前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
奈良に都があった頃。「高麗(こま)」=「高句麗(こうくり)」から来日した道登(どうとう)という僧がいた。「元興寺(がんごうじ)」=平城京に移転する前の「本元興寺(もとがんごうじ)」に住んだ。功徳を積むための一つの目標として、今の宇治川に橋(宇治橋)を架けようと修行に励んでいた。その間、「北山科(きたやましな)」(今の京都市山科区北部)に住む恵満(えまん)という僧のもとで過ごした時期があったらしい。だから道登には二箇所の拠点があったことになる。まず元興寺。もう一つは北山科。前者は奈良にあり後者は山城国(やましろのくに)にあった。後者の恵満(えまん)のもとから前者の元興寺との間には国境がある。一度元興寺から出て北山科で過ごし、再び元興寺へ戻ってくる。説話の転回点は、そのような二箇所の拠点の《あいだ》、奈良と山城との国境、「奈良坂山(ならさかやま)」に置かれている。
当時の奈良坂(ならさか)について。奈良県奈良市と京都府木津市との間に横たわる平城山(ならやま)を越える山中のルート。古代末期から平安時代、そして中世を通して長く困窮民・流浪民らが集まり、京の「清水坂()」とともに「奈良坂()」と称される遊行者らが群れを成した。彼らは主に酒造・縫物(ぬいもの)師・畳紙(たとうがみ)売・薫物(たきもの)売・灯心売・魚売・塩売・餅売・扇売・白拍子・瞽女・比丘尼・説教師・傀儡師・猿楽師・祝言職・弊牛馬処理・刑吏・土木工事・葬送・死体処理など、種々の商業・芸能に携わって暮らした。そのうち中世に至り物騒な世相になると武装した強盗団の出没が激しさを増す。山中とはいえ京と奈良とを結ぶ交通の要路だったことと重なり、山越えする商人や旅人らが襲撃される事件が頻発した。
或る日、道登が奈良坂山を越えて元興寺に返ろうとしている途中、路傍に「髑髏(ひとがしら)」=「頭蓋骨」が落ちたなりになっているのを見付けた。常から淋しい丘陵地帯の道だが街道としては様々な人々が往来している。そして行き交う人々は急いでいるため、しばしば髑髏を踏んで通り過ぎていく。そんな折、髑髏が踏まれているのを見た道登の心境に、ふと慈悲心が立ち上ってきた。連れている童子に命じ、路傍に転がったままの髑髏を拾わせ、傍に立っている木の上に置かせた。
「奈良坂山(ならさかやま)を通るに、道辺(みちのほとりに)髑髏(ひとがしら)有て、人に被踏(ふま)る。道登此(こ)れを見て、哀(あわれ)びの心を発(おこ)して、従者の童(わらわ)を呼て、此の髑髏を取て木の上(う)へに置(おか)せつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.121」岩波文庫)
それから何年が経過したか定かでない。或る年の「十二月の晦(つごもり)の夕暮方」=「大晦日(おおみそか)の夕方」のこと。奈良時代から平安時代にかけて、大晦日に死者の霊を祭る「魂祭り」を行うのが習慣だった。後世になると主に夏の恒例行事として「精霊会(しょうりょうえ)・盂蘭盆(うらぼん)」が定着するに至る。元興寺の門前に来客があった。「道登様の童子さんにお会いしたい」という。童子は僧房の門まで出て客人に会った。しかしどこの誰とも見知らぬ者である。顔を出した童子にいう。「わたしはそなたの師匠・道登様の御恩ゆえ、数年間の苦しみから解放され、心安らかな境地を得させてもらうことができました。大晦日に当たる今夜でなければ御恩返しすることができないため、参りました」。
「我れ、汝(なんじ)が師の道登大徳の恩を蒙(こうぶり)て、年来(としごろ)の苦(くるしび)を棄(すて)て、安(や)すらかなる事を得たり。而(しか)るに、今夜(こよい)に非ずは、其の恩を難報(ほうじがた)し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122」岩波文庫)
そういうと童子を連れて、どこへとも知らないところへ行く。里にある一軒の家に辿り着き、その家の中へ招き入れられた。祖霊に向けたたくさんの食べ物が供えられている。連れて来た童子にそれらをふんだんに与え、自らも共に食べているうちに夜更けになった。童子がその家に泊まって時間を過ごしているとしばらくして「後夜(ごや)」=午前四時頃、暁の勤行の時刻になった。すると家の外で人の足音が近づいてきた。それを聞くと客人はいう。「私を殺した兄が戻ってきたようです。私はただちにここを出ることにしましょう」。
「我を殺せりし我が兄、此(ここ)に来にたり。我(わ)れ速(すみやか)に去なむとす」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122」岩波文庫)
そう言われても童子には何のことかさっぱりわからない。事情だけでも聞きたいと尋ねてみると次のように説明してくれた。「私は昔、兄と一緒に商いをしていました。あちこちに出かけて行って、銀(しろかね)四十斤(銀24キログラム)を儲けるに至りました。それを持って奈良坂を通り過ぎている途中、兄はすべての銀を奪い取ってしまおうと思ったらしく、私をその場で殺してしまいました。兄は家に帰ると母に言いました。弟は奈良坂を超えている途中で強盗に会って殺されてしまったと。そうして何年かが過ぎ、私の死骸はもはや道端に頭蓋骨を残すばかりになってしまって、往来の人々に踏まれるままに放置されていたのです。それが或る日、そなたの師匠の道登様に見付けて頂き、哀れにお思いになられたようで、そなたに命じて道から拾い上げ木の上に載せて頂くことになりました。長年の苦しみから救って下さったのでございます。ゆえに私の髑髏を拾い上げて木の上の載せて下さったそなたのご恩も忘れてはおりません。なので今夜ばかりのことではありますが、こうして晦日の魂祭りのお供えものをしつらえて、食べて頂こうとお連れしたわけです」。
「我れ昔(むか)し兄と共に商(あき)なひせむ為に、所々に行て、銀(しろかね)四十斤を商(あきな)ひ得たりき。其れを持て兄と共に奈良坂を通(とおり)し時に、兄銀(しろかね)を欲(ほし)がりて其れを取らむが為に、我れを殺(ころし)てき。然て、兄の、家に返(かえり)て、弟は盗人の為に被殺(ころされ)たる由を母に語る。其の後、年月を経て我(わが)髑髏(ひとがしら)其の所に有て、往還(おうがん)の人に被踏(ふまれ)つるに、汝(なんじ)が師の大徳(だいとこ)其れを見給て、哀(あわれび)の心を至して、汝を以て木の上に取り置せて、苦(くるしび)を令離(はなれし)め給へり。其の故(ゆえ)に亦(また)汝が恩をも不忘(わすれ)ず。而るに、今夜(こよい)我が為に此れに食(じき)を儲(もうけ)たり。其れを令食(くわしめ)むが為に将来(いてきた)れる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122~123」岩波文庫)
すると、聞いていた童子がなるほどと思う間もなく、客人の姿は跡形もなく消え失せた。奇妙なことがあるものだと童子が思っていると、霊(りよう)と化して現れた弟の母が、弟を殺して銀を奪い去った兄とともに家の中に入って来た。死んだ弟の霊(りよう)を拝みにやって来たようである。
「其の霊(りよう)の母、殺(ころし)たる兄と共に其の殺せる霊(りよう)を拝せむが為に、其の家に入り来る」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.123」岩波文庫)
ところがそこに一人の見知らぬ小僧がいる。事情を尋ねられた童子は、殺されたという弟の霊(りよう)が説明した通りそのままを述べた。そこで事実を知らされた母は、弟を殺して銀を独り占めした上に嘘をつき通していた兄に向けて、心底から深い怨恨が湧き起こってきた。「そういうことだったのか。嘘だったのか」。母は始めて気付かされた。
「然(さ)は我が愛(かなしき)子をば汝が殺してけるにこそ有けれ。我れ于今(いまに)此れを不知(しら)ざりつ。『盗人の為に被殺(ころされ)たる』と云ひしは、早(はよ)う虚言(そらごと)にこそ有けれ。悲(かなし)くも有かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.123」岩波文庫)
弟を殺された母は口惜しいやら哀れやら悲しいやら様々の情が入り混じり、泣く泣く童子に改めてお礼を言い、供物の食物を与えて持たせた。童子は僧房へ帰り、師匠・道登に事態の顛末を話して差し上げた。道登は思ってもみなかったようで、たいへん感銘を受けた。
さて。既に述べたようにこの説話の転回点は早くも冒頭部分で書かれている。或る共同体と別の共同体との境の地が舞台である。数年前に兄が弟を殺そうと心変わりしたのもそこでだった。道登が路傍の髑髏を見つけてふいに救いの念を起こしたのもその場所である。このような転回はいつも境界線で起こる。あるいはそのような事態の発生と同時にその場に新しい境界線が引かれる。
変化過程を見てみよう。第一に「弟」から「髑髏(ひとがしら)」への転化。第二に道端に半ば埋もれた「髑髏(ひとがしら)」から木の上に置かれた「髑髏(ひとがしら)」への転化。第三に木の上に置かれた「髑髏(ひとがしら)」から「霊(りよう)としての弟」への転化が見られる。木の上に置かれることで始めて殺された弟の霊は童子の前に出現することができた。殺された弟は拾い上げられることで始めて救われたと感じた。というのは、天空に近づくことが救いあるいは神仏に近づくことを意味したからである。ニーチェは古代人の考え方についてこういっている。
「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.356~357」ちくま学芸文庫)
ところで、弟の霊は言葉を語る。語るわけだが、その相手は道登にではなく、道登に仕えている童子に、である。従って、弟の霊の言葉を道登の側にも子を殺された母の側にも伝える役割を演じるのは童子であり、それこそが童子に与えられた特権的位置だと言える。一方から他方へ言語を伝える役割は、どの大人にも属さない限りで、貨幣《として》流通する童子に託された。さらに、それまで隠蔽されていた事実が曝露され流通するのは、流通するもの自体が場所移動した限りで始めて起こっている点にも注意したい。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
或る地点Aから別の地点Bへの場所移動は、或る価値体系から別の価値体系への価値観の変動を伴う。説話に従って述べると、殺害が隠蔽される共同体から、同じ殺害が今度は曝露される共同体へ転化している。この転化過程における流通の役割を演じるのは、大人でもなく幼児でもなく、男性とも女性とも区別しがたい《童子》という社会的特権性を帯びた存在であり、その限りで果たされた貨幣性だと言えるだろう。
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奈良に都があった頃。「高麗(こま)」=「高句麗(こうくり)」から来日した道登(どうとう)という僧がいた。「元興寺(がんごうじ)」=平城京に移転する前の「本元興寺(もとがんごうじ)」に住んだ。功徳を積むための一つの目標として、今の宇治川に橋(宇治橋)を架けようと修行に励んでいた。その間、「北山科(きたやましな)」(今の京都市山科区北部)に住む恵満(えまん)という僧のもとで過ごした時期があったらしい。だから道登には二箇所の拠点があったことになる。まず元興寺。もう一つは北山科。前者は奈良にあり後者は山城国(やましろのくに)にあった。後者の恵満(えまん)のもとから前者の元興寺との間には国境がある。一度元興寺から出て北山科で過ごし、再び元興寺へ戻ってくる。説話の転回点は、そのような二箇所の拠点の《あいだ》、奈良と山城との国境、「奈良坂山(ならさかやま)」に置かれている。
当時の奈良坂(ならさか)について。奈良県奈良市と京都府木津市との間に横たわる平城山(ならやま)を越える山中のルート。古代末期から平安時代、そして中世を通して長く困窮民・流浪民らが集まり、京の「清水坂()」とともに「奈良坂()」と称される遊行者らが群れを成した。彼らは主に酒造・縫物(ぬいもの)師・畳紙(たとうがみ)売・薫物(たきもの)売・灯心売・魚売・塩売・餅売・扇売・白拍子・瞽女・比丘尼・説教師・傀儡師・猿楽師・祝言職・弊牛馬処理・刑吏・土木工事・葬送・死体処理など、種々の商業・芸能に携わって暮らした。そのうち中世に至り物騒な世相になると武装した強盗団の出没が激しさを増す。山中とはいえ京と奈良とを結ぶ交通の要路だったことと重なり、山越えする商人や旅人らが襲撃される事件が頻発した。
或る日、道登が奈良坂山を越えて元興寺に返ろうとしている途中、路傍に「髑髏(ひとがしら)」=「頭蓋骨」が落ちたなりになっているのを見付けた。常から淋しい丘陵地帯の道だが街道としては様々な人々が往来している。そして行き交う人々は急いでいるため、しばしば髑髏を踏んで通り過ぎていく。そんな折、髑髏が踏まれているのを見た道登の心境に、ふと慈悲心が立ち上ってきた。連れている童子に命じ、路傍に転がったままの髑髏を拾わせ、傍に立っている木の上に置かせた。
「奈良坂山(ならさかやま)を通るに、道辺(みちのほとりに)髑髏(ひとがしら)有て、人に被踏(ふま)る。道登此(こ)れを見て、哀(あわれ)びの心を発(おこ)して、従者の童(わらわ)を呼て、此の髑髏を取て木の上(う)へに置(おか)せつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.121」岩波文庫)
それから何年が経過したか定かでない。或る年の「十二月の晦(つごもり)の夕暮方」=「大晦日(おおみそか)の夕方」のこと。奈良時代から平安時代にかけて、大晦日に死者の霊を祭る「魂祭り」を行うのが習慣だった。後世になると主に夏の恒例行事として「精霊会(しょうりょうえ)・盂蘭盆(うらぼん)」が定着するに至る。元興寺の門前に来客があった。「道登様の童子さんにお会いしたい」という。童子は僧房の門まで出て客人に会った。しかしどこの誰とも見知らぬ者である。顔を出した童子にいう。「わたしはそなたの師匠・道登様の御恩ゆえ、数年間の苦しみから解放され、心安らかな境地を得させてもらうことができました。大晦日に当たる今夜でなければ御恩返しすることができないため、参りました」。
「我れ、汝(なんじ)が師の道登大徳の恩を蒙(こうぶり)て、年来(としごろ)の苦(くるしび)を棄(すて)て、安(や)すらかなる事を得たり。而(しか)るに、今夜(こよい)に非ずは、其の恩を難報(ほうじがた)し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122」岩波文庫)
そういうと童子を連れて、どこへとも知らないところへ行く。里にある一軒の家に辿り着き、その家の中へ招き入れられた。祖霊に向けたたくさんの食べ物が供えられている。連れて来た童子にそれらをふんだんに与え、自らも共に食べているうちに夜更けになった。童子がその家に泊まって時間を過ごしているとしばらくして「後夜(ごや)」=午前四時頃、暁の勤行の時刻になった。すると家の外で人の足音が近づいてきた。それを聞くと客人はいう。「私を殺した兄が戻ってきたようです。私はただちにここを出ることにしましょう」。
「我を殺せりし我が兄、此(ここ)に来にたり。我(わ)れ速(すみやか)に去なむとす」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122」岩波文庫)
そう言われても童子には何のことかさっぱりわからない。事情だけでも聞きたいと尋ねてみると次のように説明してくれた。「私は昔、兄と一緒に商いをしていました。あちこちに出かけて行って、銀(しろかね)四十斤(銀24キログラム)を儲けるに至りました。それを持って奈良坂を通り過ぎている途中、兄はすべての銀を奪い取ってしまおうと思ったらしく、私をその場で殺してしまいました。兄は家に帰ると母に言いました。弟は奈良坂を超えている途中で強盗に会って殺されてしまったと。そうして何年かが過ぎ、私の死骸はもはや道端に頭蓋骨を残すばかりになってしまって、往来の人々に踏まれるままに放置されていたのです。それが或る日、そなたの師匠の道登様に見付けて頂き、哀れにお思いになられたようで、そなたに命じて道から拾い上げ木の上に載せて頂くことになりました。長年の苦しみから救って下さったのでございます。ゆえに私の髑髏を拾い上げて木の上の載せて下さったそなたのご恩も忘れてはおりません。なので今夜ばかりのことではありますが、こうして晦日の魂祭りのお供えものをしつらえて、食べて頂こうとお連れしたわけです」。
「我れ昔(むか)し兄と共に商(あき)なひせむ為に、所々に行て、銀(しろかね)四十斤を商(あきな)ひ得たりき。其れを持て兄と共に奈良坂を通(とおり)し時に、兄銀(しろかね)を欲(ほし)がりて其れを取らむが為に、我れを殺(ころし)てき。然て、兄の、家に返(かえり)て、弟は盗人の為に被殺(ころされ)たる由を母に語る。其の後、年月を経て我(わが)髑髏(ひとがしら)其の所に有て、往還(おうがん)の人に被踏(ふまれ)つるに、汝(なんじ)が師の大徳(だいとこ)其れを見給て、哀(あわれび)の心を至して、汝を以て木の上に取り置せて、苦(くるしび)を令離(はなれし)め給へり。其の故(ゆえ)に亦(また)汝が恩をも不忘(わすれ)ず。而るに、今夜(こよい)我が為に此れに食(じき)を儲(もうけ)たり。其れを令食(くわしめ)むが為に将来(いてきた)れる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.122~123」岩波文庫)
すると、聞いていた童子がなるほどと思う間もなく、客人の姿は跡形もなく消え失せた。奇妙なことがあるものだと童子が思っていると、霊(りよう)と化して現れた弟の母が、弟を殺して銀を奪い去った兄とともに家の中に入って来た。死んだ弟の霊(りよう)を拝みにやって来たようである。
「其の霊(りよう)の母、殺(ころし)たる兄と共に其の殺せる霊(りよう)を拝せむが為に、其の家に入り来る」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.123」岩波文庫)
ところがそこに一人の見知らぬ小僧がいる。事情を尋ねられた童子は、殺されたという弟の霊(りよう)が説明した通りそのままを述べた。そこで事実を知らされた母は、弟を殺して銀を独り占めした上に嘘をつき通していた兄に向けて、心底から深い怨恨が湧き起こってきた。「そういうことだったのか。嘘だったのか」。母は始めて気付かされた。
「然(さ)は我が愛(かなしき)子をば汝が殺してけるにこそ有けれ。我れ于今(いまに)此れを不知(しら)ざりつ。『盗人の為に被殺(ころされ)たる』と云ひしは、早(はよ)う虚言(そらごと)にこそ有けれ。悲(かなし)くも有かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第三十一・P.123」岩波文庫)
弟を殺された母は口惜しいやら哀れやら悲しいやら様々の情が入り混じり、泣く泣く童子に改めてお礼を言い、供物の食物を与えて持たせた。童子は僧房へ帰り、師匠・道登に事態の顛末を話して差し上げた。道登は思ってもみなかったようで、たいへん感銘を受けた。
さて。既に述べたようにこの説話の転回点は早くも冒頭部分で書かれている。或る共同体と別の共同体との境の地が舞台である。数年前に兄が弟を殺そうと心変わりしたのもそこでだった。道登が路傍の髑髏を見つけてふいに救いの念を起こしたのもその場所である。このような転回はいつも境界線で起こる。あるいはそのような事態の発生と同時にその場に新しい境界線が引かれる。
変化過程を見てみよう。第一に「弟」から「髑髏(ひとがしら)」への転化。第二に道端に半ば埋もれた「髑髏(ひとがしら)」から木の上に置かれた「髑髏(ひとがしら)」への転化。第三に木の上に置かれた「髑髏(ひとがしら)」から「霊(りよう)としての弟」への転化が見られる。木の上に置かれることで始めて殺された弟の霊は童子の前に出現することができた。殺された弟は拾い上げられることで始めて救われたと感じた。というのは、天空に近づくことが救いあるいは神仏に近づくことを意味したからである。ニーチェは古代人の考え方についてこういっている。
「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.356~357」ちくま学芸文庫)
ところで、弟の霊は言葉を語る。語るわけだが、その相手は道登にではなく、道登に仕えている童子に、である。従って、弟の霊の言葉を道登の側にも子を殺された母の側にも伝える役割を演じるのは童子であり、それこそが童子に与えられた特権的位置だと言える。一方から他方へ言語を伝える役割は、どの大人にも属さない限りで、貨幣《として》流通する童子に託された。さらに、それまで隠蔽されていた事実が曝露され流通するのは、流通するもの自体が場所移動した限りで始めて起こっている点にも注意したい。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
或る地点Aから別の地点Bへの場所移動は、或る価値体系から別の価値体系への価値観の変動を伴う。説話に従って述べると、殺害が隠蔽される共同体から、同じ殺害が今度は曝露される共同体へ転化している。この転化過程における流通の役割を演じるのは、大人でもなく幼児でもなく、男性とも女性とも区別しがたい《童子》という社会的特権性を帯びた存在であり、その限りで果たされた貨幣性だと言えるだろう。
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