酒呑童子討伐に当たり六人が選出される。戦勝祈願のため二人一組で三箇所へ参詣する。それぞれ、「八幡(やはた)」は「石清水八幡宮」、「住吉(すみよし)」は「住吉明神」、「熊野(くまの)」は「熊野権現」を指す。
「頼光(よりみつ)と保昌(ほうしやう)は、八幡(やはた)に社参(しやさん)有りければ、綱(つな)、公時(きんとき)は住吉(すみよし)へ、定光(さだみつ)と末武(すゑたけ)は熊野(くまの)へ参籠(さんろう)仕(つかまつ)り、様々(さまざま)の御立願(りうぐはん)、もとより佛法神國(ぶつぽうしんこく)にて、神(かみ)も納受(なふじゆ)ましまして、いづれもあらたに御利生(りしやう)あり」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.364』岩波書店)
酒呑童子の住処・「鬼が城」へ出発するに際し、六人とも「山伏(ぶし)に様(さま)をかへ」ている点に注目しよう。
「以上六人が山伏(ぶし)に様(さま)をかへ、山路(じ)に迷(まよ)ふ風情(ふぜい)にて、丹波国(たんばのくに)鬼(おに)が城(じやう)へ尋(たづ)ね行(ゆ)き、栖(すみか)だにも知(しる)ならば、いかにも武略(ぶりやく)をめぐらして、討(う)つべきことはやすかるべし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.364』岩波書店)
昔から山伏姿は変装の常套手段だった。「太平記」でも大塔宮(おおとうのみや)熊野落ちの条で使われている。山伏姿が怪しまれなかったのは修験道の影響が広く信仰されていたことによる。今なお「四国八十八ヶ所」や「西国三十三ヶ所」など「遍路」(へんろ)信仰は厳然と残されており、遍路者を手前勝手に拉致すれば犯罪に問われるように。
「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・P.251」岩波文庫)
さて源頼光ら六人によって大いに酒肴を与えられ酔っ払った酒呑童子は丹波国大江山に辿り着くまでの過程を語る。越後国出身説が最も根強い。だが大江山に辿り着くまでの過程は諸本によりけりで一定しない。ところがしかし最終的に辿り着いたのが大江山だという点はどれも同じだ。柳田國男の文章を思い起こそう。
「わが国は小さな人口稠密(ちゅうみつ)な国でありながら、いわゆる人跡未踏の地がまだかなり多い。国と国と、県と県との境は大半深山である。平安の旧都に接しても、近江・丹波・若狭に接した山はこれである。吉野の奥伊勢・紀州の境も深山である。中国・四国・九州は比較的よく開ているというが、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)・出雲の三瓶(さんべ)山の周囲は村里がはなはだ少ない。四国の阿波・土佐の境山・九州の市房(いちふさ)山地方も山が深い。京より東はもちろんの事で、美濃・飛騨から白山・立山へかけての山地、次にはいやな名だがいわゆる日本アルプスの連山、赤石・白根の山系、それから信越より南会津にかけての山々のごとき、今日都会の旅人のあえて入り込まぬはもちろん、猟師・樵夫(しょうふ)も容易に往来せぬ区域がずいぶんと広いのである。これらの深山には神武(じんむ)東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられて窮迫せられてようやくのことで遁(に)げ籠り、新来の文明民に対しいうべからざる畏怖と憎悪とを抱いていっさいの交通を断っている者が大分いるらしいのである。ーーー中学校の歴史では日本の先住民は残らず北の方へ立ち退いたように書いてあるが、根拠のないことである。佐伯と土蜘(つちぐも)と国巣(くず)と蝦夷(えぞ)と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ。奥羽六県は少なくとも頼朝の時代までは立派な生蛮地(せいばんち)であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線(あいゆうせん)より以内にも後世まで蛮族がおった。大和の吉野の国巣という人種は蝦蟇(がま)を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸がすべて文明化した後まで、我々の隣人として往来しておった。新年に都へ来て舞を舞い歌を歌ったのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他国へ立ち退いたとも聞かぬ。『播磨風土記』を見ると、今の播但鉄道の線路近くに数の異人種が奈良朝時代の後まで住んでいた。蝦夷が遠く今の青森県まで遁(に)げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼がいて、その鬼は時々京までも人を取りに来たらしい。九州はことに異人種の跋扈(ばっこ)した地方であって、奈良朝の世まで肥前の基肄(きい)、肥後の菊池、豊後の大野等の深山に近き郡には城があった。皆いわゆる隘勇線であったのである。ゆえに平家の残党などが敗軍して深山に遁げて入るといかなる山中にもすでに住民がおって、その一部分は娘を貰ったりして歓迎せられたが、他の一部分はあるいは食べられたかもしれぬ。ーーーさてこれらの山中の蛮民がいずれの島からも舟に乗ってことごとく他境に立ち退いたということは、とてもできない想像であって、なるほどその大部分は死に絶え、ないしは平地に降って我々の文明に同化したでもあろうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をしいて深山の底に踏み留まり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存して来たであろうと想像するのは、あながち不自然なる空想でもなかろう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も残るであろうが、山中を漂泊して採取をもって生を営んでいる以上は、人に知られずに永い年月を経るのも不思議でなく、いわんや人の近づかぬ山中は広いのである」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.188~190』ちくま文庫)
朝廷軍は列島のあちこちで勝利を収めた。しかし全土ではない。さらに明治近代国家誕生に至るまで日本全土とは一体どこからどこまでを言うのか、はっきりした境界線があったわけではなくむしろ境界線はその時々で移動して止まなかったということを考慮する必要がある。
さて、酒呑童子は大江山に居を定めてからしばらく京の都を睨み据えていたが、ここ最近は「頼光(らいくわう)」という「大悪人」とその配下の者らに悩まされているという。そこで酒呑童子は配下の鬼・「茨木童子(いばらきどうじ)」に命じて都の様子を内偵させていたところ、茨木童子はばったり綱(つな)に出会った。綱を誘拐しようとすると逆に茨木童子は自分の片腕をばっさり斬り落とされ持ち去られた。しかし一計を案じ、取り戻しはしたのだが、と語った。
「され共(ども)心にかかりしは、都(みやこ)の中に隠(かく)れなき、頼光(らいくわう)と申して大悪人のつはものなり。力(ちから)は日本(にほん)に並び(なら)びなし。又頼光(らいくわう)が郎等(らうどう)に、定光(さだみつ)、末武(すゑたけ)、公時(きんとき)、綱(つな)、保昌(ほうしやう)、いづれも文武(ぶんぶ)二道(だう)のつはものなり。これら六人の者どもこそ心にかかり候なり。それをいかにと申すに、過(す)ぎつる春(はる)の事なるに、それがしが召(め)し使(つか)ふ茨木童子(いばらきどうじ)といふ鬼(おに)を、都へ使(つかひ)に上(のぼ)せし時(とき)、七条(でふ)の堀川(ほりかは)にてかの綱(つな)に渡(わた)りあふ。茨木(いばらき)やがて心得(え)て女(をんな)の姿(すがた)に様(さま)をかへ、綱(つな)があたりに立(た)ち寄(よ)り、もとどりむずと取(と)り、つかんで来(こ)んとせしところを、綱(つな)此よし見(み)るよりも、三尺(じやく)五寸(すん)するりと抜(ぬ)き、茨木(いばらき)が片腕(かたうで)を水(みづ)もたまらず打(う)ち落(おと)す。やうやう武略(ぶりやく)をめぐらして、腕(かいな)を取り返(かへ)し今(いま)は子細(しさい)も候はず。きやつばらがむつかしさに、われは都(みやこ)に行(ゆ)くことなし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.374~375』岩波書店)
しかしここで語られている茨木童子と綱との決闘は本来「酒呑童子」にはない。御伽草子が成立するまでの数百年間に後から付け加えられたと考えられる。しかし着目すべき部分がある。第一に「七条(でふ)の堀川(ほりかは)」でばったり出会うというエピソード。諸説あり、「一条堀川」(いちじょうほりかわ)「戻橋(もどりばし)伝説」に基づくとされている。第二点目はより一層重要な事情に関わる。女性の姿へ化ける点。中世の日本では、和泉式部伝説がそうであるように「通行する女性=旅する女」は特権的神性を持つと考えられていたこと。
酒呑童子側も頼光側もどちらも同様に「武略」(ぶりゃく)を用いて取り戻したと書かれていることと、大江山は都に近いということ。この二つの条件は何を語っているのだろうか。平安遷都があってなお京の近辺の山岳地帯には少なくない数の土着の先住民が暮らしていた証拠となり得る。再び「太平記」にある次の記述を見たいと思う。茨木童子は架空の鬼だとしても、鬼はただ一人だとはまったく限らない。酒呑童子が殺される場面でも大勢の鬼がぞろぞろ出てくる。そしてそれら鬼たちは一掃される。朝廷軍の勝利に終わるのは誰でも知っている。だがしかし鬼が奪われた片腕を今度は奪い返す場面で、鬼は鬼の姿で現われない。ではどのような姿でか。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
元来は剣の謂れを解くべき条であるにもかかわらず、関心を引くのは「頼光の母儀(ぼぎ)」の出現とその姿が「正(まさ)しき老母」である点である。老母とは何か。山姥(やまんば)にほかならない。そしてまた日本初の山姥(やまんば)とは誰か。何度か述べた。
「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追(お)ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。時(とき)に伊奘冉尊の曰(のたま)はく、『吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なに)ぞ晩(おそ)く来(いでま)しつる。吾已(われすで)に湌泉之竈(よもつへぐひ)せり。然(しか)れども、吾当(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ』とのたまふ。伊奘諾尊、聴(き)きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取(と)りて、其(そ)の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、秉炬(たひ)として、見(み)しかば、膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る。今(いま)、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつびとぼすこと)忌む、又(また)夜擲櫛(なげぐし)を忌む、此(これ)其(そ)の縁(ことのもと)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.43~44」岩波文庫)
さらに。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
イザナミこそ火の神を生むために自ら死に行きながら山姥と化した最初の女性である。熊楠は熊野の山間部で女性の長い髪の毛に似た菌類を指して「山姥の髪の毛」と呼ばれていると報告している。日本がまだ倭国だった頃すでに怨霊あるいは御霊を祀る祭礼を欠かすことは不可能となっていたのである。
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「頼光(よりみつ)と保昌(ほうしやう)は、八幡(やはた)に社参(しやさん)有りければ、綱(つな)、公時(きんとき)は住吉(すみよし)へ、定光(さだみつ)と末武(すゑたけ)は熊野(くまの)へ参籠(さんろう)仕(つかまつ)り、様々(さまざま)の御立願(りうぐはん)、もとより佛法神國(ぶつぽうしんこく)にて、神(かみ)も納受(なふじゆ)ましまして、いづれもあらたに御利生(りしやう)あり」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.364』岩波書店)
酒呑童子の住処・「鬼が城」へ出発するに際し、六人とも「山伏(ぶし)に様(さま)をかへ」ている点に注目しよう。
「以上六人が山伏(ぶし)に様(さま)をかへ、山路(じ)に迷(まよ)ふ風情(ふぜい)にて、丹波国(たんばのくに)鬼(おに)が城(じやう)へ尋(たづ)ね行(ゆ)き、栖(すみか)だにも知(しる)ならば、いかにも武略(ぶりやく)をめぐらして、討(う)つべきことはやすかるべし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.364』岩波書店)
昔から山伏姿は変装の常套手段だった。「太平記」でも大塔宮(おおとうのみや)熊野落ちの条で使われている。山伏姿が怪しまれなかったのは修験道の影響が広く信仰されていたことによる。今なお「四国八十八ヶ所」や「西国三十三ヶ所」など「遍路」(へんろ)信仰は厳然と残されており、遍路者を手前勝手に拉致すれば犯罪に問われるように。
「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・P.251」岩波文庫)
さて源頼光ら六人によって大いに酒肴を与えられ酔っ払った酒呑童子は丹波国大江山に辿り着くまでの過程を語る。越後国出身説が最も根強い。だが大江山に辿り着くまでの過程は諸本によりけりで一定しない。ところがしかし最終的に辿り着いたのが大江山だという点はどれも同じだ。柳田國男の文章を思い起こそう。
「わが国は小さな人口稠密(ちゅうみつ)な国でありながら、いわゆる人跡未踏の地がまだかなり多い。国と国と、県と県との境は大半深山である。平安の旧都に接しても、近江・丹波・若狭に接した山はこれである。吉野の奥伊勢・紀州の境も深山である。中国・四国・九州は比較的よく開ているというが、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)・出雲の三瓶(さんべ)山の周囲は村里がはなはだ少ない。四国の阿波・土佐の境山・九州の市房(いちふさ)山地方も山が深い。京より東はもちろんの事で、美濃・飛騨から白山・立山へかけての山地、次にはいやな名だがいわゆる日本アルプスの連山、赤石・白根の山系、それから信越より南会津にかけての山々のごとき、今日都会の旅人のあえて入り込まぬはもちろん、猟師・樵夫(しょうふ)も容易に往来せぬ区域がずいぶんと広いのである。これらの深山には神武(じんむ)東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられて窮迫せられてようやくのことで遁(に)げ籠り、新来の文明民に対しいうべからざる畏怖と憎悪とを抱いていっさいの交通を断っている者が大分いるらしいのである。ーーー中学校の歴史では日本の先住民は残らず北の方へ立ち退いたように書いてあるが、根拠のないことである。佐伯と土蜘(つちぐも)と国巣(くず)と蝦夷(えぞ)と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ。奥羽六県は少なくとも頼朝の時代までは立派な生蛮地(せいばんち)であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線(あいゆうせん)より以内にも後世まで蛮族がおった。大和の吉野の国巣という人種は蝦蟇(がま)を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸がすべて文明化した後まで、我々の隣人として往来しておった。新年に都へ来て舞を舞い歌を歌ったのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他国へ立ち退いたとも聞かぬ。『播磨風土記』を見ると、今の播但鉄道の線路近くに数の異人種が奈良朝時代の後まで住んでいた。蝦夷が遠く今の青森県まで遁(に)げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼がいて、その鬼は時々京までも人を取りに来たらしい。九州はことに異人種の跋扈(ばっこ)した地方であって、奈良朝の世まで肥前の基肄(きい)、肥後の菊池、豊後の大野等の深山に近き郡には城があった。皆いわゆる隘勇線であったのである。ゆえに平家の残党などが敗軍して深山に遁げて入るといかなる山中にもすでに住民がおって、その一部分は娘を貰ったりして歓迎せられたが、他の一部分はあるいは食べられたかもしれぬ。ーーーさてこれらの山中の蛮民がいずれの島からも舟に乗ってことごとく他境に立ち退いたということは、とてもできない想像であって、なるほどその大部分は死に絶え、ないしは平地に降って我々の文明に同化したでもあろうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をしいて深山の底に踏み留まり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存して来たであろうと想像するのは、あながち不自然なる空想でもなかろう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も残るであろうが、山中を漂泊して採取をもって生を営んでいる以上は、人に知られずに永い年月を経るのも不思議でなく、いわんや人の近づかぬ山中は広いのである」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.188~190』ちくま文庫)
朝廷軍は列島のあちこちで勝利を収めた。しかし全土ではない。さらに明治近代国家誕生に至るまで日本全土とは一体どこからどこまでを言うのか、はっきりした境界線があったわけではなくむしろ境界線はその時々で移動して止まなかったということを考慮する必要がある。
さて、酒呑童子は大江山に居を定めてからしばらく京の都を睨み据えていたが、ここ最近は「頼光(らいくわう)」という「大悪人」とその配下の者らに悩まされているという。そこで酒呑童子は配下の鬼・「茨木童子(いばらきどうじ)」に命じて都の様子を内偵させていたところ、茨木童子はばったり綱(つな)に出会った。綱を誘拐しようとすると逆に茨木童子は自分の片腕をばっさり斬り落とされ持ち去られた。しかし一計を案じ、取り戻しはしたのだが、と語った。
「され共(ども)心にかかりしは、都(みやこ)の中に隠(かく)れなき、頼光(らいくわう)と申して大悪人のつはものなり。力(ちから)は日本(にほん)に並び(なら)びなし。又頼光(らいくわう)が郎等(らうどう)に、定光(さだみつ)、末武(すゑたけ)、公時(きんとき)、綱(つな)、保昌(ほうしやう)、いづれも文武(ぶんぶ)二道(だう)のつはものなり。これら六人の者どもこそ心にかかり候なり。それをいかにと申すに、過(す)ぎつる春(はる)の事なるに、それがしが召(め)し使(つか)ふ茨木童子(いばらきどうじ)といふ鬼(おに)を、都へ使(つかひ)に上(のぼ)せし時(とき)、七条(でふ)の堀川(ほりかは)にてかの綱(つな)に渡(わた)りあふ。茨木(いばらき)やがて心得(え)て女(をんな)の姿(すがた)に様(さま)をかへ、綱(つな)があたりに立(た)ち寄(よ)り、もとどりむずと取(と)り、つかんで来(こ)んとせしところを、綱(つな)此よし見(み)るよりも、三尺(じやく)五寸(すん)するりと抜(ぬ)き、茨木(いばらき)が片腕(かたうで)を水(みづ)もたまらず打(う)ち落(おと)す。やうやう武略(ぶりやく)をめぐらして、腕(かいな)を取り返(かへ)し今(いま)は子細(しさい)も候はず。きやつばらがむつかしさに、われは都(みやこ)に行(ゆ)くことなし」(日本古典文学体系「酒呑童子」『御伽草子・P.374~375』岩波書店)
しかしここで語られている茨木童子と綱との決闘は本来「酒呑童子」にはない。御伽草子が成立するまでの数百年間に後から付け加えられたと考えられる。しかし着目すべき部分がある。第一に「七条(でふ)の堀川(ほりかは)」でばったり出会うというエピソード。諸説あり、「一条堀川」(いちじょうほりかわ)「戻橋(もどりばし)伝説」に基づくとされている。第二点目はより一層重要な事情に関わる。女性の姿へ化ける点。中世の日本では、和泉式部伝説がそうであるように「通行する女性=旅する女」は特権的神性を持つと考えられていたこと。
酒呑童子側も頼光側もどちらも同様に「武略」(ぶりゃく)を用いて取り戻したと書かれていることと、大江山は都に近いということ。この二つの条件は何を語っているのだろうか。平安遷都があってなお京の近辺の山岳地帯には少なくない数の土着の先住民が暮らしていた証拠となり得る。再び「太平記」にある次の記述を見たいと思う。茨木童子は架空の鬼だとしても、鬼はただ一人だとはまったく限らない。酒呑童子が殺される場面でも大勢の鬼がぞろぞろ出てくる。そしてそれら鬼たちは一掃される。朝廷軍の勝利に終わるのは誰でも知っている。だがしかし鬼が奪われた片腕を今度は奪い返す場面で、鬼は鬼の姿で現われない。ではどのような姿でか。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
元来は剣の謂れを解くべき条であるにもかかわらず、関心を引くのは「頼光の母儀(ぼぎ)」の出現とその姿が「正(まさ)しき老母」である点である。老母とは何か。山姥(やまんば)にほかならない。そしてまた日本初の山姥(やまんば)とは誰か。何度か述べた。
「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、伊奘冉尊(いざなみのみこと)を追(お)ひて、黄泉(よもつくに)に入(い)りて、及(し)きて共(とも)に語(かた)る。時(とき)に伊奘冉尊の曰(のたま)はく、『吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なに)ぞ晩(おそ)く来(いでま)しつる。吾已(われすで)に湌泉之竈(よもつへぐひ)せり。然(しか)れども、吾当(まさ)に寝息(ねやす)まむ。請(こ)ふ、な視(み)ましそ』とのたまふ。伊奘諾尊、聴(き)きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を取(と)りて、其(そ)の雄柱(ほとりは)を牽(ひ)き折(か)きて、秉炬(たひ)として、見(み)しかば、膿(うみ)沸(わ)き虫(うじ)流(たか)る。今(いま)、世人(よのひと)、夜一片之火(よるひとつびとぼすこと)忌む、又(また)夜擲櫛(なげぐし)を忌む、此(これ)其(そ)の縁(ことのもと)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.43~44」岩波文庫)
さらに。
「一書に曰はく、伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ。故(これ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此(こ)の神の魂(みたま)を祭(まつ)るには、花(はな)の時には亦(また)花を以(も)て祭る。又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌(うた)ひ舞(ま)ひて祭る」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第五段・P.40」岩波文庫)
イザナミこそ火の神を生むために自ら死に行きながら山姥と化した最初の女性である。熊楠は熊野の山間部で女性の長い髪の毛に似た菌類を指して「山姥の髪の毛」と呼ばれていると報告している。日本がまだ倭国だった頃すでに怨霊あるいは御霊を祀る祭礼を欠かすことは不可能となっていたのである。
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