白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/鬼神の速度

2021年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

かつて、九州「筑前国(ちくぜんのくに)塔坂(たうさか)」に道祖神を祀る祠があった。今の福岡県筑紫野市塔原(とうのばる)。八世紀建立とされる何らかの宗教施設があったことはわかっており、今は「塔原塔跡」といって、一基の塔心礎の遺跡が田んぼの傍にぽつんと残されている。

或る日、九州各地を流浪(るろう)して歩く修行僧が「筑前国(ちくぜんのくに)塔坂(たうさか)」付近を通過中、夜になり、この道祖神の祠のそばで宿を取ることにした。祠に寄りかかって眠っていると、真夜中頃、既にみんな寝ているだろうと思われる時間帯なのだが、大勢の馬と人々の声が近づいてくる音が聞こえる。すぐ近くまで来ると道祖神の祠の前を通りかかり、「道祖神はいらっしゃるか」と問いかける声がする。真っ暗闇なのでその姿はまったく見えない。

「道祖(さえ)在(まし)ますか」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

不思議に思った修行僧が耳を澄ますと道祖神の祠の中から返事が返ってきた。「おります」という。

「此の祠(ほこら)の内に、『侍(はべ)り』と答ふ音(こえ)有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

通りがかった一行は再び問いかける。「明日、武蔵寺(むぞうじ)にお参りなさるか」。

「明日は武蔵寺(むぞうじ)にや参り給ふ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

祠の中から返事がする。「いや、参らないが。そもそも何のことでありましょうか」。一行の側から説明がある。「明日、武蔵寺で新しく仏が出現なさるとのこと。そこで、<梵天(ぼんでん)・帝尺(たいじやく)・四大天王(しだいてんのう)・竜神八部(りゆうじんはちぶ)皆集(あつ)まり給ふ>。知っておられないのではなかろうか」。

「『明日武蔵寺に新(あたらし)き仏(ほとけ)可出給(いでたまうべ)しとて、梵天(ぼんでん)・帝尺(たいじやく)・四大天王(しだいてんのう)・竜神八部(りゆうじんはちぶ)皆集(あつ)まり給ふ』とは知り不給(たまわ)ざるか」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

すると祠の中から、「それはまだお聞きしていない。知らせて下さってありがたい。となれば必ず参って差し上げましょう」と返事がした。一行の側は伝える。「明日の午前十時頃。きっと参って下さい。お待ちしております」。

「然(さ)は明日の巳時許(みのときばかり)の事なる。必(かならず)参り給へ。待申(まちもう)さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

そう告げると大勢の馬と人々の声は過ぎ去って行った。このやり取りを聞いていた旅の僧は思う。「何と、鬼神が告げたのか」。

「此は早う鬼神(きじん)の云ふ事也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

翌日、旅の僧は夜が明けるやただちに武蔵寺へ参って周囲を見渡してみた。何か変わった事態が起こりそうな気配はまるでない。人っ子ひとり見えず、むしろ普段以上に静かな気がする。何か事情でもあるのだろうと仏の前でしばらく待っているともう正午近くになった。その時、七、八十歳くらいだろうか、翁(おきな)が歩いてやって来た。黒髪はすっかり無く、白髪さえほとんど残っていない頭で、もともと小柄な上にさらに腰が曲がっていて、杖に寄りかかっている。

「年(とし)七、八十許(ばかり)なる翁(おきな)の黒き髪も無くて、白しとても所々(ところどころ)有る頭(かしら)に、袋の様なる烏帽子(えぼうし)を押入れて、本(もと)よりも小(ちいさ)かりける男の、弥(いよい)よ腰屈(かがまり)をれば、杖に懸(かか)りて歩(あゆ)び来る、有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82~83」岩波文庫)

そのすぐ後ろを尼(あま)が付いてくる。尼は小型の黒い桶を肘にさげ持っている。何か入っているようだ。

「小(ちいさ)く黒き桶(おけ)に、何にか有らむ、物を入て、尼臂(ひじに)提(ささげ)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

お堂の前に着くと、翁は御仏の前で二、三度拝んだ。すると尼は持っていた桶を翁のそばに置いて「お坊さんを呼んで参ります」と言って去った。しばらく待っていると六十歳くらいの僧がやって来た。

「暫許(しばしばかり)有て、年(とし)六十許有る僧出来(いできたり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

僧は御仏の前にひざまずいて礼拝すると、翁に向かって何の用だろうかと問うた。翁はいう。「もはやいつ死ぬともわからない身になりました。白髪がほんの少しばかり残っておりますが、それも今日剃(そ)り落としてしまい、仏様の弟子になりたいと思ってやって参りました」。

「今日明日とも不知(しら)ぬ身に罷成(まかりなり)にたれば、此の白髪(しらが)の少し残(のこり)たる、今日剃(そり)て、御弟子(みでし)と罷成(まかりな)らむと思給ふる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

僧は何と貴い志(こころざし)だろうと思わず涙を拭いながら、それではさっそく、と出家の準備に取り掛かった。翁の頭をきれいに洗って残された白髪を剃り上げた。なんと桶に入れてあったのは頭を洗い浄めるための湯だった。

「此の小桶なりつるは早う湯也けり。其の湯を以て翁頭(かしら)を洗(あらい)て剃(そり)つ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

翁の頭はすっかり丸坊主になって受戒し、さらに御仏に礼拝すると、皆、その場を去って行った。後にはさらに何もない。静寂が戻っている。その光景を見ていた旅の僧は思った。「翁の出家・受戒を御仏が歓喜でお迎えなさるに当たって、天の神・地の霊がお集まりになると聞き、鬼神(きじん)も新しい仏様が出現されると道祖神に告げに来たに違いない」。

「然(さ)は、『此の翁の出家するを随喜(ずいき)し給』とて、天衆(てんしゆ)・地類(じるい)の集り給を聞て、鬼神(きじん)も『新(あたらし)き仏出給(いでたま)ふ』とは、道祖(さえ)には告(つぐ)るにこそ有けれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83~84」岩波文庫)

旅の僧は考え及んで深い感慨を覚えた。

ところで、なぜ桶には湯が入っていたのか。現場は二日市温泉街にほど近い。今の福岡県筑紫野市武蔵。武蔵寺は「藤の寺」として有名。大宰府に近いとはいえ何も梅ばかりが名物だとは限らない。「万葉集」に次の歌が見える。大伴四綱(おほとものよつな)が太宰府に赴任中の大伴旅人(おほとものたびと)に宛てて詠んだ。「九州でも藤の花盛りになっておりましょう。奈良の都を懐かしく思い出さないだろうか」と。

「藤波(ふじなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三〇・大伴四綱(おほとものよつな)・P.232」小学館)

同じ頃、太宰府にいる大友旅人は宴会で盛り上がっていた。酒にちなんだ歌を合わせて十三首詠んでいる。

「験(しるし)なきものを思(おも)はずは一坏(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三八・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大(おほ)き聖の言(こと)の宜(よろ)しさ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三九・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四〇・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするし優(まさ)りたるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四一・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「言はむすべせむすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四二・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四三・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まむ人をよく見ば猿にかも似る」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四四・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめやも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四五・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「夜(よる)光(ひか)る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るにあにしかめやも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四六・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「世の中の遊びの道にすずしきは酔(ゑ)ひ泣(な)きするにあるべかるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四七・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「この世(よ)にし楽しくあらば来(こ)む世(よ)には虫にも鳥にも我(われ)はなりなむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四八・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「生ける者(ひと)遂(つひ)にも死ぬるものにあればこの世(よ)なる間(ま)は楽しくをあらな」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四九・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「もだ居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三五〇・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

藤も梅も全然出てこない、といった様子。また、歌の中に「濁(にご)れる酒」とある。酒泉神話は世界各地で見られるが「今昔物語」にも載る。「其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ」とある。

「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)

純米酒の酒造法がまだなかった頃の説話。おそらく「マッカリ」に近いものだったと思われる。

さて。ここで問題になるのは、流通するもの、である。告知という形式でその内容は言語で伝達される。また、言語でしか伝達できない。そして告知内容を流通させてあちこち巡回するものこそ「鬼神(きじん)」である。道祖神は或る境界領域と別の境界領域とを画する場にある。旅の神であり、他所からの疫病の侵入防止を願って祀られた神である。さらに生殖を司る神でもある。なぜ生殖なのか。或る村落共同体と別の村落共同体との境(さかい)は両者を分割すると共に両者が出会う地点でもあるという両価性を担うからだ。道祖神には石を彫って人間の姿形を浮き彫りにしたものが多い。男性の形と女性の形とが一心同体にされているものが見られる。古代ギリシアにもそっくりなエピソードがある。

「メルクリウスとウェヌスとのあいだに生まれた男の子を、水の精たちがイダの山の洞窟で育てました。この子は、両親に生き写しの顔立ちでしたが、名前も、良心の名から取って、ヘルム=アプロディトスというのでした。十五歳になると、ふるさとの山を捨て、育ての親ともいうべきイダの山を離れました。見知らぬ国々をさまよい、はじめての河々を見ることが嬉しくて、そういう熱意が労苦を忘れさせていたのです。リュキアの町々や、リュキアに近いカリアにまでやってゆきます。底まで水の澄んだ池を見たのが、この地でのことだったのです。そこには、沼地の葦(あし)も、実のならない水草(みずくさ)も、先の尖った藺草(いぐさ)もありません。水は、すっかり透明なのです。ただ、まわりは、みずみずしい芝と、常緑の青草にとり囲まれています。この泉に、ひとりの妖精(ニンフ)が住んでいました。でも、彼女は、狩猟には向いていず、弓を引いたり、駈け比べをしたりする習慣もありません。水の精たちのなかではひとりだけ、俊足のディアナ女神とも馴染(なじ)みはないのです。姉妹たちは、よく彼女にこういったといいます。『サルマキス、投げ槍か、色美しい矢筒を手にしたらどうなの?そんな呑気(のんき)な暮らしのあいまに、猟のつらさを味わってみたら?』それでも、投げ槍や、色美しい矢筒を手にすることも、呑気な暮らしのあいまに狩りのつらさを味わうこともしないのです。自分の泉に美しいからだを浸したり、黄楊(つげ)の櫛(くし)で髪をといたりしては、どうすれば自分にいちばんよく似合うかを、水に写った姿に問いかけています。透けた薄衣(うすぎぬ)に身をつつんで、柔らかな木の葉や、しなやかな草のうえに身を横たえているかとおもうと、せっせと花を摘んだりしているのです。少年の姿をみとめて、とたんに彼を自分のものにしたいと思ったのも、たまたま花摘みの最中(さいちゅう)でした。すぐにも駈け寄りたいと思ったものの、でも、そうする前に、姿かたちを整え、着物のすみずみまでを見回し、顔をつくり、美しく見えるように努めました。それから、つぎのように口をきりました。『ねえ、お若いかた、まるで神さまのようにも見受けられますわ。もし神さまでいらっしゃるなら、さしづめクピードでいらっしゃいましょう。もし人間だとおっしゃるなら、ご両親こそおしあわせなかたですわ。ご兄弟もね。それに、もしいらっしゃるなら、ご姉妹も、それからお乳をさしあげた乳母さまも、さぞご幸福なことでしょうね。でも、そのかたたちみんなより、もっともっとおしあわせなのが、あなたのお許婚者(いいなずけ)、あなたが妻にと思っていらっしゃるおかたですわーーーそんなかたがいらっしゃるとして。ねえ、誰かそんなかたがおありなら、わたしは浮気のお相手でいいのですし、誰もおありでなければ、わたしをそういうものとお考えくださいません?わたしたち、結婚することにいたしましょうよ』水の精は、ここで言葉を切りました。少年の顔が赤くなります。愛とはどういうものか、それを知ってはいなかったからです。でも、赤くなったということが、かえって彼の美しさを増しています。日当たりのよい木に垂れさがった果実か、あるいは、赤く染めた象牙の色とでもいいましょうか。それとも、あのお月さまが蝕(しょく)をおこして、それを助けようとの鉦(かね)の音もむなしく、白銀(しろがね)の顔(かんばせ)が赤らみを帯びて来るーーーそんな様子とでも。妖精(ニンフ)は、せめて姉妹(きょうだい)の接吻をでもと、際限なく迫りながら、早くも、少年の白い項(うなじ)に手を回そうとしているのです。その彼女に『やめてったら!』と少年はいいます。『でなければ、あちらへ行くよ。きみにも、この場所にもさようならだ』サルマキスはおののいて、『この場所は、あんたに任せるわ。どうぞお好きなように、坊っちゃん!』といって、うしろを向いて立ち去るようなふりをします。が、それでも、少年のほうは、当然ながら、草原にはもう誰もいず、人に見られてはいないというつもりで、あちらこちらへ歩を運び、やがて、ひたひたと寄せる泉の水のなかへ爪先を、それから足を踝(くるぶし)まで、浸すのでした。とおもうと、猶予をおかず、こころより水の冷たさに心を奪われて、たおやかなからだから衣服を脱ぎ捨てます。するとどうでしょう、何とも好ましいその姿!サルマキスは、その裸身に焦がれて、燃え立ったのです。妖精(ニンフ)の両の目も、爛々(らんらん)と光ります。きらめく日輪が、向けられた鏡のなかにその姿を映し出すーーーそんなふうにとでもいいましょうか。もう、じっとしてはいられない彼女です。喜びを先へのばすことはもうできません。抱きしめたいと思う心がはやって、狂ったようになりながら、自分をおさえかねているのです。少年は、手のひらでからだを叩くと、さっと水にとびこみました。抜き手を切って泳いでいますが、澄んだ水の中でからだが光っているのが見えるのですーーーまるで、透明なガラスの箱にいれられた象牙の彫像か、白百合(しらゆり)の花ででもあるかのようです。『わたしの勝ちよ!とうとう手に入れたわ』水の精はそう叫びます。そして、衣服をすっかりかなぐり捨てると、ざぶんと水中に飛びこみました。あらがう相手をつかまえ、無理じいに接吻を奪うと、手を下へ回して、強引に胸にさわり、前後左右から少年に抱きつきます。ついには、必死にさからってのがれようとする相手に、蛇のように巻きつくのです。鷲(わし)につかまえられ、空高くへさらわれた蛇なら、ぶらさがりながら相手の頭と足にからみつき、広がった翼を尾で巻くでしょうーーーそんなふうなのです。あるいは、よく見かけるように、常春藤(きづた)が大きな木の幹にからんでいるありさまとでも、また、ヒドラの類が海中でとらえた敵を、四方にのばした触手でつかまえているさまとでも、いえばいえるでしょうか。アトラスの曾孫(ひまご)である少年は、頑張り抜いて、待望の喜びを妖精(ニンフ)に与えようとはしません。彼女は、からだを押しつけ、まるで糊(のり)づけされたかのように全身を合わせて、『あがくがいいわ、いたずら小僧さん』といいます。『どうしたって、逃げられないのよ。神さま、どうかお願いです、いついつまでもこのひとをわたしから、わたしをこのひとから、引き離さないでくださいますように!』この願いを、神々さまはお聞きいれになりました。つまり、ふたりのからだは混ざりあって合一し、見たところ、ひとつの形になってしまったのです。枝と枝を、樹皮につつんでつぎ木すると、成長するにつれてひとつになり、いっしょに大きくなって行くのが認められますが、ちょうどそのように、ふたりは、しっかりと抱きあって合体したのです。今や、彼らは、もうふたりではなくなって、複合体とでもいうべきものなのですが、女だとか男だとか称せられるものではなく、どちらでもなく、どちらでもあるというふうに見えるのです」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.151~156」岩波文庫)

こうある。「彼らは、もうふたりではなくなって、複合体とでもいうべきものなのですが、女だとか男だとか称せられるものではなく、どちらでもなく、どちらでもある」。どんなものにでも変化可能なもの。そこに貨幣にのみ与えられた特権的機能を見ないわけにはいかない。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)

ゆえにその場では定期的に市が立ち、祝祭が行われ、人々が諸商品を交換し合う場所として、次第に賑わいを増していくのである。諸所の道祖神を巡りながら情報を伝達していく「鬼神」の速度はこの場合、馬が走る速度と一致する。

BGM1

BGM2

BGM3