白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/消える男根の謎

2021年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

貞観十八年(八七六年)〜元慶八年(八八四年)。陽成院(ようぜいいん)が天皇だった頃。宮中警護に当たる滝口に「道範(みちのり)」という侍がいた。「陸奥国(みちのくのくに)」(今の青森県・岩手県・宮城県・福島県)で産する金を京へ運搬する使者に指名され、従者たちとともに出かけた。途中、信濃国(しなののくに)(今の長野県)で宿泊することになった。その郡司(こおりのつかさ)の屋敷が宿舎である。盛大な歓待を受けた後、郡司は従者らを引き連れて家を引き上げた。

慣れない旅宿(たびのやどり)で寝付けない道範は、寝所からこっそり起き出して屋敷の中をぶらぶら見物しているうち、郡司の妻の部屋を覗いてみた。屏風や几帳などが立て並べてあり畳は清潔で二段構えの棚などもセンス良くしつらえられている。馥郁として漂ってくる薫香の香が心にくい。よく見ると郡司の妻は二十歳代半ば。うるわしげな髪にほっそりした肢体、額の格好もいい感じで、どこといって汚点一つ見当たらない。とても魅力的だ。

「吉(よ)く臨(のぞ)けば、年二十余許(ばかり)の女、頭(かしら)つき姿細(ほそ)やかにて、額(ひたい)つき吉(よ)く、有様此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無し。微妙(めでた)くて臥(ふし)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.162」岩波文庫)

道範はこれを見過ごして通り過ぎるなど、それはないでしょうと辺りの気配を伺うと咎める人はいそうにない。遣戸(やりど)をそっと開いて部屋の中に入った。とても親切な郡司の妻に心ない仕打ちを仕掛けるのは気が咎めなくはないけれども、女性の姿形を見ていると込み上げてくる思いは抑えがたく、そばに近づいてしまった。

「極(きわめ)て懃(ねんごろ)に当(あたり)つる郡司(こおりのつかさ)の妻(め)を、後目無(うしろめたな)き心を仕(つか)わむが糸惜(いとおし)けれども、女の有様を見るに、思ひ難忍(しのびがた)くて寄(よる)也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.162~163」岩波文庫)

女性のすぐ横に添い臥してみると特に驚いた様子を見せない。さらに近寄り、もうこれ以上ないほど近くで顔を覗き込む道範。季節は夏の終わり頃なのでまだ残暑。女性の衣裳は上が薄紫色の衣を一枚、下は紅(くれない)の袴を付けただけ。馥(こうば)しい香料の香りが部屋の家具などにも降りまわれていて鼻をくすぐってくる。

道範はもう我慢できず自分の衣を脱ぎ捨て女性の衣服と胸の間に手を差し入れた。しばらくは着物を引き上げて拒むかのふりを見せていたが、ひどく嫌がることもなく、道範は手を胸の谷間に這わせた。

「道範我が衣をば脱棄(ぬぎすて)て、女の懐(ふところ)に入る。暫(しばし)は引塞(ひきふさ)ぐ様に為(す)れども、気悪(けあし)くも辞(いな)ぶ事無ければ、懐に入ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163」岩波文庫)

道範はむずむずしてきた「摩羅(まら)」=男根を手でしゃくり出そうとする。と、陰毛ばかりはあるのだが、男根が消え失せている。そんなはずはないだろう。びっくりしてよくよく男根を探ってみた。にもかかわらず、あたかも頭髪を掻き回すばかりのようで男根それ自体は跡形もなく消え失せてすっかり無い。仰天した道範は女性の美貌のことなどまるで忘れてしまい驚くばかり。女性は道範が慌てふためいて自分の男根を探しまくっている姿を見つつ、ふふっと笑みを浮かべた。

「其程に、男の摩羅(まら)を痒(かゆ)がる様にすれば、掻捜(かきさぐり)たるに、毛許(ばかり)有て、摩羅(まら)失(うせ)にたり。驚き怪(あやし)くて、強(あながち)に捜(さぐる)と云へども、惣(すべて)頭(かしら)の髪を捜(さぐ)るが如(ごとく)にて、露(つゆ)跡だに無し。大(おおき)に驚(おどろき)て、女の微妙(めでた)かりつる事も忘れぬ。女、男の此(か)く捜迷(さぐりまどい)て怪(あやし)びたる気色を見て、少し頬咲(ほほえみ)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163」岩波文庫)

腑に落ちない道範はこっそり起き上がり他人に気づかれないよう自分の寝所へ戻った。そして部屋でもう一度確かめてみる。しかし無い。消え失せている。奇怪に思った道範は常から使っている部下を呼んで言った。「あの部屋にとても魅力的な女性が寝ている。俺は行ってきたよ。何かいいことがあるかもな。そなたもどうか」。

「彼(かしこ)に微妙(めでた)き女なむ有る。我も行(ゆき)たりつるを。何事か有らむ、汝(なんじ)を行(ゆけ)」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163~164」岩波文庫)

しばらくすると部下が返ってきた。腑に落ちない顔をしている。道範は「こいつも同じ目にあったな」と思い、さらに他の部下を呼んで同じように教えた。これまた不審気な様子で戻ってきた。合計七、八人の部下に同じことをやらせてみたが、どの部下も一様に不可解な顔で戻ってくる。なかには天を仰いで呆然としている者もいる。夜のうちに道範は考え直てみた。するとどうも昨夕の歓迎の豪華さが気にかかる。不審な思いに駆られた道範は夜明けを待ってすぐに郡司(こおりのつかさ)の屋敷を出発し、既に800メートルほど進んだだろうか。後ろから郡司の従者が馬に乗って声を上げて追いかけてきた。昨夜食事を運んでくれていた郎等である。白い紙に包んだ何かを捧げ持っている。追いつくと説明し始めた。

「これは我が郡司が<差し上げよ>とおっしゃられて持って参ったものです。なぜこのような物を棄てたまま出発なさるのか。いつものように朝食の準備をしておりましたのに、急いでいらっしゃるようで、これさえ落とし忘れておられる。なので拾い集めて差し上げに参った次第です」。中を開けてみると松茸(まつたけ)を包み集めような格好で九本の男根が並んでいる。

「『此は郡司(こおりのつかさ)の<奉(たてまつれ)>と候(さぶら)ひつる物也。此(かか)る物をば何(いか)で棄(すて)ては御(おわし)ましぬるぞ。形(かた)の如く今朝の御儲(もうけ)など営(いとなみ)て候(さぶら)ひつれども、急(いそ)がせ給(たまい)ける程に、此(こ)れをさへ落させ給(たまい)てけり。然(さ)れば拾ひ集(あつめ)て奉(たてまつ)る也』と云て取すれば、『何ぞ』と思て開(ひらき)て見(みれ)ば、松茸(まつたけ)を裹集(つつみあつめ)たる如(ごとく)にして、男の摩羅(まら)九つ有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.164~165」岩波文庫)

昨夜、郡司の妻の部屋へ忍び込んだのは道範を入れて計九人。包み紙を開いて見ると男根が九本。郡司の従者はその包みを手渡すとすぐに帰って行った。同時に、包みに集め並べられていた九本の男根が目の前からふいに消え失せた。何がなんだか理解できないうちにそれぞれ自分の股間を探ってみると男根が元通りの位置に戻っている。不可解に思いながらも道範一行は京からの使者として果たすべき職務がある。信濃国からさらに陸奥国へ進めて陸奥産の金を受け取ると、再び信濃国の宿舎になっている郡司の屋敷へ戻ってきた。郡司には馬・絹など様々な褒美を取らせる。そこで「言いにくいことだが」と例の一件について説明してほしいと言った。郡司は大量の贈り物を頂戴したことで隠すことはないと考え、次のように述べた。

私が若かった頃、信濃国のここからもっと奥(おく)の郡(こおり)の郡司(こおりのつかさ)を務める老人がおりました。その郡司には若い妻がいて、私がこっそり忍び寄って夜を共にしようとすると急に男根が消え失せた。何と奇妙なと感慨に打たれ、その郡司に是非ともと頼み込んでその術を習得したのです。そなたもこの術を習いたいというお気持ちがおありでしたら、速やかに京へ上り、今度は「公物(くもつ)」=「黄金」をたっぷり贈り物とされ、もう一度こちらへおいで下さい。そして清浄な気持ちで習われるがよいでしょう。

「其れは若く侍(はべり)し時に、此国の奥(おく)の郡(こおり)に侍(はべり)し郡司(こおりのつかさ)の年老(としおい)たりしが妻(め)の若く侍(はべり)しが許(もと)に、忍(しのび)て罷寄(まかりより)たりしに、摩羅(まら)を失ひて侍(はべり)しに、怪(あやし)びを成して、其の郡の司に強(あながち)に志(こころざし)を運(はこび)て、習(ならい)て侍(は)べる也。其れを習(なら)はむの本意在(ましま)さば、此度(このたび)は公物(くもつ)多く具し給へり。速(すみやか)に上り給て、態(わざと)下給(くだりたまい)て心静(しずか)に習ひ給へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.165~166」岩波文庫)

道範はさっそく京へ上り陸奥国産の黄金を納めて差し上げると、しばらくの暇を貰ってそれなりの黄金を準備し、また信濃国のその郡司のところへ下った。水を浴び身を清める七日間の精進潔斎の後、「後夜(ごや)」(午前四時頃)、郡司と道範の二人だけで深山(ふかきやま)に入った。大きな河が流れている。二人はその辺(ほとり)に立った。そして「今後永遠に仏法を信じることはあるまい」と願いを発して種々の身振り仕草を演じ、さらに言うに言われぬ外道(仏道から見た罪深い道)の誓いを立てた。

「七日に満(み)つ日、後夜(ごや)に、郡司(こおりのつかさ)と道範、亦(また)人も不具(ぐせ)ずして、深山(ふかきやま)に入ぬ。大(おおき)なる河の流れたる辺(ほとり)に行ぬ。『永く三宝(さんぽう)を不信(しん)ざし』と云ふ願発(おこ)して、様々(さまざま)の事共をして、艶(えもいわ)ず罪深き誓言(せいごん)をなむ立(たて)けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.166」岩波文庫)

郡司はいう。私は川上へ行く。すると川上から流れてくるものがある。それが鬼であれ神であれ、寄り付いて抱き抱えるべし。

「己(おのれ)は水の上(かみ)へ入なむとす。其水の上より来らむ物を、鬼にまれ神にまれ、寄(より)て懐(いだ)け」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167」岩波文庫)

待っていると河の上空が黒々と曇り出し、雷鳴が轟き、暴風雨が発生し、河はたちまち増水してきた。見る見るうちに川上から、頭部だけでも人間の腕でひと抱えほどある大蛇が出現した。金属製の椀のような眼球をらんらんと光輝かせ、頸(くび)から下は紺青色・緑青色の胴体をつやつやに照り返しながらこちらへ向かってくる。

「暫許(しばしばかり)見れば、河の上より、頭(かしら)は一抱許(ひとかかえばかり)有(ある)蛇(へみ)の、目は鋎(かなまり)を入たるが如くにて、頸(くび)の下は紅(くれない)の色にして、上は紺青(こんじよう)・禄青(ろくしよう)を塗(ぬり)たるが如くに、つやめきて見ゆ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167」岩波文庫)

これを丸ごとしがみ付いて抱き抱えろと?恐怖の余り道範は草むらに隠れて大蛇をやり過ごしてしまった。ところで、この「蛇・目は鋎(かなまり)」という特徴には、妖怪〔鬼・ものの怪〕とただならぬ関係がある。奈良の吉野山で修行に励む或る聖人の目前に現れた大蛇の姿形にこうある。

「蛇共聖人(しようにん)の香を聞(か)ぎて、頭(かしら)を四、五尺許(ばかり)皆持上(もちあ)け合(あい)たるを見れば、上は紺青(こんじよう)・禄青(ろくしよう)を塗(ぬり)たるが如し。頸(くび)の下には紅(くれない)の打掻練(うちかいねり)を押(おし)たるが如し。目は鋺(かなまり)の様に鑭(きら)めき、舌は焔(ほのお)の様に霹(ひら)めき合(あい)たり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第四十三・P.257」岩波文庫)

また、先日取り上げた「巻第二十・第七話・染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の為(ため)に嬈乱(にようらん)せられたる語(こと)」では、鬼に転化した高明な聖人の様相がこう書かれている。「裕衣(とうさぎ)」は褌(ふんどし)のこと。

「物を不食(くわ)ざりければ、十余日を経て、餓(う)へ死にけり。其後忽(たちまち)に鬼と成ぬ。其(その)形、身(み)裸(はだか)にして、頭(かしら)は禿(かぶろ)也。長(た)け八尺許(ばかり)にして、膚(はだえ)の黒き事漆(うるし)を塗れるが如し。目は鋎(かなまり)を入(いれ)たるが如くして、口広く開(ひらき)て、剣(つるぎ)の如くなる歯生(おい)たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣(とうさぎ)を掻(かき)て、槌(つち)を腰に差したり。此鬼俄(にわか)に后の御(おわし)ます御几帳(みきちよう)の喬(そば)に立たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第七・P.153~154」岩波文庫)

さらに「神と蛇」との関係について折口信夫はこう述べている。

「琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、『おしまい(爺)・あつぱあ(婆)』が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻って、祝福して歩く。此群を『あんがまあ』と言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。

春の初めの清明節には、『まやの神』と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持ってゐる信仰である。『まや』は即『まやの国』から来る神で、蓑笠で顔を裹んで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良(メイラ)村には、海岸に『なびんづう』と言ふ洞穴があって、『黒また・赤また』と称する二人の神が現れる。『また』は蛇のことである。此神は、顔には面(メン)を被り、体は蔓で飾り、二神揃って踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。

かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一處に集合してゐて、其處から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持ってゐるのである。蓑笠を著けて家に這入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、『あんがまあ』と言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味をもってゐると思はれる。其が、盆の行事と結合して、遣ってゐるのであらう。

此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てて見れば、よくわかることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはっきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変って、山或は空から来るものと考へる様になってゐる。

歳神は、祖先の霊が一箇年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになって了うた。多くの眷属を伴って来るので、随って供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であった。だから、餅が白鳥になって飛ぶ事のわけもわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。

神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。假装の古いものに風流(フリウ)があり、仏教味が加はって練道(レンダウ)となるが、源は一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東國では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。

まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ

古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田國男先生が古今集以前に、既に、此風はあったらしい、と言って居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうした『しきたり』を産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加り、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負ける、と言ふ行事をすることになって居たのだ」(折口信夫全集3「鬼の話・P.7~9」中公文庫)

次に「火・焔」との関係について「宇治拾遺物語」所収「百鬼夜行」のシーン。「火をてんのめのごとくにともして」とある。「天の眼・貂の目」いずれにせよ強い光線を意味する。

「大かたやうやうさまざまなるものども、あかき色には青き物をき、くろき色には赤き物をき、たうさきにかき、大かた目一(ひとつ)ある物あり、口なき物など、大かたいかにもいふべきにあらぬ物ども、百人計(ばかり)ひしめきあつまりて、火をてんのめのごとくにともして、我ゐたるうつぼ木(ぎ)のまへに居(ゐ)まはりぬ」(「宇治拾遺物語・巻第一・三・P.19」角川文庫)

そして「目一(ひとつ)ある物」。「火・焔」を取り扱う職務に就いていた人々はいずれも目に障害を負う場合が多かった。こうある。

「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(おの)又鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ」(「古語拾遺・P.19」岩波文庫)

そうであって始めて、なぜ固形の銅ではなくどろどろに溶けた「銅(あかがね)の湯」なのかの意味もはっきりする。

(1)「銅(あかがね)の湯を入て、此の僧共の口毎(くちごと)に宛(あて)て入(いれ)つれば、暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)

(2)「慥(たしか)に吉(よ)く見れば、銅(あかがね)の湯を器毎(うつわごと)に盛(も)れり。打ち責(せめ)て鬼の呑(のま)せむそら可呑(のむべ)くも非(あら)ぬ銅の湯を、心と泣々(なくな)く呑(のむ)也けり。辛(から)くして呑畢(のみは)つれば、亦(また)乞(こ)ひ副(そ)へて呑(の)む者も有り。下の下衆(げす)に至(いたる)まで此れを不呑(のま)ぬ者無し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.102~103」岩波文庫)

というふうに。また、能「紅葉狩」に出現する鬼の姿はこうだ。「火焔・煙」、そして「眼(まなこ)は日月(じつげつ)」。眼球はそれ自体で光り輝いているように見える。

「取々(とりどり)化生(けしやう)の姿(すがた)を顕はし、あるひは厳(いはほ)に、火焔を放(はな)し、または虚空(こくう)に、炎(ほのほ)を降(ふ)らし、咸陽宮の、煙(けぶり)の中(なか)に、七尺(しっせき)の屏風(へいふう)の、上になほ、あまりてその丈(たけ)、一丈の鬼神(きじん)の、角(つの)は架木(かぼく)、眼(まなこ)は日月(じつげつ)」(新日本古典文学体系「紅葉狩」『謡曲百番・P.191』岩波書店)

赤鬼だけでなく青鬼もいる。西鶴は金銀に抱きついたまま死んだ利助(りすけ)の死にぎわの様相をこう書いている。

「『我(わ)が死んだらば、この金銀誰(た)が物にかなるべし。思へば惜しやかなしや』と、しがみ付きかみ付き、涙に紅(くれなゐ)の筋引きて、顔つきはさながら角(つの)なき青鬼(せいき)のごとし。面影(おもかげ)屋内(やない)を飛びめぐりて落ち入るを、押し付くればよみがへりして、銀(かね)を尋ぬる事三十四、五度に及べり」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻四・四・茶の十徳も一度に皆」『井原西鶴集3・P.193』小学館)

赤い肌は日焼け。黒い肌は製鉄現場の煙をかぶって黒々とし、なおかつ汗にまみれて照り輝いて見える。青い肌は青黒いというべきで、平安京の高級官僚と比較すると、列島各地でもっと古くから暮らしていた先住民が山岳地帯へ追われた後の姿に似る。そこにさらに黒潮に乗って列島南部にたどり着いた肌の浅黒い東南アジア系諸部族の遺伝子が入っている。そのことは今や科学的研究結果として自明である。しかしなぜ、あえて「男根と眼球」が問題なのか。

「巻第二十七・第二十一話・美濃国紀遠助(みののくにのきのとほすけ)、値女霊遂死語(をむなのりやうにあひてつひにしぬること)」で、遠助は近江国(あふみのくに)の「勢多(せた)の橋」に佇む女性に頼まれて美濃国方県(かたかた)郡(今の岐阜市北部)の或る橋で待つ別の女性のもとまで一つの箱を届けて欲しいと頼まれる。遠助の妻が箱の蓋を開けて中を覗いてしまう。そこには人間の大量の眼球と男根とが詰め込まれていた。それを見た遠助の妻と遠助自身もしばらくして急死してしまう。

「遠助ガ出(いで)タル間(ま)ニ、妻蜜(ひそか)ニ箱ヲ取下(とりおろ)シテ開(あけ)テ見ケレバ、人ノ目ヲ抉(くじり)テ数(あまた)入レタリ。亦、男ノ摩羅(まら)ヲ毛少シ付(つ)ケツツ多ク切入(きりい)レタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.129」岩波書店)

ところで道範は最初の試練に失敗したため、次の試練に挑戦する。大きな猪がそこらへんの石をばらばらに喰い千切り、火花を散らしながら体毛を逆立てて突進してくる。

「暫許(しばしばかり)見(みれ)ば、長(たけ)は四尺許(ばかり)有る猪(い)の牙(きば)を食出(くいいで)たるが、石(いわ)をはらはらと食(くえ)ば、火ひらひらと出て、毛をいからかして走り懸(かかり)て食ふ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167~168」岩波文庫)

「もはやここまで。死ぬほかない」と思い切って猪に抱きついてみれば、90センチほどのただ単なる枯れ木。

「『今は限りぞ』と思(おもい)て、寄て抱(いだき)たれば、三尺許なる朽木(くちき)を抱きたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

したがって、男根消失術を習得することは叶わなかったが、どうでもよいものを何物かに化けさせる術を習うことはできた。

「前の摩羅(まら)失ふ事は習(ならわ)せ不得給(えたまわ)ず成ぬ。墓無(はかな)き物に成しなど為(す)る事は習ひ給ひつめり。然(さ)れば、其を教へ申さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

男根消失並びに再出現あるいは思うがままのサイズの変化など自由自在に操れるようになるためには、日本政府が推進する「生涯学習」が必要だろう。それでも叶わないかもしれないが。さて再び京に上り宮中警護に当たる滝口の侍に戻った道範。天皇の御座所・清涼殿の北東に位置する滝口所(たきぐちところ)で暇にまかせて同僚と賭博したりして遊んでいる時、言い争いになると同僚らの沓(くつ)を全部、子犬に変えて走らせてみたり、あるいは古い草履を90センチほどの鯉に変え、脚付きの俎板(まないた)の上に載せ、生きたまま踊りを踊らせてみたり奇怪な芸能をいろいろと演じた。

「滝口(たきぐち)の陣(じん)にして、滝口共の履置(はきおき)たる沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せけり。亦(また)、古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成して、大盤(だいばん)の上にして、生乍(いきながら)踊(おどら)せなど為(な)す事をなむしける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

そのことが話題になり陽成天皇の耳に入った。天皇は道範に教えるよう命じてこの変化の術を習得された。御几帳(みきちよう)=垂れ布を掛けるための横木の上に突如「賀茂(かも)の祭」(今の葵祭)の行列を出現させ、歩かせて見せたりされたらしい。

「其後、御几帳(みきちよう)の手の上より賀茂(かも)の祭の共奉(ぐぶ)を渡す事などを為(せ)させ給ひけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168~169」岩波文庫)

しかしなぜか周囲の反応はおもわしくなかったらしい。というのは、天皇自身が「三宝に違(たが)ふ術(ずつ)」=「外術(ぐゑずつ)」を用いることに対するアレルギーが宮廷内では大勢を占めていたからである。

「其故(そのゆえ)は帝王(ていおう)の御身にて、永く三宝に違(たが)ふ術(ずつ)を習(ならい)て為(せ)させ給ふ事をなむ、皆人謗(そし)り申(もうし)けり。云ふ甲斐(かい)無(な)き下﨟(げろう)の為(す)るをだに罪深き事と云ふに、此(か)く為(な)させ給ひつるに、然ればにや狂気(おうき)なむ御(おわし)ましける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.169」岩波文庫)

さて。諸商品の変化について。第一に「男根実在」から「男根不在」への転化。第二に「男根不在」から「男根実在」への再転化。そして重要なのは第三。「x量の黄金」と「y量の商品(A男根変容術・Bその他の物の変容術」との交換。この中で「Bその他の物の変容術」は次のように諸商品の無限の系列を往来するだけに過ぎない。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

だが「A男根変容術」に限り、いつも黄金が頂点の位置を占めていなければならず、また、黄金が頂点の位置を占めている限りで、次のような力を持つ。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

その意味でこの「排除」は歴史的でなおかつ社会的なものでなくてはならない。諸商品のただ単なる往来が金銭を介した流通になるや、その習慣はただ単なる習慣や伝統の領域を脱して、次のように《法》へと転化する。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

アナロジー(類似・類推)の発生について、熊楠はこういっている。

「中国人が化石のスピリフェルを燕の変身したものと間違えたこと以外にも、ある物の起源を、それと表面的な類似を持つ他の物に見るという、通俗的な誤りの例は多い。たとえば、スウェーデンの一老博物学者がその『花暦』の中で、九月の初めに燕が水中に引きこもることを、日暮(ひぐれ)すこし前に彼の鶏がねぐらに就くのを話すのと、まるで同じ気楽な調子で書いているが、それと同じように、中国の『礼記』の月令第六には、『季秋の月(陰暦十月)、鴻雁来賓し、爵(すずめ)、大水に入りて蛤となる。孟冬の月(陰暦十一月)、水はじめて氷り、薙、大水に入りて蜃となる』と書かれている。中国人はまた、鵰(くまたか)は化して珂(くつわがい)となり、老いたる伏翼(こうもり)は化して魁蛤(あかがい)となる、と思っていた。日本人もかつては、鳰(かいつぶり)という水鳥と、千鳥(ちどり)という渉禽類の一種とが、海の『鳥貝』(Cardium mutieum)という貝に変身すると信じていた。『その肉の卵の如くなる(味が?)』とも、『肉を見るに鳥の形あり』とも書かれている。烏賊(いか)は、日本人が『からすとんび』と呼んでいる鋭い顎と黒い墨液(すみ)のために、中国人から烏の変身したものとされた。これらの誤りはすべて、くちばし状の脚を持った有穀類と鳥類との類似に根拠を持つと考えられるが、このことは、二百年すこし前に、『スコットランド王国の枢密院議員になったばかりの』ロバート・マーリ卿が、フジツボが雁(がん)に変身するという民間伝承を、前者の鰓が発生学的に後者の羽と思われることから、真実だと科学界で断言した事件を思い合わせると、ますます明らかになるであろう」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.381~382』河出文庫)

それがなぜあたかも「真理」であるかのように信じ込まれ、転倒した錯覚を事実として信じ切ってしまうに至るのか。ニーチェはいう。

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

取り返しのつかない重大な過ちは今後なお犯されていくのかもしれない。

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