白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ429

2025年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月一日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主は無事に年越しできたみたいだけどタマのダンボールは改まるわけじゃないんだね。

 

あんまり新しいとかえって警戒してしまうよ、動物は。まだ使えるしタマ自身よく遊んでるし。

 

新しすぎると警戒するのはタマだけじゃないんだ。

 

人間になつきやすくて一般家庭で飼われてる動物の中でも猫は警戒心が強いほうだって言われてる。

 

それで気がついたんだけど今年の初めは喪中って言うんじゃないの?お婆さんどっか行っちゃった。だから年賀状はどこからも来ないはずでしょ?

 

そうだよ。どうかした?

 

もしかしたらと思ってお昼に配達物を飼い主の妻と一緒に調べてたら一通届いてるんだ。

 

そりゃ多分、喪中ハガキの前にもう年賀状はやめますって葉書を出した同窓の人だね。ちゃんと出したんだけどまあ行き違いとか勘違いってことだろう。タマは気にしなくていいよ。

 

ちなみにタマは日の出前から家のなかを一度走り回ってね、しばらく窓辺でぼうっとしてたらいい日差しが入ってきたんでコロの上で日向ぼっこしたんだ。ぬくぬくしてるうちに寝ちゃった。

 

いい年になればいいね。けど人間世界はどうも雲行きが怪しい。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。タシ・ワダ。裂け目ひとつない世界なんてないと常々わかっていても、ではそれを知った時にどんなふうにわかったとわかるのか。不安定性や不確実性という言葉を様々に翻訳してみても語り尽くせない音と詩を聴きに行こう。


Blog21・ゴダールへの弔辞あるいはアジテーション/ゴダール的思考

2025年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

フィリップ・アズーリはゴダール死去の報を受けてこう述べている。

 

「だがゴダールの問題点は、彼の後に残された余地がほとんどないことにある。運動は彼によって骨抜きにされ、思考は野ざらしとなった気狂いピエロがその顔にカラフルなダイナマイトの帯を巻きつけて自殺した一九六五年以後は、映画における登場人物なる観念までも駆逐してしまった。そうなるとどの映画を観ても、それがいくら肉をそぎ落とされても物語とどうにか繋ぎ留められるシルエットに支えられていればすぐさま、それは秩序への回帰であると映るほかない。そのような徹底した脱構築の番人、つねに別の境界から語りかけ、数年前からはみずから演じる死後の声でそうしてきた(ロデーズで精神療養中のアントナン・アルトーの物まねをする彼には惚れ惚れした)ゴダールは、最後にはもう、年少の映画作家がほぼ誰も片足すら思いきって踏み入れようなどと思わない、そんな映画の境地に身を置いていた。

 

彼こそが『シネマ』たりえた理由はここにある。機械をバラバラに解体しつつ別の言語を話すことを機械に教えた、最初にしておそらくは最後の人間。彼は音楽家として、DJとして、画家として、自動車修理工として、曲芸師として、テニスプレイヤーとして映画を撮っていた。彼が自分の本当につくりたかった映画をつくっていたかが窺い知れたことはついぞない。彼を前に恐れをなしたプロデューサーたちの認めた自由裁量を差し引いても、その点については定かではない。ゴダールはきっと、イメージによる思考に囚われたことで苦しんでいたのだろう。対立するもの同士のせめぎあいによってしか機能しないその思考、その鉄の弁証法においては、ひとつのショットはそれと対立するショットと鏡合わせにおかれた状態でしか存在しない。フレームで切り取られたひとつの画面と、それに反するもうひとつの画面。ゴダールが思考し始めるには二つのイメージがなければならない。誰も近づけようなどとは思わなかったであろう二つのイメージの驚き、それが彼には必要なのだ」(フィリップ・アズーリ「ゴダール、これを最後に」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.63~64』青土社 二〇二三年)

 

かなりの悲嘆や慟哭にまみれながら、これから「何をなすべきか」、何ひとつ見当たらない空を仰いで困り果てている少年のようだ。誰も歩いていない街頭で渾身のアジテーションをぶちまけているかに見えなくもない。

 

それはともあれゴダールの言葉にぱらぱら目を通していると、生きていた頃のゴダールは当然のことながら慟哭しておらずこんなふうに述べている。偶然目に留まったところを二箇所ほど。

 

(1)「私はいつも、映画というのはかなり特殊ななにかだと考えてきました。映像というのは、きわめて古くからあるものであると同時に、全体的に考えれば、テレビ同様、大衆のためのトレーニング・スタジアムを思わせるものをもっています。映像というのは、ある社会とかある国民とかいったものの、健康な状態よりはむしろ病気を表わすなにかなのです。映像はまた、無限のなにかをさし示すものであると同時に、そのなにかに大いに制限を加えるものです。映像と音にはいくらか不完全なところがあるわけです。かりにわれわれの肉体が目と耳だけからしかできていないとすれば、それは肉体としては不十分でしょう。だから、映像と音はきわめて制限されたものなのです。でもこの《きわめて制限されたもの》はまた、無限のなにかだとも感じられます。映像と音は、たえずゼロから無限大に移行するのです。私はいつも、今の映画には、かつての音楽のかわりをつとめているようなところがいくらかあると考えてきました。映画は、前もって描き出しますーーー生み出されようとしている大きな運動を、前もってフィルムに刻みつけ(アンプリメ)ます。私が映画はさまざまの病気を前もって提示すると言うのは、この意味でです。映画は、さまざまの事物の外面的なあらわれ(シーニュ)なのです。映画にはまともではない(アブノーマル)ところがいくらかあるわけです。映画は、侵入し、通りすぎてゆくなにかなのです。

 

それは生命(ヴィ)の死というひとつの運動です。でも生命の死というのは、まさに人生(ヴィ)を知るうえで、それにまた、死なないようにするうえで役立ちます」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.149~150」ちくま学芸文庫 二〇一二年)

 

「私が映画はさまざまの病気を前もって提示すると言うのは、この意味でです。映画は、さまざまの事物の外面的なあらわれ(シーニュ)なのです」

 

「映画は、侵入し、通りすぎてゆくなにかなのです。ーーーそれは生命(ヴィ)の死というひとつの運動です」

 

(2)「コペルニクスにしてもガリレオにしても、地球がまわっているということはすぐに見てとっていたのですが、でもかれらはあとでそれを、言葉で表わさなければなりませんでした。そしてほかの人たちは、かれらがそれを言葉で表わしたがために、それを信じなかったのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.237」ちくま学芸文庫 二〇一二年)

 

「コペルニクスにしてもガリレオにしても、地球がまわっているということはすぐに見てとっていたのですが、でもかれらはあとでそれを、言葉で表わさなければなりませんでした。そしてほかの人たちは、かれらがそれを言葉で表わしたがために、それを信じなかった」

 

映画「評論」ということとはまるで違う、一般的に「評論」するということとはすっぱり切断された場所からーーーゴダールは「科学」と言っているーーー何かが今なお語られているように思える。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1023

2025年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「freulaeux」

6:00まではもう慣れた様子でお気に入りのぬいぐるみでよく遊ぶ。猫の周りをくるくる回してやると何度もジャンプを繰り返す。6:17くらいから部屋の外へ出て行き階段の手すりの一番上の平らなところから飼い主の様子を伺う。飼い主は飼い猫の様子を伺う。膠着状態が続きそうなので思いきってぬいぐるみを投げてやると和室まで手すりから飛び降り和室へ直行。走って追いかけぬいぐるみを捕獲。捕獲したぬいぐるみを飼い主の部屋へ運んできてぽとりと落とす。同じ曲をもう一度聴かせてみる。ぬいぐるみを猫の周りでくるくる回してやると何度かジャンプを繰り返す。しかしジャンプは数回でやめにして階段の手すりの一番上の平らなところへ飛び乗り様子を伺うことのほうが多い。廊下から和室は暗がりなのであるいはそれに安心しているようにも見える。和室へ向けてぬいぐるみを投げてやると廊下の暗がりから和室の暗がりへ気持ちよさそうに追いかけていく。「freulaeux」自体はさほど複雑でなく猫が曲の中の変化のひとつひとつに反応しているようには見えない。曲が単調過ぎるかも知れないので一度猫を一階の居間へ連れ戻してやる。ところが飼い主がパソコンへ向かっているうちにわざわざ二階へ上がってきて和室の物陰から飼い主の行動を伺う。猫自身の気分的なものかも知れないが暗がりの廊下から和室へ走り込み暗がりの和室から廊下を通って飼い主の部屋へ走り込むこと自体に心地よさを感じて行動しているように思える。