前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
文徳天皇の死に伴いその陵墓の地を占定するため、大納言を務めていた安倍安仁(あべのやすひと)がその任務を引き受けることになった。「占定」の「占」は文字通り「占い」のこと。安倍安仁は当時、「世(よ)に並無(ならびな)き者」と称される「慈岳(しげおか)の川人(かわひと)」という有名な陰陽師を連れて出かけた。占定を終えての帰路、深草(ふかくさ)の北の辺りを通り過ぎていた時、川人が急に安仁のそばに馬を近づけて囁いた。「深草(ふかくさ)」は今の京都市右京区嵯峨大覚寺門前八軒町(はちけんちょう)付近。
数年来、曲がりなりにも陰陽道に携わり続け、公私ともに自分の役割を果たしてきた。そしてこれまで一度も失敗したことはなかった。ところがどうも、今回は何か大きな過ちを犯してしまったようです。「地神(つちのかみ)」に追いかけられています。なお、「地神(つちのかみ)」は「土公(どこう)・土公神(どこうしん)」ともいい、土の神のこと。季節によって居場所が移る。春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭。だから移動先の方角・場所次第で、その時期そこでの土木建設工事はタブーとされた。さて、川人がいうには、この辺りの地神(つちのかみ)を怒らせてしまったのは川人と安仁の二人。この点、責任者が真っ先に狙われるのは今も昔も変わらない。川人は安仁に「どうなされます?逃れるのは非常に困難かと」と尋ねてみた。安仁は大納言、今で言う内閣大臣クラスであり政府機関の公人。陰陽道のことはほとんど何一つ知らない。慌てるばかり。
「年来(としごろ)墓々(はかばか)しくは非(あらね)ども、此道に携(さずさわ)り仕(つかまつ)り、私(わたくし)を顧(かえりみ)つるに、未(いま)だ誤(あやま)つ事無かりつ。而(しか)るに、此(こ)の度(たび)大きに過候(あやまちさぶらい)にけり。此に地神(つちのかみ)追て来にたる也。其(それ)は、貴殿と川人とこそ此(この)罪をば負(おい)つらめ。此は何(いか)が為(せ)させ給はむと為(す)る。難遁(のがれがた)き事にこそ侍(はべり)ぬれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.280」岩波文庫)
そのうち日が暮れてきた。暗がりにまぎれて二人は馬を降りた。川人は安仁を田んぼの中に座らせ、刈り取られて周囲に置かれている稲を取り集め、安仁の上にどっさり積み上げて隠した。川人は呪文を唱えながらその周りを何度か繰り返して歩いた。そして川人も稲を積み上げて安仁を隠した中に一緒に入った。安仁は信頼している川人がおびえて震えているのを見て、生きた心地がしない。
「大納言、川人が気色極(きわめ)て騒(さわぎ)てわななき篩(ふる)えを見るに、半(なから)は死ぬる心地す」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.280~281」岩波文庫)
二人が息を殺してじっとしていると、千万人はいようかと思われる大群がすぐそばを通り過ぎる音を聞いた。その声は人の声に似てはいるのだが人のものでないのがわかる。謎の大群の主と思われる者の声が響いた。「あいつら、ここらへんで馬を降りたようだ。馬の足音が軽くなったからな。隠れたか。なら、隠れる隙間もないほど土を50センチほど掘り返して探し出すべし。川人は遠い昔の名だたる陰陽師に勝るとも劣らない手腕の持ち主。少しくらいの探索では見つけることができないように策を講じているはず。とはいえ、あいつを見失うものか。慎重に周囲を漁って探し出せ」。
「此者は此程にこそ馬の足音は軽く成つれ。然れば、此の辺(ほとり)を集ふ隙無(ひまな)く土一、二尺が程を堀てあさり可求(もとむべ)き也。然りとも否遁(えのが)れ不畢(はて)じ。川人は古(いにしえ)の陰陽師に劣(おとら)ぬ奴なれば、おぼろけにて否不見(えみえぬ)ままにて様構(かま)へたる。然(さ)りとも、奴をば失(うしない)てむや。吉くあされ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.281」岩波文庫)
しかし地神(つちのかみ)の部下らがどれほど探してみても安仁と川人の姿は見当たらない。大群の主はいう。「そうか。しかしよもや隠れきることはできまい。必ず出会わずにはおれないだろう。今年の大晦日(おおみそか)の夜中には世界の隅から隅まで一切見逃すことなく草の根分けても漁り出すべし。どこにどのようにして隠れることができようか。次は大晦日に全員集い合うべし。その時こそあいつの最後だ」。
「然りとも否(え)隠れ不畢(はて)じ。今日こそ隠るとも遂には其の奴原(やつばら)に不会様(あわぬよう)は有なむや。今来らむ十二月晦(つごもり)の夜半に、一天下(いつてんが)の下(もと)、土の下、上は空、目の懸(かか)らむを際(かぎり)として求めよ。其奴原(そやつばら)何にか隠れむ。然れば、其夜可集(つどうべ)き也。然てあさり出(いだ)さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.281~282」岩波文庫)
そう言い残して一旦地神(つちのかみ)の一群は引き上げていった。声を聞いていた安仁は怯えきって川人の言葉を待っている。川人はいう。「そういうことであれば、大晦日の夜、まったく誰にも知られずに私たち二人だけで隠れるのが賢明でありましょう。その日が近づけば私から連絡申し上げます」。
「此(かく)聞つれば、其夜、露(つゆ)人に不被知(しられず)して、只二人極(いみじ)く隠れ可給(たまうべ)き也。其時近く成て委(くわし)くは申し侍(はべ)らむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
そして大晦日がやって来た。川人は安仁のもとへ参上していう。「けっして誰にも知られないよう、一人だけで二条と西の大宮との辻へ来て下さい。日暮れ時に」。
「露(つゆ)人知る事無くて、只一人、二条と西の大宮との辻に、暗く成らむ程に御座会(おわしましあ)へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
「二条と西の大宮との辻」は大内裏の南西角に当たる道の交差点。今の京都市中京区二条通と御前通との交差点付近。夕方頃、安仁が「二条と西の大宮との辻」へ赴くと、川人は前もってそこに立って待っていた。二人はそこで落ち合い、連れ立って嵯峨寺(さがでら)へ向かった。なお「嵯峨寺(さがでら)」は今の京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町「清涼寺(せいりょうじ)」だろうと考えられている。最初に川人が「地神(つちのかみ)」の怒りに触れたと不吉を感じた「深草(ふかくさ)」(嵯峨大覚寺門前八軒町付近)とは1キロ程度の距離。嵯峨寺へ着くと二人はお堂の天井の上にのぼり、川人は呪文を、安仁は陀羅尼を懸命に唱えた。
「川人兼(かね)て其(そこ)に待立(まちたち)ければ、二人打具して嵯峨寺(さがでら)へ行ぬ。堂の天井の上に掻上(かきのぼり)て、川人は呪(しゆ)を誦し、大納言は三満(さんみつ)を唱へて居たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
そのうち真夜中になった。すると不気味な異臭が辺りに漂い始め、さらに生あたたかい風がふうっと吹き寄せ出した。二人が異様な気配を感じていると突然地震のように建物が揺れた。「あわわ」と怖がってしまったが、しばらくするとようやく暁の鶏が鳴いた。妖魔の出現する時間帯は去った。見つからずに済んだようだ。そこで二人は嵯峨寺の天井から降りて、夜がすっかり明けてしまう前にそれぞれ自宅へ返った。
「而る間、夜半許(ばかり)に成る程に、気色悪(あし)くて異(ことな)る香(か)有る風の温(あたた)かなる吹(ふき)て渡る。其程(そのほど)地震(ない)の振る様に少許(すこし)許(ばかり)動(とどろかし)て過ぬれば、『怖し』と思て過ぬれば、鳥鳴(なき)ぬれば、掻下(かきおり)て、未だ不明(あけぬ)程に各(おのおの)家に返ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.283」岩波文庫)
さて。川人は「地神に見える姿・川人」から「地神に見えない姿・川人」へ転化した。そして「地神に見えない姿・川人」から「地神に見える姿・川人」へと再転化した。一方、地神(つちのかみ)の姿は始めから最後まで見えない。ただ人に似てはいるが人のものではない声だけが耳に聞こえる形で出現している。また川人自身でさえ、地神(つちのかみ)の姿はその破壊的力が追いかけてくるという形でのみ感じられるといった出現方法を取っている。川人はGからG’へと転化し、そして再びG’からGへと再転化を遂げた。川人は《或る力の強度として》、見える形態から見えない形態へ変化し、再び見える形態へと舞い戻った。
一方、地神(つちのかみ)は《或る力の強度として》は川人と同じだが、破壊的力として急速に追いかけてきたり、あるいは声だけを轟かせてみたりしており、これもまた諸商品の無限の系列としてどんどん姿形を置き換えている。従ってこの説話では二種類の妖怪〔鬼・ものの怪〕が登場していることになる。ただ、川人は地神(つちのかみ)と比較して立場上、朝廷に近い。そのことが川人を有利な位置に置いている。ところが地神がいつも必ず川人に劣るという証拠は何ら提示されていない点に注意を要する。説話にあるように川人の場合、歴史に名を残すような有力な陰陽師だったがゆえに、この時は地神に見つからずに済むことができた。もし見つかっていたら間違いなく殺されていたに違いない。だから説話にあるのはいずれも常人離れした力を持つ二種類の妖怪〔鬼・ものの怪〕同士の闘争だと言える。いずれの貨幣が有利か。ドルなのか、円なのか、それとも元なのか。選択肢は平安時代半ば頃すでにあちらこちらへと揺れ、変動し出していたのである。
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文徳天皇の死に伴いその陵墓の地を占定するため、大納言を務めていた安倍安仁(あべのやすひと)がその任務を引き受けることになった。「占定」の「占」は文字通り「占い」のこと。安倍安仁は当時、「世(よ)に並無(ならびな)き者」と称される「慈岳(しげおか)の川人(かわひと)」という有名な陰陽師を連れて出かけた。占定を終えての帰路、深草(ふかくさ)の北の辺りを通り過ぎていた時、川人が急に安仁のそばに馬を近づけて囁いた。「深草(ふかくさ)」は今の京都市右京区嵯峨大覚寺門前八軒町(はちけんちょう)付近。
数年来、曲がりなりにも陰陽道に携わり続け、公私ともに自分の役割を果たしてきた。そしてこれまで一度も失敗したことはなかった。ところがどうも、今回は何か大きな過ちを犯してしまったようです。「地神(つちのかみ)」に追いかけられています。なお、「地神(つちのかみ)」は「土公(どこう)・土公神(どこうしん)」ともいい、土の神のこと。季節によって居場所が移る。春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭。だから移動先の方角・場所次第で、その時期そこでの土木建設工事はタブーとされた。さて、川人がいうには、この辺りの地神(つちのかみ)を怒らせてしまったのは川人と安仁の二人。この点、責任者が真っ先に狙われるのは今も昔も変わらない。川人は安仁に「どうなされます?逃れるのは非常に困難かと」と尋ねてみた。安仁は大納言、今で言う内閣大臣クラスであり政府機関の公人。陰陽道のことはほとんど何一つ知らない。慌てるばかり。
「年来(としごろ)墓々(はかばか)しくは非(あらね)ども、此道に携(さずさわ)り仕(つかまつ)り、私(わたくし)を顧(かえりみ)つるに、未(いま)だ誤(あやま)つ事無かりつ。而(しか)るに、此(こ)の度(たび)大きに過候(あやまちさぶらい)にけり。此に地神(つちのかみ)追て来にたる也。其(それ)は、貴殿と川人とこそ此(この)罪をば負(おい)つらめ。此は何(いか)が為(せ)させ給はむと為(す)る。難遁(のがれがた)き事にこそ侍(はべり)ぬれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.280」岩波文庫)
そのうち日が暮れてきた。暗がりにまぎれて二人は馬を降りた。川人は安仁を田んぼの中に座らせ、刈り取られて周囲に置かれている稲を取り集め、安仁の上にどっさり積み上げて隠した。川人は呪文を唱えながらその周りを何度か繰り返して歩いた。そして川人も稲を積み上げて安仁を隠した中に一緒に入った。安仁は信頼している川人がおびえて震えているのを見て、生きた心地がしない。
「大納言、川人が気色極(きわめ)て騒(さわぎ)てわななき篩(ふる)えを見るに、半(なから)は死ぬる心地す」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.280~281」岩波文庫)
二人が息を殺してじっとしていると、千万人はいようかと思われる大群がすぐそばを通り過ぎる音を聞いた。その声は人の声に似てはいるのだが人のものでないのがわかる。謎の大群の主と思われる者の声が響いた。「あいつら、ここらへんで馬を降りたようだ。馬の足音が軽くなったからな。隠れたか。なら、隠れる隙間もないほど土を50センチほど掘り返して探し出すべし。川人は遠い昔の名だたる陰陽師に勝るとも劣らない手腕の持ち主。少しくらいの探索では見つけることができないように策を講じているはず。とはいえ、あいつを見失うものか。慎重に周囲を漁って探し出せ」。
「此者は此程にこそ馬の足音は軽く成つれ。然れば、此の辺(ほとり)を集ふ隙無(ひまな)く土一、二尺が程を堀てあさり可求(もとむべ)き也。然りとも否遁(えのが)れ不畢(はて)じ。川人は古(いにしえ)の陰陽師に劣(おとら)ぬ奴なれば、おぼろけにて否不見(えみえぬ)ままにて様構(かま)へたる。然(さ)りとも、奴をば失(うしない)てむや。吉くあされ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.281」岩波文庫)
しかし地神(つちのかみ)の部下らがどれほど探してみても安仁と川人の姿は見当たらない。大群の主はいう。「そうか。しかしよもや隠れきることはできまい。必ず出会わずにはおれないだろう。今年の大晦日(おおみそか)の夜中には世界の隅から隅まで一切見逃すことなく草の根分けても漁り出すべし。どこにどのようにして隠れることができようか。次は大晦日に全員集い合うべし。その時こそあいつの最後だ」。
「然りとも否(え)隠れ不畢(はて)じ。今日こそ隠るとも遂には其の奴原(やつばら)に不会様(あわぬよう)は有なむや。今来らむ十二月晦(つごもり)の夜半に、一天下(いつてんが)の下(もと)、土の下、上は空、目の懸(かか)らむを際(かぎり)として求めよ。其奴原(そやつばら)何にか隠れむ。然れば、其夜可集(つどうべ)き也。然てあさり出(いだ)さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.281~282」岩波文庫)
そう言い残して一旦地神(つちのかみ)の一群は引き上げていった。声を聞いていた安仁は怯えきって川人の言葉を待っている。川人はいう。「そういうことであれば、大晦日の夜、まったく誰にも知られずに私たち二人だけで隠れるのが賢明でありましょう。その日が近づけば私から連絡申し上げます」。
「此(かく)聞つれば、其夜、露(つゆ)人に不被知(しられず)して、只二人極(いみじ)く隠れ可給(たまうべ)き也。其時近く成て委(くわし)くは申し侍(はべ)らむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
そして大晦日がやって来た。川人は安仁のもとへ参上していう。「けっして誰にも知られないよう、一人だけで二条と西の大宮との辻へ来て下さい。日暮れ時に」。
「露(つゆ)人知る事無くて、只一人、二条と西の大宮との辻に、暗く成らむ程に御座会(おわしましあ)へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
「二条と西の大宮との辻」は大内裏の南西角に当たる道の交差点。今の京都市中京区二条通と御前通との交差点付近。夕方頃、安仁が「二条と西の大宮との辻」へ赴くと、川人は前もってそこに立って待っていた。二人はそこで落ち合い、連れ立って嵯峨寺(さがでら)へ向かった。なお「嵯峨寺(さがでら)」は今の京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町「清涼寺(せいりょうじ)」だろうと考えられている。最初に川人が「地神(つちのかみ)」の怒りに触れたと不吉を感じた「深草(ふかくさ)」(嵯峨大覚寺門前八軒町付近)とは1キロ程度の距離。嵯峨寺へ着くと二人はお堂の天井の上にのぼり、川人は呪文を、安仁は陀羅尼を懸命に唱えた。
「川人兼(かね)て其(そこ)に待立(まちたち)ければ、二人打具して嵯峨寺(さがでら)へ行ぬ。堂の天井の上に掻上(かきのぼり)て、川人は呪(しゆ)を誦し、大納言は三満(さんみつ)を唱へて居たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.282」岩波文庫)
そのうち真夜中になった。すると不気味な異臭が辺りに漂い始め、さらに生あたたかい風がふうっと吹き寄せ出した。二人が異様な気配を感じていると突然地震のように建物が揺れた。「あわわ」と怖がってしまったが、しばらくするとようやく暁の鶏が鳴いた。妖魔の出現する時間帯は去った。見つからずに済んだようだ。そこで二人は嵯峨寺の天井から降りて、夜がすっかり明けてしまう前にそれぞれ自宅へ返った。
「而る間、夜半許(ばかり)に成る程に、気色悪(あし)くて異(ことな)る香(か)有る風の温(あたた)かなる吹(ふき)て渡る。其程(そのほど)地震(ない)の振る様に少許(すこし)許(ばかり)動(とどろかし)て過ぬれば、『怖し』と思て過ぬれば、鳥鳴(なき)ぬれば、掻下(かきおり)て、未だ不明(あけぬ)程に各(おのおの)家に返ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第十三・P.283」岩波文庫)
さて。川人は「地神に見える姿・川人」から「地神に見えない姿・川人」へ転化した。そして「地神に見えない姿・川人」から「地神に見える姿・川人」へと再転化した。一方、地神(つちのかみ)の姿は始めから最後まで見えない。ただ人に似てはいるが人のものではない声だけが耳に聞こえる形で出現している。また川人自身でさえ、地神(つちのかみ)の姿はその破壊的力が追いかけてくるという形でのみ感じられるといった出現方法を取っている。川人はGからG’へと転化し、そして再びG’からGへと再転化を遂げた。川人は《或る力の強度として》、見える形態から見えない形態へ変化し、再び見える形態へと舞い戻った。
一方、地神(つちのかみ)は《或る力の強度として》は川人と同じだが、破壊的力として急速に追いかけてきたり、あるいは声だけを轟かせてみたりしており、これもまた諸商品の無限の系列としてどんどん姿形を置き換えている。従ってこの説話では二種類の妖怪〔鬼・ものの怪〕が登場していることになる。ただ、川人は地神(つちのかみ)と比較して立場上、朝廷に近い。そのことが川人を有利な位置に置いている。ところが地神がいつも必ず川人に劣るという証拠は何ら提示されていない点に注意を要する。説話にあるように川人の場合、歴史に名を残すような有力な陰陽師だったがゆえに、この時は地神に見つからずに済むことができた。もし見つかっていたら間違いなく殺されていたに違いない。だから説話にあるのはいずれも常人離れした力を持つ二種類の妖怪〔鬼・ものの怪〕同士の闘争だと言える。いずれの貨幣が有利か。ドルなのか、円なのか、それとも元なのか。選択肢は平安時代半ば頃すでにあちらこちらへと揺れ、変動し出していたのである。
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