白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/蕪(かぶら)と開(つび)・神の女性器

2021年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、京の都から東国に向かって下っていく男性がいた。途中、抑えきれない性欲が勃然と湧き起こってきて、どうすればよいものかと持て余してしまった。ちょうど通りかかったところ道路沿いの垣の中が畑になっていてみれば大きな蕪(かぶら)が見える。男性は垣の中の入って大きな蕪を一つ抜き取ると、それに穴を掘り、穴の中に勃起した男性器を差し込んで射精した。すっきりするとすぐ穴の開いた蕪を垣の中に投げ入れて戻しその場を通り過ぎた。

「京ヨリ東(あづま)ノ方(かた)ニ下(くだ)ル者有(あり)ケリ。何(いづ)レノ国、郡(こほり)トハ不知(しら)デ、一(ひとつ)ノ郷(さと)ヲ通(とほり)ケル程ニ、俄(にはか)ニ婬欲(いんよく)盛(わかり)ニ発(おこり)テ、女ノ事ノ物ニ狂(くるふ)ガ如(ごとく)ニ思(おぼえ)ケレバ、心ヲ難静(しづめがた)メクテ思ヒ繚(あつかひ)ケル程ニ、大路辺(おほちのほとり)ニ有(あり)ケル垣(かき)ノ内ニ、青菜(あをな)ト云(いふ)物、糸(いと)高ク盛(さかり)ニ生滋(おひしげり)タリ。十月許(ばかり)ノ事ナレバ、蕪(かぶら)ノ根大キニシテ有(あり)ケリ。此ノ男、忽(たちまち)ニ馬ヨリ下(おり)テ、其ノ垣内(かきのうち)ニ入テ、蕪ノ根ノ大(おほき)ナルヲ一ツ引(ひき)テ取(とり)テ、其(それ)ヲ彫(ゑり)テ、其ノ穴ヲ娶(とつぎ)テ婬(いん)ヲ成シテケリ。然(さ)テ即(すなは)チ、垣ノ内ニ投入(ねげいれ)テ過(すぎ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.6」岩波書店)

しばらく経って、その畑の持ち主が使っている若い女性らを連れて野菜類の収穫に取り掛かった。その若い女性の中に十四、五歳くらいの処女がいた。といっても初潮はすでに経験していていつでも妊娠可能なのだが、まだ本当の男性経験はない中間の年頃。野菜を収穫しながらぶらぶらしていると穴が開いて一部分に皺が寄っている妙な蕪を見付けた。不思議に思いながらも食べてしまった。

「其ノ畠ニ行(ゆき)テ青葉ヲ引取(ひきと)ル程ニ、年十四、五歳許(ばかり)ナル女子ノ、未(いま)ダ男ニハ不触(ふれざ)リケル有テ、其ヲ、青葉引取ル程ニ、垣ノ廻(めぐり)ヲ行(ありき)テ遊(あそび)ケルニ、彼(か)ノ男ノ投入タル蕪ヲ見付(みつけ)テ、『此(ここ)ニ穴ヲ彫(ゑり)タル蕪ノ有(ある)ゾ、此(こ)ハ何ゾ』ナド云(いひ)テ、暫(しばら)ク、翫(もてあそび)ケル程ニ、皺干(しわび)タリケルヲ掻削(かきけづり)テ食(くひ)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.6~7」岩波書店)

それから数日後。なんだか体調がすぐれない。父母が心配に思っていると、何と妊娠していることが判明した。娘を問いただしてみた。ところが性交などまったく身に覚えがないという。ただ、気にかかることと言えば、野菜の収穫の日に妙な蕪を見付けて食べてから、何となく気分が変わったように思うという。

「我、更ニ男ノ当(あた)リニ寄ル事無シ。只怪(あやし)キ事ハ、然(しか)ノ日、然(し)カ有(あり)シ蕪ヲ見付テナン食(く)ヒタリシ。其ノ日ヨリ心地モ違(たが)ヒ、此(か)ク成(なり)タルゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

それなりの月日を経ると娘はなんとも可愛らしい男の子を出産した。

「月来(つきごろ)を経ル程ニ、月既ニ満(みち)テ、糸厳(いつく)シ気(げ)ナル男子(をのこご)ヲ平(たいら)カニ産(うみ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

産まれた子どもは娘の父母の手で育てられた。数年が経った。東国に下る際に蕪に穴を掘って射精し去った例の男性が今度は都に戻る際、一行を連れて再びその畑の前を通り過ぎようとした。男性はふと思い出しかつてこの畑の前を通りかかった時、こんなことがあったと従者たちに語って聞かせた。声高な話し方だったので畑で野菜の収穫に当たっていた娘の母の耳にも届いた。そういえば娘が妊娠した時に不可解なことを言っていたことにはたと気づき、通り過ぎようとしている男性を呼び止めた。男性は自分のことを蕪泥棒と聞き間違えて呼び止めたのだろうと思い、とっとと通り過ぎてしまおうとしたところ娘の母は、とても重大な話があるのです、何としてでも聞いてもらいたいと懇願してきた。

「此ノ母、垣内(かきのうち)ニシテ慥(たしか)ニ聞(きき)テ、娘ノ云事(いふこと)ヲ思ヒ出(いで)テ、怪ク思(おぼ)ヘケレバ、垣ノ内ヨリ出(いで)テ、『何(いか)ニ、何ニ』ト問ふに、男ハ、『蕪盗(ぬすみ)タリ』トテ、云(いふ)ヲ咎(とが)メテ云ナリトテ、『戯言(たはぶれごと)ニ侍リ』トテ只逃(にげ)ニ逃(にぐ)ルヲ、母、『極(きはめ)テ大切ノ事共ノ有レバ、必ズ承(うけたまは)ラムト思フ事ノ侍ル也。我ガ君宣(のたま)ヘ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.8」岩波書店)

男性は娘の母の様子を見て只事でない用事でもあるだろうと思い、聞かれるまま、そういえば何年か前にこの畑の蕪を一つ引き抜いて穴を開けて射精に用いた話をして聞かせた。もとより聖人の身ではなしただ単なる凡夫ゆえ、そんなことの一つもあるだろうと。すると娘の母は血相を変えてちょっと我が家まで付いてきて欲しいと男性をぐいぐい連れてきた。家に着くとその母はいう。実はかつてこんなことが娘の身に起こったのです。そこであなた、試しに、産まれた子どもと一度面会してやってくれませんかと泣いて頼む。出てきた子どもと見比べてみると、その男性と「露(つゆ)違(たがひ)タル所無」いほど瓜二つの顔立ち。男性は思う。世にも珍しい貴重な縁というほかない。そんな出来事があるのか。で、どうするべきだろうかと。娘の母はいう。ここはあなたの気持ち一つでしょうと。娘を呼ぶと低い身分の者ではあるけれど清廉そうな二十歳ばかりの女性で、その子もすでに五、六歳ばかりに育っており美童である。

「女、『実(まこと)ニハ然々(しかしか)ノ事ノ有レバ、其ノ児(ちご)ヲ其(そ)コニ見合(みあは)セムト思フ也』ト云(いひ)テ、子ヲ将出(ゐていで)テ見ルニ、此ノ男ニ露(つゆ)違(たがひ)タル所無ク似タリ。其(その)時ニ、男モ哀(あはれ)ニ思(おもひ)テ、『然(さ)ハ、此(かか)ル宿世(しくせ)モ有リケリ。此(こ)ハ何(いか)ガシ可侍(はべるべ)キ』ト云ケレバ、女、『今ハ、只何(い)カニモ其(そこ)ノ御心(みこころ)也』ト、児ノ母ヲ呼出(よびいで)テ見スレバ、下衆(げす)乍(ながら)モ糸浄気(きよげ)也。女ノ年二十許(はたちばかり)ナル也。児モ五、六歳許ニテ、糸厳(いつく)シ気(げ)ナル男子(をのこご)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.8」岩波書店)

男性は思う。京に帰ってもこれといった親類縁者がいるわけでなし、ここに落ち着くのも一考かとその若い女性と夫婦になってそのまま一緒に暮らすことにした。

さてそこでまた別に考えたいことがある。熊楠は女性器の呼び名について「貝(かい)」あるいは「開(かい)」、それがだんだん変化して「豆比(つび)」となった地域もあると。

「『和漢三才図会』四十七に、『世俗、婦人の陰戸を隠して貝(かい)と称し、また転じて豆比(つび)という』」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.207』河出文庫)

熊楠は触れていないものの、ちなみに「今昔物語」所収のこの説話では「開(つび)」として採用されている。

「此(ここ)ヲ過(すぎ)シ、術無(ずつな)ク開(つび)ノ欲(ほし)クテ難堪(たへがた)カリシカバ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第二・P.7」岩波書店)

熊楠は「山婆の陰垢(つびくそ)」と呼ばれている菌(きのこ)について述べている。

「安堵峰辺で、樅(もみ)に着く山婆(やまんば)の陰垢(つびくそ)と呼ぶ物を二つ採ったが、これは鼠色で膠の半凝様の菌(きのこ)で、裏に細かい針がある。ーーー予は右の山婆の陰垢(つびくそ)と、今一種全体純白で杉の幹につくものを那智山で見出だした。いずれも砂糖をかけると、寒天を食うように賞翫しえて、全く害を受けず」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.328~329』河出文庫)

山姥(やまんば)は何度も触れているように、もちろんただ単なる老婆のことを指していうわけではない。記紀神話に載る伊弉冉尊(イザナミノミコト)こそ日本最初の山姥である。そして今引用した説話は、なるほど仏教説話として見るかぎり「今昔物語」の中の「宿報譚」に分類されているわけだが、にもかかわらず、異類異形誕生神話に伴う「異常出産」の典型例として十分に捉えることができる点に注目すべきだろうと思われる。例えば、神武天皇はけっして長男ではなく逆に末子である。

「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫を以て妃(ひめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次(つぎ)に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりののみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべ)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.194」岩波文庫)

さらに東征の途中、紀州熊野周辺までやって来た時、自分の出生について解けない謎に直面し苦悩する。神武は自分自身について海の者とも山の者ともいずれにも区別不可能な位置に置かれていることに深い煩悶を覚える。ダブルバインド(相反傾向・板挟み)に叩き込まれる。

「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る。仍(よ)りて軍(いくさ)を引(ひ)きて漸(やうやく)進(すす)む。海(わた)の中(なか)にして卒(にはか)に暴風(あからしまかぜ)に遇(あ)ひぬ。皇舟漂蕩(みふねただよ)ふ。時に稲飯命(いなひのみこと)、乃(すなは)ち歎(なげ)きて曰(のたま)はく、『嗟乎(ああ)、吾(あ)が祖(みおや)は天神(あまつかみ)、母(いろは)は海神(わたつみ)なり。如何(いかに)ぞ我(われ)を陸(くが)に厄(たしな)め、復(また)我を海(わた)に厄(たしな)むや』とのたまふ。言(のたま)ひ訖(をは)りて、乃ち剣(つるぎ)を抜(ぬ)きて海(うみ)に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る。三毛入野命(みけいりののみこと)、亦(また)恨(うら)みて曰(のたま)はく、『我が母(いろ)及(およ)び姨(おば)は、並(ならび)に是(これ)海神(わたつみ)なり。何為(いかに)ぞ波瀾(なみ)を起(た)てて、灌溺(おぼほ)すや』とのたまひて、即ち浪(なみ)の秀(すゑ)を蹈(ふ)みて、常世郷(とこよのくに)に往(い)でましぬ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)

「異常出産」で有名なのは神功皇后の条に出てくる「鎮懐石(しずめいし)」のケース。

「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)

そして産まれたのが後の応神天皇だが、神功皇后はまだ嬰児の応神を連れてなぜか紀州熊野周辺の海をうろうろする。

「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)

神功皇后は「日高(ひたか)・小竹宮(しののみや)」と紀州周辺を移動する。なぜそのような必要があるのか。北九州から朝鮮半島へ軍事遠征した直後。当然のことだが戦闘行為なので皇后とその軍隊は血を浴びて帰ってきたところである。都へ戻るためにはミソギを終えてからでなくては戻るにも許されない。大規模軍事遠征のミソギのためには是非とも熊野へ赴く必要があった。

「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)

さらに斉明天皇の条では政争に巻き込まれた「有間皇子(ありまのみこ)」が精神的病いの治癒のため紀州「牟婁温湯(むろのゆ)」へ出かけている。

「九月(ながつき)に、有間皇子(ありまのみこ)、性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うほりくるひ)すと、云云(しかしかいふ)。牟婁温湯(むろのゆ)に往(ゆ)きて、病(やまひ)を療(をさ)むる偽(まね)して来(まうき)、国(くに)の体勢(なり)を讃(ほ)めて曰(い)はく、『纔(ひただ)彼(そ)の地(ところ)を観(み)るに、病自(おの)づから蠲消(のぞこ)りぬ』と、云云(しかしかいふ)。天皇(すめらみこと)、聞(きこ)しめし悦(よろこ)びたまひて、往(おは)しまして観(みそなは)さむと思欲(おもほ)す」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇二年是歳~三年是歳・P336」岩波文庫)

その二年後、斉明天皇は再び「紀温湯(きのゆ)」に赴いている。

「冬(ふゆ)十月(かむなづき)の庚戌(かのえいぬ)の朔甲子(ついたちきのえねのひ)に、紀温湯(きのゆ)に幸(いでま)す。天皇(すめらみこと)、皇孫建王(みまごたけるのみこ)を憶(おもほしい)でて、愴爾(いた)み悲泣(かなし)びたまふ」(「日本書紀4・巻第二六・斉明天皇四年七月~十一月・P342」岩波文庫)

ごく普通の観光案内であればただ温泉の箇所のみを引用すればそれでよいのかも知れない。だが熊楠や柳田國男から始まり、さらに戦後日本で文化人類学研究が行われるようになると天皇家と熊野とのただならぬ関係、日本最大のミソギの地としての熊野を無視して通ることは不可能になる。熊楠は早くから「御伽草子」所収「熊野の本地の草子」を愛読している。以前引用したように「熊野の本地の草子」は「御伽草子」の中で最も陰惨で残酷な「異常出産譚」として他に類を見ない「物語=絵解き」だ。絵解きは熊野比丘尼の職業だが、男性の琵琶法師が主に「平家物語」を語ったのに対し、女性の比丘尼は「熊野本地」を語って歩いた。そしてなお熊野比丘尼は生業のためにあちこちを旅する女性であり、いつも杖を持って歩くわけだが、その杖は「丁子型の撞木(しゅもく)」である。かつて撞木型の杖には奇異な力が宿るとされていた。思い起こさないだろうか。

「鮫の一種に撞木鮫(しゆもくざめ)英語でハンマー・ヘッデッド・シャーク(槌頭の鮫)とて頭丁字形を成し両端に目ありすこぶる奇態ながインド洋に多く欧州や本邦の海にも産するのが疑いなくかの佐比神だ、十二年前熊野の勝浦の漁夫がこの鮫を取って船に入れ置き、腓(こむら)を大部分噛み裂(さ)かれ病院へ運ばるるを見た、獰猛な物で形貌奇異だから古人が神としたも無理でない」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.199~120』岩波文庫)

さらに。

「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)

しかし京から「東国(あづまのくに)」へ向かう街道筋で蕪(かぶら)の産地といえばどこだろう。平安時代中後期ではまだ名産品として名が上がるような品種はなかったはず。当時は多くの場合「あおな」と呼ばれていた。だが日本に入ってきたのはかなり古い。古事記・日本書紀・万葉集に載っていることで有名。近江国から美濃国、あるいは尾張国を通る東海道沿いのどこか、としか言えない。

そんなわけで、おまけの一句。

「おく霜の一味付けし蕪かな」(一茶)

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