一九二〇年(大正九年)は第一次世界大戦後の戦後恐慌が始まった年である。この年に熊楠は高野山に赴き旧知の土宜法竜と面会している。土宜は帖を出してきて何か書いてみてはと言う。熊楠は歌を一首書いた。阿難が釈尊涅槃前に仏と問答した故事を由来とした無難なもの。すると土宜は一枚の白紙を出してきてもう一つ書いてはどうかという。そこで熊楠はまた一首書いた。
「高野山仏法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画かきし紙は小畔氏が持ち去れり)
これは金剛峯寺の直前の、もと新別所とか言いし所に曖昧女(あいまいおんな)の巣窟多く、毎夜そこで大さわぎの音がただちに耳を擘(つんざ)くばかりに寺内に聞こえ渡る。いかにも不体裁な至りゆえの諷意なりし」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.338』河出文庫)
諷刺歌でからかった。高野山金剛峯寺の門前に遊女街がひしめいている。土宜は別として当時の高僧の中には全国から集まってくるお布施を私物化し飲み食い遊びに惚けている人々が少なからずいた。それを頼みに遊女もまた全国から金剛峯寺門前に集まってきていた。しかし熊楠が高野山を訪れたのは金剛峯寺門前の高僧らの豪勢な女遊びについてばかりどうこう言うわけではほとんどない。そうではなく貴重な菌類や植物がたくさん残っている高野山の伐採をこのまま放置しておけば近いうちに高野山の生態系にも重大な異変が生じるのは目に見えている。熊野の神社合祀政策で発生した惨憺たる結果を先に熊楠は見ていたため、土宜の幅広い人脈を通じて高野山系では何とかその阻止に持ち込めないかというのが主目的である。戦後恐慌発生で途端に食いつめた家々の女性たちが大金を持って遊び歩いている大寺門前に集まってくるのは当り前。それを見て道徳規範がどうしたこうしたとわざわざ指摘しに赴き、何か立派なことの一つもした顔をして見せたがるほど熊楠は暇でもなければ馬鹿でもない。全国から集まるお布施が戦後恐慌発生で一夜にして食いつめ、全国から出向いてきた家々の女性の売春を通して貧困世帯へ還元されることは或る意味必至の成り行きだった。
辰巳(たつみ)の方角が聖なる方角とされており、そちらへ向かえば吉と出るなどとはとんでもない勘違いである。それでもなお追い詰められた人間は一か八かに賭けずにおれないほど可憐でもある。辰巳(たつみ)の方角が古代から聖なる方角だとされてきた理由は、そこでは吉兆とされる何らかの「糸奇異(いとあさまし)キ」事態に遭遇するという謂れが共有されていたことによる。迷信だとわかっていてもなおすがりつかずにはおれない気持ちはそう簡単にすべての人間社会から一掃することもまた出来ない。さらに「聖なる方角」という言葉自体がそもそも曲者であって、何か起こるといってもそれが必ずしも吉と出るとあらかじめ決まっているわけでは全然ない。逆方向に向かったとしても当然何か起こるだろう。逆方向がいつも地獄落ちだとしたらとっくの昔に人類は全滅していただろう。しかしそうはなっていない。どういうことか。
「今昔物語」は「日本霊異記」ほどではなくとも仏教説話を説いた部分が多くを占める。ところが掲載してある伝承の中には数こそ少ないものの明らかに「仏教・陰陽道・修験道」では説明不可能なものもある。次に取り上げる伝承などは不可解なまま残された話の一つとして上げられる。
京の一条通と大宮通との交差点からほんの少しばかり北の辺りに「桃園」(ものぞの)と呼ばれる邸宅街があり、西ノ宮ノ左ノ大臣(おとど)という高級官僚が住んでいた。いつ頃からか、「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)」=「邸宅内で最も神聖な方角」の母屋の「柱」に「木ノ節ノ穴」が開いていて、夜になるとその穴から「小サキ児(ちご)ノ手」が出てきて人々を招き込もうと動くのだった。
「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)ノ母屋(もや)ノ柱ニ木ノ節ノ穴開(あき)タリケリ。夜ニ成レバ、其ノ木ノ節ノ穴ヨリ小サキ児(ちご)ノ手ヲ指出(さしいで)テ、人ヲ招ク事ナム有ケル」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
二、三日ごとだが「小サキ児(ちご)ノ手」は必ず出てくる。夜勤の者数人が目撃していた。「夜半許(よなかばかり)ニ人ノ皆寝ヌル程」というのは、人間が寝静まると同時にものの怪が出現する時間との棲み分けがきちんとなされていたことから、当時は常識としてそういう書き方を取るため。
「夜半許(よなかばかり)ニ人ノ皆寝ヌル程ニ必ズ招ク也ケリ」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
あまりに奇怪な様子なので夜勤の者が西宮左大臣に報告した。そこで問題の柱に開いている穴の上に仏教経典を結い付けて事態の解消を図った。ところが上手くいかない。次に経典だけでは効果不十分と考えたのか仏像を掲げて妖魔退散を図ることにした。それでもなお「小サキ児(ちご)ノ手」は相変わらず出現して手招く。どうすべきか。試みに戦闘用の弓矢を穴にぶすりと差し込んでみた。すると「小サキ児(ちご)ノ手」は出てこなくなった。矢をそのままにしておくと邪魔になるので竹製の幹部分を取り外し、先端の鉄製の鏃(やじり)だけを残した。以後、「小サキ児(ちご)ノ手」が出てくることは一切なくなった。
「而(しか)ル間、或(あ)ル人亦(また)試(こころみ)ムト思テ、征箭(そや)ヲ一筋其ノ穴ニ指入(さしいれ)タリケレバ、其ノ征箭ノ有ケル限(かぎり)ハ招ク事無カリケレバ、其ノ後、箭柄(やがら)ヲバ抜(ぬき)テ征箭ノ身ノ限(かぎり)ヲ穴ニ深ク打(うち)入レタリケレバ、其ヨリ後ハ招事絶(たえ)ニケリ」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
時系列的に見てみよう。前九年の役(一〇一五年)。後三年の役(一〇八三年)。北面の武士創設(一〇九五年)。「今昔物語」成立(一一二〇年前後)。ただそれだけなら呪術政治の時代が終わり軍事力の時代の到来を告げるエピソードとして片付けられてしまう。にもかかわらず、その後なお平家滅亡(一一八五年)、源氏滅亡(一二一九年)、鎌倉幕府滅亡(一三三三年)、南北朝争乱を描いた「太平記」(一三七〇年前後)の中でも吉野・熊野への朝廷御幸は何度も繰り返し行われている。さらに関ヶ原もあったし明治維新も経た。それでも戦車や戦艦や爆撃機と共に様々な宗教経典はますます熱を帯びて最大音声で祈願されていた。が、太平洋戦争に突入し終局において世界初の原爆投下で広島市一帯が真っ白な光に包まれた時、世界中で行われていた呪詛の祈りは絶句した。紀元前三〇〇〇年以上前から紀元後一九四五年以上に渡って打ち続いてきた戦乱だが、それまでとは何かまったく違うものが世界を一旦停止させた。だからおそらくその時はぼんやりした予感のようなものに過ぎなかった説話だったが、ただ単なる武士の時代の到来などでは語りきれないエピソードとして「今昔物語」に掲載させておくと決めた編集構成になっているわけだ。
この話は仏教(広い意味では陰陽道・修験道も含む)を持ってきたにもかかわらず「小サキ児(ちご)ノ手」が出てきたことに重点が置かれている。征箭(そや)を打ち込んで穴を塞ぐばかりか建物自体を破壊する戦闘行為はとっくの昔に始まっている。それより遥かに気になるのは穴が開いていたとされる素材とその箇所だ。邸宅の母屋の「柱」の「木ノ節」であること。邸宅内で最も神聖とされる辰巳の方角にある「母屋」の中心を支える「柱」。この「柱」は一体どこから伐採してきたものなのか。左大臣の邸宅ならかなり誉れ高き樹木を用いたに違いない。左大臣の邸宅ゆえにわざわざ融通された樹木だったのだろう。そのような樹木の伐採は自然生態系に予想もつかない打撃を与える。昨今の異常気象がありありと証明している通り、或る樹木や森林伐採による大規模都市再編強行の結果、堤防決壊・土砂崩れ・立入禁止区域の出現など、人間社会は自ら率先して絶滅を欲望しているかのようだ。
さらに普段は聖域とされている辰巳(たつみ)の方角で説明不可能な怪異が発生したことはまた別の箇所でも盛り込まれている。「延喜(えんぎ)ノ御代(みよ)」は醍醐天皇の頃。天皇自身がびっくりして蔵人を呼んだ。夜中の睡眠中、辰巳の方角から「女の泣き声が聞こえる」。ただちに調べて報告するようにと。警護の者が火をともして隅々までよく調べたけれども女はいない。泣いている人影一つ見当たらない。
「延喜(えんぎ)ノ御代(みよ)ニ、天皇、夜(よ)ル清涼殿(せいりやうでん)ノ夜(よ)ルノ大臣(おとど)ニ御(おはし)マシケルニ、俄(にはか)ニ蔵人(くらうど)ヲ召(めし)ケレバ、蔵人一人参タリケルニ、仰(おほ)セ給ヒケル様(やう)『此ノ辰巳(たつみ)ノ方ニ、女ノ音(こゑ)ニテ泣ク者有リ。速(すみやか)ニ尋(たづね)テ参レ』ト。蔵人、仰セヲ奉(うけたま)ハリテ陣(ぢん)ノ吉祥(きつじやう)ヲ召シテ、火ヲ燃(とも)サセテ、内裏(だいり)ノ内ヲ求ムルニ、更(さら)ニ内ヲ求ムルニ、更(さら)ニ泣ク女無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第十四・P.326」岩波書店)
この説話には続きがある。当時の女性が置かれていた社会的境遇・プライバシーに触れる話でもあるので、またの折を見て述べたいと思う。
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「高野山仏法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画かきし紙は小畔氏が持ち去れり)
これは金剛峯寺の直前の、もと新別所とか言いし所に曖昧女(あいまいおんな)の巣窟多く、毎夜そこで大さわぎの音がただちに耳を擘(つんざ)くばかりに寺内に聞こえ渡る。いかにも不体裁な至りゆえの諷意なりし」(南方熊楠「履歴書」『動と不動のコスモロジー・P.338』河出文庫)
諷刺歌でからかった。高野山金剛峯寺の門前に遊女街がひしめいている。土宜は別として当時の高僧の中には全国から集まってくるお布施を私物化し飲み食い遊びに惚けている人々が少なからずいた。それを頼みに遊女もまた全国から金剛峯寺門前に集まってきていた。しかし熊楠が高野山を訪れたのは金剛峯寺門前の高僧らの豪勢な女遊びについてばかりどうこう言うわけではほとんどない。そうではなく貴重な菌類や植物がたくさん残っている高野山の伐採をこのまま放置しておけば近いうちに高野山の生態系にも重大な異変が生じるのは目に見えている。熊野の神社合祀政策で発生した惨憺たる結果を先に熊楠は見ていたため、土宜の幅広い人脈を通じて高野山系では何とかその阻止に持ち込めないかというのが主目的である。戦後恐慌発生で途端に食いつめた家々の女性たちが大金を持って遊び歩いている大寺門前に集まってくるのは当り前。それを見て道徳規範がどうしたこうしたとわざわざ指摘しに赴き、何か立派なことの一つもした顔をして見せたがるほど熊楠は暇でもなければ馬鹿でもない。全国から集まるお布施が戦後恐慌発生で一夜にして食いつめ、全国から出向いてきた家々の女性の売春を通して貧困世帯へ還元されることは或る意味必至の成り行きだった。
辰巳(たつみ)の方角が聖なる方角とされており、そちらへ向かえば吉と出るなどとはとんでもない勘違いである。それでもなお追い詰められた人間は一か八かに賭けずにおれないほど可憐でもある。辰巳(たつみ)の方角が古代から聖なる方角だとされてきた理由は、そこでは吉兆とされる何らかの「糸奇異(いとあさまし)キ」事態に遭遇するという謂れが共有されていたことによる。迷信だとわかっていてもなおすがりつかずにはおれない気持ちはそう簡単にすべての人間社会から一掃することもまた出来ない。さらに「聖なる方角」という言葉自体がそもそも曲者であって、何か起こるといってもそれが必ずしも吉と出るとあらかじめ決まっているわけでは全然ない。逆方向に向かったとしても当然何か起こるだろう。逆方向がいつも地獄落ちだとしたらとっくの昔に人類は全滅していただろう。しかしそうはなっていない。どういうことか。
「今昔物語」は「日本霊異記」ほどではなくとも仏教説話を説いた部分が多くを占める。ところが掲載してある伝承の中には数こそ少ないものの明らかに「仏教・陰陽道・修験道」では説明不可能なものもある。次に取り上げる伝承などは不可解なまま残された話の一つとして上げられる。
京の一条通と大宮通との交差点からほんの少しばかり北の辺りに「桃園」(ものぞの)と呼ばれる邸宅街があり、西ノ宮ノ左ノ大臣(おとど)という高級官僚が住んでいた。いつ頃からか、「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)」=「邸宅内で最も神聖な方角」の母屋の「柱」に「木ノ節ノ穴」が開いていて、夜になるとその穴から「小サキ児(ちご)ノ手」が出てきて人々を招き込もうと動くのだった。
「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)ノ母屋(もや)ノ柱ニ木ノ節ノ穴開(あき)タリケリ。夜ニ成レバ、其ノ木ノ節ノ穴ヨリ小サキ児(ちご)ノ手ヲ指出(さしいで)テ、人ヲ招ク事ナム有ケル」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
二、三日ごとだが「小サキ児(ちご)ノ手」は必ず出てくる。夜勤の者数人が目撃していた。「夜半許(よなかばかり)ニ人ノ皆寝ヌル程」というのは、人間が寝静まると同時にものの怪が出現する時間との棲み分けがきちんとなされていたことから、当時は常識としてそういう書き方を取るため。
「夜半許(よなかばかり)ニ人ノ皆寝ヌル程ニ必ズ招ク也ケリ」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
あまりに奇怪な様子なので夜勤の者が西宮左大臣に報告した。そこで問題の柱に開いている穴の上に仏教経典を結い付けて事態の解消を図った。ところが上手くいかない。次に経典だけでは効果不十分と考えたのか仏像を掲げて妖魔退散を図ることにした。それでもなお「小サキ児(ちご)ノ手」は相変わらず出現して手招く。どうすべきか。試みに戦闘用の弓矢を穴にぶすりと差し込んでみた。すると「小サキ児(ちご)ノ手」は出てこなくなった。矢をそのままにしておくと邪魔になるので竹製の幹部分を取り外し、先端の鉄製の鏃(やじり)だけを残した。以後、「小サキ児(ちご)ノ手」が出てくることは一切なくなった。
「而(しか)ル間、或(あ)ル人亦(また)試(こころみ)ムト思テ、征箭(そや)ヲ一筋其ノ穴ニ指入(さしいれ)タリケレバ、其ノ征箭ノ有ケル限(かぎり)ハ招ク事無カリケレバ、其ノ後、箭柄(やがら)ヲバ抜(ぬき)テ征箭ノ身ノ限(かぎり)ヲ穴ニ深ク打(うち)入レタリケレバ、其ヨリ後ハ招事絶(たえ)ニケリ」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
時系列的に見てみよう。前九年の役(一〇一五年)。後三年の役(一〇八三年)。北面の武士創設(一〇九五年)。「今昔物語」成立(一一二〇年前後)。ただそれだけなら呪術政治の時代が終わり軍事力の時代の到来を告げるエピソードとして片付けられてしまう。にもかかわらず、その後なお平家滅亡(一一八五年)、源氏滅亡(一二一九年)、鎌倉幕府滅亡(一三三三年)、南北朝争乱を描いた「太平記」(一三七〇年前後)の中でも吉野・熊野への朝廷御幸は何度も繰り返し行われている。さらに関ヶ原もあったし明治維新も経た。それでも戦車や戦艦や爆撃機と共に様々な宗教経典はますます熱を帯びて最大音声で祈願されていた。が、太平洋戦争に突入し終局において世界初の原爆投下で広島市一帯が真っ白な光に包まれた時、世界中で行われていた呪詛の祈りは絶句した。紀元前三〇〇〇年以上前から紀元後一九四五年以上に渡って打ち続いてきた戦乱だが、それまでとは何かまったく違うものが世界を一旦停止させた。だからおそらくその時はぼんやりした予感のようなものに過ぎなかった説話だったが、ただ単なる武士の時代の到来などでは語りきれないエピソードとして「今昔物語」に掲載させておくと決めた編集構成になっているわけだ。
この話は仏教(広い意味では陰陽道・修験道も含む)を持ってきたにもかかわらず「小サキ児(ちご)ノ手」が出てきたことに重点が置かれている。征箭(そや)を打ち込んで穴を塞ぐばかりか建物自体を破壊する戦闘行為はとっくの昔に始まっている。それより遥かに気になるのは穴が開いていたとされる素材とその箇所だ。邸宅の母屋の「柱」の「木ノ節」であること。邸宅内で最も神聖とされる辰巳の方角にある「母屋」の中心を支える「柱」。この「柱」は一体どこから伐採してきたものなのか。左大臣の邸宅ならかなり誉れ高き樹木を用いたに違いない。左大臣の邸宅ゆえにわざわざ融通された樹木だったのだろう。そのような樹木の伐採は自然生態系に予想もつかない打撃を与える。昨今の異常気象がありありと証明している通り、或る樹木や森林伐採による大規模都市再編強行の結果、堤防決壊・土砂崩れ・立入禁止区域の出現など、人間社会は自ら率先して絶滅を欲望しているかのようだ。
さらに普段は聖域とされている辰巳(たつみ)の方角で説明不可能な怪異が発生したことはまた別の箇所でも盛り込まれている。「延喜(えんぎ)ノ御代(みよ)」は醍醐天皇の頃。天皇自身がびっくりして蔵人を呼んだ。夜中の睡眠中、辰巳の方角から「女の泣き声が聞こえる」。ただちに調べて報告するようにと。警護の者が火をともして隅々までよく調べたけれども女はいない。泣いている人影一つ見当たらない。
「延喜(えんぎ)ノ御代(みよ)ニ、天皇、夜(よ)ル清涼殿(せいりやうでん)ノ夜(よ)ルノ大臣(おとど)ニ御(おはし)マシケルニ、俄(にはか)ニ蔵人(くらうど)ヲ召(めし)ケレバ、蔵人一人参タリケルニ、仰(おほ)セ給ヒケル様(やう)『此ノ辰巳(たつみ)ノ方ニ、女ノ音(こゑ)ニテ泣ク者有リ。速(すみやか)ニ尋(たづね)テ参レ』ト。蔵人、仰セヲ奉(うけたま)ハリテ陣(ぢん)ノ吉祥(きつじやう)ヲ召シテ、火ヲ燃(とも)サセテ、内裏(だいり)ノ内ヲ求ムルニ、更(さら)ニ内ヲ求ムルニ、更(さら)ニ泣ク女無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第十四・P.326」岩波書店)
この説話には続きがある。当時の女性が置かれていた社会的境遇・プライバシーに触れる話でもあるので、またの折を見て述べたいと思う。
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