フィリップ・アズーリはゴダール死去の報を受けてこう述べている。
「だがゴダールの問題点は、彼の後に残された余地がほとんどないことにある。運動は彼によって骨抜きにされ、思考は野ざらしとなった気狂いピエロがその顔にカラフルなダイナマイトの帯を巻きつけて自殺した一九六五年以後は、映画における登場人物なる観念までも駆逐してしまった。そうなるとどの映画を観ても、それがいくら肉をそぎ落とされても物語とどうにか繋ぎ留められるシルエットに支えられていればすぐさま、それは秩序への回帰であると映るほかない。そのような徹底した脱構築の番人、つねに別の境界から語りかけ、数年前からはみずから演じる死後の声でそうしてきた(ロデーズで精神療養中のアントナン・アルトーの物まねをする彼には惚れ惚れした)ゴダールは、最後にはもう、年少の映画作家がほぼ誰も片足すら思いきって踏み入れようなどと思わない、そんな映画の境地に身を置いていた。
彼こそが『シネマ』たりえた理由はここにある。機械をバラバラに解体しつつ別の言語を話すことを機械に教えた、最初にしておそらくは最後の人間。彼は音楽家として、DJとして、画家として、自動車修理工として、曲芸師として、テニスプレイヤーとして映画を撮っていた。彼が自分の本当につくりたかった映画をつくっていたかが窺い知れたことはついぞない。彼を前に恐れをなしたプロデューサーたちの認めた自由裁量を差し引いても、その点については定かではない。ゴダールはきっと、イメージによる思考に囚われたことで苦しんでいたのだろう。対立するもの同士のせめぎあいによってしか機能しないその思考、その鉄の弁証法においては、ひとつのショットはそれと対立するショットと鏡合わせにおかれた状態でしか存在しない。フレームで切り取られたひとつの画面と、それに反するもうひとつの画面。ゴダールが思考し始めるには二つのイメージがなければならない。誰も近づけようなどとは思わなかったであろう二つのイメージの驚き、それが彼には必要なのだ」(フィリップ・アズーリ「ゴダール、これを最後に」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.63~64』青土社 二〇二三年)
かなりの悲嘆や慟哭にまみれながら、これから「何をなすべきか」、何ひとつ見当たらない空を仰いで困り果てている少年のようだ。誰も歩いていない街頭で渾身のアジテーションをぶちまけているかに見えなくもない。
それはともあれゴダールの言葉にぱらぱら目を通していると、生きていた頃のゴダールは当然のことながら慟哭しておらずこんなふうに述べている。偶然目に留まったところを二箇所ほど。
(1)「私はいつも、映画というのはかなり特殊ななにかだと考えてきました。映像というのは、きわめて古くからあるものであると同時に、全体的に考えれば、テレビ同様、大衆のためのトレーニング・スタジアムを思わせるものをもっています。映像というのは、ある社会とかある国民とかいったものの、健康な状態よりはむしろ病気を表わすなにかなのです。映像はまた、無限のなにかをさし示すものであると同時に、そのなにかに大いに制限を加えるものです。映像と音にはいくらか不完全なところがあるわけです。かりにわれわれの肉体が目と耳だけからしかできていないとすれば、それは肉体としては不十分でしょう。だから、映像と音はきわめて制限されたものなのです。でもこの《きわめて制限されたもの》はまた、無限のなにかだとも感じられます。映像と音は、たえずゼロから無限大に移行するのです。私はいつも、今の映画には、かつての音楽のかわりをつとめているようなところがいくらかあると考えてきました。映画は、前もって描き出しますーーー生み出されようとしている大きな運動を、前もってフィルムに刻みつけ(アンプリメ)ます。私が映画はさまざまの病気を前もって提示すると言うのは、この意味でです。映画は、さまざまの事物の外面的なあらわれ(シーニュ)なのです。映画にはまともではない(アブノーマル)ところがいくらかあるわけです。映画は、侵入し、通りすぎてゆくなにかなのです。
それは生命(ヴィ)の死というひとつの運動です。でも生命の死というのは、まさに人生(ヴィ)を知るうえで、それにまた、死なないようにするうえで役立ちます」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.149~150」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
「私が映画はさまざまの病気を前もって提示すると言うのは、この意味でです。映画は、さまざまの事物の外面的なあらわれ(シーニュ)なのです」
「映画は、侵入し、通りすぎてゆくなにかなのです。ーーーそれは生命(ヴィ)の死というひとつの運動です」
(2)「コペルニクスにしてもガリレオにしても、地球がまわっているということはすぐに見てとっていたのですが、でもかれらはあとでそれを、言葉で表わさなければなりませんでした。そしてほかの人たちは、かれらがそれを言葉で表わしたがために、それを信じなかったのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.237」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
「コペルニクスにしてもガリレオにしても、地球がまわっているということはすぐに見てとっていたのですが、でもかれらはあとでそれを、言葉で表わさなければなりませんでした。そしてほかの人たちは、かれらがそれを言葉で表わしたがために、それを信じなかった」
映画「評論」ということとはまるで違う、一般的に「評論」するということとはすっぱり切断された場所からーーーゴダールは「科学」と言っているーーー何かが今なお語られているように思える。