前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、九州で商いに従事する者らが大勢で一艘の船に乗って「不知(しら)ヌ世界」=「異境」へ出かけた。おそらく「不知(しら)ヌ世界」=「異境」と記されている限り、そこでの取引は「鬼市(おにいち)・黙市(もくいち)」から始まったものが形式化されていく過程にあったと考えられる。説話で語られているのはその帰路で起きた出来事。
遥か沖の方角に大きな島が見える。人間が住んでいる気配がするので上陸して食事・休憩の用意などに取りかかろうとした。
「此(ここ)ニ此(かか)ル島コソ有ケレ。此ノ島ニ下(おり)テ、食物(たべもの)ナドノ事ヲモセム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
島の様子を観察したり箸にする木の伐採などのため、それぞれ散り散りになって作業にかかった。そのうち、山間部から大勢の人間が降りてくる音が聞こえてきた。商人たちは思う。「奇妙だな。知らない土地だからもしや鬼かもわからない。考えている暇はない」。
「怪(あやし)ク、此(かか)ル不知(しら)ヌ所ニハ鬼モ有ラム。由無(よしな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
急いで全員船に引き上げた。そしてただちに島から出港することにした。その間、山の間から地鳴りのような音を立てながら、男性ばかり百人ほど出現した。いずれも風折烏帽子(かざおりえぼし)のような被り物を頭に着け、動きやすいように足首の上辺りでぎゅっと絞り込んだ白い水干袴姿。
「烏帽子(えぼうし)折(おり)テ結(ゆひ)タル男共ノ、水干袴(すいかんはかま)着タル、百余人許(ばかり)出来(いでき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
商人らはそれを見て思った。何と人間ではないか。そうとわかれば恐ることはない。ただ、不案内な場所ゆえ、もしかすれば殺されるというこもある。相手は多人数だろう。近づかないことにしよう、と。そして早く船を海上へ出して謎の島から離れようとすると、山から降りてきた人々は海にまでどんどん入ってこちらへやって来る。しかし商売とはいえ船に乗っている者らはもとよりみんな武者であって「弓箭(きゅうせん)・兵杖(ひょうじょう)」=「弓矢・刀剣類」で武装している。そこで戦闘の構えを取って大きく構えて見せた。
見ると、怒涛のように山から降りてきた百人ほどの男性らはいずれも身を守る武具類を一切身にまとっていない。一方、乗船した商人の側は全員武装して弓矢を構えている。山から降りてきた者らはその様相をちらりと目にすると、少しの間があったろうか、山間部の方向へ引き返していった。
「此奴共(こやつども)、皆身ノ衛(まもり)モ不為(せ)ズ、弓箭モ不持(もた)ザリケリ、船ノ物共ハ、多(おほく)ノ人、皆手毎ニ弓箭ヲ取テ有ケレバニヤ、物モ不云(いは)ズシテ打見遣(うちみおこ)セテ、暫許(しばしばかり)有テ皆山様(やまざま)ヘ返入(かへりいり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
九州に戻ってそのことを話すと、一人の年老いた翁(おきな)がその事情について知っていた。こう語った。「それは多分<度羅(とら)ノ島>のことだろう。そこに住んでいる者たちの姿形はなるほど人間だが人肉を食べる風習がある。よく事情も知らないで出かけていくとそなたらの話のように騒然と集まってきて捕えてただひたすら殺して食べてしまうと聞いております。しかしそなたらは賢明にも近づくことなくすぐ船を出して逃げ帰ってこられた。もしもっと近づいていたとしたら、たとえ百千の弓矢を持っていたとしても一旦体を絡め取られてしまえば逃げる方法はなく、皆殺しになっていたに違いないでしょう」。
「其レハ、度羅(とら)ノ島ト云フ所ニコソ有(あん)ナレ。其ノ島ノ人ハ、人ノ形(かた)チニテハ有レドモ、人ヲ食(じき)ト為(す)ル所也。然レバ、案内(あんない)不知(しら)ズシテ、人其ノ島ニ行ヌレバ、然(しか)集リ来(き)テ、人ヲ捕ヘテ只殺シテ食(じき)トスルトコソ聞侍(ききはべ)リシカ。其達(そこたち)ノ心懸クテ、近ク不寄(よ)セデ逃タルニコソ有(あん)ナレ、近ク寄(よせ)ナマシカバ、百千ノ弓箭有リトモ、取付(とりつき)ナムニハ不叶(かなは)ズシテ、皆被殺(ころされ)ナマシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.466」岩波書店)
説話に人肉食の風習が出てくるのは世界中どこでも珍しくない。さらに風習としては急速に失われてしまったが、にもかかわらず時折復活することがある。戦国時代の日本でもしばしばあった。熊楠は「群書類従」から次のように引いている。
「たとえば秀吉が鳥取城に山名を攻めしとき、また伊勢で滝川を攻めしときなど、人肉を餓人が食いしこと、れっきと『群書類従』等にあり」(南方熊楠「無鳥郷の伏翼、日本人の世界研究者、その他」『南方民俗学・P.486』河出文庫)
だがしかし「神は海からやって来る」ものでもある。「度羅(とら)ノ島」は今の「韓国・済州島」のこと。では「とらのしま」という発音はどこから生じたか。「日本書紀」にこうある。
「十二月(しはす)に、南(みなみ)の海中(わたなか)の耽羅人(たむらびと)、初(はじ)めて百済国(くだらのくに)に通(かよ)ふ」(「日本書紀3・巻第十七・継体天皇二年・P.174」岩波文庫)
古代から既に存在した。「耽羅」と書いて「たむら・とら」等と発音する。なお「日本書紀」に見えるこの箇所は百済の国史である「百済本紀」をほとんど丸写ししたもの。「日本書紀」編纂過程で丸写しされたものをそのまま信じ込んでしまった結果、百済から見て「南(みなみ)の海中(わたなか)」に当たる「耽羅国(たむらこく)」が、日本の説話では「鎮西ノ未申(ひつじさる)ノ方(かた)」=「九州の南西方向」に位置するという奇妙な記述になってしまう。
古くから独特の文化体系を持って東シナ海の様々な箇所で交易関係を築いていた耽羅国だが、一四十六年、李氏朝鮮の支配下に置かれ、朝鮮半島に住む朝鮮人とは歴史も文化も言語も異なる「耽羅人(たむらびと)」として露骨な差別対象とされるに至った。李氏朝鮮に組み込まれたことで生活全般に渡って差別を受けるようになり行き場を失った済州島の人々は、日本軍による高圧的な暗黙の強制であれ朝鮮半島の中にいても受ける差別待遇による自主的避難であれ、一部の人々は日本へ渡った。日本では朝鮮人差別はなおのこと厳しい。だが東京都の荒川周辺や大阪市生野区コリアンタウン開発に従事することで長引く苦境のうちにも徐々に自歩を打ち固めるに至った。
折口信夫は、海の彼方の理想郷あるいは理想郷は海の彼方にあるという考え方について、こう述べている。
「琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、『おしまい(爺)・あつぱあ(婆)』が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻って、祝福して歩く。此群を『あんがまあ』と言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。
春の初めの清明節には、『まやの神』と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持ってゐる信仰である。『まや』は即『まやの国』から来る神で、蓑笠で顔を裹んで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良(メイラ)村には、海岸に『なびんづう』と言ふ洞穴があって、『黒また・赤また』と称する二人の神が現れる。『また』は蛇のことである。此神は、顔には面(メン)を被り、体は蔓で飾り、二神揃って踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。
かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一處に集合してゐて、其處から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持ってゐるのである。蓑笠を著けて家に這入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、『あんがまあ』と言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味をもってゐると思はれる。其が、盆の行事と結合して、遣ってゐるのであらう。
此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てて見れば、よくわかることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはっきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変って、山或は空から来るものと考へる様になってゐる。
歳神は、祖先の霊が一箇年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになって了うた。多くの眷属を伴って来るので、随って供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であった。だから、餅が白鳥になって飛ぶ事のわけもわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。
神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。假装の古いものに風流(フリウ)があり、仏教味が加はって練道(レンダウ)となるが、源は一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東國では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。
まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ
古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田國男先生が古今集以前に、既に、此風はあったらしい、と言って居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうした『しきたり』を産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加り、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負ける、と言ふ行事をすることになって居たのだ」(折口信夫全集3「鬼の話・P.7~9」中公文庫)
明治二十八年(一八九五年)「日清講和条約(下関条約)調印」。大日本帝国は日本初の植民地として台湾を手に入れた。その頃の台湾には幾つかの地元民が古くから住んでおり、清国によって内部に組み入れられ軍隊として編成されてはいたが、それとはまた別にゲリラ的抵抗を繰り返すという事態がしばしば発生している。さらにまた、太平洋戦争中、メラネシア周辺まで進軍した日本軍は東南アジアの様々な地域で、台湾や耽羅国(現・済州島)とそっくり似たような先住民らと接触している。独特の文化を持ち、歌い踊る祭祀を有し、日本や中国はもとより欧米とはまったく異なる、むしろアルトーが紹介したメキシコの先住民やベイトソンが紹介したバリ島文化に近い生活様式を持った共同体とその秩序〔価値体系〕に出会っている。それは柳田國男が日本の山間部でしょっちゅう見られたと言っている「山人」と極めて近い共通点を幾つも持っていた。
「自分の推測としては、上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓(よ)ませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しているのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使ってみたまでであります。昔の山人の中で、威力に強(し)いられないしは下され物を慕うて、遥かに京へ出て来た者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、行く行くいかに成り行いたのであろうか。これからが実は私一人の、考えてみようとした問題でありました。
自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニに鬼の漢字を充てたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道(おんみょうどう)の思想がこれと合体して、『今昔物語』」の中の多くの鬼などは、人の形を具(そな)えたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪を演じ、時として板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞(うずく)まって、大きな笠を着て顋(あご)を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰(ふかん)していたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顚童子(しゅてんどうじ)にせよ、鈴鹿山の鬼にせよ、悪路王(あくろおう)、大竹丸、赤頭(あかがしら)にせよいずれも武力の討伐を必要としています。その他吉備津(きびつ)の塵輪(じんりん)も三穂(さんぽ)太郎も、鬼とはいいながら実は人間の獰猛(どうもう)なるものに近く、護符や修験者(しゅげんじゃ)の呪文(じゅもん)だけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公の相撲の最手(ほて)に召されました。この家は帰化系の末と申しております。次には京都に近い八瀬(やせ)の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。この事については前に小さな論文を公表しておきました。二、三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持しておりました。黒川道祐などはこれを山鬼(さんき)の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神(いきがみ)のごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉(さんきち)権現も、また奥山の半僧坊(はんぞうぼう)や秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
それより今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼であります。洞川(どろかわ)という谷底の村に、今では五鬼何という苗字の家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職(せんだつしょく)を世襲し聖護院の法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目(びもく)としておりました。吉野の下市(しもいち)の町付くには、善鬼垣内(ぜんきかいと)という地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏の家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼とも書いて役(えん)の行者(ぎょうじゃ)の二人の侍者の子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
善鬼は五鬼の子孫のことで、五鬼の他に別の団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国の頃からだと申します。その時代までは彼等にも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、後にはただの人間になったという者もおりますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中(うち)に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠(ひとはた)の茄子(なす)を皆持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
とにかくに彼等が平地の村から、移住した者の末でないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺(ほうらいじ)、近江の伊吹山・上州の榛名山(はるなさん)、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師(たいちょうだいし)などは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近頃前田慧雲師はこれを南陽系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、遡(さかのぼ)って聖宝僧正(しょうぼうそうじょう)以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角(えんのおづぬ)にいたっては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成り立つだけの余地があるのであります」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.242~245』ちくま文庫)
さて。これまでの記述を追ってきて言えるのは、そもそも東アジアに太古からあった諸民族の複数性・多様性は一元化不可能だった、というまぎれもない事実である。それはどれも資本主義的中心を持たない、脱中心化しつつも神のもとにあるという今や不可能な共同体として、それぞれが一つの宇宙を形成していた。その意味で貨幣的なものはいつもクライマックスではなく、逆にアンチ・クライマックスとして、内乱によって全滅を回避する《媒介項》として機能していたのである。そもそも耽羅国だけでなく、八重山群島、台湾、メラネシアと、平地が少なく山間部が多いという共通点がある。そしてそのどれもが長い間、中国にもアメリカにも日本にも朝鮮にも属していなかったことは注目に値する。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、九州で商いに従事する者らが大勢で一艘の船に乗って「不知(しら)ヌ世界」=「異境」へ出かけた。おそらく「不知(しら)ヌ世界」=「異境」と記されている限り、そこでの取引は「鬼市(おにいち)・黙市(もくいち)」から始まったものが形式化されていく過程にあったと考えられる。説話で語られているのはその帰路で起きた出来事。
遥か沖の方角に大きな島が見える。人間が住んでいる気配がするので上陸して食事・休憩の用意などに取りかかろうとした。
「此(ここ)ニ此(かか)ル島コソ有ケレ。此ノ島ニ下(おり)テ、食物(たべもの)ナドノ事ヲモセム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
島の様子を観察したり箸にする木の伐採などのため、それぞれ散り散りになって作業にかかった。そのうち、山間部から大勢の人間が降りてくる音が聞こえてきた。商人たちは思う。「奇妙だな。知らない土地だからもしや鬼かもわからない。考えている暇はない」。
「怪(あやし)ク、此(かか)ル不知(しら)ヌ所ニハ鬼モ有ラム。由無(よしな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
急いで全員船に引き上げた。そしてただちに島から出港することにした。その間、山の間から地鳴りのような音を立てながら、男性ばかり百人ほど出現した。いずれも風折烏帽子(かざおりえぼし)のような被り物を頭に着け、動きやすいように足首の上辺りでぎゅっと絞り込んだ白い水干袴姿。
「烏帽子(えぼうし)折(おり)テ結(ゆひ)タル男共ノ、水干袴(すいかんはかま)着タル、百余人許(ばかり)出来(いでき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
商人らはそれを見て思った。何と人間ではないか。そうとわかれば恐ることはない。ただ、不案内な場所ゆえ、もしかすれば殺されるというこもある。相手は多人数だろう。近づかないことにしよう、と。そして早く船を海上へ出して謎の島から離れようとすると、山から降りてきた人々は海にまでどんどん入ってこちらへやって来る。しかし商売とはいえ船に乗っている者らはもとよりみんな武者であって「弓箭(きゅうせん)・兵杖(ひょうじょう)」=「弓矢・刀剣類」で武装している。そこで戦闘の構えを取って大きく構えて見せた。
見ると、怒涛のように山から降りてきた百人ほどの男性らはいずれも身を守る武具類を一切身にまとっていない。一方、乗船した商人の側は全員武装して弓矢を構えている。山から降りてきた者らはその様相をちらりと目にすると、少しの間があったろうか、山間部の方向へ引き返していった。
「此奴共(こやつども)、皆身ノ衛(まもり)モ不為(せ)ズ、弓箭モ不持(もた)ザリケリ、船ノ物共ハ、多(おほく)ノ人、皆手毎ニ弓箭ヲ取テ有ケレバニヤ、物モ不云(いは)ズシテ打見遣(うちみおこ)セテ、暫許(しばしばかり)有テ皆山様(やまざま)ヘ返入(かへりいり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.465」岩波書店)
九州に戻ってそのことを話すと、一人の年老いた翁(おきな)がその事情について知っていた。こう語った。「それは多分<度羅(とら)ノ島>のことだろう。そこに住んでいる者たちの姿形はなるほど人間だが人肉を食べる風習がある。よく事情も知らないで出かけていくとそなたらの話のように騒然と集まってきて捕えてただひたすら殺して食べてしまうと聞いております。しかしそなたらは賢明にも近づくことなくすぐ船を出して逃げ帰ってこられた。もしもっと近づいていたとしたら、たとえ百千の弓矢を持っていたとしても一旦体を絡め取られてしまえば逃げる方法はなく、皆殺しになっていたに違いないでしょう」。
「其レハ、度羅(とら)ノ島ト云フ所ニコソ有(あん)ナレ。其ノ島ノ人ハ、人ノ形(かた)チニテハ有レドモ、人ヲ食(じき)ト為(す)ル所也。然レバ、案内(あんない)不知(しら)ズシテ、人其ノ島ニ行ヌレバ、然(しか)集リ来(き)テ、人ヲ捕ヘテ只殺シテ食(じき)トスルトコソ聞侍(ききはべ)リシカ。其達(そこたち)ノ心懸クテ、近ク不寄(よ)セデ逃タルニコソ有(あん)ナレ、近ク寄(よせ)ナマシカバ、百千ノ弓箭有リトモ、取付(とりつき)ナムニハ不叶(かなは)ズシテ、皆被殺(ころされ)ナマシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十二・P.466」岩波書店)
説話に人肉食の風習が出てくるのは世界中どこでも珍しくない。さらに風習としては急速に失われてしまったが、にもかかわらず時折復活することがある。戦国時代の日本でもしばしばあった。熊楠は「群書類従」から次のように引いている。
「たとえば秀吉が鳥取城に山名を攻めしとき、また伊勢で滝川を攻めしときなど、人肉を餓人が食いしこと、れっきと『群書類従』等にあり」(南方熊楠「無鳥郷の伏翼、日本人の世界研究者、その他」『南方民俗学・P.486』河出文庫)
だがしかし「神は海からやって来る」ものでもある。「度羅(とら)ノ島」は今の「韓国・済州島」のこと。では「とらのしま」という発音はどこから生じたか。「日本書紀」にこうある。
「十二月(しはす)に、南(みなみ)の海中(わたなか)の耽羅人(たむらびと)、初(はじ)めて百済国(くだらのくに)に通(かよ)ふ」(「日本書紀3・巻第十七・継体天皇二年・P.174」岩波文庫)
古代から既に存在した。「耽羅」と書いて「たむら・とら」等と発音する。なお「日本書紀」に見えるこの箇所は百済の国史である「百済本紀」をほとんど丸写ししたもの。「日本書紀」編纂過程で丸写しされたものをそのまま信じ込んでしまった結果、百済から見て「南(みなみ)の海中(わたなか)」に当たる「耽羅国(たむらこく)」が、日本の説話では「鎮西ノ未申(ひつじさる)ノ方(かた)」=「九州の南西方向」に位置するという奇妙な記述になってしまう。
古くから独特の文化体系を持って東シナ海の様々な箇所で交易関係を築いていた耽羅国だが、一四十六年、李氏朝鮮の支配下に置かれ、朝鮮半島に住む朝鮮人とは歴史も文化も言語も異なる「耽羅人(たむらびと)」として露骨な差別対象とされるに至った。李氏朝鮮に組み込まれたことで生活全般に渡って差別を受けるようになり行き場を失った済州島の人々は、日本軍による高圧的な暗黙の強制であれ朝鮮半島の中にいても受ける差別待遇による自主的避難であれ、一部の人々は日本へ渡った。日本では朝鮮人差別はなおのこと厳しい。だが東京都の荒川周辺や大阪市生野区コリアンタウン開発に従事することで長引く苦境のうちにも徐々に自歩を打ち固めるに至った。
折口信夫は、海の彼方の理想郷あるいは理想郷は海の彼方にあるという考え方について、こう述べている。
「琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、『おしまい(爺)・あつぱあ(婆)』が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻って、祝福して歩く。此群を『あんがまあ』と言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。
春の初めの清明節には、『まやの神』と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持ってゐる信仰である。『まや』は即『まやの国』から来る神で、蓑笠で顔を裹んで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良(メイラ)村には、海岸に『なびんづう』と言ふ洞穴があって、『黒また・赤また』と称する二人の神が現れる。『また』は蛇のことである。此神は、顔には面(メン)を被り、体は蔓で飾り、二神揃って踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。
かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一處に集合してゐて、其處から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持ってゐるのである。蓑笠を著けて家に這入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、『あんがまあ』と言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味をもってゐると思はれる。其が、盆の行事と結合して、遣ってゐるのであらう。
此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てて見れば、よくわかることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはっきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変って、山或は空から来るものと考へる様になってゐる。
歳神は、祖先の霊が一箇年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになって了うた。多くの眷属を伴って来るので、随って供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であった。だから、餅が白鳥になって飛ぶ事のわけもわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。
神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。假装の古いものに風流(フリウ)があり、仏教味が加はって練道(レンダウ)となるが、源は一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東國では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。
まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ
古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田國男先生が古今集以前に、既に、此風はあったらしい、と言って居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうした『しきたり』を産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加り、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負ける、と言ふ行事をすることになって居たのだ」(折口信夫全集3「鬼の話・P.7~9」中公文庫)
明治二十八年(一八九五年)「日清講和条約(下関条約)調印」。大日本帝国は日本初の植民地として台湾を手に入れた。その頃の台湾には幾つかの地元民が古くから住んでおり、清国によって内部に組み入れられ軍隊として編成されてはいたが、それとはまた別にゲリラ的抵抗を繰り返すという事態がしばしば発生している。さらにまた、太平洋戦争中、メラネシア周辺まで進軍した日本軍は東南アジアの様々な地域で、台湾や耽羅国(現・済州島)とそっくり似たような先住民らと接触している。独特の文化を持ち、歌い踊る祭祀を有し、日本や中国はもとより欧米とはまったく異なる、むしろアルトーが紹介したメキシコの先住民やベイトソンが紹介したバリ島文化に近い生活様式を持った共同体とその秩序〔価値体系〕に出会っている。それは柳田國男が日本の山間部でしょっちゅう見られたと言っている「山人」と極めて近い共通点を幾つも持っていた。
「自分の推測としては、上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓(よ)ませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しているのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使ってみたまでであります。昔の山人の中で、威力に強(し)いられないしは下され物を慕うて、遥かに京へ出て来た者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、行く行くいかに成り行いたのであろうか。これからが実は私一人の、考えてみようとした問題でありました。
自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニに鬼の漢字を充てたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道(おんみょうどう)の思想がこれと合体して、『今昔物語』」の中の多くの鬼などは、人の形を具(そな)えたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪を演じ、時として板戸に化けたり、油壺になったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞(うずく)まって、大きな笠を着て顋(あご)を手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰(ふかん)していたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顚童子(しゅてんどうじ)にせよ、鈴鹿山の鬼にせよ、悪路王(あくろおう)、大竹丸、赤頭(あかがしら)にせよいずれも武力の討伐を必要としています。その他吉備津(きびつ)の塵輪(じんりん)も三穂(さんぽ)太郎も、鬼とはいいながら実は人間の獰猛(どうもう)なるものに近く、護符や修験者(しゅげんじゃ)の呪文(じゅもん)だけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公の相撲の最手(ほて)に召されました。この家は帰化系の末と申しております。次には京都に近い八瀬(やせ)の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。この事については前に小さな論文を公表しておきました。二、三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持しておりました。黒川道祐などはこれを山鬼(さんき)の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神(いきがみ)のごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉(さんきち)権現も、また奥山の半僧坊(はんぞうぼう)や秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
それより今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼であります。洞川(どろかわ)という谷底の村に、今では五鬼何という苗字の家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職(せんだつしょく)を世襲し聖護院の法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目(びもく)としておりました。吉野の下市(しもいち)の町付くには、善鬼垣内(ぜんきかいと)という地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏の家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼とも書いて役(えん)の行者(ぎょうじゃ)の二人の侍者の子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
善鬼は五鬼の子孫のことで、五鬼の他に別の団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国の頃からだと申します。その時代までは彼等にも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、後にはただの人間になったという者もおりますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中(うち)に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠(ひとはた)の茄子(なす)を皆持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
とにかくに彼等が平地の村から、移住した者の末でないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺(ほうらいじ)、近江の伊吹山・上州の榛名山(はるなさん)、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師(たいちょうだいし)などは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近頃前田慧雲師はこれを南陽系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、遡(さかのぼ)って聖宝僧正(しょうぼうそうじょう)以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角(えんのおづぬ)にいたっては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成り立つだけの余地があるのであります」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.242~245』ちくま文庫)
さて。これまでの記述を追ってきて言えるのは、そもそも東アジアに太古からあった諸民族の複数性・多様性は一元化不可能だった、というまぎれもない事実である。それはどれも資本主義的中心を持たない、脱中心化しつつも神のもとにあるという今や不可能な共同体として、それぞれが一つの宇宙を形成していた。その意味で貨幣的なものはいつもクライマックスではなく、逆にアンチ・クライマックスとして、内乱によって全滅を回避する《媒介項》として機能していたのである。そもそも耽羅国だけでなく、八重山群島、台湾、メラネシアと、平地が少なく山間部が多いという共通点がある。そしてそのどれもが長い間、中国にもアメリカにも日本にも朝鮮にも属していなかったことは注目に値する。
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