前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
長和四年(一〇一五年)、藤原保昌(やすまさ)が「丹後(たんご)の守(かみ)」を務めていた頃。安昌は武芸に秀で、丹後国長官の職を務めると共に、郎等(部下・従者)を引き連れ、鹿狩を自らの生業のようにしていた。また、郎等(部下・従者)の一人に「弓箭(きゅうせん)」=「弓矢」に長けた者がおり、なかでも鹿狩にすぐれた腕前を発揮して安昌から特段の信頼を得ていた。
明後日にまた鹿狩を控えた日の夜、この郎等の夢の中に亡き母が出てきた。死んだ母がその子の夢に出てきたとしても何らおかしくはない。そして今や安昌から絶大な信頼を得ている息子に向かっていう。「いま、私は鹿の身になって丹後国の山野で暮らしています。明後日(あさって)に狩があるとのことですが、その狩の日に私は鹿としての命を終えることになるでしょう。そなたが弓矢に秀でていることは誰もが知ること。私がどう逃げようとしてもそなたの箭(や)から逃げ切ることはもはやできまいと思っています。だからよく聞いて下さい。大型の女鹿(めじか)が目の前に現れたら、その鹿こそそなたの亡き母だと心得て、けっして箭を射ることがないよう気を付けていて下さい。私は敢えて前に進み出てそなたの馬に走り寄ろうとするから、わかるだろうと思います」。
「明後日(あさて)の狩に我れ既に命終(おわり)なむとす。多(おおく)の射手(いて)の中を逃げ遁(のが)れむと為(す)るに、汝(なん)ぢ弓箭の道に極(きわめ)たるに依て、汝(なんじ)が手を難遁(のがれがた)かりなむ。然れば汝ぢ、大(おおき)ならむ女鹿(めじか)の出来(いできた)らむを見て、『此れ我が母也』と知て、射る事無かれ。我(わ)れ進(すすみ)て汝が所に懸(かからむ)とす」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
そこで夢は醒めた。郎等は亡き母を思い出し、懐かしい思い出で一杯になるだけでなく、射殺さないで欲しいという言葉から何か不吉な感じをも受け取り、胸騒ぎを覚えた。そして夜明け。郎等は体調不良を理由に次の鹿狩を辞退したいと安昌に申し出た。だが安昌はこの郎等の弓矢の腕前を見物するのが鹿狩の目的の大きな一つでもある。郎等の申し出を退けた。郎等は重ね重ね何度も辞退したいと述べた。すると安昌は怒り出していう。「明日の鹿狩に同行しないというのなら、おのれ、この場でただちに自害して自らの頸(くび)を差し出すべし」。
「此の狩、只汝が鹿を射(いむ)を可見(みるべ)き故也。而るに、何ぞ汝ぢ強(あながち)に此を辞する。若(も)し明日の狩に不参(まいら)ずは、速(すみやか)に汝が頸(くび)を可召(めすべき)也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
郎等は怯えて縮み上がってしまった。そこで密かに思う。たとえ狩には参上しても夢に出てきた亡き母の言葉を信じ、その鹿ばかりはけっして射殺さないよう気を付けないといけない、と。
「譬(たと)ひ参れりと云ふとも、夢の告(つげ)を不錯(あやまた)ず、其の鹿を不可射(いるべから)ず」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
鹿狩当日の二月二十日頃。頭一つ秀でた狩の腕にもかかわらず郎等は気乗りがしない。だが鹿狩が始まると郎等の腕前は否応なく群を抜いて際立つ。安昌も興奮して郎等の活躍に目を凝らしている。すると郎等の目前に七、八頭ばかりの鹿の群れが出現した。その中に一頭の大型の女鹿がいる。郎等は弓を持つ左手をしっかり握りしめ鎧(あぶみ)を馬の腹に固定して姿勢を整えるうちに夢で見たことをすっかり忘れてしまった。大型の獲物を射殺すことに集中している。箭(や)を放つと一撃で鹿の腹を片方からもう片方へ見事に貫き通してみせた。
「此の男七(ななつ)、八許(やつばかり)具(ぐし)たる大(おお)まけに値(あう)。其の中に大(おおき)なる女鹿有(あり)。弓手(ゆんで)に合(あわせ)て弓引て、鎧(あぶみ)を踏返(ふみかえし)て押宛馬(うまにおしあ)てて、掻あふる程に、此の男夢の告(つげ)皆忘れにけり。箭(や)を放(は)なつ。鹿の右の腹より彼方(かなた)に鷹胯(かりまた)を射通しつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
射られた鹿は倒れながら郎等を返り見る。倒れていく鹿の顔を見るとそれは何とまぎれもなく亡き母の顔。「痛いっーーー」。悲痛なわななきを聞くや郎等は夢に出てきた母の言葉を思い出した。悔いや悲しみや様々な情が入り混じるものの既に女鹿は死んでいくばかり。即死に近い。だが名もない一人の郎等に残された選択肢など知れたものだ。その場で馬から飛び降り、泣きながら弓矢を投げ棄て、あっと言う間もなく髻(もとどり)をばっさり切り落として出家してしまった。
「鹿被射(いら)れて見返(みかえり)たる㒵(かお)を見れば、現(あらわ)に我が母の㒵にして、『痛』など云ふ。其の時に男、夢の告を思出して、悔ひ悲(かなし)ぶとと云へども、甲斐(かい)無(な)くして、忽(たちまち)に馬より踊落(おどりおち)て、泣々(なくな)く弓箭(きゆうせん)を投棄てて、其の庭に髻(もとどり)を切て法師と成ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
安昌は驚いて理由を問いただした。郎等は先日見た夢について説明した。安昌はいう。「なぜそれをもっと先に言わなかったのか。話してくれていたなら今日の狩に参加させることはなかったというのに」。
「汝(なん)ぢ極(きわめ)て愚(おろか)也。何ぞ其の由を前に不云(いわ)ざる。我れ其の由を聞ましかば、汝が今日の狩の役を速(すみやか)に許してけれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
当時、不吉な影を落とす夢はよくないことが起こる前兆とされていた。だから安昌はそう言ったのだろうか。確かにそうだ。しかしそう言ったのはおそらく理由のうちの一つに過ぎない。安昌は丹後守(たんごのかみ)に赴任する直前、藤原道長の斡旋で和泉式部と結婚している。丹後へは妻・和泉式部も同行した。道長の名が出てくるのはなぜかというと、安昌は道長の家司(けいし)を務めているからでもある。家司(けいし)は親王・摂関・大臣、そして三位以上の家の家政を司る高級官僚。四位・五位に相当する。以前述べたが六位以下の場合は「下家司(しもけいし)」と呼ばれた。
さて。鹿について。あるいはなぜ鹿で《なければならなかった》のか。和泉式部は平安京の歌人として押しも押されもせぬインテリというばかりでなく全国各地を旅する勢力的な女性の象徴でもあった。柳田國男はいう。
「肥前と三河と、二箇所の足袋の由来を比べてみて、誰にも気の付くのは双方ともに、御本尊が薬師如来であったことである。これが我々にはなんらかの手掛かりを与えはしないだろうか。和泉式部が生れたという土地は、肥前の杵島郡を西の端にして、他の一端は陸中の和賀郡まで、京を除いても全国に七箇所、注意していたらなおこれ以上にも顕われて来るかも知れない。伝説の和泉式部は若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)、または大磯の虎などと同様に、たいそうもない旅行家であった」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・南無薬師」『柳田國男全集10・P.367~368』ちくま文庫)
和泉式部が旅する女性だったことは事実であり、さらに柳田が注目しているのは和泉式部の「足袋(たび)」に、である。足袋は言うまでもなく鹿の蹄と同じく二つに割れている。郎等の亡き母もまた足袋を履いていただろう。すると、安昌の妻としての和泉式部・安昌の郎等の亡き母・鹿の蹄はまっすぐ繋がってくる。フロイトが「夢判断」で見抜いているように夢の中ではすべての助詞が脱落する。言語と光景ばかりが脈略なく展開する。言い換えれば文法を破綻させた状態で、にもかかわらずアナロジー(類似・類推)を通して重ねて考えられるものはすべて二重・三重に押し重ねられ、《同一の価値》を与えられて出現する。また、夢は願望充足だとフロイトはいった。苦悩に満ちた夢であってもなお、それはむしろ自分自身を罰する欲望を果たすためとして十分に位置付けられる。
では郎等が、鹿としての亡き母を射殺すことに躊躇したとしても特におかしくはない。しかし郎等は夢に現れた警告をなぜ上司に当たる安昌に告げずに黙っていたのか。安昌には事後になってようやく告げている。とすれば郎等は鹿として出現するはずの亡き母を実のところは射殺したいと欲望したいと願っていたのだろうか。ところがそれは足袋(たび)を通して明確な繋がりを持つ鹿としての和泉式部・上司の妻をも同時に射殺すに等しい。実母・上司の妻・鹿。弓矢の腕前では安昌が一目も二目も置く郎等はそれを瞬時に貫き通した。ところが、夢に過ぎないにもかかわらず親殺しは逆罪(ぎゃくざい)でありけっして許されない重罪だった。郎等はそれを知っていて上司の安昌にわざと告げていない。告げたのは射殺した後、事後的かつ極めて事務的にである。聞かされた安昌は先に説明しておいてくれれば郎等を参加させることはなかったのにと言っている。そして安昌のさらなる上司は道長であって、もし安昌が親殺し=逆罪を犯すとすれば平安京の政治的大実力者・道長そのものに対して逆臣の立場に置かれることになる。だが当時の平安京の高級官僚の中では、もし安昌ほどの高い地位にいればそれはけっして不可能ではない状況にあった。安昌の政治的位置から見れば道長を射殺すことは、本当にやるとすれば、けっしてできない相談ではなかった。そうなれば道長ではなく安昌が平安京政府の実権を握ることになっていたに違いない。
諸商品の無限の系列として見た場合、「郎等の実母・郎等の上司の妻・鹿」がある。しかしそのどれも個別的な次元に留まる。ところがその三者が郎等の箭(や)で一つにまとめて貫かれた瞬間、郎等の欲望は郎等の上司・安昌の、道長に対する苛烈な権力意志へと置き換えられて表面化している。その点に着目しなくては丸見えになっている事情も見えないままただ単なるエピソードとして通り過ごしてしまうのかもしれない。郎等は鹿を射殺すや否やとっさに、何者かに取り憑かれでもしたかのようにたちまち髻を切り棄て法師になった。郎等は自身の男性の象徴を刀で斬り落とし世間をも棄てて去った。安昌の逆罪意志を引き受けた上で、それを鹿狩に置き換えて亡き母を射殺すことで、ともすれば上へ向かおうとしていた安昌の苛烈な逆罪意志を自分自身の側へ向け換え、世間から去った。ばらばらになっていた諸商品のそれぞれを箭(や)で貫き通して一つにまとめ上げ貨幣化し、その光り輝く太陽を誰もが直視できないうちに、ただちに髻をばっさり切り棄て事態の収拾を図った郎等。なお、本文ではその郎等の名前が入れられるはずの箇所は欠字のまま、これまでもこれからも永遠に空白となっている。ただ、山へ修行に入ったまま生涯ずっと降りてくることはなかった。
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長和四年(一〇一五年)、藤原保昌(やすまさ)が「丹後(たんご)の守(かみ)」を務めていた頃。安昌は武芸に秀で、丹後国長官の職を務めると共に、郎等(部下・従者)を引き連れ、鹿狩を自らの生業のようにしていた。また、郎等(部下・従者)の一人に「弓箭(きゅうせん)」=「弓矢」に長けた者がおり、なかでも鹿狩にすぐれた腕前を発揮して安昌から特段の信頼を得ていた。
明後日にまた鹿狩を控えた日の夜、この郎等の夢の中に亡き母が出てきた。死んだ母がその子の夢に出てきたとしても何らおかしくはない。そして今や安昌から絶大な信頼を得ている息子に向かっていう。「いま、私は鹿の身になって丹後国の山野で暮らしています。明後日(あさって)に狩があるとのことですが、その狩の日に私は鹿としての命を終えることになるでしょう。そなたが弓矢に秀でていることは誰もが知ること。私がどう逃げようとしてもそなたの箭(や)から逃げ切ることはもはやできまいと思っています。だからよく聞いて下さい。大型の女鹿(めじか)が目の前に現れたら、その鹿こそそなたの亡き母だと心得て、けっして箭を射ることがないよう気を付けていて下さい。私は敢えて前に進み出てそなたの馬に走り寄ろうとするから、わかるだろうと思います」。
「明後日(あさて)の狩に我れ既に命終(おわり)なむとす。多(おおく)の射手(いて)の中を逃げ遁(のが)れむと為(す)るに、汝(なん)ぢ弓箭の道に極(きわめ)たるに依て、汝(なんじ)が手を難遁(のがれがた)かりなむ。然れば汝ぢ、大(おおき)ならむ女鹿(めじか)の出来(いできた)らむを見て、『此れ我が母也』と知て、射る事無かれ。我(わ)れ進(すすみ)て汝が所に懸(かからむ)とす」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
そこで夢は醒めた。郎等は亡き母を思い出し、懐かしい思い出で一杯になるだけでなく、射殺さないで欲しいという言葉から何か不吉な感じをも受け取り、胸騒ぎを覚えた。そして夜明け。郎等は体調不良を理由に次の鹿狩を辞退したいと安昌に申し出た。だが安昌はこの郎等の弓矢の腕前を見物するのが鹿狩の目的の大きな一つでもある。郎等の申し出を退けた。郎等は重ね重ね何度も辞退したいと述べた。すると安昌は怒り出していう。「明日の鹿狩に同行しないというのなら、おのれ、この場でただちに自害して自らの頸(くび)を差し出すべし」。
「此の狩、只汝が鹿を射(いむ)を可見(みるべ)き故也。而るに、何ぞ汝ぢ強(あながち)に此を辞する。若(も)し明日の狩に不参(まいら)ずは、速(すみやか)に汝が頸(くび)を可召(めすべき)也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
郎等は怯えて縮み上がってしまった。そこで密かに思う。たとえ狩には参上しても夢に出てきた亡き母の言葉を信じ、その鹿ばかりはけっして射殺さないよう気を付けないといけない、と。
「譬(たと)ひ参れりと云ふとも、夢の告(つげ)を不錯(あやまた)ず、其の鹿を不可射(いるべから)ず」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)
鹿狩当日の二月二十日頃。頭一つ秀でた狩の腕にもかかわらず郎等は気乗りがしない。だが鹿狩が始まると郎等の腕前は否応なく群を抜いて際立つ。安昌も興奮して郎等の活躍に目を凝らしている。すると郎等の目前に七、八頭ばかりの鹿の群れが出現した。その中に一頭の大型の女鹿がいる。郎等は弓を持つ左手をしっかり握りしめ鎧(あぶみ)を馬の腹に固定して姿勢を整えるうちに夢で見たことをすっかり忘れてしまった。大型の獲物を射殺すことに集中している。箭(や)を放つと一撃で鹿の腹を片方からもう片方へ見事に貫き通してみせた。
「此の男七(ななつ)、八許(やつばかり)具(ぐし)たる大(おお)まけに値(あう)。其の中に大(おおき)なる女鹿有(あり)。弓手(ゆんで)に合(あわせ)て弓引て、鎧(あぶみ)を踏返(ふみかえし)て押宛馬(うまにおしあ)てて、掻あふる程に、此の男夢の告(つげ)皆忘れにけり。箭(や)を放(は)なつ。鹿の右の腹より彼方(かなた)に鷹胯(かりまた)を射通しつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
射られた鹿は倒れながら郎等を返り見る。倒れていく鹿の顔を見るとそれは何とまぎれもなく亡き母の顔。「痛いっーーー」。悲痛なわななきを聞くや郎等は夢に出てきた母の言葉を思い出した。悔いや悲しみや様々な情が入り混じるものの既に女鹿は死んでいくばかり。即死に近い。だが名もない一人の郎等に残された選択肢など知れたものだ。その場で馬から飛び降り、泣きながら弓矢を投げ棄て、あっと言う間もなく髻(もとどり)をばっさり切り落として出家してしまった。
「鹿被射(いら)れて見返(みかえり)たる㒵(かお)を見れば、現(あらわ)に我が母の㒵にして、『痛』など云ふ。其の時に男、夢の告を思出して、悔ひ悲(かなし)ぶとと云へども、甲斐(かい)無(な)くして、忽(たちまち)に馬より踊落(おどりおち)て、泣々(なくな)く弓箭(きゆうせん)を投棄てて、其の庭に髻(もとどり)を切て法師と成ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
安昌は驚いて理由を問いただした。郎等は先日見た夢について説明した。安昌はいう。「なぜそれをもっと先に言わなかったのか。話してくれていたなら今日の狩に参加させることはなかったというのに」。
「汝(なん)ぢ極(きわめ)て愚(おろか)也。何ぞ其の由を前に不云(いわ)ざる。我れ其の由を聞ましかば、汝が今日の狩の役を速(すみやか)に許してけれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)
当時、不吉な影を落とす夢はよくないことが起こる前兆とされていた。だから安昌はそう言ったのだろうか。確かにそうだ。しかしそう言ったのはおそらく理由のうちの一つに過ぎない。安昌は丹後守(たんごのかみ)に赴任する直前、藤原道長の斡旋で和泉式部と結婚している。丹後へは妻・和泉式部も同行した。道長の名が出てくるのはなぜかというと、安昌は道長の家司(けいし)を務めているからでもある。家司(けいし)は親王・摂関・大臣、そして三位以上の家の家政を司る高級官僚。四位・五位に相当する。以前述べたが六位以下の場合は「下家司(しもけいし)」と呼ばれた。
さて。鹿について。あるいはなぜ鹿で《なければならなかった》のか。和泉式部は平安京の歌人として押しも押されもせぬインテリというばかりでなく全国各地を旅する勢力的な女性の象徴でもあった。柳田國男はいう。
「肥前と三河と、二箇所の足袋の由来を比べてみて、誰にも気の付くのは双方ともに、御本尊が薬師如来であったことである。これが我々にはなんらかの手掛かりを与えはしないだろうか。和泉式部が生れたという土地は、肥前の杵島郡を西の端にして、他の一端は陸中の和賀郡まで、京を除いても全国に七箇所、注意していたらなおこれ以上にも顕われて来るかも知れない。伝説の和泉式部は若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)、または大磯の虎などと同様に、たいそうもない旅行家であった」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・南無薬師」『柳田國男全集10・P.367~368』ちくま文庫)
和泉式部が旅する女性だったことは事実であり、さらに柳田が注目しているのは和泉式部の「足袋(たび)」に、である。足袋は言うまでもなく鹿の蹄と同じく二つに割れている。郎等の亡き母もまた足袋を履いていただろう。すると、安昌の妻としての和泉式部・安昌の郎等の亡き母・鹿の蹄はまっすぐ繋がってくる。フロイトが「夢判断」で見抜いているように夢の中ではすべての助詞が脱落する。言語と光景ばかりが脈略なく展開する。言い換えれば文法を破綻させた状態で、にもかかわらずアナロジー(類似・類推)を通して重ねて考えられるものはすべて二重・三重に押し重ねられ、《同一の価値》を与えられて出現する。また、夢は願望充足だとフロイトはいった。苦悩に満ちた夢であってもなお、それはむしろ自分自身を罰する欲望を果たすためとして十分に位置付けられる。
では郎等が、鹿としての亡き母を射殺すことに躊躇したとしても特におかしくはない。しかし郎等は夢に現れた警告をなぜ上司に当たる安昌に告げずに黙っていたのか。安昌には事後になってようやく告げている。とすれば郎等は鹿として出現するはずの亡き母を実のところは射殺したいと欲望したいと願っていたのだろうか。ところがそれは足袋(たび)を通して明確な繋がりを持つ鹿としての和泉式部・上司の妻をも同時に射殺すに等しい。実母・上司の妻・鹿。弓矢の腕前では安昌が一目も二目も置く郎等はそれを瞬時に貫き通した。ところが、夢に過ぎないにもかかわらず親殺しは逆罪(ぎゃくざい)でありけっして許されない重罪だった。郎等はそれを知っていて上司の安昌にわざと告げていない。告げたのは射殺した後、事後的かつ極めて事務的にである。聞かされた安昌は先に説明しておいてくれれば郎等を参加させることはなかったのにと言っている。そして安昌のさらなる上司は道長であって、もし安昌が親殺し=逆罪を犯すとすれば平安京の政治的大実力者・道長そのものに対して逆臣の立場に置かれることになる。だが当時の平安京の高級官僚の中では、もし安昌ほどの高い地位にいればそれはけっして不可能ではない状況にあった。安昌の政治的位置から見れば道長を射殺すことは、本当にやるとすれば、けっしてできない相談ではなかった。そうなれば道長ではなく安昌が平安京政府の実権を握ることになっていたに違いない。
諸商品の無限の系列として見た場合、「郎等の実母・郎等の上司の妻・鹿」がある。しかしそのどれも個別的な次元に留まる。ところがその三者が郎等の箭(や)で一つにまとめて貫かれた瞬間、郎等の欲望は郎等の上司・安昌の、道長に対する苛烈な権力意志へと置き換えられて表面化している。その点に着目しなくては丸見えになっている事情も見えないままただ単なるエピソードとして通り過ごしてしまうのかもしれない。郎等は鹿を射殺すや否やとっさに、何者かに取り憑かれでもしたかのようにたちまち髻を切り棄て法師になった。郎等は自身の男性の象徴を刀で斬り落とし世間をも棄てて去った。安昌の逆罪意志を引き受けた上で、それを鹿狩に置き換えて亡き母を射殺すことで、ともすれば上へ向かおうとしていた安昌の苛烈な逆罪意志を自分自身の側へ向け換え、世間から去った。ばらばらになっていた諸商品のそれぞれを箭(や)で貫き通して一つにまとめ上げ貨幣化し、その光り輝く太陽を誰もが直視できないうちに、ただちに髻をばっさり切り棄て事態の収拾を図った郎等。なお、本文ではその郎等の名前が入れられるはずの箇所は欠字のまま、これまでもこれからも永遠に空白となっている。ただ、山へ修行に入ったまま生涯ずっと降りてくることはなかった。
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