白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/震旦(しんだん)ノ予洲(よしう)・厠(かわや)の前に出現した鬼

2021年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「震旦(しんだん)ノ予洲(よしう)」(今の中国河南省・安徽省周辺)に恵果和尚(ゑくわわじやう)という高僧がいた。宋の時代(四二〇年~四七九年)の初頭、その都に入り、瓦官寺(ぐわくわんじ)という寺に住んで法華経・十字経などの経典の読誦に専心した。宋の「京師(けいし)=都」は「建康」(今の江蘇省南京)。

「宋(そう)ノ代ノ始メニ京師(けいし)ニ入(いり)テ、瓦官寺(ぐわくわんじ)ト云フ寺ニ留マリ住(ぢうし)テ、法花(ほくゑ)・十地(じふぢ)等ノ経ヲ読誦(どくじゆ)スルヲ業トス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.127」岩波書店)

或る時、恵果は厠(=便所)の前で一人の鬼と出くわした。鬼は恵果を見つけるといきなり取って喰うかというとそうでもなく、逆にうやうやしく改まった態度で近づき、こういった。「私は昔、お寺に務めておりまして、その寺の事務員をやっていた者です。実は事務局にいた時、少々誤りを犯してしまいました。だからでしょう、今は地獄で糞尿をがつがつ喰らいながら終わりの見えない世界へ堕ちています。ところで和尚は大変徳が高く、慈悲心に満ち溢れ、その恵(めぐみ)は殊(こと)にすぐれていらっしゃると伺っております。そこでもし出来ることならば、私を糞尿地獄の苦しみから助け出し、救って頂きたいのです。私は以前、三千の銭を持ち出して、どこそこの所にある柿の木の下に埋めて隠しておきました。それを掘り出して是非とも私の供養をしてもらいたいのです」。

「我レ昔シ、前(さき)ノ世ニ衆僧(しゆそう)ノ為ニ維那(ゆいな)ト成レリキ。而(しか)ルニ、少(す)コシ、誤(あやま)テリシ事有(あり)シニ依(より)テ、今糞ヲ噉(はめ)ル鬼ノ中ニ堕(おち)タリ。聖人(しやうにん)ハ、徳高クシテ業(げふ)明カニ、慈悲広大ニシテ利益殊勝(りやくしゆしよう)ニ在(ましま)スト聞ク。願(ねがは)クハ、我ガ此ノ苦ヲ助ケ救ヒ給(た)マヘ。我レ昔シ、銭三千ヲ持(も)テ、然々(しかしか)ノ所ノ柿(かき)ノ下(もと)ニ埋(うづ)メリキ。其ノ銭ヲ掘(ほ)リ出(い)デテ、我ガ為ニ功徳(くどく)ヲ修(しゆ)シ給ヘ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.127~128」岩波書店)

鬼は恵果にその柿の木の場所を教えた。恵果は寺の雑用に従事する僧らに命じて掘らせてみると実際に三千の銭が出てきた。そこで法華経一部(巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八)を写経し、その鬼のために法会を開いて供養してやった。しばらく経った或る夜、恵果の夢の中にその鬼が出てきた。恵果に向かって丁寧に礼拝するとこう述べた。「和尚様の功徳によって私は今や鬼道から解放され、新しい人生を生き直せることとなりました」。

「我レ、既ニ聖人(しやうにん)ノ徳ニ依ルガ故ニ、鬼ノ道ヲ免(まぬか)レテ生ヲ改(あらたむ)ル事ヲ得タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.128」岩波書店)

その途端、ふっと恵果の夢は覚めた。

さて。この説話には四箇所の異界が出てくる。第一に「厠(かわや)」。古代から便所は異界性を帯びた特別な空間と見做されてきた。厠神(かわやがみ)伝説は日本にも数多い。水洗トイレの普及とともになくなるかと思えばそうではなく、今度は学校や職場でのいじめの場所へと様変わりし、今なお被害者の怨念を残す領域へ変化しつつ様々な怪異伝説を生み出し続けている。

第二に「柿の木」。本朝部から幾つか取り上げてきたように「不成(なら)ヌ柿ノ木」は或る共同体と別の共同体との境にある。「巻第二十・第三話・天狗(てんぐ)、仏(ほとけ)と現(げん)じて木末(こずえ)に坐(いま)せる語(こと)」に、今の京都市下京区五条西洞院薮下町・「五条の道祖神(さえのかみ)」にあった不成(なら)ぬ柿の木に黄金に光り輝く仏が出現した話が見える。周囲は宮中の貴人から下々の衆まで大勢の人々が拝みにやってきてごった返した。しかしなぜ仏でなく天狗の所業だとばれたのか。木の梢(こずえ)はそもそも鬼の定位置であり、そこに仏が出現するとはいかにも不審。そう思った「光(ひかる)の大臣(おとど)」によって正体を見破られ、天狗は翼の折れた屎鵄(くそとび=のすり)と化して木から落ちた。また「巻二十八・第四十話・以外術被盗食瓜語(ぐゑずつをもつてうりをぬすみくはるること)」では、一人の翁が現れて運送請負人一行が籠に積み込んで運んでいた沢山の瓜をあっという間に場所移動させて皆で食ってしまい、籠の中に積み込んでおいたはずの瓜を空っぽにして見せた。そこも大和国(やまとのくに)から平安京への入口に当たる宇治市六地蔵の辺りにあったという「不成(なら)ヌ柿ノ木」の木陰。五条の道祖神も宇治市六地蔵付近も長く「境(さかい)」として位置付けられていた。或る共同体と別の共同体との間に位置し、そこを境界線として両者の秩序〔価値体系〕が異なる地点。だから古くから取引・交換・売買・交易の場として栄えた歴史を持つ。

第三に「糞と銭」。フロイトは「贈物」という概念を通して、幼児の糞便と大人の金銭とをアナロジー(類似・類推)で結びつけた。

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

さらにメラニー・クラインはこう述べている。

「子どもの内のサディスティックな攻撃性はその対象として父親と母親の両方を選び、父親と母親も子どもの空想の中で、殴られ、ずたずたに裂かれ、切られ、細切れに踏みにじられるのである。しかし、子どものこの攻撃性は、結合した両親から罰せられるのではないか、との不安を呼び起こす。そしてこの不安はまた、対象の口愛-サディズム的取り入れによって中和され、かくして早期の超自我形成に向かってすでに方向づけられている。ーーーー私の経験では、母親の身体に向けられる空想化された攻撃性では、かなりの部分が尿道愛的サディズムや肛門愛的サディズムによって占められて、それらは口愛的サディズムや筋肉サディズムのすぐ後につけ加えられてきたのであった。空想においては、排泄物は危険な武器に変えられるーーーすなわち、おもらしは切ったり刺したり火をつけたり水浸しにしたりすることとみなされるし、糞塊は武器や飛び道具と同等のものとみなされる。今まで述べた時期の後半になると、このような攻撃性の荒々しい様相は、サディズムが工夫できる最も手のこんだ方法による《隠れ襲撃》という形に変化する。かくして、排泄物は有毒物質と同等にみなされるようになる」(メラニー・クライン「自我の発達における象徴形成の重要性」『メラニー・クライン著作集1・P.265~266』誠信書房)

だからといって、子どものサディズム的衝動をすべて奪い取ってしまえばいいかというと、そうではないとデリダはいう。メラニー・クラインを参照しつつ一定程度のサディズムは必要であり、もしそれがまったくなければいかなる学習能力も人間から消え失せてしまうだろうと。

「フリッツには、彼が《文字を書いて》いる時には、行は道を意味し、文字はその道ーーーいわばペンーーーの上を二輪車に乗ることを意味していた。例えば‘i’と‘e’は1台の二輪車に乗って一緒に走っていてーーー‘i’が通常運転していたが──現実の世界ではまったく見ることのできないような優しさで、2人はお互いに愛しあっていた。というのは、2人はいつも互いに一緒に乗っているので、大変似てきてお互いの相違もほとんどなくなってしまっていた。というのは、‘i’と‘e’は初めも終りも同じであり、ーーー彼はラテン語の小文字アルファベットの話をしているのだがーーー‘i’は真ん中に小さなストロークをもっており、‘e’は小さな穴をもっているだけであった。ゴシック文字の‘i’と‘e’は、彼によると、それらは1台の二輪車に乗っているが、ゴシックの‘e’は、小さな箱をもっているのに対して、ラテン語の<e>は小さな穴をもっているといった別の型の二輪車のような違いにすぎなかった。‘i’たちは、非常に技術がうまくて優れて賢いし、たくさんの武器をもち、洞穴ーーーその間には多くの山や庭や港があるがーーーに住んでいた。それらはペニスを意味し、それらの道は性行為を意味していた。一方、‘I’たちは、バカで無器用でなまけもので汚いことを意味していた。彼らは地下の穴で生活していた。‘L’の街では、ゴミと紙が道路に集まっていた。ーーーその小さな‘汚ならしい’家々の中では、‘I’の国で買った染料を水とまぜて、ワインとして飲んだり売ったりしていた。彼らはうまく歩くことができず、鍬を反対にもっているので掘ることもできない、といった具合であった。‘I’という文字はいわば糞便を意味していることもわかった。このように、いろいろな空想が他の文字に対しても話された。かくて、彼は、空想がこの制止の説明と解釈を与えてくれるまで、2つ続く‘S’を書けなくて、いつも1つだけ書いていた。‘S’の1つは彼自身であり、他は彼の父親であった。彼らはモータボートに乗って一緒にでかけた。というのも、ペンはまたボートを意味しており、ノートは湖を意味していたからである。彼自身である‘S’は、他の‘S’が所有しているボートに乗り込んで、すばやく湖に船出していった。これが、なぜ彼が2つ続きの‘S’を同時に書けなかったかの理由であった。彼は長い‘S’の代わりによく普通の‘S’を使ったが、それは、こうして取り残された長い‘S’の部分は彼にとっては‘人の鼻を持ち去られるようなもの’、という事実に基づいて決定されていたことがわかった。この誤りが父親に対する彼の去勢願望のためであることがわかったので、そう解釈すると、その誤りは消失した」(メラニー・クライン「子どものリビドー発達における学校の役割」『メラニー・クライン著作集1・P.75~76』誠信書房)

第四に「夢」。これについては前回「巻第六・第二十二・震旦貧女(しんだんのまづしきをむな)、銭供養薬師像得富語(ぜにをやくしのざうにくやうしてとみをえたること)」で述べた。「言語流通装置《としての》夢」についてはさらに述べる機会があるだろう。

翻って江戸時代の日本。「厠(かわや)」の中から消えて二十年間行方不明だった男性が再び出現した説話が「耳袋」に見える。寛延(かんえん)宝暦(ほうれき)の頃(一七四八年〜一七六三年)。江州八幡(今の滋賀県近江八幡市)に松前市兵衛(まつまえいちべい)という、そこそこ富裕な男性がいた。財産と妻を残し突然行方不明になってしまい、金銀を惜しまず捜索に当たったが発見できない。妻は仕方なく、夫の市兵衛が行方不明になった日を命日とし、別の男性を迎えて再婚した。市兵衛がいなくなった時の状況は次の通り。

或る夜、市兵衛は「用場(ようば)」(便所)へ行くといって下女に灯火を持たせて「厠(かわや)」へ行った。下女が外で待っているといつまで経っても市兵衛は出てこない。市兵衛の妻は最初、下女に下心があるのではと疑った。で、厠へ行って見てみると下女は厠の外でただ突っ立って待っているばかり。不審に思った妻は厠の前から声をかけてみた。「なぜこんなに長いのですか」。ところが一向に返事がない。思い切って戸を開けてみるともはや市兵衛の姿は消え失せていた。

「彼の失せし初めは、夜に入り用場へ至り候とて下女を召連れ、厠(かわや)の外に下女は灯(とも)し火を持ち居しに、いつまで待てども出でず。妻は、右下女に夫の心ありやと疑いて、かのかわやに至りしに、下女は戸の外に居しゆえ、『何ゆえ用場の永き事』と表よりたずね問いしに、いっこう答えなければ戸を明け見しに、いずち行きけん行方なし。かかる事ゆえそのみぎりは、右の下女など難儀せしとなり」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.407』平凡社ライブラリー)

それから二十年ほどが過ぎた或る日。厠の中から人を呼ぶ声が聞こえる。行って見ると行方不明になっていた市兵衛がいる。いなくなった時に身に付けていた服装のままだ。人々は仰天して一連の事情を語って聞かせたが、これといった反応はない。腹が減っているらしく食事は沢山取った。しばらくすると着ている衣服が埃のように消え失せ、市兵衛は素っ裸になってしまった。そこですぐさま衣類を着せて薬を飲ませたりしてみたところ、二十年前に自分が厠の中から消え失せてしまったことなど何一つ覚えていない様子。病気を患っているように見えるので、その種の祈祷師など呼んで加持祈祷してもらったりしたけれども全然効果がなかった。

「しかるに二十年ほど過ぎて、或日かのかわやにて人を呼び候声聞えしゆえ、至りて見れば、右市兵衛、行方なくなりし時の衣服に少しも違いなく坐し居しゆえ、人々大きに驚き、『しかじかの事なり』と申しければ、しかと答えもなく、空腹の由にて、食を好む。さっそく食事などすすめけるに、暫くありて着し居候衣類も、ほこりのごとくなりて散りうせて裸になりしゆえ、さっそく衣類を与え薬などあたえしかど、何かいにしえの事覚えたある様子にもこれなく、病気或いは痛む所などの呪(まじない)などなしける由」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.407~408』平凡社ライブラリー)

その後、既に妻は再婚しているので、妻と、再婚した夫と、そこへかつての夫である市兵衛を交え、奇妙な新生活が始まったという。しかしこの、厠を中継点とした「二十年の不在」説話が一体何と関係するのか、よくわからない。時代背景としては、地方の人口減少が露わになり始め、疲弊するばかりの農村の実情や一揆の多発がある。説話に宝暦(ほうれき)の頃とある。宝暦が終わり明和(めいわ)になるが、明和二年、幕府は間引き厳禁令を出した。労働力確保のためだが、しかし農村で子どもが生まれないわけではない。ところが生きていくためには生まれてきた嬰児をすぐさま殺すほか農民らは食べていくすべがなかった。流産は当時、大変な危険を伴う処置であり母子とも同時に死ぬ場合が多かった。なので生まれたばかりの嬰児の鼻と口を塞いで窒息死させる。それが間引き。産婆がその役割を引き受けていた。もし産婆がいない場合はどうしたのだろう。例えば厠で用を足している時、うっかりして手が滑り、生まれたばかりの嬰児をそのまま取り落としてしまったという話なら幾らでもある。

逆に幕府の役人が地方を巡回して廻ると、農民らはしばしば酒びたりになっていたり、どんちゃん騒ぎでまともに畑仕事に出ていない光景ばかりが目に付くようになる。だから幕府に上げられてくる情報は地方の疲弊というより地方の農民は仕事をさぼりがちだというマイナス・イメージばかりが行き交い、実態に即した情報は中央政府に届かなくなりつつあった。徳川幕藩体制という政治構造の中では、農民らの暮らしを苦しめて止まない不安定な労働環境という項目は、ともすれば覆い隠されてしまうのである。ただ明治近代になって柳田國男が「遠野物語」の中でこっそり、わかるようにしかわからないような形式で、農山村の悲惨さを報告してはいるのだが。

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