白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/神話・アナロジー・複数性

2021年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
神話が出現する条件として類似(アナロジー)ということがどれほど大きなウエイトを占めているか。熊楠はいう。

「中国人が化石のスピリフェルを燕の変身したものと間違えたこと以外にも、ある物の起源を、それと表面的な類似を持つ他の物に見るという、通俗的な誤りの例は多い。たとえば、スウェーデンの一老博物学者がその『花暦』の中で、九月の初めに燕が水中に引きこもることを、日暮(ひぐれ)すこし前に彼の鶏がねぐらに就くのを話すのと、まるで同じ気楽な調子で書いているが、それと同じように、中国の『礼記』の月令第六には、『季秋の月(陰暦十月)、鴻雁来賓し、爵(すずめ)、大水に入りて蛤となる。孟冬の月(陰暦十一月)、水はじめて氷り、薙、大水に入りて蜃となる』と書かれている。中国人はまた、鵰(くまたか)は化して珂(くつわがい)となり、老いたる伏翼(こうもり)は化して魁蛤(あかがい)となる、と思っていた。日本人もかつては、鳰(かいつぶり)という水鳥と、千鳥(ちどり)という渉禽類の一種とが、海の『鳥貝』(Cardium mutieum)という貝に変身すると信じていた。『その肉の卵の如くなる(味が?)』とも、『肉を見るに鳥の形あり』とも書かれている。烏賊(いか)は、日本人が『からすとんび』と呼んでいる鋭い顎と黒い墨液(すみ)のために、中国人から烏の変身したものとされた。これらの誤りはすべて、くちばし状の脚を持った有穀類と鳥類との類似に根拠を持つと考えられるが、このことは、二百年すこし前に、『スコットランド王国の枢密院議員になったばかりの』ロバート・マーリ卿が、フジツボが雁(がん)に変身するという民間伝承を、前者の鰓が発生学的に後者の羽と思われることから、真実だと科学界で断言した事件を思い合わせると、ますます明らかになるであろう」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.381~382』河出文庫)

昔の中国では漢方薬として信じられていた「石燕」(化石のスピリフェル)。それは雌雄が共に引かれ合っているかのように見えることから「相思子」と呼ばれ高価な価格で取引された。中国では「相思子」と呼ばれていると教えてくれたのはロンドン亡命中に出会った孫逸仙(孫文)。熊野では「酢貝」(すがい)と呼ばれていて熊野比丘尼が京へ出かけて売り歩いているのと同じだと熊楠は思った。

「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383~384』河出文庫)

よく売れた。主に媚薬効果をもたらすものとして。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

イギリスのC.トムリンソンの報告によれば「眼石」(アイ・ストーン)を指す。事情はこうだ。

「彼は、それを北海の浜辺の海草の上で見つけたと言い、水夫たちが目に入った《ごみ》を除くために使うことから『眼石』(アイ・ストーン)と呼ばれていると言った。『眼石』はまぶたの下側にさし込み、その刺激によって《ごみ》が除かれるまで、そのままにしておくものである。その石の上面はやや凸面をなし、構造は貝殻状であり、下面はなめらかで固い」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.385』河出文庫)

さらに日本では「子安貝(カウリー)」が安産祈願・媚薬などとして販売されていている。それもまた見た目の類似性(アナロジー)から生じたただ単なる迷信に過ぎない。子安貝はなるほど女性器に酷似しているため、余りのありがたさを感じた人々が無数にいた。遂に「貨幣」として用いられるに至った過去を持つ。さらに安産・多産、媚薬効果、邪視(怪しげな予知能力・占い)に対するお守りとしての信仰。それは起源を特定することが困難なほど古くから伝承されている。しかし何より決定的な役割を演じたのは「貨幣」として用いられたという事実だろう。出産に当たって母子ともに死ぬことが少なくなかった時代、安産・多産・媚薬として、さらに邪視(怪しげな予知能力・占い)からの守護として。貨幣として流通した(あるいは流通する)ことがあるという事実。そのため「子安貝(カウリー)」は「無限の徳目」を獲得するに至った。今なお信じている人々もいると。

「安産の子安貝(カウリー)に関する日本の物語は、その貝の特異な形態に由来している。その形態ゆえに、この貝はヴィーナスに捧げられたのである。そして、邪視に対するお守り、惚れ薬、多産や安産などの効能がこの貝にあるというのは、高感(シンパシー)理論が一般に信じられたからである。これに加えて、古代に広く貨幣として使われたことが、それにほとんど無限の徳目を付与することになった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.391』河出文庫)

ところがその信仰発生の起源を唯一の原因に還元して見せようと科学者らがどれほど取り組んでも、逆に取り組めば取り組むほど、唯一の原因特定からますます遠ざかってしまう。それは原因究明に当たって種々の因果関係をたった一つに絞り込めるに違いないと信じて疑っていない科学者自身の「信仰」にあると熊楠はいう。ニーチェがいうように原因は結果となり結果はたちまち原因へと置き換えられる。さらにそれは唯一どころかまったく逆に、そもそも複数要因のせめぎ合いがそう見えているに過ぎない。しかしただ「そう見える」ということ。と同時に「そう見えた」瞬間、人間の目には「唯一性」の追求を欲するという欲望が立ち現れるということ。人間の目には唯一性への意志が本来的な目的ででもあるかのように出現するのだ。熊楠はこの構造を夢に喩えている。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)

夢はすべての助詞が脱落した状態で場面Aの次に場面Bが出現し、その次にさらに場面Cが続く。しかしこのABCという並びは本当に順序正しく理路整然と整理整頓されて立ち現われてきた歴史的系列に等しい価値を持つのか。実をいうと全然違っている。フロイトは表層と深層という用語を用いた。しかし深層などない。すべては言語のように表層ばかり乱立しているに過ぎない。なるほどフロイトの夢判断は深層を読み解くという方法について述べられているかのように「見える」。だがフロイト自身、どこをどう読んでみてもその時その時で姿形を置き換えて出現する表層にのみ着目している。ニーチェは始めから複数性を強調していた。

「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)

こうもいう。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

マルクスの場合は次のようにいう。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

無数の要因は貨幣の出現によってあっけなく「隠蔽されてしまう」。文化人類学という専門用語がなかった時代。熊楠は「燕石考」においてすでに文化人類学へ到達していた。幸か不幸か知らないがこの論文はイギリスのネイチャー誌に掲載され高い評価を得た。ところが熊楠が述べているのは類似(アナロジー)ということがどれだけ大量の迷信を生産してきたかについてほんの僅かばかり触れただけのことだ。とはいえ熊楠にそれが出来たのはなぜか。欧米で高く評価されたわけはどこにあったのか。研究に際して熊楠が立っていた位置が始めから違っていたことによる。だからといって日本の側が優秀だとかそんなことは一つも考えていない。熊楠が立っていた位置は日本の専門家たちが立っていた位置ともまた異なっているからである。熊楠は一方で、欧米の学術研究界で普遍的とされている考え方に疑問を呈する。同時に日本で普遍的とされ信じられてきた考え方をも斬り捨てる。そのような非凡な研究態度は熊野の森の中でじっくり取り組まれた粘菌の変態過程が熊楠に教えてくれ、また学ぶ態度を獲得していたがゆえ、始めて可能となったまったく新しい思考方法だった。

しかしなお、類似(アナロジー)のないところには比喩もなければ詩も絵も音楽もない。創作は不可能になり窒息する。創作の場合は逆に類似(アナロジー)や意味の横滑りが遊びや創造力を次々と育んでいく。だから研究者は創作にも長けていなければ目の前に置かれている研究材料がどのようにパッチワークされたものかを知ることはできない。とりわけ熊楠の論文の場合、全集であれ選集であれ、あらかじめ分類された論文を順序正しく読んでいくことがいつも正しいとはまったく限らない。それより「十二支考」のように続々と湧き起こってくる連想の生じるがままAからC、CからG’といったような論述こそ熊楠には似合うし本来的な熊楠なのだろう。だがそこで停止していてももはや熊楠は全然悦ばないに違いない。その思考には速さと遅さ、強度といったものしかない。さらにそれこそが思考であるにもかかわらず、ではなく、それゆえになおのことより一層具体的なものとして常に流動して留まることなく予想だにできない場所で不意に出現する。あらかじめ狙って作った意外性でなく、突如見出された発見。熊楠はそれを子どものように悦んだ。しかし神社合祀という明治政府の「合理化」によって熊野の森がどんどん奪われて行った時、熊楠は自分の命と同様の価値を持つ大切な玩具を奪われて泣き叫ぶ子どものように泣き叫んだ。大きな子ども・熊楠は国策によって平板化・凡庸化・一般化されていくばかりの熊野の森を見て思ったのだろう。言うべきことは或る時、不意に見出される。その瞬間、とっさに言わないといけない。でなければどれほど重要なものであっても必ず終わってしまう。瓦礫一つ残らない。なかったことにされてしまうと。

BGM1

BGM2

BGM3