白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/如無とは誰か

2021年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

九世紀後半、「藤原の山陰(やまかげ)」が中納言を務めていた頃。たくさんの子どもに恵まれた。その中に一人の児(ちご)がいた。端正な顔立ちで、山陰は大切に育てていた。なかでもその児を特に可愛がっていたのはその児の継母(ままはは)に当たる女性だった。山陰以上にとても愛しんでいる様子。或る時、山陰は太宰府の長官に任命され九州に下ることになった。実際の記録には山陰が太宰府長官にも次官にも任じられた事実は確認されていない。が、それはこの説話には関係がないので特に触れる必要はないだろう。ともかく、ここで必要な条件は瀬戸内海の海運を通して地方の高官を歴任したことがなくては成立しない点を押さえておくことである。

九州に赴いている間、その児(ちご)をひとかたならず慈しんで育ててくれているので、この継母を信頼して児の養育を任せていた。一方、継母は頭の中で策略を図っている。「何とかしてこの児を殺害してやろう」と。山陰一行の船が「鍾(かね)の御崎(みさき)」という所を通り過ぎようとしていた時のこと。今の福岡県宗像郡玄海町にある岬付近。継母はその児を抱っこして小便させるふりを装い、船の欄干に近づき、誤って取り落としてしまったかのような格好を演じて児を海に投げ込んだ。

「而(しか)る間、中納言大宰(ださい)の帥(そつ)に成て鎮西(ちんぜい)に下(くだり)ける、継母を後安(うしろやす)き者に思(おもい)て有る程に、継母、『此の児(ちご)を何(いか)で失(うしない)てむ』と思ふ心深くして、鍾(かね)の御崎(みさき)と云ふ所を過(すぐ)る程に、継母此(こ)の児を抱(いだき)て、尿(ゆばり)を遣(や)る様にて取りはづしたる様にて海に落し入れつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.113」岩波文庫)

児を海に落としたことをすぐさま誰にも言わず、帆に風を受けて走る船の速度に合わせ、しばらく経った後、いきなり叫び声を上げた。「若君が海に落ちてしまいなさった!」。継母は泣き悲しんでどうしようもなく喚いているばかり。それを聞いた山陰は自分も海に身を投げ入れんばかりに果てしなく泣き迷ってしまった。

「其れを即(すなわち)は不云(いわ)ずして、帆を上(あげ)て走る船の程に暫許(しばしばか)り有て、『若君落入(おちい)り給ひぬ』と云て、継母叫(さけび)て泣きののしる。帥(そつ)此(これ)を聞て海に身も投許(なぐばかり)泣き迷(まど)ふ事無限(かぎりな)し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.113」岩波文庫)

山陰はもしあの児が死ぬようなことがあればせめて屍(しかばね)だけでも見つけて拾い上げるよう従者らに命じた。そして一旦船をここに留めて、船に積んである小舟を海に出させ、児の死体が見つかるまでは船を移動させないことに決定した。従者らは夜を徹して海上の捜索に当たった。だが児の姿は見つかるはずもない。ずっと捜索を続けたがとうとう夜明けが近づいた。その時。海面を見渡しているうちに浪の上に何か小さな白い物が視界に入った。「鷗(かもめ)だろう」と思って見ていると、船が近づいているにもかかわらず飛び立たないので不思議に思い、船を近づけてみた。すると児がかがみ込んで海の浪の上でばしゃばしゃと手を打ち叩いている。山陰は喜びながら船をより一層漕ぎ寄せてみた。すると大型の傘(かさ)ほどもある亀の甲羅の上にその児が乗っている。従者は喜びながら慌てて抱き上げた。そこで亀はすぐさま海底に消え失せた。

「海の面を見遣(みやれ)ば、浪の上に白(し)らばみたる小さき物見ゆ。『鷗(かもめと)云ふ鳥なめり』と思て、近く漕ぎ行くに、不立(たた)ねば、『怪し』と思て近く漕ぎ寄せて見れば、此の児の、海の上(う)へに打ちかがまりて居て、手を以て浪(なみ)を叩(たたき)て有り。喜び乍(なが)ら漕ぎ寄(よせ)て見れば、大笠許(おおがさばかり)なる亀の甲の上に此の児居たり。喜び迷(まどい)て抱(いだ)き取つ。亀は即ち海の底へ入ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.114」岩波文庫)

従者は抱き取った児を山陰が乗船している船に漕ぎ寄せて山陰に手渡した。山陰は涙ながらに抱きあげて喜んだ。継母は「あれれ?」と思いつつ、際限もなく泣き喚いて再会を喜んだ。継母が喜びのあまり泣き叫んでいる様子をそばで見て、山陰はこの児のためにますます継母の思いやりを頼もしく感じた。

夜を徹しての捜索だったため、山陰は昼になって眠気を催し、船にもたれ掛かったまま眠り込んでしまった。すっかり寝入っている間、次のような或る夢を見た。

現れたのは亀。船のそばに大型の亀が近寄ってきて頸(くび)を出し、何か山陰に伝えたいことがありそうな気配を見せている。そこで山陰が船の端に寄りかかって亀を見ると亀はいう。忘れてしまいなされたのでしょうか。以前、私が「河尻(かわじり)」(今の兵庫県尼崎市今福付近。淀川との合流地点にあった港)で鵜飼(うかい)に釣り上げられたのを買い取って海に解き放って下さった亀です。「どのようにして恩返しして差し上げようか」と思って年月を過ごしていたところ、九州へ赴任されることになられたと伺いました。「お見送りだけでもしよう」と思い御船に沿ってそばを泳いでおりました。そろそろ夜になる前、鍾が御崎に差し掛かると、継母が若君を抱き上げて船の欄干を打ち越させ、手から取り落としでもするかのような格好で若君を海中に投げ込んだので、それを私が甲羅の上で受け止めて御船に遅れてしまってはいけないと海を泳いで参ったわけでございます。今後、あの継母に心をお許しになってはいけません。

「忘(わすれ)させ給ひにけるや。一(ひ)と年(とせ)、我れ河尻(かわじり)にして鵜飼(うかい)の為に鉤(つ)り被上(あげられ)たりしを、買ひ取て令放(はなたし)め給ひし所の亀也。其の後、<何(いか)にしてか此の恩を報じ申さむ>と思(おもい)、年月を過(す)ぐるに、帥に成て下り給へば、<御送(おくり)をだにせむ>と思(おもい)て、御船に副(そい)て行く間に、夜前(やぜん)鍾が御崎にして、継母の、若君を抱て船の高欄(こうらん)を打越して、取(とり)はづす様にして海に落し入れしかば、其(それ)を甲の上に受取て、御船に不送(おくれ)じと掻参(かきまいり)つる也。今行(ゆ)く末(すえ)も此継母に打解(うちとけ)給ふ事無かれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.115」岩波文庫)

そう告げるや亀は海中に頸(くび)を引っ込めた。そこで夢が醒めた。思い返してみれば、先年、住吉(すみよし)に参詣に行った際、淀の渡りの辺りで鵜飼の船を見た。船には大型の亀が釣り上げられて顔を覗かせており、見ると目と目が合った。たいそう愛しげに思ったので着物を脱いで鵜飼に与え、亀を買い取り海に放してやった。「あの時の亀だな」、と気づいた。

「其後、思出(おもいいだ)すに、一と年住吉(すみよし)に参(まいり)たりしに、大渡(おおわたり)と云ふ所にして、鵜飼有て、船に乗て来るを見れば、大(おおき)なる亀一つ船より面(おもて)を指出て、我れに面を見合せたりしかば、極(きわめ)て糸惜(いとおし)く思(おぼ)えて、衣(きぬ)を脱(ぬぎ)て鵜飼に与へて、其の亀を買取て、海に放つ事有りき」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.115~116」岩波文庫)

とすれば、継母の不自然なほど大袈裟に泣き喚き立てていたことが逆に怪しく思い出される。極めて悪質なのかもしれない。そこで山陰は児に乳母を付け連れて自分が乗船している船に乗り換えらせた。九州の任地に着いても気がかりで仕方がない。継母とは別々の住居を与えて常に児の様子を見に行くことにした。継母は「ばれたな」と思い、どうにも言うことがなくなった。

「継母の怪(あやし)く様悪(さまあし)く泣き迷(まどい)つる、思ひ被合(あわさ)れて、極て憎(にく)し。然れば、其の後児(ちご)をば乳母(めのと)を具して我が船に乗せ移しつ。鎮西に下り着ても、心に懸(かか)りて後(うしろ)めたく思えければ、別の所に児をば令住(すましめ)て、常に行つつぞ見ける。継母其の気色を見て、『心得たる也けり』と思て、何(いか)にも云事無かりけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.116」岩波文庫)

そして五年の任期が終わり山陰は京へ返ることになった。京へ戻るとその児を法師にするよう取り計らった。法師の名は「如無(によむ)」とした。一度は死んだに等しい身である。よって「無きが如し」と名付けた。

「名をば如無(によむ)と付たり。既に失(うせ)たりし子なれば、『無きが如し』と付たる也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十九・P.116」岩波文庫)

如無は「山階寺(やましなでら)」(今の奈良県興福寺)に入り、その後は宇多院(うたいん)に仕え、大僧都になった。

さて。この説話には大きなテーマが二つある。第一に「亀の恩返し」。第二に「継子いじめ」。「亀の恩返し」は他の動物の報恩譚と同じパターン。両者の均衡は等価ではなく逆に著しく均衡を欠いている。人間社会の場合はニーチェのいう通り。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

債権者と債務者との均衡を得ることが目的とされている。ところが動物の恩返しの場合、柳田國男の指摘の通り、動物は幾らでも恩返ししてくる。貨幣による債権・債務関係など、「取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない」。

「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)

次に「継子いじめ」。この説話で児(ちご)は継母によって一度殺害されたに等しい。が、海の向こうから舞い戻ってきて、その後は稀に見る出世を果たす。稚児版シンデレラ形式を取っている。その意味では「貴種流離譚」でもある。しかしなぜ「継母・継子」なのか。この関係は社会が男性優位社会でなければ発生しないし発生する余地がない。日本が途方もなく遠い古代からずっと「男社会」だったことを示唆する目に見える証拠である。だが、そうであれば父権社会を母権社会に置き換えればそれで問題は解消されるかと考えると、そう単純なものでもない。「継父・継子」の間で虐待が起きるケースはもはや常識化している。だからといって、殺人事件の場合、家庭内殺人が最も多数を占めている現状では、今のような「男社会」のままでよいなどとは誰も思っていないに違いない。もっとも、何がなんでも「男社会」を誇りにするとともに継母による子殺しが永遠に続くことを願って止まないというのなら話は違ってくるだろうが。

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