ」という二分割があったのはなぜか。
「十五 オコゼ 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山猟には海オコゼを祭るを効験多しという。祭るにはあらず責むるなり。その方法はオコゼを衣一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまえ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ参らせんと。次て幸いにして一頭を獲たるときは、また告げて曰く、御蔭をもって大猪を獲たり、この上なお一頭を獲させたまえ。さあすればいよいよ世の明りを見せ申さんとて、さらにまた一枚の白紙をもって堅くこれを包み、その上に小捻(おひねり)をもって括(くく)るなり。かくのごとく一頭を獲るごとに包蔵するがゆえに、祖先より伝来の物は百数十重に達する者ありという。このオコゼは決して他人に示すことなし。宮崎県西臼杵(うすき)郡椎葉(しいば)村にオコゼを所持する家ははなはだ稀(まれ)なり。中のオコゼを見たる者はいよいよもって稀有(けう)なるべし」(柳田國男「後狩詞記・狩ことば」『柳田国男全集5・P.31』ちくま文庫)
一方に奇怪な海の幸があり、もう一方に奇怪な山の幸がある。お節料理では一般に甘栗(あまくり)と数の子(かずのこ)というふうに両者ともに並ぶ。そして両者が揃わないところでは宮廷行事もまた始めることはできない。さらにまた、奥深い山間部で採れる珍味と波打ち寄せる海浜部で採れる珍味との間を繋いでいるのは「塩」あるいは「塩の道」だということに注目しなければ天皇家が辿ってきた歴史的紆余曲折に迫る研究はけっして出来ないだろう。
「数の子に黒豆色をなしにけり」(野村喜舟)
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「古来肉を忌んだ山僧が種々の菌(きのこ)を食ったことは、『今昔物語』等に出で、支那の道士仙人が、種々芝(し)と名づけて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は『枹朴子』等で知れる。紀州の柯(しい)樹林に多く生ずる牛肉蕈(たん)は、学名フィスチュリナ・ヘパチカで、形色芳味まるで上等の牛肉だから、予はしばしばこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.311~312』河出文庫)
牛肉蕈(たん)の学名「フィスチュリナ・ヘパチカ」とあるのは“Fistulina hepatica”(カンゾウタケ=肝臓茸)のこと。フランスで“Langue de boeuf”(牛の舌)と呼ばれる菌類。アメリカでは身の蓋もなく“Beefsteak Fungus”(貧者のビーフステーキ)と呼ばれる。
今なお世界は無数の宗教教義で溢れかえっている。古代日本列島はどうだったか。「日本書紀」の中に記録された「牛肉タブー」を巡る宮廷で起こった或る一件は、その頃まだ牛肉食あるいは牛馬を神への生贄として捧げる風習が残っていたことを如実に物語るものだ。次の一節は、牛馬を生贄として神に捧げた雨乞い神事が宮廷で歴然と行われていたことと、その一方で仏教輸入に力を入れた蘇我氏との対立構造を描き出してあますところがない。
「秋(あき)七月(ふみづき)の甲寅(きのえとら)の朔壬戌(みづのえいぬのひ)に、客星(まらうとほし)月に入(い)れり。乙亥(きのとのゐのひ)に、百済の使人(つかひ)大佐平智積等(だいさへいちしゃくら)に朝(みかど)に饗(あへ)たまふ。乃ち健児(ちからひと)に命(ことおほ)せて、翹岐が前(まへ)に相撲(すまひと)らしむ。智積等、宴(とよのあかり)畢(をは)りて退(まかりい)でて、翹岐が門(かど)を拝(をがみ)す。丙子(ひのえねのひ)に、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が豎者(しとべ)、白雀(しろすずみ)の子(こ)を獲(え)たり。是(こ)の日(ひ)の同(おな)じ時(とき)に、人有(あ)りて、白雀(しろすずみ)を以(も)て籠(こ)に納(い)れて、蘇我大臣(そがのおほおみ)に送(おく)る。戊寅(つちのえとらのひ)に、群臣(まへつきみたち)相語(あひかた)りて曰(い)はく、『村村(むらむら)の祝部(はふりべ)の所教(をしへ)の随(まま)に、或(ある)いは牛馬(うしうま)を殺(ころ)して、諸(もろもろ)の社(やしろ)の神(かみ)を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市(いち)を移す。或は河伯(かはのかみ)を禱(いの)る。既(すで)に所効(しるし)無(な)し。』といふ。蘇我大臣報(こた)へて曰(い)はく、『寺寺(てらでら)にして大乗教典(だいじょうきやうでん)を転読(よ)みまつるべし。悔過(くゑくわ)すること、仏(ほとけ)の説(と)きたまふ所(ところ)の如(ごと)くして、敬(ゐや)びて雨(あめ)を祈(こ)はむ』といふ。庚辰(かのえたつのひ)に、大寺(おほでら)の南(みなみ)の庭(おほば)にして、仏菩薩(ほとけぼさち)の像(みかた)と四天王(してんわう)の像とを厳(よそ)ひて、衆(もろもろ)の僧(ほふし)を屈(ゐや)び請(ま)せて、大雲経等(だいうんきょうら)を読(よ)ましむ。時(とき)に、蘇我大臣、手(て)に香鑪(かうろ)を執(と)りて、香(こり)を焼(た)きて願(ちかひ)を発(おこ)す。辛巳(かのとのみのひ)に、微雨(こさめ)ふる。壬午(みづのえうまのひ)に、雨を祈(こ)ふこと能(あた)はず。故(かれ)、経(きょう)を読むことを停(や)む。八月(はつき)の甲申(きのえさる)の朔(ついたちのひ)に、天皇(すめらみこと)、南淵(みなぶち)の河上(かはかみ)に幸(いでま)して、跪(ひざまづ)きて四方(よも)を拝(をが)む。天(あめ)を仰(あふ)ぎて祈(こ)ひたまふ。則(すなは)ち雷(いかづち)なりて大雨(ひさめ)降る。遂(つひ)に雨ふること五日(いつか)。溥(あめね)く天下(あめのした)を潤(うるほ)す。或本(あるふみ)に云(い)はく、五日(いつか)連(しきり)に雨ふりて、九穀(ここのつのたなつもの)登(な)り熟(あから)めりといふ。是(ここ)に、天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、倶(とも)に称万歳(よろこ)びて曰(まう)さく、『至徳(いきほひ)まします天皇なり』とまうす」(「日本書紀4・巻第二十四・皇極天皇元年・P.192~194」岩波文庫)
倭国について。この地域周辺はまだ日本という名を持っておらず、そもそも中央アジア・小アジア(バルカン)・中国・東南アジア・インドネシア・ポリネシア・メソポタミア・古代イラン・古代シリア等々から陶磁器・ガラス器・農耕の輸入とともに様々な宗教・信仰が混じり合いながら入ってきただけでなく、もっと古くから列島各地で暮らしていた多くの先住民たちがそれぞれの世界観に則った祭祀を行なってきた歴史に彩られている。仏教推進勢力の筆頭だった蘇我氏が宮廷権力を握るまで、あるいは握った後に滅亡してからもなお、牛肉食とその奉納はしばしば行われている。歴史上最も古い牛肉食とその神格化について述べられた文献は紀元前一一〇〇年頃にインドでまとめられた「リグ・ヴェーダ」に詳しい。
「1 牡牛なす群、勇武にして〔祭祀を〕指導する〔群〕、マルト神群に、ノーダス(本編の詩人)よ、いみじき賛歌を捧げよ。手芸に巧みなる名匠が意(こころ)をこめて〔その〕作品を〔飾る〕ごとく、われ〔報酬の〕分配に効果ある賛歌を飾る」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-64・P.59」岩波文庫)
「3 牝牛(プリシュニ)を母とする者たちが、装具をもって身を飾るとき、彼らは美々(びび)しくも輝く〔武具〕をおのが身につけたり。彼らは敵意あるすべての者を撃退す。彼らの〔車〕の轍(わだち)に沿いてグリタ(雨)は流る」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-85・P.62」岩波文庫)
「13 (ヴリシャーカピ)ヴリシャーカパーイーよ、豊かなる者よ、よき息子をもつ者よ、しかしてまたよき嫁をもつ者よ、インドラはなれが牡牛を食らわんことを、いささか〔彼を〕満足せしむるいとしき供物を。
14 (インドラ)人々は実にわがために、十五頭、二十頭の牡牛を一挙に調理す。しかしてわれは脂肪のみを食らう。人々はわが両脇腹を満たす。
145(ヴィリシャーカパーイー)鋭き角をもち、群の中において高らかに吼ゆる牡牛(神酒ソーマ)のごとく、マンタは、インドラよ、なが心に快適なり、〔力を〕増進せしめんがために作らるる〔このマンタは〕」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-86・P.183」岩波文庫)
「7 牝牛〔の部分〕によりて、アグニに対する鎧(よろい)をまとえ。脂肪と脂膏とをもって、完全に身を蔽え。大胆なる者(アグニ)が、激昂し、粗暴となり、焼き尽くさんとして、炎もて汝を抱かざらんがために」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-16・P.247~248」岩波文庫)
「5 汝のこの名高き〔滋液〕は、食物よ、〔われらに甘味を〕与う、汝らのこの〔滋液〕は、最も甘美なる食物よ。滋液の甘味は前進す、強き頭もつ〔牡牛〕のごとくに」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-187・P.341」岩波文庫)
牛肉食によって一時的に身体能力が増殖するというもっともな見解である。一方、仏教は肉食を忌む。ゆえに普段口にしている動植物を自然界に放してやる「放生会」(ほうじょうえ)という儀式が設けられた。殺生戒(せっしょうかい)を重んじる仏教と、そうでなく狩猟・漁撈を本来の生活様式とする種々の村落共同体の間でたびたび論争が行われたことはよく知られている。しかし明治近代以後、仏教徒が肉食・妻帯・飲酒・土地売買に手を染めるようになってから僧侶の社会的地位は下落したかといえば必ずしもそうではない。僧侶とはいっても逆に大富豪と大貧民とに分割されるようになった。資本主義は鋼鉄の自己目的をもってありとあらゆる宗教教義をひとまたぎに悠々と乗り越えて自分で自分自身の自己目的を押し進めていくことしか知らない。そのためもあってか特定の宗教が有する教義を厳守する必要性のない一般市民にとって牛馬豚鹿猪鴨などは大変旨い。
ところが熊楠は牛馬を食べるかどうかということより遥かに重大な事実に注目している。それは何か。日本の宮廷では「オコゼ」に代表されるように見た目に奇怪な魚類ばかり珍重されるのはなぜか、という問いだ。
「滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図絵』巻四八に、この魚、和名乎古之(おこじ)、俗に乎古世(おこぜ)という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資(よ)っておって子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風を禱るをこれに捧ぐ。紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡小屋とはオコゼもて山神を祭り、大利を得し人の譚を伝う」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.165』河出文庫)
「販魚婦に聞きしは、山神特に好むオコゼは、常品と異なり、これを山の神と名づけ、色ことに美麗に、諸鰭、ことに胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得るごとに乾しおくを、山神祭りの前に、諸山の民争うて買いに来る。海浜の民は、これを家の入口に掛けて悪鬼を禦ぐ、と」(南方熊楠「山神オコゼ魚を好むということ」『南方民俗学・P.168』河出文庫)
柳田國男は次のように述べる。
「先生がヤマノカミを祭る理由と言われた点は、あるいはそうかも知れぬと思うばかりで、まだ決めてしまうわけには行かぬ。自分はハナオコゼに種々の異名を付けたわけを今少し調べたいと思う。たとえば筑前でこれをミコイヲというのは巫魚であろう。これはまたは形の似たためかも知らぬが、事によると巫の祭祀または信仰と関係がないとも言われぬ。というのは土佐でこの魚をキミオコゼということである。キミというのは田舎で昔巫女(ふじょ)を尊敬して呼んだ語であるらしい。山の中の地名に君が畑または君が沢という所が折々ある。巫(みこ)が深山で神を祭ったらしい痕跡は地名にも伝説にもたくさんある。十分な証拠はないがオコゼは巫女の持ったTotem(霊代=たましろ)の一種かと思っている。読者諸君の尽力でオコゼの方面から山神の信仰を研究したいと思う」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.425~426』ちくま文庫)
さらに。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫)
また狩猟・漁撈を主とする人々にとって「山オコゼ・海オコゼ」という二分割があったのはなぜか。
「十五 オコゼ 鯱(シヤチ)に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ、山猟には海オコゼを祭るを効験多しという。祭るにはあらず責むるなり。その方法はオコゼを衣一枚の白紙に包み、告げて曰く、オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまえ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ参らせんと。次て幸いにして一頭を獲たるときは、また告げて曰く、御蔭をもって大猪を獲たり、この上なお一頭を獲させたまえ。さあすればいよいよ世の明りを見せ申さんとて、さらにまた一枚の白紙をもって堅くこれを包み、その上に小捻(おひねり)をもって括(くく)るなり。かくのごとく一頭を獲るごとに包蔵するがゆえに、祖先より伝来の物は百数十重に達する者ありという。このオコゼは決して他人に示すことなし。宮崎県西臼杵(うすき)郡椎葉(しいば)村にオコゼを所持する家ははなはだ稀(まれ)なり。中のオコゼを見たる者はいよいよもって稀有(けう)なるべし」(柳田國男「後狩詞記・狩ことば」『柳田国男全集5・P.31』ちくま文庫)
一方に奇怪な海の幸があり、もう一方に奇怪な山の幸がある。お節料理では一般に甘栗(あまくり)と数の子(かずのこ)というふうに両者ともに並ぶ。そして両者が揃わないところでは宮廷行事もまた始めることはできない。さらにまた、奥深い山間部で採れる珍味と波打ち寄せる海浜部で採れる珍味との間を繋いでいるのは「塩」あるいは「塩の道」だということに注目しなければ天皇家が辿ってきた歴史的紆余曲折に迫る研究はけっして出来ないだろう。
「数の子に黒豆色をなしにけり」(野村喜舟)
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