前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
かつて八条北朱雀(すざく)西に「六の宮」という宮家の邸宅があった。今の京都市千本通と八条通との交差点を少しばかり北西方向へ歩くと南区から下京区へ入る。その辺り。説話に取り上げられている頃には既に荒れ果て、所々崩れた箇所が見受けられた。
六の宮には五十歳を過ぎた主人とその妻との間に一人娘がおり、年齢は十代前半、大変美麗で気立てもよく、芯が強いのか奢ることもないのでとても素晴らしく思われた。となれば、通例はそれなりの公卿の子弟らから求婚されていてもおかしくない。しかし父は厳格で古風な優雅さを美徳と考えており、自分の側からあちこちに顔を出して交際を求めようなどとは思っていない。高貴な人々と出会わせるために入内させることも考えないではなかったが、入内には多額の費用がかさむ。しかし既に没落の色合いを湛え始めている家は貧しく、とてもではないが世間に顔を出すことも急速になくなり、一人娘を華々しい交際のある世界へ入れる機会はもはや失われ、だがしかし夫妻の間に置いて多少なりとも学問を教えながら大切に育てていた。
そんなふうに暮らしているうち、この姫君は父と母とを立て続けに失った。頼りにできる兄弟はもとよりおらず、邸宅の中で身のやり場もない。両親の喪が明けた後、ますます孤独感ばかりが増してくる。果てしない心細さを抱きながら数年を経た。その間、暮らしていくため仕方なかったのか姫君の乳母は、それなりに立派であった邸宅内の家具や調度品を少しずつ人手に渡してしまった。その乳母が或る時、姫君に一人の男性を紹介し、一度お会いしてみてはと勧めた。公卿だった人物の子息で年齢は二十歳を少し過ぎたばかり。姫君がお一人でいらっしゃる事情をお聞かせしたところ、気になさり出した様子。こちらへお通いになることをお許しになられては、と述べた。姫君は今の自分の境遇に直面させられた気がしたのだろう、髪の毛を振り乱して泣き出してしまった。
とはいえ放っておくわけにもいかない。乳母は先方からの手紙を姫君に手渡してみた。始めのうちは一向に見向きもしなかった姫君だったが、たびたび手紙を持って差し上げているうちに姫君も心を許し始め、相手の男性を家に通わせるようになった。頼みにできる者とて一人もいない身の姫君はだんだんこの男性を頼みにするようになり、しばらくして二人は心通わせ合って夫婦になった。そんな折、夫の父が陸奥(みちのく)の守(かみ)に任じられ、東北地方へ赴くことが決まった。なお、新しく陸奥守の任に就くに当たって息子も共に連れて行くことにした。妻となった姫君をたった一人で京に置いていくことは夫として大変心苦しく思ったけれども、父の意向に逆らうことはできない。妻に事情を告げて陸奥国へ出発した。父の任地から消息を綴った手紙を書き送るつもりをしていたけれども、これといって信用できそうな人々の繋がりが見当たらないまま、いたずらに年月を過ごしてしまうことになった。
陸奥国長官の任期は五年。ようやく任期を終えて京へ上ろうとしていると、長官宛に、常陸国(ひたちのくに)の守(かみ)から長官の息子を自分の娘の聟(むこ)にしたい旨の申し入れがあった。その時の常陸守はとても羽振りのいい勢力的な人物だったから、京へ返る途中で常陸守の娘との結婚が決まってしまい、今度は常陸国で四年の任期を共にすることとなった。妻を一人京へ残してきた夫は気が気でならず何度も手紙をしたためて使者を遣るが、妻の消息はつかめず、手ぶらで帰ってきたり、あるいは手紙を持ったなりそのまま行方不明になる者もいた。そのうちまた数年が経った。ようやく常陸国での任期を終えて、常陸守の娘を新しい妻とした男性が京へ上る頃には既に八年ばかりも過ぎていた。その間、妻とは一度も手紙一つやり取りできず、結果、ただいたずらに月日ばかり消耗させてしまっていたのだった。京に到着するや夫は常陸守の娘である妻を実家へ送り届けると自分の家へは寄らず、その足でただちに六の宮へ急いだ。たどり着いて屋敷を眺めてみる。築地塀は崩れているが残っている。だが四本の柱で建てられていた屋根付きの門は既に跡形もない。かつてあった寝殿の対の屋ももうない。ふつうは対の屋が妻の居場所のはずなのだが。見渡すと、家政全般を取り仕切る政所(まんどころ)が、あちこちに軋み歪みを見せながらもかろうじて残っている。庭は既に庭の様相を失って久しい様子である。従者に命じて周辺の家々を廻らせ、姫君の消息を尋ねさせてみた。が、もはや誰一人として知らなかった。
ところでかろうじて残っている政所を見ると僅かに人が住んでいる気配がする。近づいて声を掛けると中から一人の尼が出てきた。妻が用いる便器の掃除に当たっていた下級の使用人の母のようだ。
「政所屋の壊(やぶ)れ残(このり)たる所に、纔(わずか)に人住む様に見ゆ。寄(より)て人を呼べば、一人の尼出(いで)たり。月の明きに見れば、彼(か)の人のひすまし也(なり)し者の母にて有し女也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.51~52」岩波文庫)
その尼に着物を与え、この数年間の事情を聞き出した。すると尼は積もる思いの余り、どっと泣き出し、泣きながら語った。姫君をどうか探し出してあげて下さいまし、という。行方不明になっているということだろう。夫が任地へ赴いている間、消息を告げる手紙なりともありましょうと待っていたのですけれど、まったく届くことなく連絡は絶えてしまい、「お忘れになられてしまわれたのでしょう」との思いに沈んでしまいましたが、でもそれなりに何とかやりくりしつつ暮らしておりました。姫君の乳母の夫も二年ほどするとお亡くなりになり、誰も散り散りばらばらになってしまいここを去っていかれました。寝殿はここで暮らすための薪(たきぎ)に使っているうちに壊れて倒れてしまいました。また、姫君がいらっしゃった対の屋も先年の暴風で倒壊してしまい、道行く人々が生活物資として持ち去ってしまいました。姫君は使用人が使っていた詰所が空いていたのでそこで人目を忍びようにして日々を送っていらっしゃいました。
「尋ね奉(たてまつ)らせ給へかし。殿の国に下(くだら)せ給ひて後一年許(ひととせばかり)は、候(さぶらい)し人共も『御消息(みしようそく)や奉らせ給ふ』と待ち候(さぶらい)しに、掻絶(かきたえて)然る事も不候(さぶらわざり)しかば、『忘れ畢(はて)させ給ひにけるなめり』と思候(おもいさぶらい)しかども、自然(おのずか)ら過(すぐ)し候ひし程に、御乳母(めのと)の夫も二年許(ばかり)有て失せ給ひにしかば、露(つゆ)知り奉る人も不候(さぶらわ)で、皆散々(ちりぢり)に罷(まか)り去(の)き候ひにき寝殿は殿の内の人の焼物(たきもの)に罷成(まかりなり)て、壊(やぶ)れ候ひにしかば倒れ候(さぶらい)にき。御(おわ)しし対も只道行く人の壊(こほ)ち物に罷成(まかりなり)て、其れも一(ひと)とせの大風に倒れ候にき。御前は侍(さぶらい)の廊(ろう)にてなむ二、三間許(ばかり)をしつらひて、御坐(おわしま)す様にも無くて居させ給へりし」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.52~53」岩波文庫)
尼はいう。姫君の使用人を務めていた自分の娘が夫に付き従って但馬国(たじまのくに)へ帰っていきましたのですが、では京にいらっしゃる姫君のおそばにはどなたがお仕えしているのかと気になり、娘も但馬から再び京へ出て参ったのでございます。でももうその時には既に姫君のお姿は跡形もなく消え失せてらっしゃって、近くを尋ねて探し上げたのですが、どこにいらっしゃるのか遂にわからず仕舞いになったのでございます。夫はそれを聞き、無念の情を抑えることができず、溢れてくる涙をこらえることもできなくなってしまった。
だがしかし、泣いているばかりでは妻はどうなったのか、今はどこでどうしているか、わかるはずもない。そこで何か手掛かりになりそうなものでもと考え、妻の行方を探すことにした。藁履(わらぐつ)に笠(かさ)姿であちこち探して廻る。しかし手掛かり一つ掴めない。さては西の京の辺りでは、と考えた。というのも当時の平安京は大内裏の真ん中から南へ走る朱雀大路(すざくおおじ)を中心として、その西側は比較的寂れた侘しい地域と化していたからなのだが。
夫は一人、大内裏の南端を東西に横切る二条通を西へ向かって歩くことにした。大内裏を囲む土塀沿いに西へ向かおうとすると午後五時頃、天候が急変し見る見る時雨れてきた。朱雀門(すざくもん)は今の二条通と千本通との交差点の北にあった。その脇にL文型の付属施設があり「曲殿(まがりどの)」といった。夫はそこで雨宿りしようと中を覗くと、普段は無人のはずが、格子状の窓の中に誰か人の気配がする。
「『只足手の向(むき)たらむ方にて行て尋ねむ』と思(おもい)て、物詣(ものもうで)の様にて、藁履(わらぐつ)を着はき、笠を着て所々(ところどころ)を尋ね行(あり)くと云へば、更に不尋得(たずねえ)ざりければ、『若(もし)、西京(にしのきよう)の辺(ほとり)にや有らむ』と思(おもい)て二条より西様(にしざま)に、大垣に副(そい)て行く程に、申酉(さるとり)の時許(ばかり)に掻暗(かきくら)がりて、しぐれ痛く降れば、『朱雀門(しゆじやくもん)の前の西の曲殿(まがりどの)に立隠(たちかく)れむ』と思て立寄(たちより)たれば、連子(れんじ)の内に人の気(け)はひ有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.53~54」岩波文庫)
そっと寄って見ると、汚れて極めて穢(きたな)くなった莚(むしろ)を敷いて、その上に二人の人間が座っている。一人は年老いた尼。もう一人は若い女性。若い女性の体は随分痩せ衰え、枯れ木に蒼い影がかかったような朽ちぶり。ひどく汚れた莚に臥している。着物といっても牛に着せておく粗末な物を羽織っているばかりで、破れた莚を腰の辺りまで引き掛けて横になり手枕している。
「和(やわ)ら寄て臨(のぞ)けば、筵(むしろ)の極(きわめ)て穢(きたなげ)なるを曳き廻して人二人居たり。一人は年老たる尼也。一人は若き女の、極て痩(や)せ枯(かれ)て色青み影の様なる、賤(あや)しき様なる莚の破(やぶれ)を敷て、其れに臥したり。牛の衣の様なる布衣を着て、破(やぶれ)たる莚を腰に曳懸(ひきかけ)て、手抛(てまくら)して臥したり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.54」岩波文庫)
誰なのかもわからないが、横になる時に手枕をして寝るとは賤者にしては珍しい、と思った夫はもう少し近づいてみた。顔を覗き込んでよく見ると、まぎれもなく妻だ。暗澹たる気持ちで胸が掻きむしられそうになった。思わず見詰めてしまった。すると気配を察したのか、女性は、か細くも優美な声でいう。歌であろうか。
「手(た)枕の隙間(すきま)の風も寒(さむ)かりき身はならはしの物にぞ有(あり)ける」(「拾遺和歌集・巻第十四・九〇一・P.259」岩波書店)
よみ人知らずとして「拾遺和歌集」に載る一首である。「共寝していた頃は手枕の隙間から入ってくる風さえ寒く感じたものです。でも今やご覧のとおり。慣れてしまいました」、という意味。
夫は慌てていう。「なぜ、どうしてこんなふうにいらっしゃるのでしょう。探して見つけ出して参りましょうと思ってあちこち足の赴くまま、ここまでやって来たのですが」。やっと探し出した妻の体を抱き上げると妻も気づいたようだ。そして夫の顔を見ながらいう。「何と、遠くへ行ってしまわれたお方」。と、おそらくそれが最後の力だったのだろう、すぐに息を引き取り死んでしまった。
「『此(こ)は何(いか)に此(か)くては御(おわし)ましけるを。尋ね奉るとて此く迷ひ行きつるに』と云て、寄て抱けば、女㒵(かお)を見合せて、『早う遠く行(ゆき)にし人也けり』と思ふに、難堪(たえがた)くや有けむ、即ち絶入(たえいり)て失(うせ)にけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.55」岩波文庫)
夫はもしかしたら妻が生き返るかもと思い抱きしめてみたけれど、たちまち体は冷え切っていき、もはや死んだことを見届けると、その足で家には帰ることなく逆に愛宕護山(あたごやま)へ向かい、髻(もとどり)をすっぱり斬り落として世を捨てた。
「男暫(しばらく)は、『生(いき)や返る』と抱きたりけれども、やがて氷(ひ)え痓(すくみ)にければ、此く見成して、其れより家にも不行(ゆかず)して、愛宕護(あたご)の山(やまに)行(ゆき)て、髻(もとどり)を切て法師に成にけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.55」岩波文庫)
さて。この説話に顕著な変化を見ることにしよう。若い男性の妻の境遇である。それは二層に分割されている。第一に没落した宮家の一人娘。第二に家を去り京の巷を穢い莚で寝起きしながら死を待つばかりの、名を喪失した下賤の女性。女性はただ一人だが存在論的には二重化されている。身体は単体、しかし、二つの異なる価値観共同体に同時に属している。身体は一つだが二つの価値観へ分裂している。一方は共寝していても寒さを感じる身体。もう一方は独り寝していても寒いと思わない状態に慣れ切っている身体。体が一つに見えるからといってもしばしば精神はばらばらになることがあるという事情を、この若い妻は自らの《身体》の変化を通して語っている。そうさせたのは何か。夫を喪失していた時間である。夫婦になる前は独身が当たり前でありむしろその境遇を愛していた。夫婦になった後は夫を喪失している時間に耐えることができなくなる。結果的にもう夫は戻ってこないと判断したと同時に或る価値観を脱ぎ捨て別の価値観へ移動した。中心のない世界へ移った。脱中心化した。
妻は諸商品の無限の系列へ戻り、だけでなく、安定した一定の社会的位置を占める機会をも自ら捨て去った。そのため夫には永遠に償却不可能な債務が生じている。従って、夫は夫としての身分を捨てるとともに男性の象徴たる髻(もとどり)を斬り棄て、もう二度と山から降りてくることは許されない方向へ消え去った。その限りで始めて債権・債務関係は均衡を得ることができる。
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かつて八条北朱雀(すざく)西に「六の宮」という宮家の邸宅があった。今の京都市千本通と八条通との交差点を少しばかり北西方向へ歩くと南区から下京区へ入る。その辺り。説話に取り上げられている頃には既に荒れ果て、所々崩れた箇所が見受けられた。
六の宮には五十歳を過ぎた主人とその妻との間に一人娘がおり、年齢は十代前半、大変美麗で気立てもよく、芯が強いのか奢ることもないのでとても素晴らしく思われた。となれば、通例はそれなりの公卿の子弟らから求婚されていてもおかしくない。しかし父は厳格で古風な優雅さを美徳と考えており、自分の側からあちこちに顔を出して交際を求めようなどとは思っていない。高貴な人々と出会わせるために入内させることも考えないではなかったが、入内には多額の費用がかさむ。しかし既に没落の色合いを湛え始めている家は貧しく、とてもではないが世間に顔を出すことも急速になくなり、一人娘を華々しい交際のある世界へ入れる機会はもはや失われ、だがしかし夫妻の間に置いて多少なりとも学問を教えながら大切に育てていた。
そんなふうに暮らしているうち、この姫君は父と母とを立て続けに失った。頼りにできる兄弟はもとよりおらず、邸宅の中で身のやり場もない。両親の喪が明けた後、ますます孤独感ばかりが増してくる。果てしない心細さを抱きながら数年を経た。その間、暮らしていくため仕方なかったのか姫君の乳母は、それなりに立派であった邸宅内の家具や調度品を少しずつ人手に渡してしまった。その乳母が或る時、姫君に一人の男性を紹介し、一度お会いしてみてはと勧めた。公卿だった人物の子息で年齢は二十歳を少し過ぎたばかり。姫君がお一人でいらっしゃる事情をお聞かせしたところ、気になさり出した様子。こちらへお通いになることをお許しになられては、と述べた。姫君は今の自分の境遇に直面させられた気がしたのだろう、髪の毛を振り乱して泣き出してしまった。
とはいえ放っておくわけにもいかない。乳母は先方からの手紙を姫君に手渡してみた。始めのうちは一向に見向きもしなかった姫君だったが、たびたび手紙を持って差し上げているうちに姫君も心を許し始め、相手の男性を家に通わせるようになった。頼みにできる者とて一人もいない身の姫君はだんだんこの男性を頼みにするようになり、しばらくして二人は心通わせ合って夫婦になった。そんな折、夫の父が陸奥(みちのく)の守(かみ)に任じられ、東北地方へ赴くことが決まった。なお、新しく陸奥守の任に就くに当たって息子も共に連れて行くことにした。妻となった姫君をたった一人で京に置いていくことは夫として大変心苦しく思ったけれども、父の意向に逆らうことはできない。妻に事情を告げて陸奥国へ出発した。父の任地から消息を綴った手紙を書き送るつもりをしていたけれども、これといって信用できそうな人々の繋がりが見当たらないまま、いたずらに年月を過ごしてしまうことになった。
陸奥国長官の任期は五年。ようやく任期を終えて京へ上ろうとしていると、長官宛に、常陸国(ひたちのくに)の守(かみ)から長官の息子を自分の娘の聟(むこ)にしたい旨の申し入れがあった。その時の常陸守はとても羽振りのいい勢力的な人物だったから、京へ返る途中で常陸守の娘との結婚が決まってしまい、今度は常陸国で四年の任期を共にすることとなった。妻を一人京へ残してきた夫は気が気でならず何度も手紙をしたためて使者を遣るが、妻の消息はつかめず、手ぶらで帰ってきたり、あるいは手紙を持ったなりそのまま行方不明になる者もいた。そのうちまた数年が経った。ようやく常陸国での任期を終えて、常陸守の娘を新しい妻とした男性が京へ上る頃には既に八年ばかりも過ぎていた。その間、妻とは一度も手紙一つやり取りできず、結果、ただいたずらに月日ばかり消耗させてしまっていたのだった。京に到着するや夫は常陸守の娘である妻を実家へ送り届けると自分の家へは寄らず、その足でただちに六の宮へ急いだ。たどり着いて屋敷を眺めてみる。築地塀は崩れているが残っている。だが四本の柱で建てられていた屋根付きの門は既に跡形もない。かつてあった寝殿の対の屋ももうない。ふつうは対の屋が妻の居場所のはずなのだが。見渡すと、家政全般を取り仕切る政所(まんどころ)が、あちこちに軋み歪みを見せながらもかろうじて残っている。庭は既に庭の様相を失って久しい様子である。従者に命じて周辺の家々を廻らせ、姫君の消息を尋ねさせてみた。が、もはや誰一人として知らなかった。
ところでかろうじて残っている政所を見ると僅かに人が住んでいる気配がする。近づいて声を掛けると中から一人の尼が出てきた。妻が用いる便器の掃除に当たっていた下級の使用人の母のようだ。
「政所屋の壊(やぶ)れ残(このり)たる所に、纔(わずか)に人住む様に見ゆ。寄(より)て人を呼べば、一人の尼出(いで)たり。月の明きに見れば、彼(か)の人のひすまし也(なり)し者の母にて有し女也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.51~52」岩波文庫)
その尼に着物を与え、この数年間の事情を聞き出した。すると尼は積もる思いの余り、どっと泣き出し、泣きながら語った。姫君をどうか探し出してあげて下さいまし、という。行方不明になっているということだろう。夫が任地へ赴いている間、消息を告げる手紙なりともありましょうと待っていたのですけれど、まったく届くことなく連絡は絶えてしまい、「お忘れになられてしまわれたのでしょう」との思いに沈んでしまいましたが、でもそれなりに何とかやりくりしつつ暮らしておりました。姫君の乳母の夫も二年ほどするとお亡くなりになり、誰も散り散りばらばらになってしまいここを去っていかれました。寝殿はここで暮らすための薪(たきぎ)に使っているうちに壊れて倒れてしまいました。また、姫君がいらっしゃった対の屋も先年の暴風で倒壊してしまい、道行く人々が生活物資として持ち去ってしまいました。姫君は使用人が使っていた詰所が空いていたのでそこで人目を忍びようにして日々を送っていらっしゃいました。
「尋ね奉(たてまつ)らせ給へかし。殿の国に下(くだら)せ給ひて後一年許(ひととせばかり)は、候(さぶらい)し人共も『御消息(みしようそく)や奉らせ給ふ』と待ち候(さぶらい)しに、掻絶(かきたえて)然る事も不候(さぶらわざり)しかば、『忘れ畢(はて)させ給ひにけるなめり』と思候(おもいさぶらい)しかども、自然(おのずか)ら過(すぐ)し候ひし程に、御乳母(めのと)の夫も二年許(ばかり)有て失せ給ひにしかば、露(つゆ)知り奉る人も不候(さぶらわ)で、皆散々(ちりぢり)に罷(まか)り去(の)き候ひにき寝殿は殿の内の人の焼物(たきもの)に罷成(まかりなり)て、壊(やぶ)れ候ひにしかば倒れ候(さぶらい)にき。御(おわ)しし対も只道行く人の壊(こほ)ち物に罷成(まかりなり)て、其れも一(ひと)とせの大風に倒れ候にき。御前は侍(さぶらい)の廊(ろう)にてなむ二、三間許(ばかり)をしつらひて、御坐(おわしま)す様にも無くて居させ給へりし」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.52~53」岩波文庫)
尼はいう。姫君の使用人を務めていた自分の娘が夫に付き従って但馬国(たじまのくに)へ帰っていきましたのですが、では京にいらっしゃる姫君のおそばにはどなたがお仕えしているのかと気になり、娘も但馬から再び京へ出て参ったのでございます。でももうその時には既に姫君のお姿は跡形もなく消え失せてらっしゃって、近くを尋ねて探し上げたのですが、どこにいらっしゃるのか遂にわからず仕舞いになったのでございます。夫はそれを聞き、無念の情を抑えることができず、溢れてくる涙をこらえることもできなくなってしまった。
だがしかし、泣いているばかりでは妻はどうなったのか、今はどこでどうしているか、わかるはずもない。そこで何か手掛かりになりそうなものでもと考え、妻の行方を探すことにした。藁履(わらぐつ)に笠(かさ)姿であちこち探して廻る。しかし手掛かり一つ掴めない。さては西の京の辺りでは、と考えた。というのも当時の平安京は大内裏の真ん中から南へ走る朱雀大路(すざくおおじ)を中心として、その西側は比較的寂れた侘しい地域と化していたからなのだが。
夫は一人、大内裏の南端を東西に横切る二条通を西へ向かって歩くことにした。大内裏を囲む土塀沿いに西へ向かおうとすると午後五時頃、天候が急変し見る見る時雨れてきた。朱雀門(すざくもん)は今の二条通と千本通との交差点の北にあった。その脇にL文型の付属施設があり「曲殿(まがりどの)」といった。夫はそこで雨宿りしようと中を覗くと、普段は無人のはずが、格子状の窓の中に誰か人の気配がする。
「『只足手の向(むき)たらむ方にて行て尋ねむ』と思(おもい)て、物詣(ものもうで)の様にて、藁履(わらぐつ)を着はき、笠を着て所々(ところどころ)を尋ね行(あり)くと云へば、更に不尋得(たずねえ)ざりければ、『若(もし)、西京(にしのきよう)の辺(ほとり)にや有らむ』と思(おもい)て二条より西様(にしざま)に、大垣に副(そい)て行く程に、申酉(さるとり)の時許(ばかり)に掻暗(かきくら)がりて、しぐれ痛く降れば、『朱雀門(しゆじやくもん)の前の西の曲殿(まがりどの)に立隠(たちかく)れむ』と思て立寄(たちより)たれば、連子(れんじ)の内に人の気(け)はひ有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.53~54」岩波文庫)
そっと寄って見ると、汚れて極めて穢(きたな)くなった莚(むしろ)を敷いて、その上に二人の人間が座っている。一人は年老いた尼。もう一人は若い女性。若い女性の体は随分痩せ衰え、枯れ木に蒼い影がかかったような朽ちぶり。ひどく汚れた莚に臥している。着物といっても牛に着せておく粗末な物を羽織っているばかりで、破れた莚を腰の辺りまで引き掛けて横になり手枕している。
「和(やわ)ら寄て臨(のぞ)けば、筵(むしろ)の極(きわめ)て穢(きたなげ)なるを曳き廻して人二人居たり。一人は年老たる尼也。一人は若き女の、極て痩(や)せ枯(かれ)て色青み影の様なる、賤(あや)しき様なる莚の破(やぶれ)を敷て、其れに臥したり。牛の衣の様なる布衣を着て、破(やぶれ)たる莚を腰に曳懸(ひきかけ)て、手抛(てまくら)して臥したり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.54」岩波文庫)
誰なのかもわからないが、横になる時に手枕をして寝るとは賤者にしては珍しい、と思った夫はもう少し近づいてみた。顔を覗き込んでよく見ると、まぎれもなく妻だ。暗澹たる気持ちで胸が掻きむしられそうになった。思わず見詰めてしまった。すると気配を察したのか、女性は、か細くも優美な声でいう。歌であろうか。
「手(た)枕の隙間(すきま)の風も寒(さむ)かりき身はならはしの物にぞ有(あり)ける」(「拾遺和歌集・巻第十四・九〇一・P.259」岩波書店)
よみ人知らずとして「拾遺和歌集」に載る一首である。「共寝していた頃は手枕の隙間から入ってくる風さえ寒く感じたものです。でも今やご覧のとおり。慣れてしまいました」、という意味。
夫は慌てていう。「なぜ、どうしてこんなふうにいらっしゃるのでしょう。探して見つけ出して参りましょうと思ってあちこち足の赴くまま、ここまでやって来たのですが」。やっと探し出した妻の体を抱き上げると妻も気づいたようだ。そして夫の顔を見ながらいう。「何と、遠くへ行ってしまわれたお方」。と、おそらくそれが最後の力だったのだろう、すぐに息を引き取り死んでしまった。
「『此(こ)は何(いか)に此(か)くては御(おわし)ましけるを。尋ね奉るとて此く迷ひ行きつるに』と云て、寄て抱けば、女㒵(かお)を見合せて、『早う遠く行(ゆき)にし人也けり』と思ふに、難堪(たえがた)くや有けむ、即ち絶入(たえいり)て失(うせ)にけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.55」岩波文庫)
夫はもしかしたら妻が生き返るかもと思い抱きしめてみたけれど、たちまち体は冷え切っていき、もはや死んだことを見届けると、その足で家には帰ることなく逆に愛宕護山(あたごやま)へ向かい、髻(もとどり)をすっぱり斬り落として世を捨てた。
「男暫(しばらく)は、『生(いき)や返る』と抱きたりけれども、やがて氷(ひ)え痓(すくみ)にければ、此く見成して、其れより家にも不行(ゆかず)して、愛宕護(あたご)の山(やまに)行(ゆき)て、髻(もとどり)を切て法師に成にけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第五・P.55」岩波文庫)
さて。この説話に顕著な変化を見ることにしよう。若い男性の妻の境遇である。それは二層に分割されている。第一に没落した宮家の一人娘。第二に家を去り京の巷を穢い莚で寝起きしながら死を待つばかりの、名を喪失した下賤の女性。女性はただ一人だが存在論的には二重化されている。身体は単体、しかし、二つの異なる価値観共同体に同時に属している。身体は一つだが二つの価値観へ分裂している。一方は共寝していても寒さを感じる身体。もう一方は独り寝していても寒いと思わない状態に慣れ切っている身体。体が一つに見えるからといってもしばしば精神はばらばらになることがあるという事情を、この若い妻は自らの《身体》の変化を通して語っている。そうさせたのは何か。夫を喪失していた時間である。夫婦になる前は独身が当たり前でありむしろその境遇を愛していた。夫婦になった後は夫を喪失している時間に耐えることができなくなる。結果的にもう夫は戻ってこないと判断したと同時に或る価値観を脱ぎ捨て別の価値観へ移動した。中心のない世界へ移った。脱中心化した。
妻は諸商品の無限の系列へ戻り、だけでなく、安定した一定の社会的位置を占める機会をも自ら捨て去った。そのため夫には永遠に償却不可能な債務が生じている。従って、夫は夫としての身分を捨てるとともに男性の象徴たる髻(もとどり)を斬り棄て、もう二度と山から降りてくることは許されない方向へ消え去った。その限りで始めて債権・債務関係は均衡を得ることができる。
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