前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「震旦(しんだん)ノ辺土」は中国の片田舎を指す。特にどこという指定はない。指定がないのは説話掲載に当たって特に指定する必要性がないのと、そもそも広大な領土を持つ古代中国では辺鄙な土地であればどこにでもあったことによる。
或る片田舎に貧しくなおかつ「寡(やもめ)=独身」の女性がいた。「要略録」では「孤独自活」と記されている。もっとも、「孤独」と記するとはいえ、今のように独り身で淋しいとか周囲から孤立しているとかいった意味はない。逆にシングル・マザーのように自ら積極的に選択したライフスタイルといった意味もない。ただ「単身」で生活を送っているということ。また古代から近代にかけて、中国に限らず世界中で、単身者は何かと暮らしに不自由することが多かった。戦後少しずつ改善されたとはいえ今なお多いのは今回のパンデミックでこれまでの社会構造が根底から問われ直すきっかけになったわけだが。
ところで、片田舎で暮らすその独身女性はほとんどまったくといっていいほど貯蓄がなかった。あるのは、ただ「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭許(ばかり)」。説話でいう「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭」は、正確な貨幣価値に換算して幾らということではなく、最も安価な金銭を意味する。それが少しばかり残っている。女性は思う。「わずか一文のお金だけど、自分のためだけの資産や食料と交換してそれで終わりにしてしまっていいのだろうか。そうではないだろう。せめて残された僅かなお金だけでも仏様にお供えして差し上げよう」。
「此ノ一文ノ銭、我ガ為ニ一生ノ間ノ資糧(しろう)ト不可成(なすべから)ズ。然レバ不如(しか)ジ、我レ、此ノ銭ヲ以(もて)、仏像ニ供養シ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
そう決めるとさっそくお寺に詣でて、霊験あらたかと言われる薬師如来の前に賽銭を奉納して家に帰った。それから七日を経た或る日、隣県の富裕な家に夫婦が住んでいたのだが、その妻が突然死してしまった。夫は再婚相手を探してみたけれども、思い通りの条件に合う相手を見つけることはできずにいた。
「隣ノ里ニ一人ノ富(とめる)人有リ。其ノ妻(め)頓(にはかに)死(し)シヌ。然レバ、其ノ夫有(あり)テ、妻(め)ヲ求ム。然而(しかれど)モ、心ニ随フ事ヲ不得(え)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
そこで例の、著しくご利益があると評判の薬師如来のところへ詣で、理想の再婚相手に巡り会えるよう祈願した。その夜。夢に一人の僧が出てきた。そしていう。「そなた、実は隣の里に一人の貧窮して困っている女人がいる。その女人を速やかに新しい妻として迎えなさい」。
「汝(なむ)ヂ、速(すみやか)ニ、其(それ)ノ里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ、其レヲ以テ妻(め)ト可為(なすべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
夢から醒めると男性は隣県へ出かけて行き、その独身女性を探し出して求婚した。女性はいう。「わたしの家はたいへん貧しく、せっかくですが、はいそうですかと簡単にお受けすることはできかねます」。
「我レ、家貧クシテ此ノ事ヲ可承引(うけひくべ)キニ非ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
男性は夢に出てきた僧の話を語って聞かせた。すると女性にも心当たりがあったのか遂に結婚することになった。それから数年が経ち二人は三男二女をもうけた。もともと富裕な家だったが富裕さもまた衰えることはなかった。
さて。説話の転回点を成しているのは男性が見た夢である。夢を境として事態が転倒するのは「今昔物語」の特徴の一つ。さらに夢の中で語られる言葉は大変明確だ。そしてこの説話では隣の「里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ」と、境界線を跨ぎ越えることが条件の中に詰め込まれている。夢を境としているだけでなく、実際に県境を越えることが転回を実現する。男性の側は第一に夫婦から単身者への転化。第二に単身者から夫婦への復帰。女性の側は貧窮している独身生活から富裕な共同生活への転化。妻にせよ夫にせよ置き換えることができる、という点に注意しておこう。それはずっと後にイギリスの産業革命で労働力が問題となった時、労働力商品の置き換え可能性がもはや自明化していたことと奇妙な一致を示している。
ところで夢を見ている時、人間の脳の中で起こっていることについては今なおよくわかっていない。しかしベルクソンは脳の機能について「一種の電話交換局にほかならない」と述べている。
「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫)
夢は言葉だけで構成されているわけではなく或る種の光景を伴う。だがその光景もまた言葉と同じく視覚化された言語であることに変わりはない。言語はもちろん深層などではなく表層である。また、夢でしかないとはいえ、説話に登場する夢の中の言葉はいつも決まって大変明確な輪郭を取って語られる。だが明確であろうとなかろうと言語は貨幣と同様に一般的なものであり、従って微細な部分を削り落として始めて出現することができるという条件を持つ。
「輪郭のはっきり決まっている言葉、人間の諸印象のうちの安定したもの、共通なもの、したがって非人格的なものを記憶に蓄えている剥き出しの言葉は、私たちの個人的な意識の微妙で捉えがたい印象を押し潰すか、あるいは少なくとも覆い隠してしまう」(ベルクソン「時間と自由・P.158」岩波文庫)
言語は、それまで見えなかったものを可視化し現わすとともに、なぜそうなったかという過程を覆い隠すものでもある。ニーチェはいう。
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
一般化される限りで出現し可視化されるが、一方、そこへ立ち至った過程と微細な部分とを脱落させなければ、出現し可視化されることはけっしてない。この極めて困難なダブルバインドはいつどのようにして乗り越えられるのだろうか。
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「震旦(しんだん)ノ辺土」は中国の片田舎を指す。特にどこという指定はない。指定がないのは説話掲載に当たって特に指定する必要性がないのと、そもそも広大な領土を持つ古代中国では辺鄙な土地であればどこにでもあったことによる。
或る片田舎に貧しくなおかつ「寡(やもめ)=独身」の女性がいた。「要略録」では「孤独自活」と記されている。もっとも、「孤独」と記するとはいえ、今のように独り身で淋しいとか周囲から孤立しているとかいった意味はない。逆にシングル・マザーのように自ら積極的に選択したライフスタイルといった意味もない。ただ「単身」で生活を送っているということ。また古代から近代にかけて、中国に限らず世界中で、単身者は何かと暮らしに不自由することが多かった。戦後少しずつ改善されたとはいえ今なお多いのは今回のパンデミックでこれまでの社会構造が根底から問われ直すきっかけになったわけだが。
ところで、片田舎で暮らすその独身女性はほとんどまったくといっていいほど貯蓄がなかった。あるのは、ただ「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭許(ばかり)」。説話でいう「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭」は、正確な貨幣価値に換算して幾らということではなく、最も安価な金銭を意味する。それが少しばかり残っている。女性は思う。「わずか一文のお金だけど、自分のためだけの資産や食料と交換してそれで終わりにしてしまっていいのだろうか。そうではないだろう。せめて残された僅かなお金だけでも仏様にお供えして差し上げよう」。
「此ノ一文ノ銭、我ガ為ニ一生ノ間ノ資糧(しろう)ト不可成(なすべから)ズ。然レバ不如(しか)ジ、我レ、此ノ銭ヲ以(もて)、仏像ニ供養シ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
そう決めるとさっそくお寺に詣でて、霊験あらたかと言われる薬師如来の前に賽銭を奉納して家に帰った。それから七日を経た或る日、隣県の富裕な家に夫婦が住んでいたのだが、その妻が突然死してしまった。夫は再婚相手を探してみたけれども、思い通りの条件に合う相手を見つけることはできずにいた。
「隣ノ里ニ一人ノ富(とめる)人有リ。其ノ妻(め)頓(にはかに)死(し)シヌ。然レバ、其ノ夫有(あり)テ、妻(め)ヲ求ム。然而(しかれど)モ、心ニ随フ事ヲ不得(え)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
そこで例の、著しくご利益があると評判の薬師如来のところへ詣で、理想の再婚相手に巡り会えるよう祈願した。その夜。夢に一人の僧が出てきた。そしていう。「そなた、実は隣の里に一人の貧窮して困っている女人がいる。その女人を速やかに新しい妻として迎えなさい」。
「汝(なむ)ヂ、速(すみやか)ニ、其(それ)ノ里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ、其レヲ以テ妻(め)ト可為(なすべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
夢から醒めると男性は隣県へ出かけて行き、その独身女性を探し出して求婚した。女性はいう。「わたしの家はたいへん貧しく、せっかくですが、はいそうですかと簡単にお受けすることはできかねます」。
「我レ、家貧クシテ此ノ事ヲ可承引(うけひくべ)キニ非ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)
男性は夢に出てきた僧の話を語って聞かせた。すると女性にも心当たりがあったのか遂に結婚することになった。それから数年が経ち二人は三男二女をもうけた。もともと富裕な家だったが富裕さもまた衰えることはなかった。
さて。説話の転回点を成しているのは男性が見た夢である。夢を境として事態が転倒するのは「今昔物語」の特徴の一つ。さらに夢の中で語られる言葉は大変明確だ。そしてこの説話では隣の「里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ」と、境界線を跨ぎ越えることが条件の中に詰め込まれている。夢を境としているだけでなく、実際に県境を越えることが転回を実現する。男性の側は第一に夫婦から単身者への転化。第二に単身者から夫婦への復帰。女性の側は貧窮している独身生活から富裕な共同生活への転化。妻にせよ夫にせよ置き換えることができる、という点に注意しておこう。それはずっと後にイギリスの産業革命で労働力が問題となった時、労働力商品の置き換え可能性がもはや自明化していたことと奇妙な一致を示している。
ところで夢を見ている時、人間の脳の中で起こっていることについては今なおよくわかっていない。しかしベルクソンは脳の機能について「一種の電話交換局にほかならない」と述べている。
「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫)
夢は言葉だけで構成されているわけではなく或る種の光景を伴う。だがその光景もまた言葉と同じく視覚化された言語であることに変わりはない。言語はもちろん深層などではなく表層である。また、夢でしかないとはいえ、説話に登場する夢の中の言葉はいつも決まって大変明確な輪郭を取って語られる。だが明確であろうとなかろうと言語は貨幣と同様に一般的なものであり、従って微細な部分を削り落として始めて出現することができるという条件を持つ。
「輪郭のはっきり決まっている言葉、人間の諸印象のうちの安定したもの、共通なもの、したがって非人格的なものを記憶に蓄えている剥き出しの言葉は、私たちの個人的な意識の微妙で捉えがたい印象を押し潰すか、あるいは少なくとも覆い隠してしまう」(ベルクソン「時間と自由・P.158」岩波文庫)
言語は、それまで見えなかったものを可視化し現わすとともに、なぜそうなったかという過程を覆い隠すものでもある。ニーチェはいう。
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
一般化される限りで出現し可視化されるが、一方、そこへ立ち至った過程と微細な部分とを脱落させなければ、出現し可視化されることはけっしてない。この極めて困難なダブルバインドはいつどのようにして乗り越えられるのだろうか。
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