白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ458

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年一月三十日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

この前タマね、テレビ見てたら歓楽街って言ってたんだけど「街」は飼い主と暮らしてるここらへんのことで「住宅街」の「街」でいいのかな?

 

いいんじゃない?

 

じゃあ「歓楽」は?

 

有名なところではこんなのがある。

 

「これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた」(森鴎外「雁」『森鴎外全集4・P.34』ちくま文庫 

一九九五年)

 

むむむ、「歓楽」って「地味な歓楽」と「派手な歓楽」の二つあるってこと?

 

鴎外はそう区別したみたいだ、取りあえずね。それよりタマさん、「これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた」とあるけど、どうしたからそうなったかわかるかい?

 

わかるわけないじゃん。

 

すぐ前にこうある。

 

「つつましやかな微笑を湛(たた)えて酌をするお玉を見て」(森鴎外「雁」『森鴎外全集4・P.34』ちくま文庫 

一九九五年)

 

お玉、さん?

 

しかも「お玉」は三味線を弾くんだ。

 

しゃ、三味線!?

 

そう。上等の三味線の胴に張る皮は猫の皮がほとんどだね。

 

なんてこった。でもなんでお玉さんなのかな。

 

鴎外「雁」には充実した核となる中心というものがない。

 

どういうこと?

 

ある種の推理ものってこと。そこでキーパーソンの名前に他でもない「玉」を持ってきたんじゃないかってね。

 

お玉さんって、じゃあ、中身からっぽなの?

 

いやいやそういう意味じゃなくてこれがもし鴎外じゃなくて漱石なら「迷宮」って意味をなすような何ものかってこと。

 

さっぱりわかんないや。

 

じゃあ明らかに「派手な歓楽」の話に行こう。これまた有名なんだけど。

 

「武帝の自作とされる『秋風(しゅうふう)の辞』の末尾二句は、次のように歌う。

 

歓楽極兮哀情多 少壮幾時兮奈老何

 

(歓楽がきわまると哀感がわきおこる。盛りのときはまたたくまに過ぎ、老いを避けるすべもない )」(井波律子「絶頂期の専制者」『中国人物伝1・P.212』岩波書店 二〇一四年)

 

多分こっちのほうの意味じゃないかなあ。テレビで使ってたの。

 

ちなみに武帝のことを書いた司馬遷を死刑に処したのは武帝なんだ。

 

それ、もしかしてオチってやつ?

 

いや実話だ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ガナーヴィヤ。インドの古典的宗教音楽のように聴こえる。もちろんその土壌として南インドのタミル地方育ち。スピリチュアル系の響きがやや目立つがもっとコンテンポラリーな幅広さを持っているように感じる。モード系の旋律が南インドとはほど遠いアイルランドやケルトの民謡を思わせるのも古典的民族音楽に精通しているからかも知れない。目下活躍中のガナーヴィヤは作曲を含め何でもできそうなマルチ・プレイヤーとして有名。多彩な楽器を操り様々な民族音楽に造詣が深いことは結構知られているようだ。幾つか検索して調べてみるとアメリカの大学で演劇と心理学の学位を取得しているらしい。ダンスもヴォーカルもやる。実験音楽精神を体現しているような曲もあるが決して「どや顔」で見せびらかすタイプではない。しかし何といってもコルトレーンへのオマージュに満ちている。


Blog21・商品「哲学の可愛さ」/貨幣「三木那由他」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

三木那由他の新連載。こうある。

 

「きっと私たちは、哲学の『真面目さ』をもう少しもみほぐし、広げるべきなのだ。可愛い出来事だって、日常のもやもやだって、哲学の出発点にできるように。そうしたものから始まる重要な思考が、『真面目でないもの』として押し殺されてしまわないように」(三木那由他「可愛い哲学(1)」『群像・2・P.42』講談社 二〇二五年)

 

昨日、百瀬文のエッセイに触れつつ思春期の頃の失敗「ある軽蔑」とタイトルしてほんの少し書いた。実際の事情はもっと複雑なのだがそこまでプライバシーに立ち入る必要はない。それより今思い出せばあの時もっとこんなコミュニケーションを取ればよかったのにとか、あんなコミュニケーションもできないはずはなかったのになぜそうしなかったのかとか、そもそもコミュニケーションを成立させようとするちょっとした気遣いひとつ身に付いていなかったのではと、悔やまれることは山ほどある。世間の多くの人々がそうであるように十代の頃の記憶など思い出したくもない、あまりにも恥ずかしい、もってのほかだ、恥辱だと、そう首を振りながら身震いする傾向は誰にだって今なお強いようにおもう。

 

言い換えれば「あの時こうすることもできたのに(なぜそうしなかったのか?)」。「あの時こうすることもできたのに(なぜそうすることができなかったのか?)」。「あの時こうしないこともできたのに(なぜそうしてしまったのか?)」、等々ばかり思い返されてしまう。

 

ここ二十年ほどで顕著化してきたけれども、かつては各人各様の仕方で乗り越えたか、乗り越えたと思い込んでいた過去を、星の数ほどもある鬱々たる「もやもや」や「後悔」や「失敗」や「不安」の痕跡を、否応なく不意に今なおのしかかってくるばかりかありありと意識させPTSDさえ惹起させてしまう無数のハプニングで世界が覆い尽くされようとしている。しかし哲学はそれら「もやもや」、「後悔」、「失敗」、「不安」など何でも引き受けてくれる広場のような場所だ。なおかつもし広場がなければ新しい広場を創設することも全然OKな場所だ。むしろそうした取り組みの過程をてくてく歩いているうちに、記憶の奥深くに押し沈めておくほかなかった「もやもや」、「後悔」、「失敗」、「不安」等々をまったく新しい方法で対応/整理/応用してしまえる発見の場へも変わり得る。

 

哲学にあらかじめ備わっているそんな機能のことを指すとともに語り口を変化させることを加えて「可愛い」と呼ぶとすれば三木那由他が言わんとしていることは的を得ているかもしれない。

 

「どうにも私自身の語り口はそんなに可愛くないような気もする。哲学の可愛さを語っていくことで、私自身の言葉もより可愛い何かへと変身していってほしいものである」(三木那由他「可愛い哲学(1)」『群像・2・P.42』講談社 二〇二五年)

 

ふと思った。「哲学の可愛さを語っていく」とある。「語られる」対象としての「哲学の可愛さ」。ここで「哲学の可愛さ」はひとつの商品としても考えられるだろう。だが商品は商品自身では何ひとつ語れない。商品は自分自身について「商品である」とさえ語ることはできない。そんな枠組みのなかで「哲学の可愛さ」を語るのは他でもない三木那由他だ。商品「哲学の可愛さ」を、あるいは「哲学の可愛さ」について、語る鏡の機能、いわゆる貨幣の機能を演じようという試み。この先なにが待ち構えているかわからないけれどもこのエッセイを通して三木那由他はいま述べた意味での貨幣になる。そういう事情も含めて「可愛い」と呼ぶかどうかは読者それぞれとしてなるほど面白い試みだなあとおもう。まだ初回だが。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1052

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「esc desc」

電子音で作ったどこか教会音楽風のイメージ。この手のタイプなら幾らでも作れるわけだがバックにずざ~っというノイズが軽く入っている。猫の好みはこのノイズの側。いらなくなった紙切れを適当に丸めて投げてやると曲のあいだじゅうずっとあっちへこっちへ追いかけて走り回る。いつの間にか椅子のすぐそばに横になってお腹を見せて遊び足りないとアピール。ドアから出て暗い廊下に身をひそめて遊びのつづきを待つ。ヴォリュームを少し上げてみる。リピート中に紙切れを放り投げてやると真っ暗な和室までとことこ走り込んでいく。それを何度か繰り返す。もう一度リピート。飼い主が放り投げた紙切れを追いかける遊びに飽きてきたとおもわれる頃、和室でひとり遊びをしている。ひとり遊びのがさごそいう音が途切れたので覗きに行ってみると和室の窓辺で住宅街を眺めている。