前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「今昔物語」には人名・地名に関し詳しく述べようとする姿勢がある。そのため時々、後で書き込む予定で開けておいた部分が埋められずそのまま空白として残され欠字になっている箇所が縷々見られる。次に見える説話では古代中国周辺の諸地域を示す「外国(ぐわいこく)」と記されている。正確にわからなかったか内容に重大な支障を来たすものではないと判断されたのだろう。「外国(ぐわいこく)」で通している。
その山間部の寺に一人の若い僧が住んでいた。毎日怠ることなく法華経の読誦(どくじゆ)に励んでいた。或る日の夕暮。午後六時頃か。修行の一環として寺の外へ出て周囲の山間部を遊行して歩いていた時、ばったり羅刹女(らせつによ)に出会った。羅刹女は羅刹と書いても羅刹鬼と書いても同じで、人を喰う鬼とされていた。仏教が日本に輸入されてからは地獄の亡者を呵責する獄卒のまとめ役として描かれるようになる。
「十八の獄卒有つて、頭は羅刹(おそろしきおに)の如く、口は夜叉(ひとくひおに)の如し」(「往生要集・厭離穢土・阿鼻地獄・P.41~42」岩波文庫)
阿傍羅刹(あぼうらせつ)とも称される。阿傍は牛頭(ぎゅうとう)の意味。牛頭馬頭(ぎゅうとうばとう)を意味する場合もある。例えば「平家物語」。
「其体(そのてい)、冥途(めいど)にて、娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、或(あるいは)業(ごう)のはかりにかけ、或浄頗梨(じやうはり)の鏡(かがみ)にひき向(む)けて、罪(つみ)の軽重(きやうぢう)に任(まか)せつつ、阿防羅刹(あはうらせつ)が呵嘖(かしやく)すらんも、これには過(すぎ)じとぞ見えし」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第二・小教訓・P.82」岩波書店)
そもそも仏教十二天の一つで羅刹の首長「羅刹天」はサンスクリット語の‘Nirrti-raja’を漢音訳し「涅哩底王(ねいりちおう)」とされたもの。‘raja’(ラージャ)は古代インドで「王」を現わす。なお、頭に「大」を現わす‘maha’を付すと‘maha-raja’(マハー・ラージャ=大王・皇帝)となり、一九八〇年代バブルの日本で一世風靡したディスコの名前、ご存知「マハラジャ」はここからの引用。
ところで若い僧が羅刹女に出くわしたのは夕方。黄昏時(たそがれどき)。昼と夜との境界領域に当たる。「逢魔ヵ時(おうまがとき)」ともいう。しかし若い僧が外出して遊行していたとしても非難するに当たらない。あちこち歩き廻る修行の一つ「遊行(ゆぎやう)」は遊行僧というように重要な修行の一つだった。羅刹は若い僧を見るとたちまち艶っぽく美麗この上ない女性に変身した。そろそろと近づきながら、その気がなくもない風情で若い僧に戯れ掛かった。僧は悩ましい思いに籠絡され、あれよという間もなく女鬼と性行為に及んだ。性行為が済むと僧はもはや恍惚のうちにまったく我を見失ってしまっている。
「鬼忽(たちまち)ニ変ジテ女ノ形ト成(なり)ヌ。其ノ形、甚(はなは)ダ美麗也。女来リ寄(より)テ僧ト戯(たはぶ)ル。僧、忽ニ鬼ニ被嬈(まどはさ)レテ、既ニ女鬼ト娶(とつぎ)ヌ。通ジテ後、僧ノ心怳(ほ)レテ、更ニ本ノ心ニ非(あら)ズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.115」岩波書店)
女鬼はだらしなく無気力な恍惚境に陥っている僧を見て、「こいつを棲家に連れて行ってじっくりむさぼり喰ってやろう」と思い、僧を背負って天空を高速で飛び去った。その途中、午後九時頃、一つの寺の上空を通過している時、寺から法華経を誦する声がほのかに聞こえてくる。それを耳にした僧は反応し、気持ちの中で法華経を暗唱してみた。
「女鬼、『僧ヲ本(もとの)所ニ将行(ゐてゆき)テ噉(くらは)ヌ』ト思(おもひ)テ、掻負(かきおひ)テ空ヲ飛(とび)テ行クニ、夜ノ始メニ至(いたり)テ一ノ寺ノ上ヲ飛(とび)過グ。僧、鬼ニ被負(おはれ)テ行ク程ニ、寺ノ内ニ法花経ヲ読誦スル音(こゑ)ヲ髣(ほのか)ニ聞ク。其ノ時ニ、僧ノ心少シ悟(さ)メテ本ノ心出来(いでき)ケレバ、心ノ内ニ法花経ヲ暗誦(あんじゆ)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.115」岩波書店)
すると女鬼が背負って飛行中の僧の体がたちまち重くなってきた。飛んでいるうちにだんだん下へ降りてきて、しまいに背負うことができなくなるほど重くなったので、その場に僧を棄てて去ってしまった。
「而(しか)ル間、女鬼ノ負ヘル所ノ僧忽(たちまち)ニ重ク成(なり)テ、漸(やうや)ク飛ビ下(くだ)リテ地(ぢ)ニ近付ク。遂ニ不負得(おひえ)ズシテ、女鬼、僧ヲ捨テテ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
若い僧はどこへ連れてこられて置き去りにされたのかさっぱりわからない。しばらくすると寺の鐘の音が聞こえた。鐘の音を便りに歩いて行くと或る寺に辿り着いた。門を叩いてみたところ、その門が開いた。中に入ってその寺の僧らに事情を説明した。事情を聞き終えた僧らはこういう。「そなたはもはや女犯の戒律を破った。重大な規律違反である。我々と席を交えようにもそれはできない」。
「此ノ人既ニ犯セル所重シ。我等同(おなじ)ク不可交坐(けうざすべから)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
そのとき上席にいた年長で位の高い一人の僧が、若い僧の話を聞いてこういった。「この僧はもはや鬼神に惑わされてすっかり自分を失っている。ところがましてやというべきか、その上で身をもって法華経の力を出現させたではないか。そういう次第である以上、速やかにこの寺に置いてやり住まわせてあげるがよい」。
「此ノ人ハ鬼神ノ為ニ被嬈(まどはされ)タル也。更ニ本ノ心ニ非(あら)ジ。何況(いかにいはむ)ヤ、法花経ニ威力(ゐりき)ヲ顕(あらは)セル人也。然レバ、速(すみやか)ニ寺ニ留メテ可令住(ぢうせしむべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
若い僧は元いた山寺のことを考え合わせて距離を計算すると約8000キロばかりも離れた所へ移動したことになる。
「僧、本ノ栖(すみか)ノ寺ヲ語ルニ、其ノ所ヲ去レル間ヲ計(かぞ)フレバ二千余里也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
地球一周が約4万キロ。例えば東京から約8000キロ地点といえばアラビア半島のアラブ首長国連邦付近。桁外れの移動速度を持つのが鬼神の特徴。「宇治拾遺物語」を見ると日本でも修行僧が百鬼夜行に遭遇し、お堂の軒下に引き止められ、午後六時頃から翌日の午前二時頃までの間に摂津国(せっつのくに・大阪府)から肥前国(ひぜんのくに・長崎県)まで移動したとある。
「津の國のりうせん寺といふ寺にやどりたりしを、鬼どもの来て、『所(ところ)せばし』とて、『あたらしき不動尊しばし雨(あま)だりにおはしませ』とひいて、掻きいだきて雨だりについすゆと思(おもひ)しに、肥前國の奥の郡にこそゐたりしか」(「宇治拾遺物語・巻第一・十七・P.38」角川文庫)
さて。羅刹女は最初から何にでも変態可能な貨幣として登場している。第一に羅刹から美女へ。第二に美女から鬼女へ。さらに鬼神としてはまったく貨幣に類似する。また、若い僧のリビドー備給について。山間部を遊行に出かける余裕がある。しかし羅刹女との性交で僧のリビドー全量は羅刹女へ移動する。若い僧の持つすべての力は羅刹女の側へ贈与された。羅刹女はその分、より一層強力になる。ところが或る寺から聞こえてくる法華経の音が無力化している僧の耳に届くや否や再び僧のリビドーは備給を受けて力を回復する。説話では重力の増量へと変換されている。この場面で法華経の《音》が果たした役割についてスピノザを参照しておこう。今なら《音楽》であっても何ら構わない。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
もう一度、羅刹女の変身過程に戻ってみる。と、貨幣的なものが変態するに当たって性別は無関係だということがわかるだろう。童子・童女あるいは翁・嫗にも当てはまる条件を羅刹女は有している。
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「今昔物語」には人名・地名に関し詳しく述べようとする姿勢がある。そのため時々、後で書き込む予定で開けておいた部分が埋められずそのまま空白として残され欠字になっている箇所が縷々見られる。次に見える説話では古代中国周辺の諸地域を示す「外国(ぐわいこく)」と記されている。正確にわからなかったか内容に重大な支障を来たすものではないと判断されたのだろう。「外国(ぐわいこく)」で通している。
その山間部の寺に一人の若い僧が住んでいた。毎日怠ることなく法華経の読誦(どくじゆ)に励んでいた。或る日の夕暮。午後六時頃か。修行の一環として寺の外へ出て周囲の山間部を遊行して歩いていた時、ばったり羅刹女(らせつによ)に出会った。羅刹女は羅刹と書いても羅刹鬼と書いても同じで、人を喰う鬼とされていた。仏教が日本に輸入されてからは地獄の亡者を呵責する獄卒のまとめ役として描かれるようになる。
「十八の獄卒有つて、頭は羅刹(おそろしきおに)の如く、口は夜叉(ひとくひおに)の如し」(「往生要集・厭離穢土・阿鼻地獄・P.41~42」岩波文庫)
阿傍羅刹(あぼうらせつ)とも称される。阿傍は牛頭(ぎゅうとう)の意味。牛頭馬頭(ぎゅうとうばとう)を意味する場合もある。例えば「平家物語」。
「其体(そのてい)、冥途(めいど)にて、娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、或(あるいは)業(ごう)のはかりにかけ、或浄頗梨(じやうはり)の鏡(かがみ)にひき向(む)けて、罪(つみ)の軽重(きやうぢう)に任(まか)せつつ、阿防羅刹(あはうらせつ)が呵嘖(かしやく)すらんも、これには過(すぎ)じとぞ見えし」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第二・小教訓・P.82」岩波書店)
そもそも仏教十二天の一つで羅刹の首長「羅刹天」はサンスクリット語の‘Nirrti-raja’を漢音訳し「涅哩底王(ねいりちおう)」とされたもの。‘raja’(ラージャ)は古代インドで「王」を現わす。なお、頭に「大」を現わす‘maha’を付すと‘maha-raja’(マハー・ラージャ=大王・皇帝)となり、一九八〇年代バブルの日本で一世風靡したディスコの名前、ご存知「マハラジャ」はここからの引用。
ところで若い僧が羅刹女に出くわしたのは夕方。黄昏時(たそがれどき)。昼と夜との境界領域に当たる。「逢魔ヵ時(おうまがとき)」ともいう。しかし若い僧が外出して遊行していたとしても非難するに当たらない。あちこち歩き廻る修行の一つ「遊行(ゆぎやう)」は遊行僧というように重要な修行の一つだった。羅刹は若い僧を見るとたちまち艶っぽく美麗この上ない女性に変身した。そろそろと近づきながら、その気がなくもない風情で若い僧に戯れ掛かった。僧は悩ましい思いに籠絡され、あれよという間もなく女鬼と性行為に及んだ。性行為が済むと僧はもはや恍惚のうちにまったく我を見失ってしまっている。
「鬼忽(たちまち)ニ変ジテ女ノ形ト成(なり)ヌ。其ノ形、甚(はなは)ダ美麗也。女来リ寄(より)テ僧ト戯(たはぶ)ル。僧、忽ニ鬼ニ被嬈(まどはさ)レテ、既ニ女鬼ト娶(とつぎ)ヌ。通ジテ後、僧ノ心怳(ほ)レテ、更ニ本ノ心ニ非(あら)ズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.115」岩波書店)
女鬼はだらしなく無気力な恍惚境に陥っている僧を見て、「こいつを棲家に連れて行ってじっくりむさぼり喰ってやろう」と思い、僧を背負って天空を高速で飛び去った。その途中、午後九時頃、一つの寺の上空を通過している時、寺から法華経を誦する声がほのかに聞こえてくる。それを耳にした僧は反応し、気持ちの中で法華経を暗唱してみた。
「女鬼、『僧ヲ本(もとの)所ニ将行(ゐてゆき)テ噉(くらは)ヌ』ト思(おもひ)テ、掻負(かきおひ)テ空ヲ飛(とび)テ行クニ、夜ノ始メニ至(いたり)テ一ノ寺ノ上ヲ飛(とび)過グ。僧、鬼ニ被負(おはれ)テ行ク程ニ、寺ノ内ニ法花経ヲ読誦スル音(こゑ)ヲ髣(ほのか)ニ聞ク。其ノ時ニ、僧ノ心少シ悟(さ)メテ本ノ心出来(いでき)ケレバ、心ノ内ニ法花経ヲ暗誦(あんじゆ)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.115」岩波書店)
すると女鬼が背負って飛行中の僧の体がたちまち重くなってきた。飛んでいるうちにだんだん下へ降りてきて、しまいに背負うことができなくなるほど重くなったので、その場に僧を棄てて去ってしまった。
「而(しか)ル間、女鬼ノ負ヘル所ノ僧忽(たちまち)ニ重ク成(なり)テ、漸(やうや)ク飛ビ下(くだ)リテ地(ぢ)ニ近付ク。遂ニ不負得(おひえ)ズシテ、女鬼、僧ヲ捨テテ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
若い僧はどこへ連れてこられて置き去りにされたのかさっぱりわからない。しばらくすると寺の鐘の音が聞こえた。鐘の音を便りに歩いて行くと或る寺に辿り着いた。門を叩いてみたところ、その門が開いた。中に入ってその寺の僧らに事情を説明した。事情を聞き終えた僧らはこういう。「そなたはもはや女犯の戒律を破った。重大な規律違反である。我々と席を交えようにもそれはできない」。
「此ノ人既ニ犯セル所重シ。我等同(おなじ)ク不可交坐(けうざすべから)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
そのとき上席にいた年長で位の高い一人の僧が、若い僧の話を聞いてこういった。「この僧はもはや鬼神に惑わされてすっかり自分を失っている。ところがましてやというべきか、その上で身をもって法華経の力を出現させたではないか。そういう次第である以上、速やかにこの寺に置いてやり住まわせてあげるがよい」。
「此ノ人ハ鬼神ノ為ニ被嬈(まどはされ)タル也。更ニ本ノ心ニ非(あら)ジ。何況(いかにいはむ)ヤ、法花経ニ威力(ゐりき)ヲ顕(あらは)セル人也。然レバ、速(すみやか)ニ寺ニ留メテ可令住(ぢうせしむべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
若い僧は元いた山寺のことを考え合わせて距離を計算すると約8000キロばかりも離れた所へ移動したことになる。
「僧、本ノ栖(すみか)ノ寺ヲ語ルニ、其ノ所ヲ去レル間ヲ計(かぞ)フレバ二千余里也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十五・P.116」岩波書店)
地球一周が約4万キロ。例えば東京から約8000キロ地点といえばアラビア半島のアラブ首長国連邦付近。桁外れの移動速度を持つのが鬼神の特徴。「宇治拾遺物語」を見ると日本でも修行僧が百鬼夜行に遭遇し、お堂の軒下に引き止められ、午後六時頃から翌日の午前二時頃までの間に摂津国(せっつのくに・大阪府)から肥前国(ひぜんのくに・長崎県)まで移動したとある。
「津の國のりうせん寺といふ寺にやどりたりしを、鬼どもの来て、『所(ところ)せばし』とて、『あたらしき不動尊しばし雨(あま)だりにおはしませ』とひいて、掻きいだきて雨だりについすゆと思(おもひ)しに、肥前國の奥の郡にこそゐたりしか」(「宇治拾遺物語・巻第一・十七・P.38」角川文庫)
さて。羅刹女は最初から何にでも変態可能な貨幣として登場している。第一に羅刹から美女へ。第二に美女から鬼女へ。さらに鬼神としてはまったく貨幣に類似する。また、若い僧のリビドー備給について。山間部を遊行に出かける余裕がある。しかし羅刹女との性交で僧のリビドー全量は羅刹女へ移動する。若い僧の持つすべての力は羅刹女の側へ贈与された。羅刹女はその分、より一層強力になる。ところが或る寺から聞こえてくる法華経の音が無力化している僧の耳に届くや否や再び僧のリビドーは備給を受けて力を回復する。説話では重力の増量へと変換されている。この場面で法華経の《音》が果たした役割についてスピノザを参照しておこう。今なら《音楽》であっても何ら構わない。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
もう一度、羅刹女の変身過程に戻ってみる。と、貨幣的なものが変態するに当たって性別は無関係だということがわかるだろう。童子・童女あるいは翁・嫗にも当てはまる条件を羅刹女は有している。
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