前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
寛仁三年(一〇一九年)辺り、「源(みともと)ノ行任(ゆきたふ)」が「越後(ゑちご)ノ守(かみ)」を務めていた頃。越後国の海辺に「小キ船」が打ち寄せられているのが発見された。船の横幅は約75センチ、高さは約6センチ、全長は約3メートル。
「広サ二尺五寸、深サ二寸、長サ一丈許(ばかり)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.482」岩波書店)
最初それを見た人々は、誰かが悪戯半分でこんなことをやったのだろうと思っていた。しかし近づいてよく観察してみると、この小船の「鉉(はた)」(縁)に30センチずつ間を置いて操舵のための舵(かじ)の痕跡があるのに気づいた。何度も繰り返し使用していたらしくその箇所は擦られて相当すり減っている。
「吉(よ)ク見レバ、其ノ船ノ鉉(はた)一尺許(ばかり)ヲ迫(はさま)ニテ、梶(かぢ)ノ跡有リ。其ノ跡、馴(な)レツフレタル事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
観察しながら人々はいう。「これは明らかに人間の乗り物と考えて間違いない」。それにしても、一体どんな「少人(せうじん)」(こびと)が乗船して来た船なのだろうか、と不審に堪えない。「漕ぐのを見たとすれば、あたかも蜈蚣(むかで)が手足を揃えて動いていくように映って見えるだろう。何とも珍しいものだ」、と言い合った。
「『現(あらは)ニ人ノ乗タリケル船也ケリ』ト見テ、『何也(いかなり)ケル少人(せうじん)ノ乗タリケル船ニカ有ラム』ト思テ、奇異(あさまし)ガル事無限(かぎりな)シ。『漕(こぐ)ラム時ニハ、蜈蚣(むかで)ノ手ノ様(やう)ニコソハ有ラメ。世ニ珍(めずらし)キ物也』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
差し当たり越後国長官・源行任(ゆきたう)の「館(たち)」(官舎)へ運び込まれた。行任もそれを見るや実に不可解な印象を持った。理解できないうちは誰もが不気味に思うのだろう。ところが年配者の中には記憶に残っている者がいたようで、こう語った。「これまでにもこのような小船が漂着したことがあった」と。
「前々(さきざき)此(かか)ル小船(こぶね)寄ル時有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
年配者の記憶は確からしい。説話ではそこから考えられようこととして、さらに次の補足がある。「このサイズを用いる人々がきっといるに違いない。また越後国の海辺に打ち上げられていたことからみて、それは日本の北方にある世界に違いない。このように越後国に何度も打ち上げられた過去があったというのだから。さらになお、越後国以外のところにこの種の小船が打ち上げられたという話は聞いたことがない」。
「其ノ舟ニ乗ル許(ばかり)ノ人ノ有ルニコソハ。此(ここ)ヨリ北ニ有ル世界ナルベシ、此(か)ク越後ノ国ニ度々(たびたび)寄(より)ケルハ。外(ほか)ノ国ニハ此(かか)ル小船寄タリトモ不聞(きこ)エズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
説話で書かれている「世界」というのは外国という意味ではなく「異境」を意味する用語。日本とはまた違った異なる秩序〔価値体系〕を持つ世界が越後国の北方に間違いなくあると考えられていた。もしそれが高麗(こま・こうらい)ならそう書かれているはずであり、実際、他の説話を見ると高麗からの使者が来日する海上ルートは、途中に位置する幾つかの島で食料補給を行い、今の福井県敦賀を入港先として特定されていた時代の出来事である。とすれば、まだはっきりわかっていない他の秩序〔価値体系〕に則って運営されている国家あるいは地域共同体があったと考えるのがより自然だろう。従ってこの説話は、或る共同体A(越後国)と別の共同体B(少人の国)との接触点が海岸線のどこかにあったことを示唆している。逆に大人(身長約180センチ以上)は列島各地の山間部でしばしば目撃されていて「山人(さんじん)」と呼ばれていた。漂着した小船のサイズは説話ゆえに誇張があるとしても、何度か接触した事実があったのは間違いない。海岸線は山間部の村落共同体の境界線を区切るように設置される道祖神と同じく或る秩序〔価値体系〕を持つ共同体と別の秩序〔価値体系〕を持つ共同体とが接触する境界領域だった。そこで行われるのはまず第一に商品交換である。この事情は世界中どの地域の説話にも共通している。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
しかし始めのうちは生活様式がまるで違う。言葉もまったく異なるため両者のコミュニケーションは特異な形式を持ち、また特異な形式からしか始めることができない。熊楠はそのことを古文献に目を通して知っていた。
「山男のことにつき御注意を惹き置くは鬼市のことに候。小生那智山にありし日、このことをしらべ英国の雑誌へ出せしことあり。鬼市は『五雑俎』に出でおり、支那にはいろいろあると見え、分類して出しおり候。肥前国に昨今もこのことある処ある由。那智にも行者(実加賀〔じっかが〕行者とて明治十三年ごろ滝に投じて死せしもの)の墓を祭るに、線香をその墓前におきあり。詣るもの、銭を投じ線香をとり祭る(肥前のは、路傍に果をならべ、ザルを置く。果を欲するものは、ザルに相当の銭を入れ、果をとり食うなり)。貴下のいずれかの著に、神より物を借ることありしと記憶候(支那にはこのこと多きように『五雑俎』に見ゆ)。今もスマトラなどにて、交易すべき物を林中に置き去れば、蛮民来たりその物をとり、対価相当の物を置き去る風多し。つまり蛮民、他国民の気に触るれば病むと思うによるなり(蛮民他邦の人にあえばたちまち病み、はなはだしきはその人種絶滅するは事実なり)。貴下もしこの鬼市のことをしらべんと思わば、御一報あらば小生知っただけ写し申し上ぐべく候。英国には六年ばかり前に“Silent Trade”(黙市)と題せる一書出で申し候。貴著『遠野物語』に見ゆる山婆が宝物を人の取るに任すということ、また『醒睡笑』にも似たことあり。これらは古えわが邦にも鬼市行なわれし遺風の話にやと存ぜられ候」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.436』河出文庫)
一方から他方へ、他方から一方へ、差し出された商品は交換されるに当たって、一体どのような方法で両者が等価だと判別されたのか。等価でなければ交換は不成立になるのは太古の昔から当たり前の事情である。ではその方法とはどのようにしてだったか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
第一に両者は異種の商品同士を等置してみる。同等の価値があるかどうかは両者ともに知らない。だから実際に等置してみて、互いが互いの商品を等価であると承認するや否や、そこにやおら等価性が立ち現れるとともに商品交換は実現される。「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」。柳田國男は「鬼市(おにいち)・黙市(もくいち)」として紹介している。この種の商品交換は日本だけでもあちこちの山間部で行われていたようだが、柳田がいうように、江戸時代末期頃まで残っていた風習として語り伝えられていることに着目すべきだろう。
「わが国における無人の貿易のことである。松浦侯の『甲子夜話』(かつしやわ)の中に、九州のある地方で往来の側に餅や草鞋(わらじ)を出しておいて、旅人に自由に代を払って持ち行かせる風習のあることを記してある。これは百年以前の事実であるが、自分はわずか三、四年前土佐を旅行して、かの国には今なお右のごとき質朴な風のあることを目撃した。人家から七、八町も離れた路の側に簡単な棚を設けて箱を置きそれに売品を入れてある。小皿に少しずつ炒(い)った蚕豆(そらまめ)を持ったのもあった。箱の中に三十ばかりの梨の実を入れて、◎◎◎こんな木札を立ててあるのもあった。番をする者はなくしてただ銭筒が引き掛けてあるばかりである。ずいぶん怪しげな遍路道者なども往来するが、これで損失をせぬものと思われる。ーーー東京などにも一時自動の物売器を路傍に置くことが流行した。しかしそれには丈夫な鍵が懸けてあった。不思議に当る金水堂の辻占(つじうら)などは、あるいは売主の思わくを恐れたかも知れぬが、たとえば公園の体量計器に一銭を投入して三人も五人も使用したり、自動電話の番号帳を取って帰ったりする世の中に、田舎にはまだかくのごとく簡易なる取引が行われている。日光の山奥において今も行われているのはよほど大規模のものである。栗山方面の山民が下駄材、柳板もしくは木地の類を背負って来て境の山の峯にあるわずかな小屋の中に置いて行くと、町の方からは味噌とか油とかを携えてこれと交換して来る。相場を商人に一任しておくゆえに立会なしにも取引が行われるのではあろうが、古くからの約束が相続されているためでなくては、なかなか新規には開始しにくい貿易である。甲州の大菩薩(だいぼさつ)峠の頂上でもまたこの種の取引があった。この峠の境には妙見大菩薩の社が二つある。北都留(つる)郡の小菅村から山中の産物を運ぶ者、東山梨郡神金村の萩原から米穀の類を小菅方面へ送る者は、ともにその荷物をこの社の前に卸して代りの品物を持って帰る。雪のために交通の絶える頃などは、春になってようやく昨年発送の品物を取りに行くこともある。ーーー大菩薩峠は昇降各四里の峻坂である。越えて還れば一日ではすまぬ。ほかの山村にもこれに似た例は多かろうと思う。つまりは負搬の労力の節約であって、近世の経済理論のみでも立派に説明ができる。しかしこのほかになお一つ、我々の忘れんとしている事情がある。すなわち孤立したる深山の村ではむやみに外部の人と接触してはならぬ理由があったのである。それは今日の社会でいえば海港検疫などに相当する防衛の手段で、医療の術も不自由な山の中へ怖しい疫病の舞い込むのは常に村境の外からであるゆえに、力(つと)めてその原因を絶とうとしたものである。今一段単純な人々に至っては、原因を混同して平生見馴れぬ人をただちに疫病神またはその使者のごとくにも考えた。しかも米塩はもちろんのこと、珍しい他郷の物は常に欲しいために、いつとなくこのような無人貿易が発達したのである。これはひとり日本のみではなく世界の到る処の山地にある。二種の異なったる民種の間には最も広く行われている。サイレント・トレエドと呼ばるる風習はすなわちこれである。支那では古くからこれを鬼市という。支那の商人は主として南方の蛮民とこの鬼市を行っていた。日本の学者もこの事は聞き伝えて知っていた。たとえば東印度(インド)のある山奥で言語の通じない猿のような野蛮人と乾海鼠(きんこ)を奇楠(きゃら)に交易すること、または天竺に近い夜叉(やしゃ)という国の住民が面を被って貿易をするという話などを伝えている。鬼のような形であるゆえに鬼市というのだともいう。これは鬼市の鬼という字から出た想像であるが、鬼はもと眼に見えぬという意味に違いない。これらの人々もわが邦にも往々にしてこれと同じような取引のあったことを注意しなかった」(柳田國男「山島民譚集(三)・黙市(もくいち)のこと」『柳田国男全集5・P.420~422』ちくま文庫)
ここでもおそらくニーチェが正しい。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
小林秀雄がマルクス=エンゲルスを引用しつつ「ノアの方舟」以前からあったと言っているように。
BGM1
BGM2
BGM3
寛仁三年(一〇一九年)辺り、「源(みともと)ノ行任(ゆきたふ)」が「越後(ゑちご)ノ守(かみ)」を務めていた頃。越後国の海辺に「小キ船」が打ち寄せられているのが発見された。船の横幅は約75センチ、高さは約6センチ、全長は約3メートル。
「広サ二尺五寸、深サ二寸、長サ一丈許(ばかり)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.482」岩波書店)
最初それを見た人々は、誰かが悪戯半分でこんなことをやったのだろうと思っていた。しかし近づいてよく観察してみると、この小船の「鉉(はた)」(縁)に30センチずつ間を置いて操舵のための舵(かじ)の痕跡があるのに気づいた。何度も繰り返し使用していたらしくその箇所は擦られて相当すり減っている。
「吉(よ)ク見レバ、其ノ船ノ鉉(はた)一尺許(ばかり)ヲ迫(はさま)ニテ、梶(かぢ)ノ跡有リ。其ノ跡、馴(な)レツフレタル事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
観察しながら人々はいう。「これは明らかに人間の乗り物と考えて間違いない」。それにしても、一体どんな「少人(せうじん)」(こびと)が乗船して来た船なのだろうか、と不審に堪えない。「漕ぐのを見たとすれば、あたかも蜈蚣(むかで)が手足を揃えて動いていくように映って見えるだろう。何とも珍しいものだ」、と言い合った。
「『現(あらは)ニ人ノ乗タリケル船也ケリ』ト見テ、『何也(いかなり)ケル少人(せうじん)ノ乗タリケル船ニカ有ラム』ト思テ、奇異(あさまし)ガル事無限(かぎりな)シ。『漕(こぐ)ラム時ニハ、蜈蚣(むかで)ノ手ノ様(やう)ニコソハ有ラメ。世ニ珍(めずらし)キ物也』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
差し当たり越後国長官・源行任(ゆきたう)の「館(たち)」(官舎)へ運び込まれた。行任もそれを見るや実に不可解な印象を持った。理解できないうちは誰もが不気味に思うのだろう。ところが年配者の中には記憶に残っている者がいたようで、こう語った。「これまでにもこのような小船が漂着したことがあった」と。
「前々(さきざき)此(かか)ル小船(こぶね)寄ル時有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
年配者の記憶は確からしい。説話ではそこから考えられようこととして、さらに次の補足がある。「このサイズを用いる人々がきっといるに違いない。また越後国の海辺に打ち上げられていたことからみて、それは日本の北方にある世界に違いない。このように越後国に何度も打ち上げられた過去があったというのだから。さらになお、越後国以外のところにこの種の小船が打ち上げられたという話は聞いたことがない」。
「其ノ舟ニ乗ル許(ばかり)ノ人ノ有ルニコソハ。此(ここ)ヨリ北ニ有ル世界ナルベシ、此(か)ク越後ノ国ニ度々(たびたび)寄(より)ケルハ。外(ほか)ノ国ニハ此(かか)ル小船寄タリトモ不聞(きこ)エズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十八・P.483」岩波書店)
説話で書かれている「世界」というのは外国という意味ではなく「異境」を意味する用語。日本とはまた違った異なる秩序〔価値体系〕を持つ世界が越後国の北方に間違いなくあると考えられていた。もしそれが高麗(こま・こうらい)ならそう書かれているはずであり、実際、他の説話を見ると高麗からの使者が来日する海上ルートは、途中に位置する幾つかの島で食料補給を行い、今の福井県敦賀を入港先として特定されていた時代の出来事である。とすれば、まだはっきりわかっていない他の秩序〔価値体系〕に則って運営されている国家あるいは地域共同体があったと考えるのがより自然だろう。従ってこの説話は、或る共同体A(越後国)と別の共同体B(少人の国)との接触点が海岸線のどこかにあったことを示唆している。逆に大人(身長約180センチ以上)は列島各地の山間部でしばしば目撃されていて「山人(さんじん)」と呼ばれていた。漂着した小船のサイズは説話ゆえに誇張があるとしても、何度か接触した事実があったのは間違いない。海岸線は山間部の村落共同体の境界線を区切るように設置される道祖神と同じく或る秩序〔価値体系〕を持つ共同体と別の秩序〔価値体系〕を持つ共同体とが接触する境界領域だった。そこで行われるのはまず第一に商品交換である。この事情は世界中どの地域の説話にも共通している。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
しかし始めのうちは生活様式がまるで違う。言葉もまったく異なるため両者のコミュニケーションは特異な形式を持ち、また特異な形式からしか始めることができない。熊楠はそのことを古文献に目を通して知っていた。
「山男のことにつき御注意を惹き置くは鬼市のことに候。小生那智山にありし日、このことをしらべ英国の雑誌へ出せしことあり。鬼市は『五雑俎』に出でおり、支那にはいろいろあると見え、分類して出しおり候。肥前国に昨今もこのことある処ある由。那智にも行者(実加賀〔じっかが〕行者とて明治十三年ごろ滝に投じて死せしもの)の墓を祭るに、線香をその墓前におきあり。詣るもの、銭を投じ線香をとり祭る(肥前のは、路傍に果をならべ、ザルを置く。果を欲するものは、ザルに相当の銭を入れ、果をとり食うなり)。貴下のいずれかの著に、神より物を借ることありしと記憶候(支那にはこのこと多きように『五雑俎』に見ゆ)。今もスマトラなどにて、交易すべき物を林中に置き去れば、蛮民来たりその物をとり、対価相当の物を置き去る風多し。つまり蛮民、他国民の気に触るれば病むと思うによるなり(蛮民他邦の人にあえばたちまち病み、はなはだしきはその人種絶滅するは事実なり)。貴下もしこの鬼市のことをしらべんと思わば、御一報あらば小生知っただけ写し申し上ぐべく候。英国には六年ばかり前に“Silent Trade”(黙市)と題せる一書出で申し候。貴著『遠野物語』に見ゆる山婆が宝物を人の取るに任すということ、また『醒睡笑』にも似たことあり。これらは古えわが邦にも鬼市行なわれし遺風の話にやと存ぜられ候」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.436』河出文庫)
一方から他方へ、他方から一方へ、差し出された商品は交換されるに当たって、一体どのような方法で両者が等価だと判別されたのか。等価でなければ交換は不成立になるのは太古の昔から当たり前の事情である。ではその方法とはどのようにしてだったか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
第一に両者は異種の商品同士を等置してみる。同等の価値があるかどうかは両者ともに知らない。だから実際に等置してみて、互いが互いの商品を等価であると承認するや否や、そこにやおら等価性が立ち現れるとともに商品交換は実現される。「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」。柳田國男は「鬼市(おにいち)・黙市(もくいち)」として紹介している。この種の商品交換は日本だけでもあちこちの山間部で行われていたようだが、柳田がいうように、江戸時代末期頃まで残っていた風習として語り伝えられていることに着目すべきだろう。
「わが国における無人の貿易のことである。松浦侯の『甲子夜話』(かつしやわ)の中に、九州のある地方で往来の側に餅や草鞋(わらじ)を出しておいて、旅人に自由に代を払って持ち行かせる風習のあることを記してある。これは百年以前の事実であるが、自分はわずか三、四年前土佐を旅行して、かの国には今なお右のごとき質朴な風のあることを目撃した。人家から七、八町も離れた路の側に簡単な棚を設けて箱を置きそれに売品を入れてある。小皿に少しずつ炒(い)った蚕豆(そらまめ)を持ったのもあった。箱の中に三十ばかりの梨の実を入れて、◎◎◎こんな木札を立ててあるのもあった。番をする者はなくしてただ銭筒が引き掛けてあるばかりである。ずいぶん怪しげな遍路道者なども往来するが、これで損失をせぬものと思われる。ーーー東京などにも一時自動の物売器を路傍に置くことが流行した。しかしそれには丈夫な鍵が懸けてあった。不思議に当る金水堂の辻占(つじうら)などは、あるいは売主の思わくを恐れたかも知れぬが、たとえば公園の体量計器に一銭を投入して三人も五人も使用したり、自動電話の番号帳を取って帰ったりする世の中に、田舎にはまだかくのごとく簡易なる取引が行われている。日光の山奥において今も行われているのはよほど大規模のものである。栗山方面の山民が下駄材、柳板もしくは木地の類を背負って来て境の山の峯にあるわずかな小屋の中に置いて行くと、町の方からは味噌とか油とかを携えてこれと交換して来る。相場を商人に一任しておくゆえに立会なしにも取引が行われるのではあろうが、古くからの約束が相続されているためでなくては、なかなか新規には開始しにくい貿易である。甲州の大菩薩(だいぼさつ)峠の頂上でもまたこの種の取引があった。この峠の境には妙見大菩薩の社が二つある。北都留(つる)郡の小菅村から山中の産物を運ぶ者、東山梨郡神金村の萩原から米穀の類を小菅方面へ送る者は、ともにその荷物をこの社の前に卸して代りの品物を持って帰る。雪のために交通の絶える頃などは、春になってようやく昨年発送の品物を取りに行くこともある。ーーー大菩薩峠は昇降各四里の峻坂である。越えて還れば一日ではすまぬ。ほかの山村にもこれに似た例は多かろうと思う。つまりは負搬の労力の節約であって、近世の経済理論のみでも立派に説明ができる。しかしこのほかになお一つ、我々の忘れんとしている事情がある。すなわち孤立したる深山の村ではむやみに外部の人と接触してはならぬ理由があったのである。それは今日の社会でいえば海港検疫などに相当する防衛の手段で、医療の術も不自由な山の中へ怖しい疫病の舞い込むのは常に村境の外からであるゆえに、力(つと)めてその原因を絶とうとしたものである。今一段単純な人々に至っては、原因を混同して平生見馴れぬ人をただちに疫病神またはその使者のごとくにも考えた。しかも米塩はもちろんのこと、珍しい他郷の物は常に欲しいために、いつとなくこのような無人貿易が発達したのである。これはひとり日本のみではなく世界の到る処の山地にある。二種の異なったる民種の間には最も広く行われている。サイレント・トレエドと呼ばるる風習はすなわちこれである。支那では古くからこれを鬼市という。支那の商人は主として南方の蛮民とこの鬼市を行っていた。日本の学者もこの事は聞き伝えて知っていた。たとえば東印度(インド)のある山奥で言語の通じない猿のような野蛮人と乾海鼠(きんこ)を奇楠(きゃら)に交易すること、または天竺に近い夜叉(やしゃ)という国の住民が面を被って貿易をするという話などを伝えている。鬼のような形であるゆえに鬼市というのだともいう。これは鬼市の鬼という字から出た想像であるが、鬼はもと眼に見えぬという意味に違いない。これらの人々もわが邦にも往々にしてこれと同じような取引のあったことを注意しなかった」(柳田國男「山島民譚集(三)・黙市(もくいち)のこと」『柳田国男全集5・P.420~422』ちくま文庫)
ここでもおそらくニーチェが正しい。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
小林秀雄がマルクス=エンゲルスを引用しつつ「ノアの方舟」以前からあったと言っているように。
BGM1
BGM2
BGM3