白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/大井光遠の妹・力としての性と瓢箪

2021年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、甲斐国(かいのくに)に「大井(おおい)の光遠(みつとお)」という相撲人(すまいびと)がいた。背丈はけっして高くはないが、がっしりした体格で身ごなしも素早く流麗な技術を持つ相撲人として知られていた。その妹に、二十七、八歳ばかりになる女性がいた。かなりの美人だったらしい。

その年の九月頃のこと。光遠の家に泥棒が入り、姫(光遠の妹)を人質にして姫のいる家屋に立て籠った。姫を背後から抱え込んで刀を姫の腹部に差し充てて居座っている。使用人らは驚いてそれを兄の光遠に告げたが光遠は全然騒がない。助けに行こうともしない。使用人はともかく姫君が人質に盗られている家屋を監視しに戻った。

見ていると姫君は右手で、泥棒が刀を差し宛てている腕をそっとつかまえておき、顔を隠していた左手をずらして泣きながら、矢を作るための篠竹が二、三十ほど散らばっているのを手探りで掴み取った。そこで篠竹の節を左手の指だけで床板に押し付けてねじると、朽ちて腐り果て脆くなった木の枝が細かく砕かれるかのように、竹の節がこなごなに砕け散った。泥棒は人質に取った女性がそうするのを見てぎょっと思った。

「此姫君右の手して、男の刀抜て差宛(さしあて)たる手を和ら捕たる様にして、左の手にて顔の塞(ふさぎ)たるを、なくなく其手を以て、前に箭篠(やのしの)の荒造(あらづくり)たるが二、三十許打散(うちちら)されたるを、手まさぐりに節の程を指(および)を以て板敷に押蹉(おしにじり)ければ、朽木などの和(やわらか)ならんを押(おし)砕(くだか)ん様に砕々(くだくだ)と成るを、『奇異(あさまし)』と見る程に、此れを質に取たる男も目を付て見る」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十三・第二十四・P.256~257」岩波文庫)

監視していた使用人はおもう。「兄上が騒がれずにおられたのも道理。兄上殿は強力(ごうりき)で評判。鉄鎚(かなづち)を持って来て打ち砕かねばこの竹の節を砕くことなど出来はしないものを。それをこの姫君は指の力一つでねじり砕いてしまわれた。どんな強力(ごうりき)であろうか。人質に取った泥棒はいまに床の上にぺったんこにされるぞ」。

「兄の主(ぬし)、うべ騒ぎ不給(たまわ)ぬ也けり。極(いみじ)からむ兄の主、鉄鎚(かなづち)を以て打砕かばこそ此の竹は此(か)くは成らめ。此の姫君は何許(いかばかり)なる力にて、此(か)く御(おわ)するにか有らん。此の質に取たる男はひじがれなんず」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十三・第二十四・P.257」岩波文庫)

泥棒も予想外の事態をまざまざと見せつけられ、これはまずいことになったと思い、姫君を放してさっと逃走しようとした。すると待っていた使用人らに追いかけられて捕まえられ、光遠の面前に引き立てられた。光遠はいう。

「その女房(光遠の妹)を簡単に突くことはよもやできまい。もし突こうとすればお前の腕を取ってねじ上げ、刀はお前の肩の骨をねじ切ってしまうだろう。だが賢明にもお前は刀を抜かない宿命でもあったのだろう、女房(妹)もねじるまでには至らなかった。この光遠でさえお前ごときなら素手で殺してやろうものを。お前の屑な腕を取って地面に打ち伏せて肋骨を踏みにじってしまえばお前は生きていられると思うか。しかもその女房(妹)はおれの二倍くらいの馬力の持ち主。なるほど見た目はしなやかでほっそりしたただ単なる女としか映らんだろうが、おれがいたずらに手で掴もうとしても、掴んだ手を逆に取られてだんだん手が開いてしまい、放してしまうほどだからな」。

「其の女房は一度によも不被突(つかれ)じ。突かんとせん腕を取(とり)、掻(かき)ねぢて、上様(うえざま)に突かば、肩の骨は上に出てねぢ被切(きられ)なまし。賢く己(おのれ)が肱(かいな)の不抜(ぬけ)ざりき宿世の有て、其の女房はねぢざりける也。光遠だに己をば手殺(てごろ)しに殺してむ物を。しや肱(かいな)を取て打伏せて腹骨を踏なんには、己(おの)れは生(いき)て有なんや。其(それ)に、女房は光遠二人許が力を持たるぞ。然こそ、細やかに女めかしけれども、光遠が手戯(てたわぶ)れ為(す)るに、取たる腕を強く被取(とられ)たれば、手弘(ひろ)ごりて免しつる物を」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十三・第二十四・P.258」岩波文庫)

そして光遠は泥棒にいう。もしおれの妹が刀で傷つけられていればお前の命はなかったところだが、賢明にも妹を解放して逃げようとしたに過ぎない。だからわざわざ殺す必要もあるまい。逃してやろう。

ところで光遠は自分の妹の姿形について見た目は「細やかに女めかしけれども」と言っている。どのようなイメージだろうか。西鶴に次の文章がある。京の都に「今小町(いまこまち)」と評判の美女がいた。「藤をかざして、覚束(おぼつか)なきさましたる人」とある。

「都なれや、物好きの女もあるに、品形(しなかたち)すぐれてよきを望めば、心に叶(かな)ひがたし。侘(わ)びぬれば身を浮草(うきくさ)のゆかり尋ねて、今小町(いまこまち)といへる娘ゆかしく、見にまかりけるに、過ぎし春、四条に関(せき)すゑて見とがめし中にも、藤をかざして、覚束(おぼつか)なきさましたる人、『これぞ』とこがれて、なんのかのなしに、縁組を取(とり)急ぐこそをかしけれ」(日本古典文学全集「好色五人女・巻三・二・してやられた枕の夢」『井原西鶴集1・P.360~361』小学館)

なお、「身を浮草(うきくさ)の」の一節は小野小町の歌による。

「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘(さそ)ふ水あらばいなんとぞ思ふ」(「古今和歌集・巻第十八・九三八・P.219」岩波文庫)

美女と水と浮草のような身と恋愛の情とが繋がっているが、西鶴のイメージではほとんど格式の高い遊女の境遇に近い。さらに「藤(ふじ)」のイメージが加わる。兼好はいう。

「山吹(やまぶき)の清(きよ)げに、藤(ふぢ)のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」(兼好「徒然草・第十九段・P.44」岩波文庫)

藤棚で有名な藤。それが風に吹かれて「おぼつかなきさましたる」というようなイメージ。ところでさらに女性の場合、そこに勇猛で強力(ごうりき)という条件を兼ね備えた人物が登場する。「巴御前(ともゑごぜん)」。「平家物語」ではこう描かれている。とにかく美人でなおかつ一騎当千の兵(つわもの)でもある。

「木曾殿は、信濃(しなの)より、巴(ともゑ)・山吹(やまぶき)とて二人(ににん)の便女(びんぢよ)を具(ぐ)せられたり。山吹はいたはりあッて都にとどまりぬ。中にも巴(ともゑ)は、いろしろ髪ながく、容顔(ようがん)まことにすぐれたり。あちがたきつよ弓・精兵(せいびやう)、馬の上、かちだち、うち物もッては鬼にも神にもあろうどいふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つは)もの也。究竟(くつきやう)のあら馬のり、悪所落(おと)し、いくさと言(い)へば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓持(も)たせて、まづ一方(いつぽう)の大将には向(む)けられけり。度々(どど)の高名(かうみやう)、肩を並(なら)ぶるものなし。されば今度もおほくのものども落(お)ちゆい討(う)たれける中に、七騎が内まで巴(ともゑ)は討(う)たれざりけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第九・木曾最後・P.129」岩波書店)

しかし数こそ少数だとはいえ、武芸に長け、力も男性以上という女性は他にもいたに違いない。病気中で戦闘には参加していないにせよ、もう一人の「山吹(やまぶき)」も巴(ともゑ)に劣らぬ力量の持ち主である。それが「鬼にも神にもあろう」という貨幣にも似た、両極に分かれることができる特権的な位置を占めるには、或る条件が必要になってくる。巴(ともゑ)はその条件をクリアしていた女性だったと考えられる。しかし或る条件とは何か。容器に用いられる「瓢箪(ひょうたん)」に関わる。言うまでもなく「巴(ともゑ)」の紋は「瓢箪」を記号化したもの。「論語」にこうある。

「子曰、賢哉回也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也

(書き下し)子曰く、賢なるかな回(かい)や、一箪(たん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。人はその憂(うれ)いに堪(た)えず、回はその楽(たの)しみを改めず。賢なるかな回や。

(現代語訳)先生がいわれた。『なんとすぐれた男であることよ、顔回という男は。毎日、竹の弁当箱一杯のご飯と、ひさごのお椀(わん)一杯の飲み物で、狭い路地(ろじ)の奥に住んでいる。ふうつの人間はとても憂欝(ゆううつ)でたまらなくなるだろうが、回は道を学ぶ楽しさをちっとも忘れない。なんとすぐれた男であることよ』」(「論語・巻第三・第六・雍也篇・十一・P.157」中公文庫)

ちなみに個人的な見地から述べると、現在は統廃合されて小中一貫校「開睛(かいせい)小中学校」となっているが、統廃合前、京都市東山区四条通祇園地区から五条通北側茶碗坂までを校区とする新道(しんみち)小学校に通っていた。五条通を境いにその南側から七条通までが貞教(ていきょう)小学校校区。貞教小の校章はほかでもない「瓢箪桐(ひょうたんぎり)」。校区内に豊臣秀吉を祭る「豊国(ほうこく)神社」があり秀吉が瓢箪を崇め奉っていたことに由来するとされている。だが、秀吉が古代神事の限りない崇拝者だったことを考えないと豊国神社がなぜ東山の阿弥陀ヵ峰の麓にあるのかは見えてこないだろう。阿弥陀ヵ峰は東山区粟田口(あわたぐち)付近から山科区京都中央斎場に至るまで山頂沿いに多数の古墳が残された古代古墳密集地。山間部の高い場所に神を祀る信仰は仏教輸入よりも遥かに古い祭祀、世界的な広がりを見せる「巨石文明」の系列に属する。同時にそれは巨石信仰とともにある「山神(さんじん)信仰」を伴う。柳田國男はいう。

「さてこの鳴鏑(なりかぶら)を用ゐる神と云ふ日枝・松尾の大山咋神、又の名を山末之大主(やますえのおおぬし)神に就きて先づ連想致し候は日吉の山王に候。山王祠は天台国清寺に祀る神の名なりしこと『難波江(なにわえ)』に見え候。之を日本の信仰に当つれば即ち大山祇に候。寺地を高山の頂に相するに際しては山神を崇祀して地を請ひ併せて将来の守護を頼み候は自然のことなるのみならず。本邦固有の思想としても荒ぶる神は山に在りて常に畏怖を以て平野に臨みたりし世の態に候へば所謂日吉二十一社の神々は大方は山神系統に属せし神なるべく候。其の一の例を申し候はば坂本なる大将軍の社は岩長姫を祭ると申す説之れ有り候。岩長姫を大将軍神と云ひ或は軍神なりとするは忿怒(ふんぬ)の御姿を仰ぎしなりとも申し候へども、更に又其の御名のかどかどしく且つ岩神の岩ともゆかりある為に候べし。唯大昔筑紫の辺土にて情の為に怒を起したまへることありとて、之を軍陣の神と迄は如何(いかが)かと存じ候が、是れも亦大山祇の御娘にておはせしが為に候けり。されば大年神の御子の中にも祖母神(うばがみ)の続き合ひより山を支配したまふ神ありと信ずるに至りしものに候はん」(柳田國男「石神問答・二九」『柳田國男全集15・P.155~156』ちくま文庫)

しかしそれと瓢箪と、どこでどう関係があるのか。或る昔話にこうある。紀州に「毛原の茗荷(みょうが)」という男性がいた。山間部の淵の近くを通っていると、淵の中から不意に気高い美貌の女性が現れた。竜宮の乙姫だという。竜宮に帰りたいのだが何か光っている物があって戻れない、除けてくれませんかと頼まれた。茗荷は快く引き受けてその光る物を除けてやった。それは5センチほどの観音像。ゆえにその淵の名を観音淵と呼ぶようになった。乙姫がたいそう喜んで恩返しにと茗荷に千人力を与えた。ただし女性に物を手渡すと千人力がその女性の側へ移動してしまうので気を付けて下さいと注意を受けた。茗荷は注意してはいたが何かのはずみで女性に物を手渡してしまう。その時からその女性の血筋に千人力が移動し、その家から妻を娶ると、例えば露天の風呂につかっている最中に夕立あるいは急な豪雨に見舞われた時など、風呂桶(ふろおけ)ごと夫を家内に運び込んでくれるため、たいそう重宝されるようになったらしい。

しかし注目すべきはこのエピソードで茗荷に千人力を与えた女性が「竜宮の乙姫」=「水の神」だったという点である。人間は塩なくして生きていけない。同時に水なくして生きていくことはもっとできない。その水を入れる容器、時代の移り変わりによって酒の容器へも応用されていくのが他でもない「瓢箪」である。それは死んだ者の屍体を納めるための陶磁器製の大型の甕が量産されるようになって以後も、日常生活に欠かせないな容器として、水の神から与えられた恩恵として崇敬されていくのである。山神と水神とは遠く山奥のどことも知れない神々の世界に行かなくては会うことができないわけではなく、逆に最も身近な容器である「瓢箪」において象徴されている。ただ単に暴力的に強いだけではいけない。美女というだけなら世界中に五万といる。しかし「水の神」《として》「山神」とともにあるという条件が付け加えられるや否やほとんどの女性は脱落するに違いない。

熊楠の頭にあるのは「胎蔵界」。要するに女性の子宮である。瓢箪を縦に割ってみよう。何に見えるだろうか。熊楠は生態系というものの力の流動性がどれほど重要か、痛いほどしみじみと身に沁みて理解していたのだろう。そうなればもはや男女の区別はどうでもよくなる。むしろ流動する強度としての変容する性という主題がやおや立ち現れてくるのだ。

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