前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、山岳修験に励む一人の僧が「大峰(おおみね)」(今の奈良県吉野郡大峰山系)を通過中、道に迷ってしまった。ともかく谷の奥の方角へ向かって歩き進めてみると不意に「大(おほき)ナル人郷(ひとざと)」へ出た。
「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこな)フ僧有ケリ。大峰(おほみね)ト云フ所ヲ通(とほり)ケル間ニ、道ヲ踏違(ふみたがへ)テ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ谷ノ方様(かたざま)ニ行(ゆき)ケル程ニ、大(おほき)ナル人郷(ひとざと)ニ出(いで)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.466」岩波書店)
迷子になってしまい通常のルートへ戻ろうと歩いているうちに突然「大(おほき)ナル人郷(ひとざと)」へ出るパターンは以前にも何度か取り上げた。巨大な滝の内側へ思い切って入ってみたところ「猿神(さるがみ)の郷(さと)」へ出たエピソードは極めて類似している。こうあった。
「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店)
人家も多く大層賑わっているのが特徴的。ところで大峰山系の説話では「酒泉郷」として描かれている。
「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)
ここまでは以前、何度か部分的に触れた。その先この僧はどうなったのか。縷々、見ていこう。
僧はまさか酒が湧き出ているとは思いも寄らなかったがゆえ、目の前の泉を見詰めてぼうっとしている。そのうち郷の人々が大勢集まってきて僧を取り囲み「何をしに来た、誰なのか」と詰問される。僧は大峰を通過中に道を間違えたらしくこの郷へ迷い込んだとありのままを語った。事情を聞いていた一人の郷人(さとびと)があゆみ出てきて「さあ、おいでなされ」と言うなり僧を掴んで引き連れて行こうとする。僧はいきなりのことで我を見失い、もしや殺されるのでは、とただならぬ恐怖を感じた。しかし抵抗できるような雰囲気ではない。
連れて行かれたのは郷の中でも巨大な屋敷。中から主人と思われる年配男性が出てきた。どのような方法でやって来たのかと尋ねられたのでさっきと同じことを説明した。主人は僧の説明を聞き終えると屋敷に僧を呼び入れて食事を振る舞った後、一人の若い男性を呼び出した。そしていう。「例ノ所ヘ将行(ゐてゆけ)」=「いつものところへ連れて行け」。すると若い男性は「片山(かたやま)・片岳(かたをか)」=「山の片側」へ僧を連れて行った。そこで若い男性はここへ連れてきた理由を述べる。「実をいえば、ここへ連れてきたのはそなたに死んでもらうためだ。これまでもこの郷にやって来た人々がいた。だが元の世界へ戻ってこの郷の様子を言いふらし、世間に知られてしまうのを厳重に警戒してきたがゆえ、必ず殺すことにしている。だから、ここにこのような郷があるとは誰一人として知らない」。
「実(まこと)ニハ、汝ヲ殺サムガ為ニ此(ここ)ヘハ将来(ゐてき)ツル也。前々(さきざき)モ、此様(かやう)ニシテ此(ここ)ニ来(き)ヌル人ヲバ、返(かへり)テ此(ここ)ノ有様ヲ語ラム事ヲ怖レテ、必(かならず)殺ス也。然レバ、此(ここ)ニ此(かか)ル郷有(あり)ト云フ事ヲバ、人努々(ゆめゆめ)不知(しら)ヌ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467~468」岩波書店)
聞かされた僧は怯えてすっかり茫然自失してしまった。そして泣き崩れながら僧を山の片側へ連れて来た若い男性にいう。「わたしは諸国を巡り歩きながら仏道に励んでいる修行者です。上下貴賤の区別なく人々に仏のご利益(りやく)を手向けようと思い、大峰を通り過ぎている間も菩提心を保ち粉骨砕身修行して歩くことこの上ない。ところが誤って道に迷ってしまい、思いがけずここにやって来てしまった。そして命を亡くそうとしている。もっとも、死はいずれ誰の身にも訪れる逃れることのできない定めであって、そのことには何の未練もない。ただ、そなたは修行に励んでいる僧が何か罪を犯したというわけでもないのに、わたしを殺してしまおうとなさる。それこそ仏の道に反する底知れぬ罪。従ってもし、私を助けて下さりはしまいか」。
「己レ、仏ノ道(みち)ヲ行(おこなひ)キ。諸(もろもろ)ノ人ヲ利益(りやく)セムト思テ、大峰ヲ通ル間(あひだ)、心ヲ発(おこ)シ、身ヲ砕(くだ)ク事無限(かぎりな)シ。其レニ、道ヲ踏違(ふみたが)ヘテ、思ヒ不懸(かけ)ズ此(ここ)ニ来テ、命ヲ亡(ほろぼ)シテムトス。死(し)ヌル道、遂ニ遁(のがる)ル所ニ非(あら)ズ。然レバ、其レヲ苦シムニハ非ズ。只其(そこ)ノ、仏ノ道ヲ行フ僧ノ咎(とが)無キヲ殺シ給テムト為(す)ルガ、無限(かぎりな)キ罪ニテ有レバ、若(も)シ助ケ給テムヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
若い男性はいう。「そなたの言うことはもっとも。お赦しするべきではあろう。とはいえ、万が一にもそなたが帰ってこの郷のことを一言でも口にするのを警戒しているのだ」。僧は答えていう。「わたしは元の世界に戻ってもこの郷について他人に語ることはけっしてございません。世に生きる人間にとって命以上に大切なものなどないでしょう。命だけでも助けてもらえる限り、御恩は生涯忘れようものか」。
「己レ、更(さら)ニ此ノ郷ノ有様ヲ、本(もと)ノ郷ニ返テ人ニ語リ不侍(はべら)ジ。世ニ有ル人、命ニ増ス物無ケレバ、命ヲダニ存(そんし)ナバ、何(いか)デカ其ノ恩ヲ忘レ申サムヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
すると若い男性は考えを変えたようだ。助けようという。「ただし、どこそこにこのようなところがあるということだけでも、口外なさるつもり一つないということであれば、殺されたように見せかけてこっそりお赦し申そう」。
「但シ、其々(そこそこ)ニ此(かか)ル所有(あり)ト云フ事ヲダニ語リ給(たまふ)マジクハ、殺(ころさる)ル様(やう)ニテ免(ゆる)シ申サム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
僧はそう聞いて様々な誓いの言葉を並べ立て、けっして他言しないと心底から約束したところ、若い男性はいった。「そういうことなら、けっして、けっしてですぞ」。と何度も繰り返し口外無用と厳しく念を押して返る道を教えて解放してくれた。僧はその男性に向かって礼拝し、来世に至ってなおこの御恩を忘れることはない旨を契(ちぎ)って、泣く泣く男性と別れ、教えられた通り道を歩いていくと元の普通の道に出た。
「僧、男ニ向(むかひ)テ礼拝シテ、後(のち)ノ世マデノ此ノ恩ヲ不忘(わする)マジキ由(よし)ヲ契(ちぎり)テ、泣々(なくな)ク別レテ、其ノ教ヘケル道ノママニ行ケレバ、例ノ道ニ出タリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
ところで元の里へ戻った僧だが、実のところは、そもそも信用ならず、恩義も知らず、口の軽い軽薄そのものというべき性格だった。僧はまるで別世界のような郷へ行ってきたという話が一度に打ち広がってしまった。さらにその郷では天然自然に酒の湧き出る泉があるという。それを耳にした里の衆の中でも年若く腕っ節に自信のある五、六人の連中が興奮して名乗り出た。「そうと聞けば見ないという選択肢はもはやないだろう。鬼だったり神だったりするのならともかく、話の内容からして人間のようらしい。それならどれほど勇猛な者だったとしても人間以上ということはあるまい。さあ、行って見てみよう」。
「此許(かばかり)ノ事ヲ聞(きき)、何(い)カデカ不見(み)ヌ様(やう)ハ有ラム。鬼ニテモ神ニテモ有(あり)ナド聞カバコソ怖シカラメ、聞(きけ)バ人ニコソ有(あん)ナレ。其レハ、何(いか)ナル猛(たけ)キ者也ト云フトモ、思フニ然許(さばかり)コソハ有ラメ。去来(いざ)行テ見ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
腕自慢・力自慢の若者ら五、六人はそれぞれ弓矢を持ち刀などの武具を身に付け、もはや出かけるほかないと意気揚々。抑えきれない興奮のうちに盛り上がっている。その様子を見ながら里の年配者はいう。「無駄なことを。あちら側からすれば自分達の領土。当然あらゆる策を講じているに違いない。こちら側から出かけていくのは無謀であってけっして良くないだろうに」。
「此レ由(よし)無キ事也。彼(か)レハ、我ガ土(ところ)ナレバ、皆構(かまへ)タル事共有ラム。此(ここ)ヨリ行カムズルハ、旅ナレバ悪(あし)カリナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
勇猛果敢な武者になったつもりの若者らは既に聞く耳を持たない。さらに自ら進んで言い出したことだから周囲の制止を振り切る。なおのこと軽薄な僧は、「口聞(くちき)き」=「口利(くちき)き・利口(りこう)」な者で、要するに言葉巧みに煽り立てるものだからやんややんやと出かけて行ってしまった。
そうしているうちにも、出かけて行った者らの家族らは話が話だけに気がかりで仕方がなく、ずっと嘆いてばかりいるほかない。ところが、行ったからには帰ってくるはずなのにその日は帰って来なかった。翌日も帰って来ず、二、三日過ぎてなお帰ってこない。もう駄目だ、本当に駄目だと親類縁者は悲痛な思いに沈んだが、どうしようもない。何日かが過ぎたが出かけた者らの姿は見えない。またこちらから探しに出かけようという者さえ一人もいない。嘆き合っているうちにいつまで経っても若者らの姿を見かけることはなく、とうとう沙汰止みになった。里の人々は思った。出かけて行った者らは一人残らず皆殺しにされたに違いないと。
「而(しか)ル間、此ノ行タル者共ノ父母(ぶも)・類親(るいしん)共ハ、各(おのおの)不審(いぶかし)ガリ、歎キ合(あひ)タル事無限(かぎりな)シ。其レニ、其日モ不返(かへら)ズ、次ノ日モ不返ズ。二、三日不返(かへら)ザリケレバ、尋(たづね)ニ行カムト云フ者一人無クテ、歎キ合タリケル程ニ、遂ニ不見エデ止(やみ)ニケレバ、思フニ、行タル人、一人不残(のこさ)ズ皆被殺(ころされ)ニケルニコソハ有ラメ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
桃源郷伝説の典型例である。ヨーロッパではユートピアというけれども同じことだ。日本の場合、この種の類話に共通する文書には原典というべきものがあり、古代中国から輸入されたと思われる。内容はまったくといっていいほど甚だしい類似を示しており、もともとの作者は酒の詩歌で世界的に有名な陶淵明。こう詠じている。
「晉太元中、武陵人捕魚爲業。綠渓行、忘路之遠近。忽逢桃花林、夾岸数百歩、中無雑樹、芳華鮮美、落英繽粉。漁人甚異之。復前行、欲窮其林。
(書き下し)晋(しん)の太元中(たいげんちゅう)、武陵(ぶりょう)の人(ひと)、魚(うお)を捕(とら)うるを業(ぎょう)と為(な)す。渓(けい)に緑(そ)うて行(ゆ)き、路(みち)の遠近(えんきん)を忘(わす)る。忽(たちま)ち桃花(とうか)の林(はやし)に逢(あ)う、岸(きし)を夾(はさ)むこと数百歩(すうひゃくほ)、中(なか)に雑樹(ざつじゅ)無(な)く、芳華(ほうか)鮮美(せんび)にして、落英(らくえい)繽粉(ひんぷん)たり。漁人(ぎょじん)甚(はなは)だ之(こ)れを異(あや)しむ。復(ま)た前(すす)み行(ゆ)きて、其(そ)の林(はやし)を窮(きわ)めんと欲(ほっ)す。
(現代語訳)晋の太元年間、武陵に、魚取りを生業としている男がいた。ある日、谷川に沿って船をこいで行くうちに、どれくらい行ったか忘れたが、突然、一面に咲きそろった桃の林に出逢った。川を夾んだ両岸には数百歩のあいだ、桃以外の木は一本もなく、芳しい花が鮮かに咲き誇り、花びらをひらひらと舞い落ちるさまが実にみごとだった。漁師は甚だ不思議に思い、さらにさかのぼって、その林の奥まで見とどけようとした。
林盡水源、便得一山。山有小口、髣髴若有光。便捨從口入。初極狹、纔通人。復行数十歩、豁然開朗。土地平曠、屋舎儼然。有良田、美池、桑竹之屬。阡陌交通、雞犬相聞。其中往來種作、男女衣著、悉如外人。黄髪垂髫、並怡然自樂。
(書き下し)林(はやし)は水源(すいげん)に尽(つ)き、便(すなわ)ち一山(いちざん)を得(え)たり。山に小口(しょうこう)有(あ)り、髣髴(ほうふつ)として光(ひかり)有(あ)るが若(ごと)し。便(すなわ)ち船(ふね)を捨(す)てて口(くち)より入(い)る。初(はじめ)は極(きわ)めて狭(せま)く、纔(わず)かに人(ひと)を通(とお)すのみ、復(ま)た行(ゆ)くこと数十歩(すうじっぽ)、豁然(かつぜん)として開朗(かいろう)なり。土地(とち)は平曠(へいこう)にして、屋舎(おくしゃ)は儼然(げんぜん)たり。良田(りょうでん)、美池(びち)、桑竹(そうちく)の属(たぐい)有(あ)り。阡陌(せんぱく)交(まじわ)り通(つう)じ、鶏犬(けいけん)相聞(あいき)こゆ。其(そ)の中(なか)に往来(おうらい)し種作(しゅさく)する男女(だんじょ)の衣著(いちゃく)は、悉(ことごと)く外人(がいじん)の如(ごと)し。黄髪(こうはつ)・垂髫(すいちょう)、並(なら)びに怡然(いぜん)として自(みずか)ら楽(たの)しめり。
(現代語訳)林は水源のところで尽きて、そこに一つの山があった。その山に小さな口があって、何かしら光線が射しているようだ。そこで船から下りてその口にはいりこんだ。最初のうちはひどく狭くて、やっと人ひとり通り抜けられるくらいだった。さらに数十歩行くと、からりと開(ひら)けて、土地は広く平らに、立派な家屋が立ち並び、よい田畑、美しい池、桑や竹の類(たぐい)があった。道は縦横に通じ、ニワトリや犬の声が聞こえた。その中を行きかい、畑仕事をしている男女の服装は、どれもみな外国の人のようであるが、老人や子どもまでみなにこにこしていかにも楽しげである。
見漁人、乃大驚、問所從來。具答之。便要還家、爲設酒、殺雞作食。村中聞有此人、咸來問訊。自云、先世避秦時亂、率妻子邑人、來此絶境、不復出焉、遂與外人間隔。問今是何世、乃不知有漢、無論魏晉。此人一一爲具言所聞、皆歎捥。餘人各復延至其家、皆出酒食。停数日、辭去。此中人語云、不足爲外人道也。
(書き下し)漁人(ぎょじん)を見(み)て、乃(すなわ)ち大(おお)いに驚(おどろ)き、従(よ)って来(きた)る所(ところ)を問(と)う。具(つぶ)さに之(こ)れに答(こた)う。便(すなわ)ち要(むか)えて家(いえ)に還(かえ)り、為(ため)に酒(さけ)を儲(もう)け、鶏(とり)を殺(ころ)して食(しょく)を作(つく)る。村中(そんちゅう)、此(こ)の人(ひと)有(あ)るを聞(き)き、咸(みな)来(きた)りて問訊(もんじん)す。自(みずか)ら云(い)う、『先世(せんせい)、秦(しん)の時(とき)の乱(らん)を避(さ)け、妻子(さいし)・邑人(ゆうじん)を率(ひき)いて此(こ)の絶境(ぜっきょう)に来(きた)り、復(ま)た焉(ここ)より出(い)でず、遂(つい)に外人(がいじん)と間隔(かんかく)せり』と。『今(いま)は是(こ)れ何(なん)の世(よ)ぞ』と問(と)う。乃(すなわ)ち漢(かん)の有(あ)るをすら知(し)らず、魏(ぎ)・晋(しん)は論(い)うまでも無(な)し。此(こ)の人(ひと)、一一(いちいち)為(ため)に具(つぶ)さに聞(き)ける所(ところ)を言(い)うに、皆(みな)歎惋(たんわん)す。余人(よじん)、各々(おのおの)復(ま)た延(まね)きて其(そ)の家(いえ)に至(いた)らしめ、皆(みな)酒食(しゅし)を出(いだ)す。停(とど)まること数日(すうじつ)にして、辞(じ)し去(さ)る。此(こ)の中(なか)の人(ひと)語(つ)げて云(いわ)く、『外人(がいじん)の為(ため)に道(い)うに足(た)らざるなり』と。
(現代語訳)漁師を見ると、ひどく驚いて、どこから来たのかと聞いた。そこで詳しく話してきかせると、自分の家に連れ帰って、酒の支度をし鶏(とり)をしめて、ご馳走した。村の人々は、その男の来たことを聞き、みなやって来ていろいろ質問し、自分達でいうのだった。『わたしどもの先祖が秦の時の戦乱を避けるために妻子や村人を引き連れてこの人里離れた山奥に来て、もはや決してここを出ず、そのまま外界の人々と縁が切れてしまったのです』。そういってさらに、『今はどういう御代(みよ)ですか』とたずねた。なんと彼らは漢代にあったことすら知らなかったのだ。ましてや魏・晋はいうまでもない。漁師が一々自分の耳にした限りのことを詳しく話してやると、彼らはみな驚いて嘆息した。ほかの人々もまたそれぞれ自分の家に招待して、みな酒食を出した。かくて数日間この地に逗留して、暇を告げて去ったのだが、そのとき村の人々は告げていった。『外界(そと)の人に話すほどのことではありませんよ』。
既出、得其船、便扶向路、處處誌之。及郡下、詣太守說如此。太守即遣人随其往、尋向所誌、遂迷不復得路。
(書き下し)既(すで)にして出(い)づるや、其(そ)の船(ふね)を得(え)て、便(すなわ)ち向(さき)の路(みち)に扶(そ)い、処処(しょしょ)に之(こ)れを誌しる)す。郡下(ぐんか)に及び、太守(たいしゅ)に詣(いた)りて説(と)くこと此(かく)の如(ごと)し。太守(たいしゅ)即(すなわ)ち人(ひと)を遣(つかわ)して其(そ)の往(い)くに随(したが)い、向(さき)に誌(しる)せし所(ところ)を尋(たず)ねしむるも、遂(つい)に迷(まよ)いて復(ま)た路(みち)を得(え)ず。
(現代語訳)やがて例の口を出てくると、もとの船を見つけ、前に来た路をたどって、要所要所に目じるしをつけた。かくて郡の町に着くと、太守のところへ参ってかくかくしかじかと話をした。太守はさっそく人を派遣してその漁師について行かせ、前に付けた目じるしをたどって行ったが、ついに迷ってもはや路を見つけることができなかった。
南陽劉子驥、高尙士也。聞之、欣然規往、未果、尋病終。後遂無問津者。
(書き下し)南陽(なんよう)の劉子驥(りゅうしき)は、高尚(こうしょう)の士(し)なり。之(こ)れを聞(き)き、欣然(きんぜん)として往(ゆ)かんと規(はか)りしも、未(いま)だ果(はた)さざるに、尋(つ)いで病(や)みて終(おわ)りぬ。後(のち)遂(つい)に津(しん)を問(と)う者(もの)無(な)し。
(現代語訳)南陽郡の劉子驥(りゅうしき)先生は高潔な人物であった。この話を聞くと、喜び勇んでその秘境を探訪しようと計画を立てたが、まだ実現しないうちに、まもなく病気になって世を去った。その後ついにその地を訪れる人はなかったのである」(陶淵明「桃花源記」『陶淵明全集・下・P.152~157』岩波文庫)
さて。第一に見るべきは異郷訪問譚に属する、ということになるだろう。だが極めて重要なのは第二点目。僧による「契約違反」に注目したい。もし僧が口外無用の誓言を死ぬまで守り通していたら、里の若者らも無駄に消え失せてしまうことはけっしてなかった。そこで振り返ってみると里の年配者はきちんと警告している。「彼(か)レハ、我ガ土(ところ)ナレバ、皆構(かまへ)タル事共有ラム」と。あの世とこの世とは違っているというような中途半端なエピソードではない。この説話で書かれている内容はあくまでもこの世に存在する種々の事情についてだ。
里の年配者が言っていることは、あちらの国はあちらの領土であり、従ってあちらの国の法がありまた秩序があるということ。同時にこちらの国はこちらの領土であり、同じようにこちらの国の法と秩序とに従って共同体を営んでいるということ。だからこの世には様々な村落共同体があり、そのいずれもがそれぞれに異なった法と秩序とを尊重しつつ一つの生活様式を保存・維持しているのだという点に着目すべきだろうと考えられる。異なる秩序のもとで生活している異種の共同体同士の間では、むやみに互いの領土を侵害してはならない。もしその掟を破った場合、破った側が殺されることになるのが当たり前だった時代が古代には幾らもあった。そのような記憶について、日本では平安時代半ばになってなお、生々しく残っていたということが「今昔物語」という形式を取って保存されたと言える。
契約違反を犯したのは修行僧の側である。僧が元の里へ戻り約束を破るや否や僧の側に測り知れない債務が生じた。それがどれほどの量の債務なのかは誰にもわからない。しかし少なくとも再び出かけて行った連中が皆殺しに遭うか、少なくとも行方不明になるかしなくては許されない侵犯を犯したことは確実だと言えよう。この説話の場合、全員帰ってこないという状況に陥った限りで、かろうじて両者の債権・債務関係は均衡を取り戻す条件を得た。両者は別々の秩序のもとで生活様式を保つことができる。或る共同体と別の共同体とを区別しているものは何か。互いに秩序が異なるという事情がその条件をなしていなくてはならないのである。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、山岳修験に励む一人の僧が「大峰(おおみね)」(今の奈良県吉野郡大峰山系)を通過中、道に迷ってしまった。ともかく谷の奥の方角へ向かって歩き進めてみると不意に「大(おほき)ナル人郷(ひとざと)」へ出た。
「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこな)フ僧有ケリ。大峰(おほみね)ト云フ所ヲ通(とほり)ケル間ニ、道ヲ踏違(ふみたがへ)テ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ谷ノ方様(かたざま)ニ行(ゆき)ケル程ニ、大(おほき)ナル人郷(ひとざと)ニ出(いで)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.466」岩波書店)
迷子になってしまい通常のルートへ戻ろうと歩いているうちに突然「大(おほき)ナル人郷(ひとざと)」へ出るパターンは以前にも何度か取り上げた。巨大な滝の内側へ思い切って入ってみたところ「猿神(さるがみ)の郷(さと)」へ出たエピソードは極めて類似している。こうあった。
「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店)
人家も多く大層賑わっているのが特徴的。ところで大峰山系の説話では「酒泉郷」として描かれている。
「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)
ここまでは以前、何度か部分的に触れた。その先この僧はどうなったのか。縷々、見ていこう。
僧はまさか酒が湧き出ているとは思いも寄らなかったがゆえ、目の前の泉を見詰めてぼうっとしている。そのうち郷の人々が大勢集まってきて僧を取り囲み「何をしに来た、誰なのか」と詰問される。僧は大峰を通過中に道を間違えたらしくこの郷へ迷い込んだとありのままを語った。事情を聞いていた一人の郷人(さとびと)があゆみ出てきて「さあ、おいでなされ」と言うなり僧を掴んで引き連れて行こうとする。僧はいきなりのことで我を見失い、もしや殺されるのでは、とただならぬ恐怖を感じた。しかし抵抗できるような雰囲気ではない。
連れて行かれたのは郷の中でも巨大な屋敷。中から主人と思われる年配男性が出てきた。どのような方法でやって来たのかと尋ねられたのでさっきと同じことを説明した。主人は僧の説明を聞き終えると屋敷に僧を呼び入れて食事を振る舞った後、一人の若い男性を呼び出した。そしていう。「例ノ所ヘ将行(ゐてゆけ)」=「いつものところへ連れて行け」。すると若い男性は「片山(かたやま)・片岳(かたをか)」=「山の片側」へ僧を連れて行った。そこで若い男性はここへ連れてきた理由を述べる。「実をいえば、ここへ連れてきたのはそなたに死んでもらうためだ。これまでもこの郷にやって来た人々がいた。だが元の世界へ戻ってこの郷の様子を言いふらし、世間に知られてしまうのを厳重に警戒してきたがゆえ、必ず殺すことにしている。だから、ここにこのような郷があるとは誰一人として知らない」。
「実(まこと)ニハ、汝ヲ殺サムガ為ニ此(ここ)ヘハ将来(ゐてき)ツル也。前々(さきざき)モ、此様(かやう)ニシテ此(ここ)ニ来(き)ヌル人ヲバ、返(かへり)テ此(ここ)ノ有様ヲ語ラム事ヲ怖レテ、必(かならず)殺ス也。然レバ、此(ここ)ニ此(かか)ル郷有(あり)ト云フ事ヲバ、人努々(ゆめゆめ)不知(しら)ヌ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467~468」岩波書店)
聞かされた僧は怯えてすっかり茫然自失してしまった。そして泣き崩れながら僧を山の片側へ連れて来た若い男性にいう。「わたしは諸国を巡り歩きながら仏道に励んでいる修行者です。上下貴賤の区別なく人々に仏のご利益(りやく)を手向けようと思い、大峰を通り過ぎている間も菩提心を保ち粉骨砕身修行して歩くことこの上ない。ところが誤って道に迷ってしまい、思いがけずここにやって来てしまった。そして命を亡くそうとしている。もっとも、死はいずれ誰の身にも訪れる逃れることのできない定めであって、そのことには何の未練もない。ただ、そなたは修行に励んでいる僧が何か罪を犯したというわけでもないのに、わたしを殺してしまおうとなさる。それこそ仏の道に反する底知れぬ罪。従ってもし、私を助けて下さりはしまいか」。
「己レ、仏ノ道(みち)ヲ行(おこなひ)キ。諸(もろもろ)ノ人ヲ利益(りやく)セムト思テ、大峰ヲ通ル間(あひだ)、心ヲ発(おこ)シ、身ヲ砕(くだ)ク事無限(かぎりな)シ。其レニ、道ヲ踏違(ふみたが)ヘテ、思ヒ不懸(かけ)ズ此(ここ)ニ来テ、命ヲ亡(ほろぼ)シテムトス。死(し)ヌル道、遂ニ遁(のがる)ル所ニ非(あら)ズ。然レバ、其レヲ苦シムニハ非ズ。只其(そこ)ノ、仏ノ道ヲ行フ僧ノ咎(とが)無キヲ殺シ給テムト為(す)ルガ、無限(かぎりな)キ罪ニテ有レバ、若(も)シ助ケ給テムヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
若い男性はいう。「そなたの言うことはもっとも。お赦しするべきではあろう。とはいえ、万が一にもそなたが帰ってこの郷のことを一言でも口にするのを警戒しているのだ」。僧は答えていう。「わたしは元の世界に戻ってもこの郷について他人に語ることはけっしてございません。世に生きる人間にとって命以上に大切なものなどないでしょう。命だけでも助けてもらえる限り、御恩は生涯忘れようものか」。
「己レ、更(さら)ニ此ノ郷ノ有様ヲ、本(もと)ノ郷ニ返テ人ニ語リ不侍(はべら)ジ。世ニ有ル人、命ニ増ス物無ケレバ、命ヲダニ存(そんし)ナバ、何(いか)デカ其ノ恩ヲ忘レ申サムヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
すると若い男性は考えを変えたようだ。助けようという。「ただし、どこそこにこのようなところがあるということだけでも、口外なさるつもり一つないということであれば、殺されたように見せかけてこっそりお赦し申そう」。
「但シ、其々(そこそこ)ニ此(かか)ル所有(あり)ト云フ事ヲダニ語リ給(たまふ)マジクハ、殺(ころさる)ル様(やう)ニテ免(ゆる)シ申サム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
僧はそう聞いて様々な誓いの言葉を並べ立て、けっして他言しないと心底から約束したところ、若い男性はいった。「そういうことなら、けっして、けっしてですぞ」。と何度も繰り返し口外無用と厳しく念を押して返る道を教えて解放してくれた。僧はその男性に向かって礼拝し、来世に至ってなおこの御恩を忘れることはない旨を契(ちぎ)って、泣く泣く男性と別れ、教えられた通り道を歩いていくと元の普通の道に出た。
「僧、男ニ向(むかひ)テ礼拝シテ、後(のち)ノ世マデノ此ノ恩ヲ不忘(わする)マジキ由(よし)ヲ契(ちぎり)テ、泣々(なくな)ク別レテ、其ノ教ヘケル道ノママニ行ケレバ、例ノ道ニ出タリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.468」岩波書店)
ところで元の里へ戻った僧だが、実のところは、そもそも信用ならず、恩義も知らず、口の軽い軽薄そのものというべき性格だった。僧はまるで別世界のような郷へ行ってきたという話が一度に打ち広がってしまった。さらにその郷では天然自然に酒の湧き出る泉があるという。それを耳にした里の衆の中でも年若く腕っ節に自信のある五、六人の連中が興奮して名乗り出た。「そうと聞けば見ないという選択肢はもはやないだろう。鬼だったり神だったりするのならともかく、話の内容からして人間のようらしい。それならどれほど勇猛な者だったとしても人間以上ということはあるまい。さあ、行って見てみよう」。
「此許(かばかり)ノ事ヲ聞(きき)、何(い)カデカ不見(み)ヌ様(やう)ハ有ラム。鬼ニテモ神ニテモ有(あり)ナド聞カバコソ怖シカラメ、聞(きけ)バ人ニコソ有(あん)ナレ。其レハ、何(いか)ナル猛(たけ)キ者也ト云フトモ、思フニ然許(さばかり)コソハ有ラメ。去来(いざ)行テ見ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
腕自慢・力自慢の若者ら五、六人はそれぞれ弓矢を持ち刀などの武具を身に付け、もはや出かけるほかないと意気揚々。抑えきれない興奮のうちに盛り上がっている。その様子を見ながら里の年配者はいう。「無駄なことを。あちら側からすれば自分達の領土。当然あらゆる策を講じているに違いない。こちら側から出かけていくのは無謀であってけっして良くないだろうに」。
「此レ由(よし)無キ事也。彼(か)レハ、我ガ土(ところ)ナレバ、皆構(かまへ)タル事共有ラム。此(ここ)ヨリ行カムズルハ、旅ナレバ悪(あし)カリナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
勇猛果敢な武者になったつもりの若者らは既に聞く耳を持たない。さらに自ら進んで言い出したことだから周囲の制止を振り切る。なおのこと軽薄な僧は、「口聞(くちき)き」=「口利(くちき)き・利口(りこう)」な者で、要するに言葉巧みに煽り立てるものだからやんややんやと出かけて行ってしまった。
そうしているうちにも、出かけて行った者らの家族らは話が話だけに気がかりで仕方がなく、ずっと嘆いてばかりいるほかない。ところが、行ったからには帰ってくるはずなのにその日は帰って来なかった。翌日も帰って来ず、二、三日過ぎてなお帰ってこない。もう駄目だ、本当に駄目だと親類縁者は悲痛な思いに沈んだが、どうしようもない。何日かが過ぎたが出かけた者らの姿は見えない。またこちらから探しに出かけようという者さえ一人もいない。嘆き合っているうちにいつまで経っても若者らの姿を見かけることはなく、とうとう沙汰止みになった。里の人々は思った。出かけて行った者らは一人残らず皆殺しにされたに違いないと。
「而(しか)ル間、此ノ行タル者共ノ父母(ぶも)・類親(るいしん)共ハ、各(おのおの)不審(いぶかし)ガリ、歎キ合(あひ)タル事無限(かぎりな)シ。其レニ、其日モ不返(かへら)ズ、次ノ日モ不返ズ。二、三日不返(かへら)ザリケレバ、尋(たづね)ニ行カムト云フ者一人無クテ、歎キ合タリケル程ニ、遂ニ不見エデ止(やみ)ニケレバ、思フニ、行タル人、一人不残(のこさ)ズ皆被殺(ころされ)ニケルニコソハ有ラメ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.469」岩波書店)
桃源郷伝説の典型例である。ヨーロッパではユートピアというけれども同じことだ。日本の場合、この種の類話に共通する文書には原典というべきものがあり、古代中国から輸入されたと思われる。内容はまったくといっていいほど甚だしい類似を示しており、もともとの作者は酒の詩歌で世界的に有名な陶淵明。こう詠じている。
「晉太元中、武陵人捕魚爲業。綠渓行、忘路之遠近。忽逢桃花林、夾岸数百歩、中無雑樹、芳華鮮美、落英繽粉。漁人甚異之。復前行、欲窮其林。
(書き下し)晋(しん)の太元中(たいげんちゅう)、武陵(ぶりょう)の人(ひと)、魚(うお)を捕(とら)うるを業(ぎょう)と為(な)す。渓(けい)に緑(そ)うて行(ゆ)き、路(みち)の遠近(えんきん)を忘(わす)る。忽(たちま)ち桃花(とうか)の林(はやし)に逢(あ)う、岸(きし)を夾(はさ)むこと数百歩(すうひゃくほ)、中(なか)に雑樹(ざつじゅ)無(な)く、芳華(ほうか)鮮美(せんび)にして、落英(らくえい)繽粉(ひんぷん)たり。漁人(ぎょじん)甚(はなは)だ之(こ)れを異(あや)しむ。復(ま)た前(すす)み行(ゆ)きて、其(そ)の林(はやし)を窮(きわ)めんと欲(ほっ)す。
(現代語訳)晋の太元年間、武陵に、魚取りを生業としている男がいた。ある日、谷川に沿って船をこいで行くうちに、どれくらい行ったか忘れたが、突然、一面に咲きそろった桃の林に出逢った。川を夾んだ両岸には数百歩のあいだ、桃以外の木は一本もなく、芳しい花が鮮かに咲き誇り、花びらをひらひらと舞い落ちるさまが実にみごとだった。漁師は甚だ不思議に思い、さらにさかのぼって、その林の奥まで見とどけようとした。
林盡水源、便得一山。山有小口、髣髴若有光。便捨從口入。初極狹、纔通人。復行数十歩、豁然開朗。土地平曠、屋舎儼然。有良田、美池、桑竹之屬。阡陌交通、雞犬相聞。其中往來種作、男女衣著、悉如外人。黄髪垂髫、並怡然自樂。
(書き下し)林(はやし)は水源(すいげん)に尽(つ)き、便(すなわ)ち一山(いちざん)を得(え)たり。山に小口(しょうこう)有(あ)り、髣髴(ほうふつ)として光(ひかり)有(あ)るが若(ごと)し。便(すなわ)ち船(ふね)を捨(す)てて口(くち)より入(い)る。初(はじめ)は極(きわ)めて狭(せま)く、纔(わず)かに人(ひと)を通(とお)すのみ、復(ま)た行(ゆ)くこと数十歩(すうじっぽ)、豁然(かつぜん)として開朗(かいろう)なり。土地(とち)は平曠(へいこう)にして、屋舎(おくしゃ)は儼然(げんぜん)たり。良田(りょうでん)、美池(びち)、桑竹(そうちく)の属(たぐい)有(あ)り。阡陌(せんぱく)交(まじわ)り通(つう)じ、鶏犬(けいけん)相聞(あいき)こゆ。其(そ)の中(なか)に往来(おうらい)し種作(しゅさく)する男女(だんじょ)の衣著(いちゃく)は、悉(ことごと)く外人(がいじん)の如(ごと)し。黄髪(こうはつ)・垂髫(すいちょう)、並(なら)びに怡然(いぜん)として自(みずか)ら楽(たの)しめり。
(現代語訳)林は水源のところで尽きて、そこに一つの山があった。その山に小さな口があって、何かしら光線が射しているようだ。そこで船から下りてその口にはいりこんだ。最初のうちはひどく狭くて、やっと人ひとり通り抜けられるくらいだった。さらに数十歩行くと、からりと開(ひら)けて、土地は広く平らに、立派な家屋が立ち並び、よい田畑、美しい池、桑や竹の類(たぐい)があった。道は縦横に通じ、ニワトリや犬の声が聞こえた。その中を行きかい、畑仕事をしている男女の服装は、どれもみな外国の人のようであるが、老人や子どもまでみなにこにこしていかにも楽しげである。
見漁人、乃大驚、問所從來。具答之。便要還家、爲設酒、殺雞作食。村中聞有此人、咸來問訊。自云、先世避秦時亂、率妻子邑人、來此絶境、不復出焉、遂與外人間隔。問今是何世、乃不知有漢、無論魏晉。此人一一爲具言所聞、皆歎捥。餘人各復延至其家、皆出酒食。停数日、辭去。此中人語云、不足爲外人道也。
(書き下し)漁人(ぎょじん)を見(み)て、乃(すなわ)ち大(おお)いに驚(おどろ)き、従(よ)って来(きた)る所(ところ)を問(と)う。具(つぶ)さに之(こ)れに答(こた)う。便(すなわ)ち要(むか)えて家(いえ)に還(かえ)り、為(ため)に酒(さけ)を儲(もう)け、鶏(とり)を殺(ころ)して食(しょく)を作(つく)る。村中(そんちゅう)、此(こ)の人(ひと)有(あ)るを聞(き)き、咸(みな)来(きた)りて問訊(もんじん)す。自(みずか)ら云(い)う、『先世(せんせい)、秦(しん)の時(とき)の乱(らん)を避(さ)け、妻子(さいし)・邑人(ゆうじん)を率(ひき)いて此(こ)の絶境(ぜっきょう)に来(きた)り、復(ま)た焉(ここ)より出(い)でず、遂(つい)に外人(がいじん)と間隔(かんかく)せり』と。『今(いま)は是(こ)れ何(なん)の世(よ)ぞ』と問(と)う。乃(すなわ)ち漢(かん)の有(あ)るをすら知(し)らず、魏(ぎ)・晋(しん)は論(い)うまでも無(な)し。此(こ)の人(ひと)、一一(いちいち)為(ため)に具(つぶ)さに聞(き)ける所(ところ)を言(い)うに、皆(みな)歎惋(たんわん)す。余人(よじん)、各々(おのおの)復(ま)た延(まね)きて其(そ)の家(いえ)に至(いた)らしめ、皆(みな)酒食(しゅし)を出(いだ)す。停(とど)まること数日(すうじつ)にして、辞(じ)し去(さ)る。此(こ)の中(なか)の人(ひと)語(つ)げて云(いわ)く、『外人(がいじん)の為(ため)に道(い)うに足(た)らざるなり』と。
(現代語訳)漁師を見ると、ひどく驚いて、どこから来たのかと聞いた。そこで詳しく話してきかせると、自分の家に連れ帰って、酒の支度をし鶏(とり)をしめて、ご馳走した。村の人々は、その男の来たことを聞き、みなやって来ていろいろ質問し、自分達でいうのだった。『わたしどもの先祖が秦の時の戦乱を避けるために妻子や村人を引き連れてこの人里離れた山奥に来て、もはや決してここを出ず、そのまま外界の人々と縁が切れてしまったのです』。そういってさらに、『今はどういう御代(みよ)ですか』とたずねた。なんと彼らは漢代にあったことすら知らなかったのだ。ましてや魏・晋はいうまでもない。漁師が一々自分の耳にした限りのことを詳しく話してやると、彼らはみな驚いて嘆息した。ほかの人々もまたそれぞれ自分の家に招待して、みな酒食を出した。かくて数日間この地に逗留して、暇を告げて去ったのだが、そのとき村の人々は告げていった。『外界(そと)の人に話すほどのことではありませんよ』。
既出、得其船、便扶向路、處處誌之。及郡下、詣太守說如此。太守即遣人随其往、尋向所誌、遂迷不復得路。
(書き下し)既(すで)にして出(い)づるや、其(そ)の船(ふね)を得(え)て、便(すなわ)ち向(さき)の路(みち)に扶(そ)い、処処(しょしょ)に之(こ)れを誌しる)す。郡下(ぐんか)に及び、太守(たいしゅ)に詣(いた)りて説(と)くこと此(かく)の如(ごと)し。太守(たいしゅ)即(すなわ)ち人(ひと)を遣(つかわ)して其(そ)の往(い)くに随(したが)い、向(さき)に誌(しる)せし所(ところ)を尋(たず)ねしむるも、遂(つい)に迷(まよ)いて復(ま)た路(みち)を得(え)ず。
(現代語訳)やがて例の口を出てくると、もとの船を見つけ、前に来た路をたどって、要所要所に目じるしをつけた。かくて郡の町に着くと、太守のところへ参ってかくかくしかじかと話をした。太守はさっそく人を派遣してその漁師について行かせ、前に付けた目じるしをたどって行ったが、ついに迷ってもはや路を見つけることができなかった。
南陽劉子驥、高尙士也。聞之、欣然規往、未果、尋病終。後遂無問津者。
(書き下し)南陽(なんよう)の劉子驥(りゅうしき)は、高尚(こうしょう)の士(し)なり。之(こ)れを聞(き)き、欣然(きんぜん)として往(ゆ)かんと規(はか)りしも、未(いま)だ果(はた)さざるに、尋(つ)いで病(や)みて終(おわ)りぬ。後(のち)遂(つい)に津(しん)を問(と)う者(もの)無(な)し。
(現代語訳)南陽郡の劉子驥(りゅうしき)先生は高潔な人物であった。この話を聞くと、喜び勇んでその秘境を探訪しようと計画を立てたが、まだ実現しないうちに、まもなく病気になって世を去った。その後ついにその地を訪れる人はなかったのである」(陶淵明「桃花源記」『陶淵明全集・下・P.152~157』岩波文庫)
さて。第一に見るべきは異郷訪問譚に属する、ということになるだろう。だが極めて重要なのは第二点目。僧による「契約違反」に注目したい。もし僧が口外無用の誓言を死ぬまで守り通していたら、里の若者らも無駄に消え失せてしまうことはけっしてなかった。そこで振り返ってみると里の年配者はきちんと警告している。「彼(か)レハ、我ガ土(ところ)ナレバ、皆構(かまへ)タル事共有ラム」と。あの世とこの世とは違っているというような中途半端なエピソードではない。この説話で書かれている内容はあくまでもこの世に存在する種々の事情についてだ。
里の年配者が言っていることは、あちらの国はあちらの領土であり、従ってあちらの国の法がありまた秩序があるということ。同時にこちらの国はこちらの領土であり、同じようにこちらの国の法と秩序とに従って共同体を営んでいるということ。だからこの世には様々な村落共同体があり、そのいずれもがそれぞれに異なった法と秩序とを尊重しつつ一つの生活様式を保存・維持しているのだという点に着目すべきだろうと考えられる。異なる秩序のもとで生活している異種の共同体同士の間では、むやみに互いの領土を侵害してはならない。もしその掟を破った場合、破った側が殺されることになるのが当たり前だった時代が古代には幾らもあった。そのような記憶について、日本では平安時代半ばになってなお、生々しく残っていたということが「今昔物語」という形式を取って保存されたと言える。
契約違反を犯したのは修行僧の側である。僧が元の里へ戻り約束を破るや否や僧の側に測り知れない債務が生じた。それがどれほどの量の債務なのかは誰にもわからない。しかし少なくとも再び出かけて行った連中が皆殺しに遭うか、少なくとも行方不明になるかしなくては許されない侵犯を犯したことは確実だと言えよう。この説話の場合、全員帰ってこないという状況に陥った限りで、かろうじて両者の債権・債務関係は均衡を取り戻す条件を得た。両者は別々の秩序のもとで生活様式を保つことができる。或る共同体と別の共同体とを区別しているものは何か。互いに秩序が異なるという事情がその条件をなしていなくてはならないのである。
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