擬人化するのが当たり前とまでは行かないが読み手の頭の中に「短歌」という言葉があると不埒にも手前勝手で一方的でなおかつ瞬時に擬人化してすっきり飲み込んで落ち着きたいという気持ちになるのはなぜだろうと、この歌の趣旨から随分ずれたことを考えさせられた。
「フライングされたリンスで陰毛が不本意ながらサラサラになる/白鳥」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.380』講談社 二〇二五年)
選者はとても丁寧な説明を加えてくれている。「フライングした」ではなく「フライングされた」という受動態なのはなぜなのかについて。
一方読者のひとりとして思うのは、時間的な都合でやむを得ずやる「フライング」はたまにあるとして、何気なくやってしまった「フライング」について、自分は何か途轍もない極悪人なのではないかという気持ちになることがしばしばある。ただ単なる物、それもこちらからお金を出して買った商品であり儲けているのは売り手の側だと、そんなこと百も承知だと思っていてもなお擬人化してしまい、この歌に当てはめると「リンス」に対してとんでもなく申し訳ない気持ちで一杯になることがある。国語教育ひとつ取っても歴史的変遷というものがあり、さらに国語「教育」に接する際(授業、講義)の教師(講師)の趣味志向によりけりで、擬人化が重視された時期や擬人化を重視する教師(講師)の教えの影響下にいたのだなあ自分は、と思ってしまった。特に十代の頃は小説なら大江健三郎や安部公房が好きで、授業や講義で教わる短歌の場合、昭和だったからか和歌に馴染むことが要請されていて近現代の短歌はずっと後の二〇代後半になってようやく目を通すようになった経緯があり十代の頃に経験したどこもかしこもメタファーだらけの世界をやけに懐かしげに振り返ったのだった。
「ちよならもすてきなことば 孫が去りひとりになった廊下に飾る/十条坂」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.381』講談社 二〇二五年)
選者の言葉はもっともだと思う。けれども最初に見たとき読み手としては思わず手を入れたくなった歌。「ちよなら」と書かれた紙。正しくは「さよなら」と書くことへの途上にある「孫」。「孫」が遊びにやって来て帰って行ったというわけだが「ひとりになった廊下に飾る」で締めている。衒いのないいい歌に思える。ところが「孫」と詠み手との距離がもっとあってもよかったのではとも思うのである。例えば「に」を「を」に変える。「孫が去りひとりになった/廊下を飾る」となる。残酷に響くかもしれない。しかしもう金輪際会うことはないに違いないという思いきった「キレ」も時には必要だろうと感じる。今の日本のようにずんずんと「非常時」が近づいてくる(あるいは安易に近づけ過ぎている)足音を聞かない日はない立場としては。とすれば上句の「すてきな」という形容詞は確実に物足りなくなり改めて考え直さないといけなくなるわけだが。
「妹よ遺骨になった母さんを母さんたちと言うのはやめろ/山下ワードレス」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.383』講談社 二〇二五年)
複数形で「たち」とは呼ばないことを知らない「妹」。しかしこの歌はそこそこ多岐に渡る系を刺激する。今月のテーマ「間違えたこと」。世の中にはいろんな間違いがあり読者のひとりとしてはそれこそ思い出すのも忌まわしい間違いで充満しているのだが、例えば一月号で野間新人文学賞受賞作の発表があった「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(豊永浩平)。それぞれの章はばらばらなのだが、「なおかつ」、有機的な繋がりを持つ。集団自決のあったガマでばらばらに砕け散った遺骨のどれがだれでひとつと言えるのかという問いへも容易に置き換えることができるだろう。時系列的にも空間的にもばらばらに解体した上で通して見れば有機的な繋がりが不意に浮かび上がる。あるひとつの死を単数とするか複数とするかではなく、この「遺骨」を全きひとつの死として見るという視線に尊厳とは何かと詠み手は語りかけているようにもおもえる。実際のところ「遺骨」と「遺骨たち」とを分け隔てるものは遺骨自体ではなく骨壷でしかないような感じがするけれどもそこまで生々しく持って来ないところに技術的な気遣いがあり味が出てもいるのだろう。
「誤字脱字だらけが白紙に集まって新しい詩が生まれるらしい/石川真琴」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.384』講談社 二〇二五年)
シュルレアリズムの一群が始めた芸術運動が有名だが分派していくうちに「新しい詩」に見えるものとまるで「間違い」だと見なされるものとが出てきた。戦後フリージャズの世界でも「新しい詩」に見えるものとまるで「間違い」だと見なされるものとが出てきて、ところがジャズのフリークは後者のほう、今ではもう手に入らないのではとか、いや最初にメンバーは集まったんだけどとても音楽と呼べるものではなくて、でも誰かカセットテープで録音していてそれなら残ってる「らしい」と思われる「伝説のライヴ」音源の存在を信じていたりする。
「星野源と森山未來を間違えて母の世界はやさしい輪郭/芍薬」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.385』講談社 二〇二五年)
選者はいう。
「僕も”母”も、それぞれにそんな曖昧な”世界”を持っている。主体はそれを咎めるでもなく”やさしい輪郭”と名付ける。そう名付けられること自体が”やさしい”」(木下龍也「群像短歌部(17)」『群像・2・P.385』講談社 二〇二五年)
ここというところで「あいまい」でなく「やさしい」という言葉の使用が歌の世界ではまあまあ許される。文学の世界というのは何かというと輪郭鮮明な言葉が要求されるようなのだが、そしてここというところで「あいまい」な事柄を輪郭鮮明な語彙と技術とで映し上げないと文学にならない印象は常にある。でもこの歌の不思議さは「やさしい輪郭」という言葉の組み合わせがかえって輪郭鮮明でふんわりした時間を含み持つワンシーンを映し出しているところにあるように思える。
追記。「群像」編集部様。いつもいつも個人的なリハビリに応用させて頂いていて感謝している次第です。先にお手紙なりメールなりで承諾を頂くのが礼儀だろうと思っているうちに月日が経ってしまいました。パソコンの調子が今ひとつなのでいずれ改めてご挨拶できればと思っています。