白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/死と黒髪の収支決算

2021年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

村上天皇の時代で藤原芳子(ふじわらのほうこ)が女御(にょうご)として入内する直前。天暦年間後半と思われる。藤原師尹(ふじわらのもろまさ)が左大臣を務めていた時、天皇から師尹に娘の芳子(ほうこ)を女御に、との仰せがあった。師尹は「差し上げましょう」と急いで入内の準備に取り掛かった。

調度品の点検整理の間、先祖伝来の硯(すずり)も出して見た。仕立ての美しさはもとより墨の乗り具合など実用性にもすぐれている名品だ。この硯を持たせようと錦(にしき)の袋に入れて二段製の「厨子(ずし)」=「棚(たな)」に鍵を掛けて入れておいた。正式な入内の日にしかるべき箱に入れて持たせようと考えた。天皇もこの硯(すずり)のことを聞き及び、師尹に硯の話題を持ち出してみた。すると師尹の目にはその硯が、この世に二つとない超一流の素晴らしい逸品に見えて照り映えるのだった。

一方、師尹には身の回りの世話をするのにまずまずの家柄の男子で、見た目もそこそこ悪くはない若者を当てていた。多少は筆の心得もある。また芳子入内の準備のため他の女房たちはいつになくあれこれと立ち働いていて他人の役割にまで注意を払っている隙がなく、かえって師尹の部屋ばかりが死角に入ってしまっていた。或る朝、師尹に仕えるその若者が掃除のため、いつものように師尹の部屋に入っている時、部屋の周囲はなるほど大騒ぎしているものの、師尹の部屋だけは静まりかえっている。若者も筆には多少の自信がありそのための道具類には大いに関心がある。今なら見ることができると考えた若者は「窃(ひそか)」に厨子の鍵を開けて棚から硯を取り出し、舐め尽くすようにじっくり鑑賞するに及んだ。見れば聞き伝えられているより格段に素晴らしい。思わず愛(いつく)しみ、手のひらで撫でさすり、上からも下からも愛でてみる。

この硯に関する情報が書かれている。漆塗りの上に金銀粉が散りあしらわれ、美麗極まりない装飾が施されたまたとない逸品。なおかつ墨を擦り付けてすればするほど素晴らしく乗りのよい墨汁がしたたり出るとされている。

そのうち誰か人の近づく足音が聞こえた。急いで硯を元の位置に戻そうと慌てた瞬間、硯の取り扱いに手間取り、床へ打ち落としてしまった。硯は「中より打破(うちわり)つ」=「真っ二つに割れた」。

「実(まこと)に伝へ聞(きき)つるよりも云はむ方無く微妙(みみよう)なれば、愛して、手裏(てのうら)に居(すえ)て、差上(さしあ)げ差下(さしおろ)し暫く見る程に、人の足音の為(す)れば、怱(いそぎ)て置かむと為(す)る程に、取りはづして打落(うちおと)しつ。中より打破(うちわり)つ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.69」岩波文庫)

芳子はしばらくすれば天皇の女御になる。そしてこの硯は今や芳子とともにあり、芳子の身体と一体化した形で袋の中に収められている。しかし若者は周囲の隙を見計らい、開けてはならない鍵を開け、硯を袋から取り出し隅から隅まで愛玩し尽くし、誰かの足音に気づいて慌ててしまい、硯を取りはずすや真ん中からぱっくりと割り裂いてしまった。どこかフロイトの性欲論のような説話だが、芳子が入内してしまえばもうこの若者が接近する機会はすっかり失われてしまう。その直前にこの手で愛玩しておきたいという気持ちが湧き起こったとしても何ら不思議でない。むしろ湧き起こらないとすればそれこそ芳子には噂にのぼるほどの魅力など実はかけらもない、と言いふらして廻るようなものであって逆に失礼に当たる。さてしかし、その足音の主は誰なのか。「若君(わかぎみ)」=「師尹の子」。大層な美童でとても気立てが良く「心に慈悲有り」=「心配りの行き届いたやさしい」御子だった。十三歳。本来なら元服し、髪を切って髻(もとどり)に結う年齢なのだが、その髪の毛の美しさゆえまだ切らずに垂髪のまま。その垂髪姿がいよいよ神々しく映えて見える。

「此の足音しつる人は此の殿の若君也けり。其若君、形美麗(びれい)にして心に慈悲有り。年は十三也けり。今は元服(げんぷく)も可有(あるべ)きに、御髻(もとどり)の厳(いつくしき)を惜(おし)むで、今まで元服は無(なき)にぞ有ける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.69」岩波文庫)

硯の取り扱い方を誤ってしまった若者は神仏に憑依されて祟られてでもいるかのようにぶるぶる震え、目の前は真っ暗になり泣きじゃくっている。思いがけずその様子を見てしまった若君。だがこの若君は年齢の上では少年に過ぎないが普段から聡明な頭脳の持ち主として知られていた。茫然自失して狼狽するばかりの若者に向けて若君は事情を尋ねてみた。若者はわあわあ泣いているばかりで要領を得ない。若君は部屋の内部の状況を見た上で事情を察し、割れた硯をまず棚に仕舞って鍵を掛けた。そして言う。「そなた、あまり思い詰めなさるな。私が勝手に取り出して賞愛しているうちに誤ってお割りになったと言えばよいから」。

「汝(なん)ぢ強(あながち)に歎く事無かれ。『若君の、此の硯を取り出て見給ひつる程に、打破(うちわ)り給ひつ』とぞ云へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.70」岩波文庫)

とはいえ若者はなかなか言い出せない。おろおろしているうちに、何も知らない師尹が自室へ戻ってきて「調度品を取り出そう」と厨子を開けて硯を入れておいた袋の中を改めて見た。すると硯は真ん中できれいにぱっくり割れている。

「大臣、内より出給て、『物共取出(とりいだ)さむ』とて、厨子を開て見給ふに、此の硯(すずり)袋より被取出(とりいだされ)て、糸直(いとうるわ)しく中より破(わ)れたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.70」岩波文庫)

目まいを起こしそうになった師尹は気持ちが落ち着くのを待って犯人探しに乗り出した。ところがどの女房を問い詰めてみても知らないという返事ばかり。そこで朝の掃除に使っている若者を呼び出し、今や家宝以上のものと化しつつある硯について問い詰めたところ、若者の顔色がたちまち「草の葉の様に」=「真っ青に」なった。師尹は「極(きわめ)て腹悪(あし)き人」=「瞬間湯沸器のように気が短い人物」なので若者に向かって「貴様、はっきり言え。はっきり!」と怒鳴りつけた。若者はただ若君に言われた通り「若君が硯を愛玩中に」と答えるのが精一杯。師尹はとやかく言わずとっとと出て行けと若者を追い出した。しかしこれで、硯を真っ二つに割ったのは若者ではなく、ほかでもない師尹の息子だということになった。

師尹は妻を呼んで言う。「この大切な硯をぱっくり割ってしまったのがこの子だと思うと、数年来の愛情もなかったというに等しい。むしろ愛情を注ぎ育ててきたこと自体が憎たらしく思われる」。師尹の邸宅には不吉な空気が蔓延した。そしてさらに師尹は言い出した。「この子とは目を合わすこともあるまい。親子だから何年かするとばったり出会うこともあろう。が、しばらくは顔もみたくない。ただちに乳母の家へ引き連れて去れ」。

「我れ此児(このちご)に目をなむ見合(みあわす)まじき。親子の契(ちぎり)なれば、年経ては行き合ふ事有とも、忽(たちまち)なむ見(みま)じき。速(すみやか)に乳母の家に将行(いてゆき)て置たれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.71」岩波文庫)

乳母は命じられた通り若君を連れて屋敷を出、乳母の小宅(こいえ)へ引き取った。特に名家から呼んだ乳母ではなく、ごく普通の単なる乳母の家なので当たり前のように荒れて狭い。それから三、四日ほど。若君の調子があまり良くない。普段と変わり熱が出てきた。若君は臥せって三、四日、熱は下がらず、それを見ていた乳母はおそらく本格的な病だと考え、師尹の妻に様子を告げる手紙を送った。師尹の妻は乳母が伝えてきた若君の容態を師尹に申し述べた。ところが師尹はいう。「あのような馬鹿者は生きていても仕方がない。このついでに死んでしまえばそれこそ上出来というべきだ」。

「而(しか)る間、三、四日を経るに、若君心地不例(れいならず)して、身温(あたたか)にて臥(ふし)ぬ。三、四日に成れば『態(わざと)の心地也けり』と見て、悩み煩(わずら)ふに、乳母、上(うえ)の御許(もと)に此の由を申し遣(やり)たれば、上は聞き驚て、大臣に『児(ちご)なむ此の三、四日温(あたたか)にて苦(くるし)び煩ふ』と申し給へば、大臣、『然(さ)る心無(こころなし)は生(いき)ても何(な)にかはせむ。此(かか)る次(ついで)に死ぬ、吉(よ)き事也』」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.72~73」岩波文庫)

しかし若君の母としては気が気でない。そこで「女の身の口惜(くちおし)き事は輒(たやす)く心に任(まか)せて行ても不見給(みたま)はず」と、女性の身では母といえども自由にお見舞い申し上げられませんとの事情を手紙にしたため、乳母の家に送り届けさせた。そのうち、若君が病に臥せってから七日が経過した。いずれの家か不明だが物忌(ものいみ)があったらしい。その日の午後十時頃から翌朝の午前四時頃まで。どちらからも往来は許されない。物忌に当たる六時間ほどの間に若君は遂に「限(かぎり)」=「臨終・死にぎわ」を迎えた。もう死んでしまうまぎわである。物忌が開けると同時に乳母はそれを師尹の妻に手紙で伝え送った。さらに意識不明が間近なのだろう、若君は「夜明けのようだ。鳥が鳴いている。私は一睡もできていない。父母は私の容態をご存知だろうか」という意味の歌を口から洩らした。乳母はそれも書き留めて師尹の妻のもとへ送り届けさせた。合わせて二通の手紙を受け取った師尹夫妻。妻は師尹に向かい、手紙を二通とも読み上げた。聞いていた師尹はいう。「それほど重態だとは思っていなかったのだ。本当なら余りにも心が痛む。行って会おう」。

「而る間、七日許(ばかり)に成ぬれば、物忌(ものいみ)固くして人も不通(かよ)はず。其の日の亥(い)の時許(ばかり)より若君限りに成給(なりたまい)ぬ。物忌の固ければ、此の由をも告け不申(もうさ)ず。寅時許(とらのときばかり)に、『今は物忌も開ぬ』と思て、上(へ)の御許(もと)に若君の御病(やまい)、限(かぎり)に成たる由を書て遣(やり)つ。亦(また)、若君も父母(ぶも)を極(きわめ)て恋(こい)し気(げ)に思したれども、憚(はばか)り申して然(さ)も申し不給(たまわ)ぬなめり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.73」岩波文庫)

夫妻は車を用意して乳母の家に駆けつけた。若君はもはや危篤状態に陥っている。それを見た師尹の意識はころりと転倒した。「どれほど高価な硯といえども我が子の命に代えることなどできようか。それをまったくの馬鹿者だと思い込んで家から追い出してしまった。余りに悲し過ぎて心が痛むばかり。私はなぜこんなにも狂ってとっとと追い出してしまったのだろう」。

「百千の金銀(こんごん)の硯也とも何にかはせむ。只無心(こころなし)と思(おもい)しに依て、腹の立て追出したるにこそ有れ。哀に悲(かなし)き態(わざ)かな。我れ何(いか)に狂(くるい)て此を追出しけむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.74」岩波文庫)

師尹が愛する我が子を狂気のうちに追い出すという残酷な行為は、ニーチェのいう「官能」に置き換えることができる。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

また、女御として入内することになった娘を巡って三人の男性の葛藤が演じられている。一人は師尹。次に師尹の子=若君。第三に師尹に仕える若者。いずれも娘が入内する前に娘を我が物にしようと欲している光景がたいへん鮮やかに描かれて見えるに違いない。実際に硯をぱっくりと真っ二つに割り裂いてしまったのは、師尹に仕える若者。だが師尹の若君がその代理を買って出る。師尹に仕える若者と若君との置き換えは非常に速やかに、なおかつ大変上手く進行した。さらに師尹が用いた暴力全量は若君へ向け換えられて「官能」として放出された。だから若君が硯を愛玩しつつ放出したとされる力の備給はすべて師尹の「官能」へと移し換えられた上で若君の身体へ向けて暴力的に放出されている。同じことを別の言葉で置き換えると、説話通り、師尹は若君を裁き死に追いやったと言える。師尹の「狂気」の正体は娘に対する「官能」であって、娘である限りで「愛情」に溢れて見えている。けれども、移動するべき「官能」の宛先が天皇の女御という場所へ入る前にまるで思いもよらなかった予想外の場所へ移動したと知らされた瞬間、「官能」は「残酷」へ逆戻りし、そのまま「暴力」の発露として実現された点で明らかだろう。

若君は父母=師尹夫妻が乳母の家に到着後、間もなく息を引き取った。数日を経て葬儀が執り行われた。その後、二十一日ばかりが過ぎた頃、真っ黒な喪服で身を包んだ若者が現れた。見咎めた師尹はなぜ喪服姿なのかと問いただす。特に黒い喪服でなくても構わず、もとよりお参りにやって来る他の人々は普段の礼服であるにもかかわらず、なぜお前だけがと。そこで亡き若君がこの若者に命じた時の言葉を伝えた。「私の罪にしなさい。そなたのことを愛しく思う心からそういうのです。私の責任だとなればそれほどの罰を受けることもないでしょう。しかしもしそなたが硯を割ったとなればそなたの命はありますまい」。

「此の事、我に負(おお)せよ。汝が此(か)く大事に思たるが糸惜(いとおし)ければ。我が負(おい)たらむには、何許(いかばかり)の事か有む。汝が負たらむは必ず咎(とが)有りなむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.76」岩波文庫)

入れ換わって下さったお礼に参ったのでございます。そう若者はいった。師尹は深い思いに打たれた。そしていう。「我が子はもはや死んでしまった。だからもう過ちを犯すことはない。しかし何と、そんな事情だったのか」。聞いている師尹の妻はどんなに嘆き悲しんでおられることだろう。師尹は続ける。「この子はそもそも尋常なお人ではなかったのだ。それを咎めたとは」。

「『児(ちご)は更に過(すぐ)す事無かりけり。早(はよ)う然々(しかしか)にこそけれ』と宣ふを、上聞て、何許(いかばかり)思ひ歎き給ひけむ。大臣の宣(のたま)はく、『此の児(ちご)は只人には非(あらざり)けり。此を咎(とがめ)しけむ事』」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第九・P.77」岩波文庫)

その後、喪服姿で現れた若者は行方不明になった。若者の家族らがあちこち捜索したものの遂に見つけることはできなかった。ただ、護衛に当たる侍たちの詰所に歌が書き残されているのがわかった。「私の黒髪をすっぱり切り落として若君の死出の旅立ちのお供に参りましょう」、との主旨。何と出家して山へ入り、戻ってくることはもうないと、決意表明して姿を消した。

さて。或る硯を巡る説話なのだが、娘の女御としての入内が決定した途端、女性を巡る説話に変化している。しかし舞台を転倒させて廻っているのは間違いなく若君である。若君はこの世にまたとない硯の逸品を真っ二つにぱっくり割り裂いてしまった若者の代理になる。というより始めから、代理になるべく登場する。そして父=師尹に殺されることで師尹の「官能」を実現させてやる。さらに、実際に硯を割り裂いた若者に代理の代償として罪の意識を与え、黒髪を切り落とし出家させることで若者を山岳地帯の流浪の修行者へ転化させる。言い換えれば、蛇を去勢した上で山へ戻してやる。蛇は山神として本来の棲家を得た。このような回り舞台を演じさせることができるのは貨幣と並んで言語以外にない。説話でのやり取りはすべて言葉(台詞と手紙の文字)のみで動いており、なおかつ変化形態は貨幣同様である。若君は死んで若者は山中へ消え失せた。もはや二人とも戻ってはこないだろう。とすればこれで収支は合うのである。

なお、出家した若者が残した歌の一節に「をくれじ」とある。「遅れまい・共に」という意味だが、この若者と若君との置き換えが余りにも速やかに行われている点をさらに加味することは、あるいは重要かもしれない。なぜなら、若君は十三歳だが元服せず髻(もとどり)を結っていない童子姿であることから、若君は男女いずれとも断定しがたく同時に男女いずれにもなり得る性的区別無関係状態・性的横断状態にあるからである。さらに若君はもはや死者であり故人である。また出家した若者の場合、原則的に言えばこれからずっと生涯を山中で過ごすことになり、俗世間との交渉を一切断ち切り、既に俗世間から離脱したという意味で今はもう死を生きていくに等しい。両者ともに《死において》同一性を得ている。従ってその性的な位置付けに関し、死んだ若君と出家した若者との間に同性愛関係を想定することは十分可能だろうと考えられる。

ところで師尹の邸宅は「小一条(こいちじやう)」といった。今の京都御苑内、宗像神社付近。以前、「巻二十九・第三十九話・蛇(へみ)、見女陰発欲(によいんをみてよくをおこし)、出穴当刀死語(あなをいでてかたなにあたりてしぬること)」を取り上げた際に述べた。若い女性が歩いて小一条の辺りへ差し掛かった際、不意に尿意を催したので小一条院の築垣(ついがき)の前にうずくまり小便していたところ、そのまま何物かに憑依されたかのように硬直して動かなくなった。そばを通りがかった武士が不審に思い、小一条院の築垣に空いた穴を覗き込んでみると蛇がおり、しゃがみ込んだ女性の陰部を狙っている。そこで武士は築垣の穴の出入口に刀を突き立てた。途端に蛇が躍り出てきたが刀に突き当たり頭部から30センチほど真っ二つに切り裂かれて出られなくなり死んでしまった。その場所。今は、第一に嫌いな男性から身を守るため。第二に勢いのある蛇にあやかって安産祈願のため。女性や夫婦がしばしば参詣に訪れる。

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